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2013年3月30日 (土)

サラリーマンに自由はないか

今日は休日なので基本的にブログの更新日ではないのだが、事情があって出社したのと、この後の予定までに時間があるので、気になった事を書いておく事にする。

宗文洲さんが、Twitterでこのような事を呟いて(叫んで?)いたのだ。

Tweet from 宋 文洲(@sohbunshu)
俺は来生も再来生も、サラリーマンにならない。一時になっても事業者の融通にすぎないだろう。自分の顔と考えで活きることはどれほど素晴らしいことか。自由万歳!自立万歳!ベンチャー万歳!
2013年3月30日 7:41:03 webから
See More: http://twitter.com/sohbunshu/status/317768394663419906

そこでふと思った。サラリーマンとはそんなに自由がないものなのだろうか。自立していないものなのだろうか。自分の顔と考え持っていないものなのだろうか。

もちろんそうした特性を持つ人たちを「サラリーマン」と呼称する、という特別な定義があるのなら別だが、少なくとも単なる「勤め人」と考えた場合に、そこまで自由や自立や顔や考えがないものとは思えないのだ。

もちろん、自分はベンチャーの持つ「自由」は知らないので、比較したら問題にならない程の差があるのかもしれない。それにしても、このように叫ばれるとちょっと気になる。
別に宗さんに異を唱えたい訳ではなく、確かに世間的にそのように言われることが多いよな〜と考えた時に、ふと、でも自分の周りの「サラリーマン」にそんな人いないような・・・と考えてしまったのだ。

それって甘いだけなのだろうか。

とはいえ、ちょっとつっこむとすれば、サラリーマンをこのように捉えている人が経営者だったら、その会社で働く人はきついだろうな〜ということ。なにしろ、(自社の従業員には)自由も自立も必要ない、自分の顔や考えなど持つべきでないと考えているって事なんだから。

個人が自由や自立を持ち、自分の顔や考えを活かすには「独立するしかない」と考えているうちは、その組織は構成員を成長させることはできないし、その組織自身も成長しない。理想論かもしれないが、少なくともそうした理想を持たない組織は、理念ではなく金でしかメンバーを惹きつけられないだろう。

マネジメントとワーカーを切り分けて考える経営手法って、実はそういう「パーツとしての構成員」しか求めていないやり方なのかもしれない・・・そんな事を考えてしまった。そうした組織が一般的なら、転職や独立というのは当たり前どころか必須の考え方になる(組織を成長させるにはパーツを入れ替えるしかないからだ)し、逆にそうしたものが一般的でないのは、組織の中に人を成長させ、個の力を発揮させる仕掛けがあるからかもしれない。

サラリーマンに自由を認めないマネジメントが一般的になれば、合わない人は弾き出し、合う人を取り込むための流動的な労働市場が必要になる。逆にサラリーマンに自由を認める(求める)マネジメントが一般的であれば、それほどそうした市場は必要としないかもしれない。

日本は元々後者だったのが、徐々に前者にシフトしつつあり、その中で生まれてきたのが「サラリーマンの無個性化」なのかもしれないなぁ。

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2013年3月29日 (金)

本能的判断と理性的判断

脳というのは本能的に物事の白黒をつけたがるそうだ。

白黒がはっきりすれば、その結果が何であれ脳は「安心」する。変な言い方だが「危険である事がはっきり」すれば、脳は「安心して」その回避行動に専念するようになる。逆に危険かどうかがはっきりしないと、脳は不安を感じてなんとか白黒つけようとする。

白黒をつけるのが脳の本能だとすれば、理性とはまさに「白黒つけないでとどまる」能力なのではないだろうか。グレーゾーンを受け入れ、その中で判断をする能力こそが、まさに理性の力なのかもしれない。

そうすると「理性的な判断」というのは、何かをどちらかだと決めつけて判断してしまうことではなく、もう一方が正しいかもしれないことは受容しつつ意思決定を行う事だとも言える。

客観的な事実というのがあった時に、その事実を根拠に「客観的に正しい」判断を行うのは、白黒の判断基準を自分自身ではなく「客観的事実」に求めている時点で、白黒がはっきりした本能的な判断といえる。

その事実は参考にしつつ、しかしそうではない可能性も考慮して「主観的にどちらか」という判断を行うのは、グレーゾーンに身をおいたまま、自らに判断基準を求めている点で、理性的な判断といえる。

別に理性が正しく本能が間違いとかいった話ではなく、今自分が行った判断はどちらで、相手の判断はどちらであるか、という話。両者の判断が食い違った場合、多分、本能同士の判断はぶつかり合い、理性同士の判断は逆に許容し合うだろう。

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2013年3月28日 (木)

他人の文章

他人の書いた文章をチェックして修正するのは難しい。

特に自分なりに意図や気持ちがある場合はそうだ。単純にてにをはと割り切っていれば別だが、話題のチョイスや表現の仕方に踏み込み始めるとキリがない。それは分かっているのだが、それでも気になって手を入れたくなってしまう。

そうして気がつくと「自分の文章」になってしまっていたりして、それなら自分で書いた方が早いといった話になってしまう。それはもちろん意図するところではなく、そもそも「書いてもらった」意味がない。

一応修正の際には、その理由を説明できない感覚的なものは(修正案として)採用しないように気をつけてはいるのだが、語感や文章としての流れを気にしだすと本当に収まりがつかなくなってしまう。

そういうの、本職の編集者などはどのように線引きをしているのだろう。

テクニック的なノウハウもありそうだが、自分の場合はどちらかというと気持ち的な線引きが必要な気がする。

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2013年3月27日 (水)

パートリーダーのお仕事

昨日とある人から「トップ(パートリーダー)の仕事って何ですか」と問われてドキッとした。
正直にいえば、そんな事はほとんど考えたことがない。「トップの位置に座っているプレイヤー」ぐらいの意識だろうか。

そしてその意識は自分の弾き方にほとんど影響を与えていない。別の席でも弾き方は変わっていないからだ。何というか、一人で指揮者に対峙し、一人でコンサートマスターに対峙し、一人で自パート含む他のプレイヤーに対峙し・・・ながらアンサンブルに参加しているような感じだ。改めて考えると、それって変かもしれない。

究極は一人ひとりがアンサンブルを作っていくしかないのだが、オケの場合その中間に「パートとしてまとまる」というものがあり、そのまとめる役割を担っているのが、トップという事になるだろうか。

だが、その「パートとしてまとめる」というのはどういうものだろう。そのイメージが(実は)ない。

アマオケの場合、そもそもプレイヤーの技術的なばらつきが顕著なので、そもそも物理的に「同じくする」という事が難しいという事情もある。そういった意味では、何らかの練習方法を提示して、その技術的なばらつきを最小限に抑えるといった事は、やるべき事としてあるかもしれない。学生オケなどは、それを圧倒的な練習量で成し遂げているような印象がある。

市民オケでは、そこまでの練習は無理だ。諦めるわけではないが、限界はある。逆に、そうした練習を必要としないレベルの人もいたりする。

そうした中で、トップに求められる役割、お仕事とはどういうものだろう。

昨日とっさに答えたのは、自分自身は他のパートとのアンサンブルに集中し、パート内がその自分に合わせるためのまとめはトップサイドに任せているという内容だった。だが、先に書いたように、自分がプレイヤーになった時はあまりそうした「パートとしてまとめられる」意識で弾いていない。

厳密にいえば、「(トップに)まとめてもらう」ものではなく、一人ひとりで「まとまりを作っていく」ものだと考えているとでも言おうか。あわせる対象としてのトップは意識していても、あわせることをリードしてもらうリーダーとしてのトップは意識していないという事で、それはポジティブに考えるなら「誰かにまとめてもらおう」という受身状態ではないという事かもしれない。

で、自分がそうなのであまり意識することはなかったのだが、もしかしたらプレイヤーの中にはそうした「リーダーにまとめてもらおう」と待っている人たちがいるのかもしれない。

だとすれば、そうした人たちを「まとめていく」事はトップの役割だろう。何故そんな事をしなければならないのかという気もするが、そういうものなのかもしれない。

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2013年3月26日 (火)

NPOの人材獲得を支えるもの

昨日のNEWS ZEROの「イチメン」で、就職先としてのNPOが取り上げられていた。

櫻井翔 イチメン
イチメン 2013年3月25日 就職先はNPO
http://www.ntv.co.jp/zero/weekly-blog/2013/03/post_352.html

就職先にNPOを選択する人が増えているという内容で、後半は先進事例としてアメリカの事情が取り上げられていた。それ自体はまぁ良く聞くよね〜と聞き流していたのだが、最後の方でこんな事を言っていて、あっと思ってしまった。

(上記ブログから引用)

アメリカは元々、NPOの社会的認知度が高く、またNPOでの勤務経験が後に転職する際に武器になると考えられているそうです。

それってつまり、NPOはキャリアステップの一つであって、長く勤めるものではないって事?

転職が当たり前(と思っているがそれは偏見かもしれない)のアメリカと、まだまだ終身雇用願望の強い(これももう単なる願望かもしれないが)日本とでは元々事情が異なるとは思うのだが、これはつまりアメリカにおいても「人生を支えきるには」NPOは就職先としては厳しいと考えられているいう事を示しているのではないだろうか。いやデータがないので憶測だけど。

そもそも日本における「就職ランキング」というのは、「そこで定年を迎えたい企業」ランキングでもあるような気がする。少なくとも就職先を選ぶ際に「3年後には別の企業へ転職」という視点で選んでいる学生は少ないはずだ。しかし、アメリカではそういった視点が一般的で、それがNPOのランクインに影響を与えているのだとしたら、単純に「日本のNPOもアメリカのようになるべき」というのは、かなり的を外した話になってしまうのではないか。

断っておくと、NPOへの就職が問題、という訳ではない。NPOという組織が人材の流動性に支えられているのだとすれば、その人材獲得においては、組織としての魅力を高めるだけでなく、それ以上に労働市場の変革が必要なのではないか、という話だ。

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2013年3月25日 (月)

府中市民交響楽団第67回定期演奏会

昨日は府中のパート練習。なんというか「練習しなければいけないところを確認する」ような練習になってしまった。弾けるようになるための画期的な練習方法でも編み出せれば良いのだが、そんな都合の良い話はない。

特に悲愴に関しては、フィンガリングなどで工夫できる余地がほとんどない。楽譜を読むという点において、どう弾いたら良いか分からなくて困るという事がないのだ。ただ、実際に弾くのが「単純に」難しいだけだ。

例えばコンマスからも再三練習で指摘されている「一定のテンポで弾く」というのも、自分は一定のつもりでも思った以上に乱れている。それはガイドとして使っているメトロノームの方が狂っているのではないかと感じるほどだ。こういった事は一つ一つ丁寧に矯正していくしかない。

少しゆっくりにすれば弾ける、自分のテンポなら弾ける、という所も沢山ある。ところがそれを指示通りのテンポ、他に合わせたテンポにしようとすると乱れる。そのため曲としてまったくまとまらないということが、随所で発生する。パート練習では比較的まとまって聞こえるのに、合奏ではさっぱりといった事もある。

前回のドヴォルザークの7番は、アンサンブルの感じが頭で分からない事で乱れていたと思うのだが、今回の悲愴に関しては、アンサンブルの感じは頭では分かっているはずなのに、さっぱり体がついていっていないという感じだ。慣れということであれば時間と回数が解決すると思うのだが、それが間に合う感じがしない。

本番まであと一ヶ月ちょっとという割には不安が残る。この曲は「音楽」になるのだろうかという不安だ。

そんな訳でまだまだ不安たっぷりな状態ではあるのだが、大分近づいてきたという事で演奏会のご案内。

府中市民交響楽団第67回定期演奏会
ひめるチャイコフスキー
日時:2013年5月12日(日) 13:30開場 14:00開演
場所:府中の森芸術劇場どりーむホール(京王線東府中駅)
曲目
チャイコフスキー:スラヴ行進曲 作品31
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35
チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調「悲愴」 作品74
指揮:森口真司
ヴァイオリン独奏:大谷康子
演奏:府中市民交響楽団
全席自由 前売1200円/当日1500円

そして、一ヶ月ちょっとということは、そろそろ演奏会としての「運営面の」準備も始めなければならないのだった・・・。

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2013年3月22日 (金)

NDS症候群の不幸

NDS症候群なるものが提唱されているようである。
NDSというのは「N=何かあったら D=だれが S=責任を取るんだ?」の略だそうだ。

大元はオルタナの編集長コラム。

編集長コラム)「何かあったら誰が責任を取るんだ?」
http://www.alterna.co.jp/10715/2

検索するといろいろと出てきた。

日本を覆う「NDS症候群」—あなたの職場は大丈夫?
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/22063

(N)何かあったら(D)だれが(S)責任とるんだ!-「NDS症候群」
http://ichihashi.seikatsusha.me/blog/2013/03/19/4952/


そうそう、あるよね・・・と思いかけたのだが、冷静に考えるとこの「何かあったら誰が責任を取るのか」というのは、物事を進める上で極めて重要な問いかけだ。それも「事前に」決めておくことが求められるものだろう。それは「起きてしまってから」想定外だなんだと「誰が責任を取るのか(取れるのか)」ですったもんだした福島原発の事故からも容易に想像できる。

この問いかけの不幸は、何故か日本ではこれが「アイデアを頓挫させる」阻害要因扱いされてしまう事だろう。なんというか、「みんなの責任=無責任」でいたい国民性を感じさせる「阻害要因」だ。


「何かあったら誰が責任を取るのか」という問いは本来次のような意図を持って発されるものだろう。

「お前それ自分で責任取る気あるのか」

元気とやる気があれば「自分が責任をとります」と答えるかもしれない。しかし、先の問いは暗に次のような意図が含まれている。

「お前が責任を取れば世間は納得するのか」

責任というのは、自分が認めれば成り立つものではない。20歳成人の責任というのは、本人が認めれば成り立つわけではなく、社会の合意として成り立っているものだ。

「何かあったら誰が責任を取るのか」で頓挫するというのは、厳しい言い方をすれば、自分の責任だと社会に認めてもらえていないか、その責任を社会から認められている人を説得できなかったかのどちらかという事だ。

ようするに「何かあったら自分は責任が取れないのであなたが責任を取ってください」という甘えに立脚したアイデアだから頓挫したのだ。NDS症候群は、さらにその頓挫の理由を相手に押しつけようとしているだけにすぎない。

実行する方法は二つ。責任を取れる人を説得するか、自分が責任を取れる人になるかだ。

NDS症候群などという「空気」に理由を求めて頓挫を嘆いているうちは、多分いつまでたっても頓挫し続けるだろう。だってその空気は「(N)何かあったら(D)だれかに(S)責任とってもらうんだ」と同じ色をしているんだから。

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2013年3月21日 (木)

モーツァルトのディベルティメント

昨日は昨年の春分の日同様スキー・・・ではもちろんなくて、4月のバレエ公演の伴奏に向けたアンサンブルの練習をした。弦楽五重奏でモーツァルトのディベルティメントを弾くのだ。

モーツァルトは楽しい。そして難しい。

正直にいえばモーツァルトはほとんど聴かない。今回のディベルティメントも、曲は知っていたが音源は持っていなかったので探して(探すまでもないが)買ってきた。聴けば良い曲だと思うが、ヘビーローテーションで聴こうとは思わない。なんというか、心地よすぎて、ざらりとする感じがないんだな。インパクトが弱いというか、いや弱いということはないのだが、突き刺さるような感じがないとでも言おうか。

だからモーツァルトなんだといえばその通りかもしれないが。

モーツァルトを弾く機会というのは滅多にない。オケとしては編成的に難しいということもある。弦楽アンサンブルであればもう少し機会はあるだろうが、そこにもう一つの壁が立ちふさがる。

モーツアルトは難しい。

テクニカルな難しさとは違うだろう。少なくともチェロに関していえば、楽譜だけをみれば簡単な部類と言えるかもしれない。今回のディベルティメントに関していえば、ほとんどさらっていない(もともとほとんどさらわないが)。それで、楽譜は追いかけることができる。バロックの通奏低音に近い要素もあるから、それほど飛び抜けたテクニックは要求されない。

難しいのは、その先だ。

遊ぶだけなら楽しいで済むが、人に聴かせる演奏になるかというと、途端にハードルがあがってくる。ごまかしが効かないというのもあるし、らしさがでない。そもそも、地の音色が良くなければ話にならない。濁ってはダメ、引っ掛けてはダメ、ダイナミックレンジは広さが要求され、発音した後の減衰には繊細なコントロールが必要になる。

それができるかどうかではなく、それを音楽から求められていると感じさせられるのだ。ある種の強迫観念のように迫ってくるのだが、殴るような圧力ではなく、あくまで撫でるようなソフトな圧迫感。楽譜は簡単に追いかけられるのに、一音一音出すたびに、そうじゃないと言われるような緊張感。

なのに楽しいというのは矛盾しているようだが、例えばオケでやる悲愴の難しさとは異なる難しさがモーツアルトにはある気がする。

などと言いつつ、事前の練習は昨日だけで、あとはバレエとの事前の合わせが1回で、前日と当日舞台でのリハーサルで本番を迎える事になる。もっと弾いていたいような、弾きこんでも無駄なような・・・。

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2013年3月19日 (火)

考えて弾くという事

この間気がついてはっとなったのだが、iPhoneを見る距離がずいぶんと近くなっている。遠くなる・・・と老眼なのだが、そうではないので、むしろ近視が進んでいるという事だろう。そう考えてみると、iPadを覗き込む距離や、PCに向かう際の距離も無意識に画面に近づいている気がする。

これはよろしくない。これまで何度も「電車の中でiPhoneは見ない」といった戒めを唱えつつ、気がついたら見ているといった状態を繰り返してきたのだが、改めて注意が必要だ。ポケットに入れておくのが良くないのかな〜。


さて、今日から上野の森の練習再開。厳密には先週もあったが、用事があって欠席した。本番明けということで新しい曲に臨むのだが、相変わらず譜読みも何もしていない。これは上野の森に限った話ではなく、府中でも、時にオレイユでもしていない事がある。していない、というよりも、できない、に近いかもしれない。何十年も楽器に向き合いながら、未だに楽譜を読んで音楽を作り上げる事がままならないのだ。

本来プレイヤーの役割は、最初の合奏までにきちんと譜読みをし、練習をしておく事だろう。当たり前だが、合奏の場は練習の場ではない。それはそうなのだが、正直そううまくはいかないのも確かで、自分の場合、最初は特にグダグダになってしまうことが多い。開き直るわけではないが、反省をしたところで多分改善されないだろう(開き直ってるが)。


全然話は変わるが、先日悲愴の練習をしていて、脳がついてきていない事が判明した。速いパッセージのところで指の動きをシミュレートしきれていない。最初は「こう動かせ」という意識と指がシンクロしているのだが、後半は指は動いているけど脳がそれを追いかけきれていないのだ。

そして、その事に気づいた瞬間に指が回らなくなって落ちる。脳のある種のパニックが指の動きに伝播するのだ。逆に上手くいった時というのは、どう弾いたのかを頭で理解できない。

練習を繰り返すことで、考えなくても指が回るようになるというのは、一見正しい練習のアプローチのようだが、多分そうではない。その結果生じるのは一人勝手に弾くというアンサンブルへの不適合だ。速かろうが遅かろうが、それは「頭で考え指示した結果の指の動き」で実現される必要がある。

例えば学生オケであれば、膨大な反復練習によりオケ全体を「考えなくても統一された動き」にしていく事は可能かもしれないが、市民オケではそうはいかない。そもそもそこまでの練習量(個人練習ではない)を確保することができない。そのため、刻一刻と変わる(変わってしまう)状況に合わせて対応していく必要があり、そのためのトレーニングこそ重要だろう。

なんて課題を感じたのだが、ではどういったトレーニングをすれば良いかは分からないのだった。多分現実には速いパッセージ一音一音をシミュレートするのは不可能で、ある程度アンサンブルでの微調整が可能な単位の塊で捉えた上で、その中では脊髄反射的に弾きつつ、塊を意識的にコントロールしていくような切り分けが必要なのだろうとは思うのだが・・・。

塊としての指の動きのパターンを数多く蓄積し、それを使い分けていくようなやり方が必要なのかもしれない。プロというのは結局その蓄積量がアマチュアと比べて半端なく多いのだろう。

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2013年3月18日 (月)

どこまでを自分でやるか

先週は外出の機会が比較的多かったのだが、夜に開催されるセミナーも含めて、色々と刺激が得られた。それが直接的に当面の仕事に結びつくわけではないにしても、そうした刺激の蓄積が、自分の考えや行動にポジティブな影響を与えているのは間違いない。

そういった意味では貴重な時間なのだが、一方でそれは当面の作業時間を削ることにつながる。どうやったらその効率をあげていけるのかは、喫緊の重要な課題だ。

自分の場合、これまでは力押し、つまりかける時間を増やすことで(逆にそのマージンを生み出すために普段は時間に余裕を持たせている)なんとかしてきたのだが、それでは回らなくなってきている。何らかの形で効率を改善しなければ、常にフルに時間を使う(=残業時間を食いつぶす)状態に移行しかねない。

つまり、今の段階ではまだ若干余裕があるのだが、その間に改善を図らなければ、負のスパイラルに入ってしまうということだ。
(もっとも、一部を無理やり先延ばしにしてしまうという解決方法はある。今の状態はやや季節的なもので、しばらく先になれば余裕が出てくるのは見えているからだ。ただし、その方法をとると、「先延ばしをした」ストレスが精神的にのしかかる上、その季節にやりたいことが結局できずに終わるという結果を招く。今の季節に今の内容をなんとか終わらせる方法が必要なのだ。)

改善を図るには、当たり前だが自分のやり方を変えるしかない。

自分のやり方に問題があるとすれば、それは「考えすぎる」ということだ。仕事を(これは会社に限らずオケでもそうだが)100%完結させるには、どこかで他者を巻きこんでいく必要があるが、8割がたを自分の中で済ませてアプローチするのと、6割、場合によっては4割の段階でアプローチするのとでは、時間の使い方が大きく異なってくる。

過去の経験上、なるべく自分の側で済ませておいた方が早かったので、そうした進め方が無意識に習慣づいてしまっているのだが、考えてみれば、残りが2割と残りが6割では「巻き込んだ後の」時間は2割の方が早いのは当たり前だ。少なくとも、トータルではどうなのか、あるいは8割を自分でやる時間的ロスはどうなのか、という視点が欠けていたのは間違いない。

多分、その辺りの他者へのアプローチを早期にしていくことが大切なのだろう。自分が8割をかけていた場合、その8割部分を効率化するのは限界に近い。一方、それを6割にすれば、残りの4割を効率化する方法はまだ余地が残っている気がする。そもそも自分が6割になるというのは、それだけ余裕ができるということだ。(もっとも、しばらくは残り4割のフォローにそれ以上の負荷がかかるという事になるのだろうが。)

今更ながらに、そうした発想転換を求められているのだった。面倒なので8割自分でやった方がおそらく楽だろうとは思うのだが。

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2013年3月15日 (金)

ブータン 知られざるもう一つの顔

昨日は久しぶりにアカデミーヒルズのセミナーに行ってきた。コンサートもそうだが、こうした機会は定期的かつ意識的に持つようにしないと、気がついたらずいぶん前回から間が空いている・・・ということがある。そういえばコンサート(注:プロの)は久しく行ってないな。

昨日のセミナーはGNH(国民総幸福量)で知られるブータンの話。それも「もう一つの顔」ということで、難民問題に焦点をあて、そもそもGNHがどのような国家戦略なのかを解き明かすという内容。知っているようで知らないブータンについて考える、なかなか刺激的な内容だった。

ブータンは1907年に王国として成立。説明するまでもないことだが、人口13億の中国と人口12億のインドという大国に挟まれた、人口70万人の小国だ。位置的にはネパールと似たような感じだが、あちらは人口3000万人で規模がかなり違う。

そしてこれは知らなかったのだが、ネパールとブータンの間には1975年までシッキム王国という国があったそうだ。今はインドに併合され、シッキム州になっている。ブータン(の政権)が恐れているのが、このシッキムの二の舞となることで、その辺りはこちらを読んだりするとわかりやすいかもしれない。

ネパール人に乗っ取られ、アメリカ娘にたぶらかされて消えたヒマラヤの小国
シッキム王国
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/sikkim.html

そんな動機はさておき、GNHという政策の目的が、その名称から感じられる「国民の幸福の追求」ではなく、ソフトパワーによる国家安全保障だというのはなるほどという気がした。ようするに、仏教的価値観や伝統文化といった国のソフト面を指標化し、その価値を国際社会に認めさせることで、他国の干渉を防ぐのが狙いということだ。

そしてそのために行われたのが、価値観の異なる国民の国外追放であり、その結果生まれたのがピーク時で11万人という難民という訳だ。

極めて大雑把かつ乱暴にまとめると、ブータンは「国民の幸せを追求するためにGNHという指標を国家目標に掲げた」のではなく「国家を守るためにGNHという指標を掲げ、その指標に沿わない国民を片っ端から追放した」国ということになる。

うん、確かにそれは「知られざるもう一つの顔」かもしれない。

もっとも、ブータンの難民問題はGNHという政策を掲げる以前から国際社会で取り上げられており、「アジア版民族浄化政策」などと呼ばれた事もあったらしい。ようするにGNH以前から国外追放政策はあり、GNHはある意味それを糊塗するためと捉えることもできるだろう。

そしてそれがなぜ政策として必要だったかというのは、先のシッキム王国のリンクを読むとなんとなく想像できる。

問題はそこだろう。ブータンの戦略は、統治者の側から「国家維持」という側面で見るなら決して間違っていない。もちろん、国民のために国家があるのであれば、その国家が国民を迫害してどうするのか、という話ではあるのだが、ではその結果国家が崩壊しても良いのか、という問題もある。

なにより、「国外追放とならない」国民にとっては、ブータンは幸せに暮らせる国なのだ。それはどんな国民かといえば、掲げられた価値観と文化を尊ぶ人たちであり、彼らにとっては、異なる価値観を国内に認めた結果、国が崩壊してしまうことの方がよほど不幸なことだろう。

これは組織においても「多様性の受容」という概念で語られる命題だ。

で・・・時間切れ。今日は外出の予定があるので、これ以上はひっぱれない・・・。

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2013年3月14日 (木)

今シーズンのスキー

このところの気温の乱高下は、幸いなことに体調には大きく響いていないのだが、精神的にはスキーへの渇望を大幅に下げる状況を招いている。実際、今週末は行くのをやめて練習をする事にして前日飲む予定を入れてしまったし、昨年最も楽しい(いや厳密には2番目に楽しい)スキーを経験した春分の日も、すでに練習の予定が入っている。そういえばその曲も一度は譜読みをしておく必要があるな・・・。

そんな訳で気分的にはやや終わった感のある今シーズンのスキーなのだが、本音をいえばもう一度ぐらいは行っておきたいのである。それも可能な限り雪質の良い所だ。問題はそれを望めるところが近場では見当たらないという事だろう。それともナイターなら・・・いや、単に凍結しているだけに終わってしまう可能性もある。

福島で3日間を滑った当初の滑り出しとは裏腹に、今シーズンは大雪で帰れなくなったりするなど、トラブルも少なくない。新しいオケの本番や、ミニクラでの過剰な出演など、楽器の練習も立て込んだ。何年か前には一週間休みをとって野沢温泉に行ったりしたのだが、仕事の(この時期の)立て込み具合はそんな事を許さない。

本当はもう少し計画的に考えるべきなのだろう。スキーに行く回数を稼げるのは、前の日に思いついても行ってしまう身軽さと無計画性にあるとは思うのだが、まとまった日数を滑ろうと思ったりすると、それなりに事前の準備が必要になる。仕事だって、休みを前提にした計画を立てることは(1ヶ月前は無理でも3ヶ月前なら)可能なはずだ。

ああ、こんな反省めいた事を書いてしまうと、本当にシーズンが終わってしまったような気分になるなぁ・・・。

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2013年3月13日 (水)

ワールドカフェに参加する

昨日は上野の森の練習があったのだが、他に所用があって欠席した。その辺りの優先順位の設定は難しい。夜は空いていても、夕方外出してそのまま帰るような場合に、楽器を持って歩き回るか、という問題もある。といって火曜の予定はオケ前提とまでするわけにはいかない。その辺りは平日練習の限界かもしれない。

さて、そんな訳で昨日はとある研究会でワールドカフェに参加してきた。グランドルールは「口外禁止」なので、内容については触れないが、自分の考えたこと(の一部)なら良いであろう。

1.倫理についての話
たまたま昨日の昼にこんなTweetをしていたのだが、

倫理というのは「他人に貢献するための」「自分自身への制約」なのだろうと思うのだけれど、その言葉が発せられる時は「自分に貢献してもらうための」「他人への制約」になっているんだろうなぁという気がする。 / “最も大切なことを、後回しに…” http://t.co/jlfSX7FiDM
2013年3月12日 12:48:06 Hatenaから

同じような事を話を聞きながら感じてしまった。
ついでにいうと、「倫理」というのは多分互いの共通の認識がなくても、何となく話があっているように見せかけられる便利な言葉の一つだろうとも。

例えば「倫理的な消費」という時に具体的に思い浮かべられる消費行動は、実は人によって違うような気がするのだが、あえてそこは厳密にしないことで、何となく「良いこと」として合意してしまっている、みたいな。

「持続可能性」なんかもそうなのだが、本当はより厳密な共通の定義をきちんとすり合わせる事が必要なのだろう。あるいは、そうしたすり合わせを行う事こそが「倫理的行動」なのかもしれない。


2.課題解決のための見える化の話
ある課題を解決しようと考えた時に、実態が知られていない事が原因として可視化を図る事はままあるのだが、例えば「消費者の行動を変える」という目的があった際に、単純に「見える化されれば善意の行動が呼び起こされる」みたいな思い込みがあったりしないか、などという事を考えた。

悪意の行動、とまでは言わないが、見える化による問題認識は必ずしも行動の統一性を保証するものではない。つまるところ見える化というのも、その後の行動への誘導がセットになって始めて意味があるのであって、そういった意味では単に「すべてをさらけだす」ようなやり方は、稚拙どころか混乱を巻き起こす可能性さえある訳だ。
(「実態を知れば行動が変わる」という話の多くは、単なる経験、それも自分がそう変わったといった「統計的でも何でもない」話に基づいている事が多いように感じている。そもそもそれはすべてを知ったのではなく、行動誘引を目的として知らされたものかもしれないのに。)


3.大切なのはシステムではなく気持ちであるという話
上記に関わるのだが、倫理的な行動というのが、多くの場合気持ちの問題として語られていて、システムとして「意識せずとも倫理的な行動を取る」ような社会デザインの話になかなか進まないように感じた。

これはもちろんそうしたデザインが難しいといった事もあると思うのだが、心のどこかに「システムでコントロールされてしまう善意」に対する抵抗感があるのかもしれない。そうした気持ちの部分は、最後まで聖域として残しておきたい、みたいな。


さて、ワールドカフェというのは、参加者の意見を引き出したり、気付きをえるといった点では満足度の高い進め方なのだが、例えばその内容をレポートとしてフィードバックしたり、その議論に組織として価値を見いだしたりするのが意外と難しい。

昨日の研究会は業務の一環として出席をしているので、当然そうした事につなげていかなければならないのだが、どんな内容にしたものか、頭を悩ませていたりする。組織的価値に通じるどのような知見や情報が得られたのかを整理しにくいのだ。

失礼ながら参加者が少ないように感じたのだが、その辺りにも原因があるのかもしれない。「参加前に」どういった知見が得られるかをイメージできてこそ、参加するという意思決定ができるのだが、そのための確証を得るのがそもそも難しいのだ。

その辺りは、勉強会にせよセミナーにせよ、内容のデザインが重要という事は言えるかもしれない。

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2013年3月12日 (火)

アンサンブルでゆっくり練習するということ

上野の森の本番の翌日は府中の練習だったのだが、結果は・・・まぁ翌週の練習予定が前中プロの予定だったのが後プロに変更することになった程度に悲○だったという事にしておこう。

確かに今のままでは問題があるのだが、少し気になるのは、練習の目的、特に本番指揮者でない時の練習の目的をどこにおくかだ。

「弾けるようになること」が目的になってしまっていないだろうか。
いやもちろんそれは大切なのだが、弾けるようになるための練習は個人でもできる。実際「100回さらえ」「1000回さらえ」といった指示が出ることがあるし、それは着実に成果にもつながる。

だが、弾けるようになるための練習というのは、本質的には個々人の反復練習だ。それを合奏や分奏でやるのは、緊張感という意味あいや、そもそも個人でさらってこない(自分のような)人間を練習させる事にはつながるけれども、何だかもったいないような気がしなくもない。

アンサンブルの練習というのは、そういうものではないのではないだろうか。

もちろん、本来は求められるテンポできちんと弾けるようになってからアンサンブル練習に臨むべきなのだが、そうではないからといって、テンポで弾けるようになるための練習をするというのは、ちょっと違うような気がするのだ。

何故そのような事が気になったかというと、振り返ってみると、本番の指揮者の時の練習が一番ゆっくりだったような気がするからだ。もちろんそれが本番のテンポという訳ではなく、「まずはこのテンポでしっかり作っていきましょう」という趣旨のことを言われていたような気がする。

本来、それをやっておくのが、それ以外の練習の役割ではないか。

テンポに追いついてとりあえず弾けるようになるための練習を力任せにやるのではなく、ハーモニーがどうなっているとか、バランスはどうするとか、音はどのように出すとかといった音楽のメカニズムを、互いに聴きあえる余裕のあるテンポで理解しておくことが必要なのではないか、という気がする。

前回のチェロのパート練習で、悲愴の第三楽章で表裏に分かれるところをゆっくり弾いて聴きあうという練習をした。それは「弾けるようになる」ための練習ではなく、チャイコフスキーが「どんな響きを求めているかを知る」練習だ。目の前の楽譜を弾くのに必死になるのではなく、音楽がどのように響いているかを感じる事に必死になるという事だ。
ゆっくり「アンサンブル」をしてみることで、こんな響きなのかという発見もあった。残念ながら「弾けること」にはまだつながっていないけれども。

実際、現状がそれ以前の問題と言われればその通りで、プロなら個人の練習段階でそこまで済ませているものだし、アマチュアでもレベルが高ければ、わざわざ手取り足取りやらなくても通常の練習の中で掴んでしまうものだろう。だが、少なくとも今の状況は、要求されたテンポで何とか弾くのが精一杯で、他のパートに気を使っている余裕などない状態で「アンサンブル」の練習をしてしまっているような気がしてならない。

もちろん、そんなことをやっている時間はない、という考え方もある。実際それほど時間はないのだ。でも一方で、だからこそここできちんとベースの部分を固めておいた方が良いような気がする。

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2013年3月11日 (月)

いつもと違う位置で弾く

上野の森交響楽団の演奏会は無事終了。いや、演奏会について「無事」みたいな評価をするようなことはしていないのだが、少なくとも自分自身は楽しく弾くことができた。

今回は府中のようにパートの前列ではなく後列だったのだが、いつもとはオケ全体からのフィードバックが異なる感じが刺激的だった。真後ろの木管楽器の響きがかなりダイレクトに耳に入ってきて、代わりに弦楽器の響きがやや遠い。

結果として、府中の時は「弦楽器とのアンサンブル」の中で管楽器の音を聴いているのに対して、上野の森の場合は「管楽器とのアンサンブル」の中で弦楽器の音を聴いているような感じがしたのだ。

オレイユでも前列でないことはあるが、基本的にチェロは客席側のため、やはり弦楽器の層の向こうに管楽器がいるという感覚になる。木管楽器とダイレクトに接点のある位置(そして弦楽器としては辺縁にあたる位置)だからこそ、あのような感じがしたのかもしれない。

しかし、そのように考えると、演奏会毎に座る位置が変わるというのは、そうした聴こえ方も違っているということなのだ。それは楽しそうな反面、大変な事かもしれない。

正直な話、弦楽器の響きが遠いというのは、プレイヤーによっては弾き辛さにつながるだろう。パートとしてのアンサンブルは確かに難しい。自分が見る側に回ると、パートリーダーが音ではなく動作でパートをリードをしなければならない事が実感を持ってよく分かる。


さて、今回は比較的短期間の練習だったので、もう少し弾き込めていればと思わなくもないが、今自分が求めているのは、弾き込みではなく地力でいかにカバーできるようになるか、という事だから、その現状を認識する上では良かったかもしれない。短時間で楽譜の要求する音の流れを取り込む対応力、イメージした音を出す表現力、指揮者や他のパートの様子をキャッチして即時に反応する調整力・・・そうした基本的な能力が高まれば、より短期間で多くのアンサンブルを楽しめるようになる

上野の森の練習が加わったおかげで、楽器に触れる時間はトータルで増えている。あとはその時間の過ごし方だ。アンサンブルにアジャストするのはもちろんだが、地力の部分を底上げしていくためにどういった工夫が必要なのか、アンサンブルの練習をしながらさらに何か加えられるトレーニングはないか、そんなことを考えてみたいなどと思ったのだった。

いや、そうでないと今年はしんどいと思うのだ、実際・・・。

演奏会本番を一つ乗り切り、今朝は別の練習に向かう。考えてみたら今年は2月にミニクラ、3月に上野の森とあって、4月にステージアート、5月に府中、6月がなくて7月に上野の森とオレイユって、結構演奏会が続くんだよなぁ。
2013年3月10日 8:17:43 HootSuiteから

そしてもちろんその後は、10月に府中の定期、12月の第九と、やや間隔をあけながらも続くのである。さらに来年はまた色々あって・・・年の前半はどういう訳か仕事も含めて慌ただしいのである。

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2013年3月 8日 (金)

海外事例は日本の競争力を高めるか

昨日も練習をして、今日はハンガー・フリー・ワールドのカウントボランティアを予定しているので、後はまぁ本番に賭けるしかない状態になったのだが、今日は全然違う話。

ものづくり経済における「競争」というのは、言ってみれば「ベストプラクティス」の争いだろう。その場合の戦術というのは、他者の取り組みを分析し、真似して取り込み、改良し、その結果はなるべく隠す、という形で構築されている。

一方、知識経済あるいはサービス経済における「競争」というのは、「デファクトスタンダード」の争いだ。そこで必要になるのは、他者とは異なるオリジナリティを積極的に開示し、他者にその規格を受け入れさせる事で、確固たる立場を築くことだ。

日本は(日本企業は、ではなく日本社会は)、その競争環境へのシフトができてないのではないだろうか・・・ふと、そんなことを感じた。

Tweet from オルタナ編集長(@setsumori)
①日本のCSRレポートは環境寄り②企業の都合の良いことしか書いていない③第三者意見も都合の良い人ばかり--海外のCSR専門家が語った、日本企業のCSRレポートに対する印象。なるほどその通り。
2013年3月6日 17:37:40 webから
See More: http://twitter.com/setsumori/status/309221228059713536

引っかかったのは「海外のCSR専門家が語った」という部分(他にもあるが、それは別に取り上げる)。そういえば、「日本のCSR専門家」で、海外企業のレポートに対して同じようなアプローチをしている人というのはいるのだろうか。もちろん、現地のメディア関係者に「その通り」と取り上げてもらえるレベルでだ。

国際競争力、あるいは国力といった視点でみれば、研究者やコンサルタント、メディアといった日本の知識層がやらなければならないのは、「海外の事例を日本に取り入れる」事ではない。もちろん、プロセスの一つとしてそうしたステップは必要だろうが、本当にめざさなければいけないのは、「日本の事例を(デファクトスタンダードとして)海外に受け入れさせる」事ではないか。そういう視点で日本を分析し、発信された例というのは、CSRの分野にあるだろうか。

ちなみに「ナレッジマネジメント」はそうしたアプローチが行われた分野の一つだ。もっとも、「日本に受け入れさせるために」海外からの逆輸入を試みたような感じもあるので、日本という国の姿勢は変わっていないような気もするが。

少し前にNPO界隈では「世界を変える偉大なNPOの条件」という本が話題になったのだが、この話は厳密には「アメリカの社会を変えた」NPOの話である。原題(Forces for Good)には世界という言葉もない。

これを「世界」と訳して取り入れていこうとするナイーブさが、日本の知識層の限界なんじゃないだろうか、と感じてしまう。あれを読んで、では日本において社会を変えるNPOの条件は何か、と同じような調査をしようと考えた専門家はいるのだろうか(いると信じたいが)。

あの本の内容は、一見すれば「ベストプラクティスの提示」だが、めざしているのは「これがスタンダードだ」というロールモデルを示す事で、セクターの在り方を定義してしまうことだろう。そうすることで、さらに社会的影響力を高めるという競争戦略の一環だ。

そうしたベストプラクティスを「追いかけて」勝てる世界じゃないと思うんだがな。もちろん、勝ち馬に乗るのが目的であれば別かもしれないけれども。

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2013年3月 7日 (木)

ゆっくりとさらう

昨日は少し遅くなったのだが、結局練習をした。ゆっくり一通りさらってみると、以前弾いた時の経験が多少なりとも生きているのが分かる。それなりに指が回るからだ。ようはテンポでは無理だが、ゆっくりだと記憶が活かせるということだ(あまり意味がない・・・)。

そして、ゆっくりさらうと、どの辺りで手を抜いていたか、とか、実は楽譜が違っていた、ということに気づくこともある。府中のスラヴ行進曲でもそうだったのだが、過去それなりに弾きこんだ曲というのは、さらっと弾けるまでに定着はしないまでも、弾いていて楽譜のミスに違和感を感じる程度には残っているらしい。

今頃気づくというのは、間抜けというか、今まで手を抜いていたみたいでばつが悪いのだが、念のため確認しておいた方が良いだろう。もっとも自分が聞き逃しているだけで、とっくに指示が出ている可能性もある。

さて、上野の森のプログラム2曲のうち、フォーレの「ペレアスとメリザンド」に関してはそれほど問題がない・・・はずだ。忘れていてうっかりミスという事でもない限りは弾けないことはないし、問題点は表現力の部分でこれは地力に依存するので今からではどうしようもない。だから、忘れないように一通りさらっておけば良い。(まぁ油断はあるので注意は必要だが。)

マーラーの巨人の方は、やや(かなり?)問題がある。ゆっくりなら問題ないが、いくつかの速いパッセージは間に合わないだろう。この間府中でやった時のビデオを見直したりしたのだが、我ながら良く弾いているなと思ったりする。

それでも、さらっておけばその時偶然ハマる事もあるので、練習はしておくのだが、そこはやや絶望的だ。むしろそうでない部分をきちんと弾けるようにした方が良いだろう。今日も練習をする予定だが、今日と本番直前のリハでなんとかなりそうなポイントはいくつもある(何のことはない、それだけ手を抜いて凡ミスが多かったってことだが)。

そしてもう一つの問題は・・・上野の森の本番翌日が府中の練習で、しかもトレーナーによる弦分奏だということだ。あの人はトップを弾かせる(そして同じように弾けと他に指示する)事があるので、正直事前にさらっておきたいところなのだが、当然そんな余裕はない。本番直前に別の曲の運指は入れたくないし、本番後にはもちろん時間がない(仮に打ち上げに出なかったとしても夜公演では時間はない )。

さて、どうしたものだろう・・・いやもうまな板の上の鯉として覚悟を決めるしかないのだが、悲愴は今の巨人以上に弾けていないんだよな〜。

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2013年3月 6日 (水)

もう一度さらう時間を作れるか

昨日は上野の森交響楽団の本番前最後の練習。日曜公演の府中だと本番前日にそうした練習が入るのだが、上野の森やアンサンブル・オレイユのように土曜公演だと、前日に練習を入れる訳にはいかない。

アマチュアの場合、その時の練習の成果を、次の機会までに忘れてしまう事も少なくない。そもそも「楽器を弾く」という事において2日以上のインターバルが発生する事自体が大きなハードルだ。そういった意味では、府中の前日練習の効果は少なくないだろう。

しかしまぁそれは嘆いても仕方のない話だ。

理想を言えば、今日から土曜日まで毎日さらうことができれば、それなりの状態で臨む事ができるだろう。しかし、現実はそれほど甘くはなく、かろうじてできそうなのは明日ぐらいだ。まぁそれでも間に1日挟むだけだから悪くはない。

昨日の練習でいえば、弾けないところはもうどうしようもないにしても、一度二度見直しておけば弾けるような所でミス(文字通りミスに近い)を犯してしまうのが腹立たしい。とっさに楽譜についていけないのが原因だが、クリアするには楽譜への対応力をあげるか、見なくても問題ない状態を作るしかない。

前者は地力の問題、後者は練習量の問題で、実際には今からクリアするのは難しいのだが、それでも後者については、(一夜漬けのように)事前に少しでも体に入れておく事は決して無駄ではない。凡ミスに近いようなエラーはそれである程度防ぐことはできるだろう。それでもやってしまうのは、もう仕方がない。

さて、本番までにあとは何ができるだろうか。

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2013年3月 5日 (火)

ミニクラシックコンサートの録音を聴いてみた

先週のミニクラシックコンサートの録音をようやく聴いたのだが、少々落ち込む。いやミスタッチとかは仕方ない・・・仕方なくはないが、練習不足といえばそれまでなので、まぁやむなしと考えるのだが、音色や発音というのはある程度地力の領域なので、その辺りは何とかならないものかと毎度の事ながら思ったりする。

特に発音が気になる。自分ではもう少し歯切れの良い音を出していたつもりなのだが、のっぺりと間延びした音にしかなっていない。加えてテンポが遅れ気味なので軽快感がない。それと、音が硬い。柔らかくて軽快な音を出しているつもりが、硬くて鈍重な音になっているというのは、イメージとは真逆だ。そもそも、そうした発音を使い分けることができていないのかもしれない。

やや反省というか、一つ注意が必要だなと思うのは、(前にも書いた気がするが)オケの大音響の中で弾くことで音が荒くなっていることだ。粗いという字でも良いかもしれない。一音一音を丁寧に弾くことがおろそかになっている。

もちろん、オケの中であろうと丁寧に弾くことは大切だ。そういう意味では「オケの中で弾いているから」というのは理由にならない。それでも、あの音響の中で自分の音を見失わずに丁寧に出すというのは難しいと感じる。響きに呑み込まれてしまうと言っても良いだろう。

結果的に繊細に発音する技術が低下する。先日のスラヴ行進曲の練習でいえば、熱が入って音量が大きくなってくるとそれなりに弾けるが、冒頭の「小さいけれどもエネルギーを溜め込んだ音」みたいなのが、きちんと発音できなかったりする。今日の上野の森の練習でも、課題は小さな音の響きがきちんと出せるかだろう。

いずれにしても、自分の音をもう少し客観的に捉える訓練が必要なのかもしれない。何となく弾けてるような気になるのは良くない。いやもちろん弾ける気になるというのはそれはそれで大切な事なのだが。


さて、そんな訳で(どんな訳だ?)今週末の演奏会のご案内。

上野の森交響楽団 第70回定期演奏会
日時:2013年3月9日(土) 開演19:00(開場18:30)
会場:文京シビックホール
曲目:
フォーレ:組曲「ペレアスとメリザンド」
マーラー:交響曲第1番「巨人」
指揮:小林幸人
入場料:1,000円(当日券あり)

おお、今更ながらだが夜公演だったのか。全然意識していなかった・・・。

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2013年3月 4日 (月)

消費者の役割

今朝のプロントのモーニングのゆで卵は熱々な上に半熟だった。好みの問題もあるだろうが、固茹での冷たいゆで卵よりずっと美味しい。

サイコー!と言いたいところだが、出てくるまでは少々待たされた。レジも多少混乱していて、ようは開店前の「準備不足」が、「やや茹で時間を短縮した出来立てのゆで卵」につながっただけ、という捉え方も出来るだろう。惜しかったのは、卵を待つ間にパンがやや冷めてしまった事だろうか。

まぁそういったことも楽しむのが客のたしなみであろう・・・などと考えながら、そうやって「自分の果たす役割」を考えることが、消費者の責任かもなどと感じた。サービスという捉え方であれば、ホストにはホストの役割、ゲストにはゲストの役割があり、ゲストは一方的に受け取る側ではないと考えればわかりやすいかもしれない。

あるモノを対価を支払って入手する。それは対価かもしれないが、そのモノの生産行為へのある種の参加と捉えることも出来る。「消費者」と切り分けてしまうと見えづらいが、資金を提供し(事前ではないにせよ、対価を支払うということはそういうことでもある)、使い勝手にフィードバックをする(クレームを含め)というのは、生産行為のサイクルの一部と考えて良いはずだ。

コンサート、特にアマオケのコンサートで考えると分かりやすいかもしれない。

アマオケの場合、コンサートを行う費用の多くは、実質的には出演者負担だ。観客からチケット代をいただくが、それだけでコンサートが成り立つ程ではない。出演者と観客双方が「お金を出しあって」成立していると言えるのがアマオケのコンサートだろう。

その場合、チケット代は「聴かせてもらう音楽への対価」ではなく、「コンサートという場への参加費」と位置づける事はできないだろうか。

コンサートというのは、演奏者と聴衆がいて成り立つ。これは経済的な話ではなく、ホールの響きは聴衆の存在を前提にして調整されているので、その場で奏でられる音楽は、演奏者と聴衆の共同作業として「この世に2つとない」時間と空間を生み出すという話だ。聴衆はただ「音楽を聴く」というサービスを享受する者ではなく、その場を構成する一員として、音楽という一種の生産行為を高める役割も担っている。

消費者の役割というのもそういうものなのかもしれない。

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2013年3月 1日 (金)

ワークライフアンバランスは成果につながらない

今朝はややネタに苦しむ・・・こちらのブログももう一つのブログも。

昨日はハンガー・フリー・ワールドのカウントボランティアの後、平河町ライブラリーに寄って仕事の続きをした。仕事を持ち出した訳ではなく、考えをまとめるという事をしたのだ。冷静に考えれば、会社での仕事というのは単位時間あたりのアウトプットで評価される側面があるから、「時間外に」インプットや考えの整理を行うのは、効率的といえば効率的な進め方ではある。

それで少し前のこれを思い出した。

ワークライフ「アンバランス」に積極的に取り組むべき理由
http://www.lifehacker.jp/sp/2013/02/130227wrklifblnc.html

個人的にはこの考え方には与しない。というか、バランスの捉え方を意図的にずらしているんじゃないかと思うのだが、ハードワーカーというのは、そもそもその状態でバランスを保っているからこそ、成功するのだ。アンバランスなハードワークが成功につながるとは、ちょっと想像できない。

そもそもワークライフバランスは「時間」という視点で捉えるものではないだろう。ただ、その方が客観的に(金額による評価と同様に)かつ「他者との比較が」しやすいだけの話だ。で、そうやって比較をすることによって、バランスが取れているとか取れていないとか、取るべきだとか取らないべきだといった話になる。

でも、他人がどうというのは関係のない話だ。

例えば自分の場合、仕事(というか勤務)は大体定時で終わらせているのだが、そのあとも大抵は予定があるし、土日の休日も何かしらの予定があることが多いので、そうした場合のTweetを見て「ハード」と感じる人もいるようだ。でもそれは他人の感じ方の問題であって、自分としては格段ハードと感じたことはない。むしろ他の人の方がよほどハードだと思っている。

そもそも、本当のハードワーカーは、それをハードとは思っていないだろう。周りがハードと思っているだけだ。自分がハードと思い始めたら、それはバランスを失いつつあるということであり、まさにアンバランスということになる。それを勧めるというのは根本的に間違っている。

もっとも、一方で周囲を犠牲にしたハードワークは、別に褒められたものではない、という事も考えておく必要はあるだろう。日本でワークライフバランスが問題になりやすいのは、それが時間を犠牲にしており、その時間を共有すべき他者を犠牲にしている事が多いからだ。一般的にグローバルなハードワーカーというのは、時間は犠牲にしていない。そもそも、時間を犠牲にするような働き方では最高のパフォーマンスを叩き出せないと考えるべきだ。

そう考えると、時々見かける「アンチワークライフバランス論」というのは、仕事を成果ではなく姿勢や時間で評価する姿勢が染み付いているからそういう捉え方をしてしまうんだろうな、と思わなくもない。

パフォーマンスが低いなら、姿勢を云々するんではなく、成果でバッサリ評価すれば良いだけの話だ。ワークライフバランスというのは、評価を上げろという要求ではないのだから。

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