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2013年3月30日 (土)

サラリーマンに自由はないか

今日は休日なので基本的にブログの更新日ではないのだが、事情があって出社したのと、この後の予定までに時間があるので、気になった事を書いておく事にする。

宗文洲さんが、Twitterでこのような事を呟いて(叫んで?)いたのだ。

Tweet from 宋 文洲(@sohbunshu)
俺は来生も再来生も、サラリーマンにならない。一時になっても事業者の融通にすぎないだろう。自分の顔と考えで活きることはどれほど素晴らしいことか。自由万歳!自立万歳!ベンチャー万歳!
2013年3月30日 7:41:03 webから
See More: http://twitter.com/sohbunshu/status/317768394663419906

そこでふと思った。サラリーマンとはそんなに自由がないものなのだろうか。自立していないものなのだろうか。自分の顔と考え持っていないものなのだろうか。

もちろんそうした特性を持つ人たちを「サラリーマン」と呼称する、という特別な定義があるのなら別だが、少なくとも単なる「勤め人」と考えた場合に、そこまで自由や自立や顔や考えがないものとは思えないのだ。

もちろん、自分はベンチャーの持つ「自由」は知らないので、比較したら問題にならない程の差があるのかもしれない。それにしても、このように叫ばれるとちょっと気になる。
別に宗さんに異を唱えたい訳ではなく、確かに世間的にそのように言われることが多いよな〜と考えた時に、ふと、でも自分の周りの「サラリーマン」にそんな人いないような・・・と考えてしまったのだ。

それって甘いだけなのだろうか。

とはいえ、ちょっとつっこむとすれば、サラリーマンをこのように捉えている人が経営者だったら、その会社で働く人はきついだろうな〜ということ。なにしろ、(自社の従業員には)自由も自立も必要ない、自分の顔や考えなど持つべきでないと考えているって事なんだから。

個人が自由や自立を持ち、自分の顔や考えを活かすには「独立するしかない」と考えているうちは、その組織は構成員を成長させることはできないし、その組織自身も成長しない。理想論かもしれないが、少なくともそうした理想を持たない組織は、理念ではなく金でしかメンバーを惹きつけられないだろう。

マネジメントとワーカーを切り分けて考える経営手法って、実はそういう「パーツとしての構成員」しか求めていないやり方なのかもしれない・・・そんな事を考えてしまった。そうした組織が一般的なら、転職や独立というのは当たり前どころか必須の考え方になる(組織を成長させるにはパーツを入れ替えるしかないからだ)し、逆にそうしたものが一般的でないのは、組織の中に人を成長させ、個の力を発揮させる仕掛けがあるからかもしれない。

サラリーマンに自由を認めないマネジメントが一般的になれば、合わない人は弾き出し、合う人を取り込むための流動的な労働市場が必要になる。逆にサラリーマンに自由を認める(求める)マネジメントが一般的であれば、それほどそうした市場は必要としないかもしれない。

日本は元々後者だったのが、徐々に前者にシフトしつつあり、その中で生まれてきたのが「サラリーマンの無個性化」なのかもしれないなぁ。

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