ワールドカフェに参加する
昨日は上野の森の練習があったのだが、他に所用があって欠席した。その辺りの優先順位の設定は難しい。夜は空いていても、夕方外出してそのまま帰るような場合に、楽器を持って歩き回るか、という問題もある。といって火曜の予定はオケ前提とまでするわけにはいかない。その辺りは平日練習の限界かもしれない。
さて、そんな訳で昨日はとある研究会でワールドカフェに参加してきた。グランドルールは「口外禁止」なので、内容については触れないが、自分の考えたこと(の一部)なら良いであろう。
1.倫理についての話
たまたま昨日の昼にこんなTweetをしていたのだが、
倫理というのは「他人に貢献するための」「自分自身への制約」なのだろうと思うのだけれど、その言葉が発せられる時は「自分に貢献してもらうための」「他人への制約」になっているんだろうなぁという気がする。 / “最も大切なことを、後回しに…” http://t.co/jlfSX7FiDM
2013年3月12日 12:48:06 Hatenaから
同じような事を話を聞きながら感じてしまった。
ついでにいうと、「倫理」というのは多分互いの共通の認識がなくても、何となく話があっているように見せかけられる便利な言葉の一つだろうとも。
例えば「倫理的な消費」という時に具体的に思い浮かべられる消費行動は、実は人によって違うような気がするのだが、あえてそこは厳密にしないことで、何となく「良いこと」として合意してしまっている、みたいな。
「持続可能性」なんかもそうなのだが、本当はより厳密な共通の定義をきちんとすり合わせる事が必要なのだろう。あるいは、そうしたすり合わせを行う事こそが「倫理的行動」なのかもしれない。
2.課題解決のための見える化の話
ある課題を解決しようと考えた時に、実態が知られていない事が原因として可視化を図る事はままあるのだが、例えば「消費者の行動を変える」という目的があった際に、単純に「見える化されれば善意の行動が呼び起こされる」みたいな思い込みがあったりしないか、などという事を考えた。
悪意の行動、とまでは言わないが、見える化による問題認識は必ずしも行動の統一性を保証するものではない。つまるところ見える化というのも、その後の行動への誘導がセットになって始めて意味があるのであって、そういった意味では単に「すべてをさらけだす」ようなやり方は、稚拙どころか混乱を巻き起こす可能性さえある訳だ。
(「実態を知れば行動が変わる」という話の多くは、単なる経験、それも自分がそう変わったといった「統計的でも何でもない」話に基づいている事が多いように感じている。そもそもそれはすべてを知ったのではなく、行動誘引を目的として知らされたものかもしれないのに。)
3.大切なのはシステムではなく気持ちであるという話
上記に関わるのだが、倫理的な行動というのが、多くの場合気持ちの問題として語られていて、システムとして「意識せずとも倫理的な行動を取る」ような社会デザインの話になかなか進まないように感じた。
これはもちろんそうしたデザインが難しいといった事もあると思うのだが、心のどこかに「システムでコントロールされてしまう善意」に対する抵抗感があるのかもしれない。そうした気持ちの部分は、最後まで聖域として残しておきたい、みたいな。
さて、ワールドカフェというのは、参加者の意見を引き出したり、気付きをえるといった点では満足度の高い進め方なのだが、例えばその内容をレポートとしてフィードバックしたり、その議論に組織として価値を見いだしたりするのが意外と難しい。
昨日の研究会は業務の一環として出席をしているので、当然そうした事につなげていかなければならないのだが、どんな内容にしたものか、頭を悩ませていたりする。組織的価値に通じるどのような知見や情報が得られたのかを整理しにくいのだ。
失礼ながら参加者が少ないように感じたのだが、その辺りにも原因があるのかもしれない。「参加前に」どういった知見が得られるかをイメージできてこそ、参加するという意思決定ができるのだが、そのための確証を得るのがそもそも難しいのだ。
その辺りは、勉強会にせよセミナーにせよ、内容のデザインが重要という事は言えるかもしれない。
| 固定リンク
コメント