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2013年3月19日 (火)

考えて弾くという事

この間気がついてはっとなったのだが、iPhoneを見る距離がずいぶんと近くなっている。遠くなる・・・と老眼なのだが、そうではないので、むしろ近視が進んでいるという事だろう。そう考えてみると、iPadを覗き込む距離や、PCに向かう際の距離も無意識に画面に近づいている気がする。

これはよろしくない。これまで何度も「電車の中でiPhoneは見ない」といった戒めを唱えつつ、気がついたら見ているといった状態を繰り返してきたのだが、改めて注意が必要だ。ポケットに入れておくのが良くないのかな〜。


さて、今日から上野の森の練習再開。厳密には先週もあったが、用事があって欠席した。本番明けということで新しい曲に臨むのだが、相変わらず譜読みも何もしていない。これは上野の森に限った話ではなく、府中でも、時にオレイユでもしていない事がある。していない、というよりも、できない、に近いかもしれない。何十年も楽器に向き合いながら、未だに楽譜を読んで音楽を作り上げる事がままならないのだ。

本来プレイヤーの役割は、最初の合奏までにきちんと譜読みをし、練習をしておく事だろう。当たり前だが、合奏の場は練習の場ではない。それはそうなのだが、正直そううまくはいかないのも確かで、自分の場合、最初は特にグダグダになってしまうことが多い。開き直るわけではないが、反省をしたところで多分改善されないだろう(開き直ってるが)。


全然話は変わるが、先日悲愴の練習をしていて、脳がついてきていない事が判明した。速いパッセージのところで指の動きをシミュレートしきれていない。最初は「こう動かせ」という意識と指がシンクロしているのだが、後半は指は動いているけど脳がそれを追いかけきれていないのだ。

そして、その事に気づいた瞬間に指が回らなくなって落ちる。脳のある種のパニックが指の動きに伝播するのだ。逆に上手くいった時というのは、どう弾いたのかを頭で理解できない。

練習を繰り返すことで、考えなくても指が回るようになるというのは、一見正しい練習のアプローチのようだが、多分そうではない。その結果生じるのは一人勝手に弾くというアンサンブルへの不適合だ。速かろうが遅かろうが、それは「頭で考え指示した結果の指の動き」で実現される必要がある。

例えば学生オケであれば、膨大な反復練習によりオケ全体を「考えなくても統一された動き」にしていく事は可能かもしれないが、市民オケではそうはいかない。そもそもそこまでの練習量(個人練習ではない)を確保することができない。そのため、刻一刻と変わる(変わってしまう)状況に合わせて対応していく必要があり、そのためのトレーニングこそ重要だろう。

なんて課題を感じたのだが、ではどういったトレーニングをすれば良いかは分からないのだった。多分現実には速いパッセージ一音一音をシミュレートするのは不可能で、ある程度アンサンブルでの微調整が可能な単位の塊で捉えた上で、その中では脊髄反射的に弾きつつ、塊を意識的にコントロールしていくような切り分けが必要なのだろうとは思うのだが・・・。

塊としての指の動きのパターンを数多く蓄積し、それを使い分けていくようなやり方が必要なのかもしれない。プロというのは結局その蓄積量がアマチュアと比べて半端なく多いのだろう。

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