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2013年4月30日 (火)

何もしない休日

連休は暦通りということで、今日から3日間は出勤。1日2日ならともかく、3日となれば普通に予定は立つし「連休中」的な感覚もない。仕事だけでなく、府中や上野の森の練習も通常通りで、その練習を潰して旅行に行くといった事も特に考えたりはしない。

もっとも、休み自体は増えるので、どう過ごすのかという問題はある。
答えは・・・何もしない、だ。

というか、昨日の過ごし方を思い出して、つくづく練習のない休日は惚けて過ごしているな〜と思ったのだが、年に何日かはそういった日が必要なのだろうとも感じている。連休は「たまたま」そういう日が続いたりするだけの話だ。

「何もしない」というのは、その時はちょっと後ろめたさというか、あれもこれもしなければ的な焦燥感に囚われてしまったりするのだが、後から思い返すと、それはそれでありだよなと思うことが多い。もちろん、「やるべきこと」をやらなかった時はそんな事は言っていられないのだが、無理やりやることを作る必要はないし、そうやってやることを作った時は不思議と「やらぬ後悔」ならぬ「やった後悔」を感じてしまう事があったりする。

もっとも、注意が必要なのは、そうした放電状態を引きずってしまう事だろう。今日もそうだし、次の連休明けである7日もそうだ。無理にでも引き戻すような仕掛けをしておかないと、ズルズルと引っ張られる。(そういった意味では、今回はどちらもいきなり会議が入っていて、引きずる要素が少ない。これが何かの「作業」をするつもりだったりすると、ひどい事になったりする。)

そんな訳で、昨日は洗濯をしてたまったゴミを片付けて過去のビデオを編集して買い物をしてMacBookのHDDの整理をして食って飲んで寝たのだった。予定とかやるべきこととかを考えずに、思うままに過ごすって素晴らしい。

さて、今日は普通に予定とやるべきことを粛々と進めますかね。

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2013年4月26日 (金)

物欲

今日は今週2度目となるMacBook Air持参。普段はiPadで良いのだが、複数の宛先へのメールを作成するとか、添付ファイルを取り扱うとか、いずれにせよオケの本番前というのは、iPadではやや間に合わない作業や処理が増えて、MacBook Airの出番となる。

そして持ち運ぶ機会が少し増えてくると、13インチでは大きいな〜と、11インチへの物欲が頭をもたげてくる。頻度を考えればそこまでの用途はないので、まぁ必要に駆られてというよりは単なる物欲だ。

物欲といえば、最近ようやくKindleで本を読む機会が増えてきたのだが、これもiPad miniの方が楽だな〜と思ってしまったりする。そんな個別の利用シーンごとにデバイスを持ち分けるなんて面倒な事はできないので、これもまた現実味の薄い単なる物欲だ。

物欲だ物欲だ、と言っているうちは多分買わないので、世迷言と変わらない。

とはいえ、docomoのN04Bに関しては、そろそろ替え時かな〜と思ったりもする。これは必要性も含めてやや現実味のある話なのだが、逆に推進力のある物欲のほうがなかったりする。

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2013年4月25日 (木)

アウトプット

会議の目的とはなんだろうか。そもそも、会議の「仕事としての位置づけ」はどこにあるのだろうか。

どうも自分の中には、会議を仕事として位置づける感覚が薄い。むしろ何かの作業をしている方が、よほど仕事をしている「感覚」に近い。ただしこれはあくまで「感覚」の話だ。

会議や打ち合わせに仕事感を感じないのは、会議や打ち合わせそのものの問題というよりは、そのやり方に問題があるということだろう。

例えば、自分の中で作業と違って仕事感がない理由の一つに、アウトプットが明確ではないという事がある。作業というのが、資料であれメールであれ何らかのアウトプットを伴うのに対して、会議や打ち合わせはそれが薄い事が多い。議事録があればまだ良い方で、打ち合わせだと話し合いで終わった感じになってしまう。ようするに目に見える手応えがない。

議事録にしても、話した内容の記録というのは「作り上げた」感が薄い。もちろん大切なのはその話の中身なのだが、そこに「これからやらなければならないこと」が並んでいたりすると、今使った会議の時間をそのために費やしていればずっと早く終わるのに、とか思ってしまったりする。

こういう感覚になってしまうのは、多分自分の中には「決めるのは一人で良い」みたいな感覚があるからだ。実際会議にはそうした「決める人」が同席していたりして、特に他の意見は必要としていなかったりするように思える事もある。

脱線した。

自分の中で会議や打ち合わせを仕事として位置付けていくには、その目的をアウトプットにフォーカスして定義しておく必要がありそうだ。情報共有というインプットで終わらせても良いのだが、それでは時間がもったいないような気もする。合意を形成する、というのも弱くて、それを明確にアウトプットに落とし込むまでやる必要がありそうだ。

まぁ、自分が仕掛けるような打ち合わせや会議はそれで良いだろう。
問題は巻き込まれる場合だなぁ・・・。

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2013年4月24日 (水)

右手の矯正

昨日は上野の森の練習。平日に楽器を持って歩くのも大分慣れてきた。

ドヴォルザークの新世界は、府中でもやったことがあるのだが(第2楽章だけは去年アンコールでやった)あまり上手くいったという印象がない。旋律の美しさとは裏腹に、響きを作るのが難しいというか、アンサンブルを成立させるのが難しい気がする。

多分より注意深く他のパートを理解し、聴いていく必要があるのだろう。そんな事はどんな曲でも当てはまるのだが、何というかドヴォルザークは「旋律に流されやすい」きらいがある。そうした旋律を支えている和声の部分に対して、何故か注意が向けにくいというか、注意がおろそかになりやすいのだ。

そんなことも感じつつ、昨日の練習では弓を持つ手がやたらと乱れた。

弓の持ち方についてはこの辺り(http://gauche-sons.co.jp/cello/CELLO.html)を参照しながら現在矯正中なのだが、思ったようにその持ち方を維持できない。箸の持ち方のようなもので(昔矯正した事がある)、無意識に持てるようになるためには、相当期間意識して持ち方を維持する必要があると思うのだが、楽譜を読むのに必死になったり、必要以上に音を出そうとしたりすると、すぐに直す前の昔の持ち方に戻ってしまう。

とりあえずきちんと持てるようにならないと、次のステップ(力のかけ方など)に進めないと考えているのだが、なかなか道は遠い気がする。

一度にすべてを矯正するのは難しいので、今心がけているのは人差し指が弓に当たる位置と、手の甲の向きなのだが、ここに一番の課題があるのか、なかなか思ったような持ち方にならない。なんといっても力が入っている気がしない。ようはそんなに力を入れる必要はないという事なのだが、長年そうやって弾いてきているので、気がつくと以前の持ち方で無理矢理圧をかけようとしていたりする。

結果として、音が濁る。響きが伸びなくなり、潰れる。弾いている体の方は、その方が「力を込めている」実感があるので、大きい音を出している気分になっているのだが、おそらくその感覚ほどの音は出ていないし、そもそも潰れたように濁っているというのは音になっていないという事だろう。

何とか美しい響きにしていきたいところなのだが、道は険しいね・・・。

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2013年4月23日 (火)

叩き台を作る

自分の場合、いわゆる「叩き台」と呼ばれる資料を作る際のスタンスは二つあって、一つは自分の意見を「入れない」2〜3歩手前で足踏みしている形、もう一つは自分の意見を「加えた」2〜3歩踏み込んだ形で作ることが多い。

それは基本的に「叩かれる」事を前提にしていて、ようするにそこから足すなり引くなりして、最終的に資料を「完成させる」のは、提出されたあなたの役割ですよ、と割り切っている訳なのだが、時々その辺りが実は相手と合意されていない場合がある。

叩き台として提示したはずのその資料を「叩く」のではなく、「評価する」スタンスで見てしまう人がいるのだ。

曰く「物足りない」足りないですよ、貴方の意見を加えるための資料ですから。
曰く「踏み込みすぎ」踏み込んでますよ、貴方に削ってもらうための資料ですから。

それならまだ手直しができたりするが、時々「じゃあこれで」なんて事になって、ひえ〜となる場合もある。

この辺りの齟齬が後々問題になりやすいのは、その資料、ひいてはその内容のオーナーシップが誰なのかが見えにくくなるからだ。叩いた場合は叩いた側だが、評価された場合は評価された側がオーナーシップを取ることになる場合が少なくない。するとこちらが叩き台のつもりで提出した資料を評価されてしまうと、互いの間でそのオーナーシップが宙ぶらりんになってしまい、多くの場合は提出側に降ってきてしまう。

だったらもう叩き台のスタンスなどやめて、最初から評価してもらうための提案資料として作れば良い訳だが、叩かれるというのはそれなりに精神的ダメージが大きいため、「叩き台」であれば、そういう資料として割り切るぐらいの方がやりやすい。そもそも、オーナーシップが相手方にあるべき資料の作成を「肩代わり」するのが叩き台の役割なのだから、そこに精力をつぎ込むのはこのご時世に効率が悪すぎる。

とはいうものの、結局そういう叩き台スタンスは通用しなくなっているんだろうなぁ。
昨日叩き台として作ってしまった資料だが、やっぱり見直して自分の資料にするか・・・。

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2013年4月22日 (月)

本番が近づいてくる

何だかあっという間に4月も最終週である。いや厳密には来週もあるのだが、連休期間に突入するせいか、気分の上では今週が最後っぽい。仕事もオケも佳境である。

仕事の話はさておき、府中の本番まで練習はあと2回になってしまった。連休明けには本番となるので、最後は一気に時間が進みそうだ。

そんな府中の昨日の練習は1日練習。普段やらない1日練習はかなりしんどい。午後の悲愴の練習で、第3楽章から第4楽章のアタッカでは、最初弓を持つ手がプルプルと震えて、腑抜けた音になってしまった。第3楽章で入れ込みすぎていたという事もあるが、これは注意しなければならない。1日練習だからというのは口実にならない。本番の日は、前日夜当日午前と弾き続けた上で(さらに開演直前まで受付周辺を走り回った上で)、ステージに臨むのだ。

そんなペース配分の問題もあるのだが、演奏そのものにもまだまだ課題が多い。ただ、流石に大分慣れてきたというか、問題点を意識しながら微調整することも多少はできるようになってきた・・・気がする。

昨日意識していたのは、弓をコンパクトに使うこと。例えば悲愴の第3楽章などはその意識だけでかなりスピードアップが可能になる事が分かった。それまで「追いつく」事を必死に考えていたのが、「他がついてきていない」と感じられるようになる程度には。左手が若干ついてきていなかったりするのだが、そうした細かい部分はさしおいても、周囲に対する余裕が生まれてくる気がするのは不思議だ。
(昨日の場合だと、管楽器が乗り遅れることを指揮者が再三注意していたのだが、それも感じ取れる。以前は逆に管楽器に引っ張られるような感覚を覚えていたはずだ。)

ただ、この間の上野の森の練習のような「響きをそろえ、長さをそろえ、縦をそろえる」みたいな練習感覚は残念ながらなかった。もっとも、ことパートに限っていえば、自分は「そろえる」側ではなく「そろえてもらう」側である。そういった意味では、周囲がそろえやすいように、毎回同じパターンで安定した弾き方をする、という配慮の方が大切なのかもしれない。大体において、その時のテンションによってバラツキが多くて不安定なのが自分の欠点だ。

さて、後はその辺りを意識しながら精度と安定感を高めていくしかない。連休の間にどれだけ弾き込めるかで違ってくるのだろうが、この所休みは(練習時以外は)放心してしまっている事が多いので、その辺りの気持ちの維持なども課題になってくるかもしれない。

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2013年4月19日 (金)

波紋を生むインプット

アウトプットとして何かを書こうという際には、相応のインプットが必要になる。絞り出すことは不可能ではないが、無から有を生み出すようなもので、非常に厳しい。で、実際には過去のインプットから無理やり引き出したりする。

このところインプットが足りていないんだろう。脊髄反射的なインプット-アウトプットの連鎖のようなものはあるが、それはあまり意味がない。例えば今関心のある事について、スラスラと4000字ほどの原稿が書けるかといえば、そうはならない。そのための蓄積がないからだ。

ちなみにこの「インプット」というのは、いわゆる活字の話ではない。もちろん活字は活字でインプットなのだが、過去の経験上、活字がアウトプットにつながるインプットたり得るのは、全体の3〜4割程度の気がする(もっと低いかも・・・)。

では何が必要かといえば、自分と同じような視点、自分とは異なる視点の人との会話とか、そこまではいかなくても話を聴く(講演とかで良い)などだ。それも、可能であれば偶発的なのが良い。意識的なインプットは情報収集としては大切だが、アウトプットにつながる「発想の飛躍」のようなものが得られにくい。

例えばこのところオケ関係のエントリーが増えているのは、新しい音楽集団に触れるというインプットがもたらしたアウトプットだろう。

うーん、そう考えると、最初に書いたような「インプットの蓄積が足りない」というよりも、既存のインプットに波紋を与えるような、「異なるインプット」が少ないというのが、アウトプットにつながっていかない原因なのかもしれない。

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2013年4月18日 (木)

テンション

うん、ダメだ今日は。ものを書くというテンションがあがらない。

モチベーションやテンションに関係なくアウトプットを維持できるのがプロなのだろうが、もちろん自分はプロでも何でもないので、今日はお休みです(これだけ書いたけど)。

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2013年4月17日 (水)

分解して練習する

昨日は上野の森の弦分奏。これまで参加した練習は合奏ばかりだったので、分奏がどのような練習なのかは楽しみだった(一方でまだ全然弾けないので不安もあったが・・・)。

アンサンブルの練習という点で参考になったのは、音をそろえていくポイントというか、そろえていく練習の順番だろうか。まず響きを合わせ、長さを合わせ、縦をそろえる、という順番だったと思う。

響きというのは弓を使う位置と圧力のかけ方で、まずはそれをパート内あるいは全体でそろえる。
長さというのは弓を使う量の事で、響きを維持したまま、その量をそろえる。
その上で、リズムを合わせて縦をそろえる。

自分でパート練習などをやると、ついつい縦を合わせるところからスタートしてしまったりするのだが、実際はそれ以前の要素がそろっていなければ、濁った響きになってしまう。それで何が合っていないのか分からなくなったりするのだが、なるほどそうしたステップで練習をしていけば良いわけだ。

一方楽器を弾くという点で参考になったのは、右手(運弓)と左手(運指)を分けて、個別に練習するというやり方だ。そんなの当たり前だと言われそうだが、恥ずかしながらあまり意識してやったことがない。

例えばまずは右手のパターンだけを繰り返し、その動きを維持したまま左手を加える、とか。
あるいは左手だけで(指板を叩くように)鳴らす練習をして、そこに右手を加えるとか。

とはいえ、何でもそうすれば良いというものでもないだろう。アンサンブルもそうなのだが、最終的な形に組み立てていく上での、個々の要素への「分解の仕方」と「分解したパーツ単位での精度の高め方」がうまいのだ。何かセオリーがあるのか、経験がなせる技なのか、なるほどプロというのはこうやって組み立てていくんだな、と感心してしまった。

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2013年4月16日 (火)

人材獲得戦略としての終身雇用

終身雇用というのは、企業にとってはあくまでも人材獲得戦略のオプションの一つであって、労働者保護が目的ではないんだよな・・・とふと思ったりした。

甘やかして、世界で勝てるのか:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20130411/246495/?leaf_bn

元々日本企業の「終身雇用」の仕組みは、どちらが先だったのだろう。企業側の人材獲得手段か、社会側の労働者保護か。まぁどちらが先だったとしても、企業にとってその目的が労働者保護である事はない。これは悪い意味ではなく、経営者という「人」には雇用を守るという理念はあっても、企業という「システム(あるいは組織)」にはそうしたものはないという話だ。

これは行政やNPOも同様で、そのミッションそのものが「雇用を創出し守る」でない限り、組織にとって雇用はミッションを達成するための手段でしかない。ミッションを達成するための人材獲得手段が雇用なのであって、雇用するという事が目的化する事はないはずだ。

で、そうした「人材獲得手法」として終身雇用の仕組みを眺めると、そもそもこれが人材獲得の手段として優位性を持つには、社会全体が「そうではない」必要がある。他がそうではないからこそ、終身雇用という仕組みは人を惹きつける魅力を持ちうる。そう考えると、この仕組みが創出された頃というのは、当たり前だが社会全体はそうではなかったという事だ。
(念のために断っておくと、特にデータ等にあたったわけではない。あくまでも思考実験としての思索の結果だ。)

ところが、この終身雇用のシステムが人材獲得において優位性を発揮するには、社会全体がそうなっていく必要がある。矛盾するようだが、労働市場の流動性が高いままでは、この仕組みは足枷にもなりやすい。企業が終身雇用を約束しても、労働者が終身勤務を誓う訳ではないからだ。優秀な人材が流動しやすい社会環境では、終身雇用が優位性を保つのは難しい。

であれば、解雇規制のような形で、「他の企業も無理やり」同じシステムにしてしまえば良い。そうすれば、労働市場の流動性が低下し、終身雇用の魅力が高まる。

うーむ、だがこれでは「人材獲得手段としての優位性」は低下してしまう。企業としては自分の首をしめるようなものだ。ただ、終身雇用というシステムの持つコストや獲得の際の間口を考えると、体力があり、知名度の高い大企業が有利なのは確かだろう。そこで勝負をするという戦略を選んだという事かもしれない。

さて、先のインタビュー記事に戻ると、ファーストリテイリングは、そうした終身雇用とは別の人材獲得戦略をとっているという事になる。終身雇用が一般的な社会であれば、そうではない戦略で優位性を持とうとするのは、不思議ではない。難しいのは、社会の側が企業の終身雇用を前提とした労働者保護システムを採用しているため、ミスマッチの際の労働者のダメージが大きい事だ。

その矛盾を何とかするために、社会に対してアプローチをするのであれば、労働市場の流動性を高めていくしかない。その時には終身雇用と同様「採用システムとしてのユニークさ」という初期段階の優位性を捨てて、別の戦略オプションを採る必要があるだろう。

人材の流動性が低いというのは、流出リスクも低いという事だ。そうした「流出防止コスト」が低い中で、優秀な人材の獲得だけに資源を振り向けているのが、ファーストリテイリングの位置づけだろう。一方終身雇用の仕組みを持つ企業は、言い方はなんだが「優秀ではない人材(正確にはミスマッチの人材)」を抱えるリスクとコストを、現状では一方的に引き受けてしまっている事になる。

その段階ではどちらが優位かは明白なのだが、一方でそれは今の社会システムがそうだからであって、人材流動性が高まれば、ファーストリテイリングも相応の「流出防止コスト」を引き受ける事になり、今ほどの優位性は保てなくなる。

早晩そっちの方向に流れていくという事なのかもしれない。

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2013年4月15日 (月)

ソロ合わせ

昨日の府中は、定期演奏会に向けたソロ合わせにバレエ公演の伴奏となかなか盛り沢山で、少々疲れたのだが、それ以上に楽しい1日だった。

今回のヴァイオリンコンチェルトのソロ合わせの練習は、G.P.と本番を除けば昨日の1回のみ。正直にいえば、昨日の朝までは「今回のコンチェルトはイマイチ乗っていないな〜」と感じていた。理由ははっきりしていて、練習回数が少なく、音楽のイメージができていないからだ。

端的にいえば、音源を聴きながら楽譜のイメージができない。ある程度こなれてくれば、音源を聴きながら楽譜を頭の中で再現できるものなのだが、そうした「脳内再生」ができないのだ。自分の場合は意識的にというよりは無意識の領域に刷り込む必要があり、不思議と個人練習を重ねただけでは、そうしたイメージはできてこない。
(多分自分の楽器の音と楽譜を結びつけているのではなく、アンサンブル全体の響きと楽譜を結びつけているからだ。)

そんな訳で、一流の人をソロに呼ぶのはそれはそれで良いのだけれど、もっと練習に参加してもらえる人と一緒に音楽を創り上げるというのも良いかな〜などと練習に向かいながら考えていたりしたのだが・・・

・・・やはり一流の人というのは全然違うのだ。

昨日の1回の練習で、全てとは言わないまでも、かなりの楽譜が脳内に刷り込まれた・・・はずだ。一度音源を聴いて試してみないと分からないが、かなり鮮烈なイメージになっている。そうして一度イメージができえしまえば、再生を繰り返すことで定着させていくことも可能だろう。

それにしても楽しかった。本番とはまた違ったあの緊張感と高揚感はなんだろうか。

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2013年4月11日 (木)

タスクリストの見直し

昨日に引き続き更新が夜になったのは、朝に時間がなかったからで、明日もない予定。ただ、明日は夜も賭けるかどうかは不明だ・・・。

今日は比較的早く帰ってきたので、ぐちゃぐちゃになってしまったタスクリストの立て直しにチャレンジした。とにかくこのところの混乱ぶりはひどい。

現在タスクリストとしては、ToodledoとGoogleタスクを使っているのだが、両者の使い分けをはっきりしていなかったので、登録内容がカオスになってしまっていたのだ。
だったらそもそもどちらかにすれば良いというのはたしかにその通りなのだが、長期のプロジェクトを細かく登録可能なToodledoと、カレンダーに表示される手軽なGoogleタスクは、ついついどちらも使いたくなってしまう。

そこで、ルーチンや日々発生する小さなタスクはGoogleタスクに、プロジェクト型で記録も必要なタスクはToodledoにとおおまかに切り分けて、それぞれを登録しなおしてみた。しばらくそれで使ってみて、問題があればまた見直すことにしよう・・・。

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2013年4月10日 (水)

練習スタイルの見直し

今日は出張だったのだが、朝の移動時間はその資料作成に追われてブログを書く時間がなかった。もうそうやって追われてしまうこと自体どうなの?とは思うし、もう少し準備ができれば良かったとは思うのだが・・・

・・・それはそれとして、それなりの収穫というか、発見というか、再確認が得られた出張だった。仕事の話終わり。


昨日は上野の森の練習で、本番を振っていただく指揮者による初の練習。本番まで3ヶ月と迫っているとはいえ、ちょっと早い。もう少しまとまってからでも・・・とは思うのだが、逆に練習期間を考えるとなるべくこうした本番指揮者による練習を増やした方が結果仕上がりは早いのかな、とも思う。

アンサンブルの練習が、曲に対する解釈のすり合わせの時間だとすれば、昨日の練習はまさにそうした形のものだっただろう。率直にいえば「きちんと弾けるようにするため」の練習は少なく、「どう表現していきたいか」の練習が多いと感じた。その辺り、府中のような「弾けるようになるための反復練習」が少ないので、さらっと流したような印象で、ややまとまり感に欠けた状態で終わっている気がする。

ただ、そうした練習になるのは、出席者が府中ほど多くなく、パートが欠けている事が多い事が影響しているのかもしれない。(そもそもまだ乗り降りが確定していないようだ。)今の段階で一部に「弾けるようになるための反復」をして音の粒を揃えても、人が増えればまた乱れてしまうリスクが高い。それよりも、リズムや音色などのイメージのすり合わせを重ねて、まずは「そうした人を増やして」おいてから、最後の追い込みでまとまりを持たせるというアプローチは、それはそれでありだろう。(実際にそうなのかどうかは分からないが・・・。)

練習中に細かい反復がないというのはしかし、自分のように「アンサンブルしながら練習する」タイプにはちょっと辛い。いやその練習スタイルに問題があることは百も承知なのだが(本来は弾けるようになってから参加するのがアンサンブルだ)、それはそれだ。

それに別に自分の練習スタイルに合わせてもらいたいという話でもない。むしろ逆に普段の自分の練習を見直す必要に迫られている、という事だ。これは結構大きな課題なのだが、とはいえ、実際には何とかしようとしているうちに、必要な「アンサンブルでの練習」のステップは終わってしまう可能性も高いような気もするな・・・。

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2013年4月 9日 (火)

経営者の目線

例えば「指揮者の目線を持ってプレイヤーとして演奏する」と「指揮者として演奏する」では全然違う。

「経営者目線を持て」の真の意味は「みんな俺と同じように考えろ」ー脱社畜ブログ
http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2013/04/08/204643

目線を持つ、と、その立場に実際になるという間には大きな開きがある。経営者になるというのは、その責任を負う事だ。一方、目線を持つというのは、その責任まで負う事は求めていない(本来は)。

そこで責任を押し付けるような経営者は当然失格だと思うが、目線を求める事自体はおかしいことではない。その考えが自分と違う事も許容するはずだ(経営者としては・・・人間としては許容できない単なる未熟な人格というのはありそうだが)。

ただし、意見が別れた時の最終の判断は「目線を持つ者」の役割ではなく、「責任を持つ者」の役割だ。その辺りの切り分けが曖昧なのかもしれない。それ自体は、「責任を持つ者」の態度からも残念ながら感じてしまう事はある。


とはいえ、一方でこの「経営者目線を持て」というのは、厳しい要求だなとも思っている。
何故なら経営者と社員の間には圧倒的な情報格差があるからだ。もちろん、一部にはそうではない経営を取り入れている会社もあるが、まぁ一般的にはそうだろう。

目線というのは、本人の心構えだけで何とかなるものではない。経営者の目線というのは、本来「経営者の立場」に身を置いてこそ磨かれるものだ。立場という責任ではなく、立場で得られる情報が目線を磨くのだ。

例えばオーケストラでは、指揮者とプレイヤーに与えられる情報には大差がない。だからプレイヤーに「指揮者の目線を持て」というのは、ほぼ心構え(まぁ才能や経験はもちろんあるが)の問題と言っても差し支えないだろう。

会社組織の場合はなかなかそうはいかない。公開される経営情報などというのは、経営者が得る情報のほんの一部、というか、経営者が公開しても良いと考えた情報だろう。自分も含めた従業員の給与情報、コンプライアンス上の問題事、はては経営者の立場でこそ得られる人脈などが「経営者の目線」を作るものだとして、社員に経営者の目線を持たせるためにそれら全てを開示し提供する覚悟が経営者にはあるだろうか。(もちろんある経営者もいる。)


もっとも、厳しい要求だからしてはいけないと言いたいわけではない。そうした条件の違いを自覚した上で求めるのであれば、自ずと求め方も違ってくるのではないか、というだけの話だ。

「経営者が従業員に経営者目線を要求することは経営者の職務放棄であるし、割に合わない仕事の強要の前触れに違いないからだ。」

むしろ経営者の役割は、そうした条件の中で、いかに従業員一人ひとりに経営者の目線で判断ができるようにするかであって、「経営者の目線を持たせる」というのは職務放棄ではなく、もっとも重要な職務だろう。

ただしそれは「従業員がその目線を持てないのはまさに経営者の問題であり責任」であるという事だ。そういった意味では「自覚がない」「心構えが足りない」のように「従業員の責任である」かのような発言をする経営者には、ちょっと注意した方が良いかもしれない。

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2013年4月 8日 (月)

事前に頭を使う

昨日の府中の練習は午前中だけだったのだが、その後に来週のバレエ公演のリハーサルや来年のミニクラシックコンサートに向けたアンサンブルの練習などがあったりして、結局1日楽器を弾く事になってしまった。ちなみに花見という計画も流れていたのだが、それは中止。

午前中の練習では、セクションとしての塊を意識しつつ、セクション同士のアンサンブルを作っていくといった指示をされる。ここでいうセクションというのは、パートではなく弦楽器や木管、金管といった単位の話だ。チャイコフスキーはそうしたセクションが塊になっている事が多く、その中でのまとまりと同時に、他のセクションとのやり取りがスムーズにつながっていく必要がある。

指示を聞いていると、アンサンブルが上手いというのは、演奏中に耳と意識をどこに持っていけば良いかが分かっていることなんだなと感じる。もちろん全体を聴いておく必要はあるのだが、その中で今の自分の役割であれば、どの楽器に注意を払っておく必要があるか。それはお互いになのか、自分が相手になのか、相手が自分になのか、といった事を常に意識しながら弾けるかどうかが、アンサンブルを成り立たせる上で重要なのだろう。

そのためには、感覚ではなく頭を使っていくしかない。もちろん最終的には無意識に処理できるようになるのが望ましいのだろうが、そのためにもステップとして意識的にそうする経験の積み重ねが必要になってくる。当然ながら、その場で頭を使うだけでなく、事前の準備も重要で、前にも書いたが「楽器を弾かない」練習(というか、予習?)が必要になってくる。

何だかやらなければいけないことはたくさんあるねぇ・・・と改めて感じたりしたのだった。

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2013年4月 5日 (金)

子育てのシステム

「子は親が育てるもの」という価値観がある。

それは「当たり前」だろうか。昨日のTwitterでこんな呟きを見つけてふとそんな事を考えた。

Tweet from 宗像淳 (Innova CEO)(@sunaomunakata)
女性が、育児と仕事の両立に悩むのは、母親が子供と接する時間が長い方が、子供が健全に育つのではないか、という社会通念。ベビーシッターとか、託児所とかに任せると、子供の発育に問題があるのではないかという心配。
2013年4月4日 23:05:17 Twitter for Androidから
See More: http://twitter.com/sunaomunakata/status/319812922601791489

Tweet from 宗像淳 (Innova CEO)(@sunaomunakata)
でも、実は、母親が育児をするのと、他の大人が育児をするので、子供の発育に差はないという、調査があるのだそうだ。認知能力、言語能力ともに問題なく育つのだとか。
2013年4月4日 23:07:07 Twitter for Androidから
See More: http://twitter.com/sunaomunakata/status/319813386248523776

育児と仕事の関係はさておき、二つ目に引用したTweetを読んだ時にちょっと感じたのは、子どもの認知能力や言語能力の発育に差はなくても、親に対する感情のような部分には差が出るのではないか、という事。

だとすれば、こういう図式が考えられるのではないか。

親による子育て・・・家族の一員を育てる
他者による子育て・・・社会の一員を育てる

もちろん、前者は後者の要素を包含したものになるが、ヒトの社会性を育む上では、後者で十分、あるいは「社会的な健全性」という視点では、後者の方がより高いといった事は言えるかもしれない。

乱暴な言い方をすれば「家族を優先する子を育てるか」「社会を優先する子を育てるか」という事でもある。家族というのを最小単位の社会と考えれば、両者を分けて考える必要はないのかもしれないが、何となく両者は違うような気がしなくもない。

例えばこれを会社組織にあてはめた場合、新卒採用は「家族の一員を育てる」で、中途採用は「社会が育てた者を迎える」だ。どちらも同じと割り切っているのであれば、どちらでも問題ないということになるが、実態としてはどうだろうか。

で、何を考えたかというと、家族という単位に頼らない子育てというのは、子孫を養育するシステムとしては実は高度な社会性を備えた取り組みなんじゃないだろうか、ということ。家族で子育てというのは、生物本来のやり方かもしれないが、むしろ「人間としては」長くに渡って培ってきた独自のやり方からの退化にあたるのかもしれない。

そんなことを考えながら「地域で子育て」と「核家族化」という言葉を並べてみると、何だか意味深な感じがするのだった。

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2013年4月 4日 (木)

語れるということ

今日は昨日から延期された朝の清掃活動があるので、手短に(ブログの更新を)済ませたいのだが、あいにくネタがない。

・・・

・・・・・・

・・・・・・・・・昨日は急なお誘いをいただいて、知り合いの方とお酒を飲んだのだが、その場でもスキーの話をしていた。考えてみると、音楽の話というのは、スキーほどはしていないことが多い気がする。機会の有無というよりも、そこで語れる自分なりの考えがないということだ。

昨日のエントリーにもつながるのだが、それはつまり自分の中でそれほど言語化ができていないということなのだろう。「こういうものなんです」という確たる考えがないとでもいおうか。

知識の問題もあるが、語るためには、それについてある程度自分なりの考えを持っている必要がある。考えを持つというのは知識を持つことではない。知識をベースに自分なりに納得のいく論理体系を創り上げるという事だ。それには時として実践が伴い、場合によっては反証も自ら行っている必要がある。

もちろん、はっきりそれらを意識して組み立てるというものではないのだが、そうした積み重ねを経て、「語れる」考えというのは生まれてくるのだろう。

スキーは自分にとって自問自答の繰り返しだ。時たまインストラクターのお世話になることもあるが、基本的に滑るのは1人であり、自分で組み立てなければ1ミリも進まない。

一方音楽はそうではないのだろう。実際、練習にせよ本番にせよ、音楽を組み立てるのは指揮者やトレーナーに「お任せ」になっている。その指示を咀嚼し、実践する事は意識していても、そもそもどうした音楽を創りたいのかという点において、自問自答するという事がない。チャイコフスキーやドヴォルザークが「こうだよね」という感想を抱く事はあっても、それは単に受け身で「感じている」だけで、「考えている」訳ではない。

なるほど、こんなところにも違いというのが出てくるものだ、と思ったりした。
・・・その時に、ではなく、「今」思ったことだけれども。

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2013年4月 3日 (水)

音楽を奏でるために必要なこと

昨日は雨の中、上野の森の練習。ドヴォルザークの新世界は知らぬ者は多分いない名曲中の名曲なのだが、知っているから簡単に弾ける訳ではもちろんない。むしろその方が注意が必要だし、丁寧に組み立てる必要があるというのは指揮者の言葉だが、多分その通りだろう。

それは府中の悲愴も同じで、なまじ知っているだけに思い込みで弾いている部分というのは確かにある。昨日の練習では、旋律ではなく内声に注意を払って合わせていけというアドバイスがあったのだが、実際そうした内声に、弾く立場ではなく聴く立場で魅力を感じるようになってくると、音楽というのがより深く感じられるようになったりするので、その辺りを今回の課題として考えると良いかもしれない。音量を抑えてアンサンブルに溶けこませるトレーニングにもなる。

さて、練習終了後の飲み会ではスキーのポールセッターと作曲家の類似点の話なんかで盛り上がったりしたのだが、そういえば車の運転になぞらえたりした事も(このブログでは)あったのだった。

ようするに、車を上手に操る技術を磨くためのトレーニングと、コースに習熟して早く走るためのトレーニングは、楽器を奏でるためのトレーニングと、音楽を奏でるためのトレーニングのような違いがあるという話だ。

いや逆か。

楽器を奏でるためのトレーニングと、音楽を奏でるためのトレーニングは、車を上手に操る技術を磨くためのトレーニングと、コースに習熟して早く走るためのトレーニングのような違いがある、の方が良いかもしれない。
スキーでいうなら、上手に滑るためのトレーニングと、競技においてセットされたポールを攻略し早く滑る事の違いになる。

これらは「上手くなる」という点については、ほぼそのアプローチにおける考え方が共通する。

一つは理論的な裏付け、もう一つは徹底した反復だ。体に覚えこませるための反復練習は当たり前の話としてさておき、理論的な裏付けというのは、一言でいうなら体の使い方と対象物(楽器、車、スキー)の挙動の関係を論理的に説明できるかという事になるだろうか。

ようするに、結果としての挙動を生み出すために、自分の体をどのようにコントロールする必要があるかというのを、言語で説明できるか、という事だ。筋トレでいうところの「どの筋肉を鍛えるか」というのに近い。

一方「音楽を奏でる」「コースを攻略する」も、作曲者やコース設定者の意図を読み取り、いかに表現(コースを早く走る/滑るというのも表現としてのパフォーマンスだ)するかという点で良く似ている。

スキーではレースの前にインスペクション(コースの下見)がある。一度八方でのワールドカップを見に行った時に、レーサーがコース上で時々立ち止まり、実際に手を板に見たてて、左右に傾けながらそれぞれのポールにどのようにアプローチするのか、複数のターンをどのように組み立てていくのかを、何度もシミュレーションするのを目にしたのだが、これが音楽でいえばスコアリーディングやリハーサルにあたるだろう。

そう考えると、リハーサルの目的は、上手く弾くためのトレーニングではなく、どんな音楽を奏でるかのシミュレーションにある。必要なのは、楽譜に込められたイメージを掴むこと、全体の流れをどのように構築するかを考えることだ。

アマチュアでは、まずは上手に(それ以前にミスをせずに)弾くためのトレーニングが優先されてしまうので、なかなかそうした領域には到達しない。ただ、考えてみると、後者のシミュレーションは必ずしも「楽器を弾く」現場だけで行われるものではなく、いかに表現を事前に考え、イメージを組み立てておくかが問われていると考えることもできる。

ということは、結局そうした準備の問題なのだ。楽器に触らない時間に、いかに音楽のことを考え、学んでいるかが、「音楽を奏でること」に求められる要素なのかもしれない。

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2013年4月 2日 (火)

練習しなくては

今日は上野の森の練習なのだが、朝から雨。楽器持ちというのは結構きつい。いやいや、練習を休むわけではありませんけどね。

日曜日は府中の1日練習があった。通常1日練習は本番前週のみなのだが、今回は何回か予定されている。指揮者の森口先生を大分からお呼びしているので「半日で帰してはもったいない」というのがその理由だ。

しかし、1日練習は・・・きつい。チャイコフスキーはほとんど休むところがないし、そもそも「弾いていない時間にいかに頭を使うか」がポイントだと普段言っているのだから、気を抜いていては練習にならないのだ。
(とはいえ実際には前日の疲れもあって途中ウトウトしてしまったりしたのだが・・・。)

スラヴ行進曲は、大分形になってきているとは思うのだが、エンジンがかかるのが遅い傾向がある。何度か繰り返せばできるというのは、一発勝負の本番ではできないと言っているようなものだ。
個人的な状況を言えば、この曲に関しては一発目に「忘れている」傾向が強い。事前に一度でもさらっておけば大体OKではあるのだが、その時間が取れていない。まぁその点は本番に関しては問題ないだろうが、練習のスタートで躓くのはあまりよろしくない。

ヴァイオリン協奏曲は、スラヴ行進曲に輪をかけて「忘れている」。そもそも練習自体が少ないのだ。合奏では再三「アンテナを張っておく」事を強調された。ソリストとの合わせがまだなので、どのようになるかがまだ分からない。仮に分かったとしても、本番がその通りになるとは限らない。
アンテナを張るためには、その分楽譜以外に注意を配る必要がある。ようするに楽譜にかじりついていてはダメなのだが、それ(楽譜から目や意識を離す)が可能なほど弾き込んでいない。とはいえ、めちゃくちゃさらわなければいけない箇所がある訳ではないので、普通に弾き込んでいれば大丈夫な筈だ。

悲愴は「ずいぶん良くなった」とは言われたのだが、それは「まだまだ」の同意でもあるだろう。ユニゾンを多用するのがチャイコフスキーのオーケストレーションの特徴だが、その音の厚みが派手なだけに、パート単独になるところの音の貧弱さが際だってしまう。本来厚みのある音が必要なのはそうした所なのだが、ついついユニゾンで不要な「がんばり」をしてしまうのが、アマチュアの悲しさというか、性というか・・・。

困ったことに、求められる「音の厚みや豊かさ」というのは一朝一夕で身につくものではなく、単純に回数をさらえば何とかなるというものでもない。弓の持ち方を矯正して、音の出し方を変える事を少し前から試みているのだが、短期間で身につくようなものではないだろう。

さて、定期演奏会はそれはそれで迫ってきているのだが、直近ではバレエの伴奏がある。弦楽五重奏でのモーツァルトのディベルティメントは、悲愴以上に地力が要求される曲だ。せめて今の地力を最大限発揮できるように、楽譜でつまずくことがないように準備をしておかなければならない。そもそも伴奏の場合、色々イレギュラーな事を要求されたりするので、いつも以上にアンテナを張っておく必要があるんだよね・・・。

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2013年4月 1日 (月)

スキーシーズンの終了

4月に入ったので、スキーシーズンは(自分の中では)完全に終了。もっとも気分的には2週間ほど前には終わってはいたのだが・・・今年は2月中旬以降は行くことがなく、自分の中でも随分と冷めてしまったものだと感じたりする。

今シーズンはスキー関係のエントリーもほとんどしていない。その割には検索ワードで昨シーズンのエントリーがひっかかっていたりしたのが意外だったが、それはさておき、何かスキーへの行き方自体を、今の「前日に思いついたように行く」スタイルから変える必要があるのかもしれない。
(もっともシーズン中7日というのは、それでも一般的には多い部類に入るのだろうが・・・。)

そもそも、冬場は全体に過密なのだ。府中ではミニクラがあるし、仕事も慌ただしい。それ自体が直接スキーの予定に影響する訳ではないが、何だか落ち着かない。その辺りの全体のスケジュール感から見なおす必要があるのかもしれない。

いずれにせよ、シーズンは終了。タイヤを履き替えに行かなければ。それもきちんと予定を立てたほうが良いだろうなぁ・・・。

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