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2013年5月31日 (金)

変わってない

今朝はいつものお店がモーニングのスタートを遅らせるとあったので、そのまま会社に来てしまった。早いようだが、すでに何人かは居る。フレックスが導入されている事もあるが、元々早い人が多いという事もある。

そんな話はさておき、あっという間に5月も終わってしまった(終わってない)。仕事にしても、オケにしても、あるいは個人的な勉強などの話としても、この半年でこれだけ変わった!的な感覚が薄い。新しいオケに参加したという事はあったが、府中演奏会を満席にすることもできず、なんとなくいつも通りの運営で終わっている(終わっていない)。

もちろん、何かを「変えていく」のは難しいものだ。無理やり強制的に一気に変えるやり方もあるが、それは簡単ではないし、一方で少しづつ変えていくというのも簡単ではない。そもそも、何となく「変わりたい」ではダメで、どう変わりたいのかをしっかり描いていなければ、ただウロウロするだけで終わるだろう(終わってない)。

なんて事を書きながら、その「変わってない」最たるものが、このブログなんだよね・・・などと考えてしまったのだった。


・・・会社で書くブログって何だか支離滅裂だな。

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2013年5月30日 (木)

努力の価値

努力に価値はないだろうか。

ぼくが「努力には何の価値もない」と考える理由
http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/24238

言っていることには一理あるのだが、ややひっかるのは、努力は評価指標なのか、という点だ。
努力を評価指標と考える事には、確かにリスクがある。だが、評価指標として使えないことがすなわち努力に価値がないと結びつけてしまって良いのだろうか。

努力を評価と結びつけて考えるのは、子供の頃に褒められた事が刷り込みのように作用しているためだ。だが悲しいかな、子供であれば努力は評価されても、大人は評価されない。それは現実としてそうだろう。

でも、だからといって、子供の努力を褒める事にも価値はないのだろうか。
「どうせ大人になったら評価されないんだから、努力なんてしても価値はないよ」と子供に刷り込むのは正しいことだろうか。いや正しい正しくないというか、そうしたいことだろうか。

子供は別だとすれば、それは何故だろうか。

子供の努力を褒めるのは何故だろう。もっと努力させるためだろうか。もっと頑張らせるためだろうか。

もしかしたら、その事を「頑張らなくても」できるようにするためではないか。
努力と考えない、頑張っているとは思わなくても、そのことができる状態になる事をめざしているのではないだろうか。

成果は、そうしてできるようになったあとに生まれるものだ。
であれば、そのための努力に価値がないということはないはずだ。

とはいうものの、この考え方は「成果がないのは努力が足りない証拠」という話に結びつきやすい。だから気をつけなければいけないのは「努力して何かができるようになること」と「何かをすることで成果が生まれること」は、実は関係がないと捉える事だろう。

「努力して何かができるようになること」に価値がないということはないはずだ。

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2013年5月29日 (水)

営利組織が得る利益

営利組織あるいは非営利組織という言葉を耳にした時に、どのような組織と捉えるか。

昨日、このようなTweetをした。

組織はすべからく、何らかの形で資金を調達した上で、消費者(あるいはもう少し曖昧に社会)にサービスを提供する役割を持っていると考える。企業であれ、NPOであれ、行政機関であれ、これを大原則にする。違いはそれぞれの資金提供者と消費者との関係だ。
2013年5月28日 12:14:22 HootSuiteから

行政機関は、資金提供者(納税者)と消費者(サービスの受益者)が、理念として一致している。再分配はその中の一部の機能にすぎない。もっとも、一致していてもそれは資金とサービスが等価で交換される「対価モデル」ではなく、いわば循環モデルのようなものになるだろうか。
2013年5月28日 12:18:58 HootSuiteから

対してNPOと企業は資金提供者と消費者が一致しない。NPOを支える寄付モデルは、資金提供者(寄付者)から消費者(受益者)までが基本的には一方通行となる。広く(そして長く)は社会全体の発展などを通じて資金提供者にもリターンが戻ってくる循環型モデルといえる。
2013年5月28日 12:24:21 HootSuiteから

一方企業の場合は、資金提供者(出資者)と消費者双方に対して対価モデルが成立する。消費者に対してはサービスと対価の交換が行われ、出資者に対しては、資金提供へのリターンとして利益が提供される。重要なポイントは、利益を得るのは出資者であって企業ではないという点だ。
2013年5月28日 12:30:21 HootSuiteから

そして厳密にいうのであれば、出資者が得ているのも利益ではない。彼らの役割は、その余剰金を新たな組織に提供し、新たなサービスを生み出していく事だからだ。
2013年5月28日 12:32:25 HootSuiteから

少し前にはこのようなTweetも。

企業が非営利組織で、NPOが非営利組織という時の「営利(利益)」というのは、その組織に対して向けられるものではなく、組織の出資者(企業なら株主、NPOなら寄付者)に対して向けられるものなんだよなぁ。
2013年5月27日 22:42:49 HootSuiteから

「企業が非営利組織で・・・」というのは「企業が営利組織で・・・」の間違いなのだが、それはさておき、「営利組織としての企業」という場合、多くの人は「モノやサービスを提供して(対価として)利益を得る組織」と考えているのではないだろうか。

多分、その部分が大きなボタンの掛け違いなのだろう。「非営利組織は対価を得てはいけない」みたいな捉え方はそうした掛け違いから生まれている気がする。

営利組織というのは「利益を得る組織」ではなく「(その組織への出資により)利益を得られる組織」と捉える必要があるのだ。そのように考えると、営利組織である企業への投資と、非営利組織であるNPOへの寄付との違いが明確になる。そこで利益を得る、あるいは利益を得ないのは、投資家であり寄付者であって、組織そのものではない。

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2013年5月28日 (火)

ブログをどう書くか

このところ、会社のブログを書いていない。

更新そのものは他の人の投稿頼りで、自分自身の投稿がない。これだけ間が空いたのは、おそらくスタート以来始めてだろう。実は2回ほど意図的に更新頻度を落としていた事があるのだが、今回はそれとも違う。

一度休み癖がつくと、復帰が難しい。計画して書くのでない限り、ネタを原稿にするのはある種の瞬発力の成せる技だ。その瞬発力が落ちてしまっている。そもそも要求される内容が変わってきていて、瞬発的な書き方が通用しなくなってきているという事もある。

そしてしばらく書かずにいると、今度はネタに対する嗅覚までもが低下してくる。
ある種の負のスパイラルが発生するということで、ここから巻き返すのはかなり大変そうだ。

そもそものスタンスから見直さなければならないのかもなぁ。

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2013年5月27日 (月)

府中の譜読み

府中の秋定期に向けた練習がスタートした。まずは「リエンツィ」序曲と交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」の譜読みから。しかし「ティル〜」は曲名が長いな・・・。

団員が多く、出席率も高めな府中の弦は、人数による音の厚みのおかげで、譜読みの段階でもあまり弾く側が不安になることがない。よく聞けば合っている訳ではないのだが、萎縮して音が出ずに薄くなるという事が起こりにくいのだ。言い方は悪いが、静寂の美術館ではなく、喧騒のカフェで会話をするようなものと言えるだろうか。

結果として、練習だからこそ許される「失敗」を良い意味で重ねる事ができるとも言える。そのまま気づかずに矯正されない失敗を本番まで引きずるリスクもあるが、きちんと気づくことができれば、周囲の正解に耳を傾けるだけなので修正は容易だ。少ない人数で、恐る恐る弾いていては、そうした「失敗」や「修正」は生まれにくい。その点だけでも、有利な条件を抱えているといえるだろう。

さて、リエンツィは、そうは言ってもその喧騒感が気になった。何というか、かしましい感じがする。もう少し全体の響きがスッキリするのではないかと思うのだが、60人から80人という出席団員(多分)が、皆バラバラに騒いでますよーという状態なのだ。最初だから仕方ないといえば仕方ないのだが、これをスッキリとした響きにまとめていく必要がある。

まずはパートとしての音の統一だろうか。人数はいるのだから、音程と音量をそろえさえすれば、それほど無理しなくてもしっかり聴こえるはずなのだ(それが難しいのだが)。細かいパッセージはまぁ多少諦めるにしても、ベースラインについては、なんとかしてそろえ合わせられるようにしたいものだ。

ティルに関しては、もう少し楽譜に対する慣れが必要な状況。まずは迷いなく弾ききれるようにしなければならない。で、その時に有効なのが「失敗できる環境」なのだ。特にこうした曲は、個人練は個人練で大切だが、それでアンサンブルがそろう訳ではないから、そうしたアンサンブルの中で自分のポジションを確立するプロセスがどうしても必要になる。言い方は悪いが、個人練習で弾けるようになった人というのは、上手いのに伴奏とはずれたカラオケのように、アンサンブルの中でも浮いたまま自分の音楽を弾き続けるようになりかねないからだ。

とはいうものの、コンサートマスターの評価も上々で、この2曲に関しては初回の練習にしてはまとまったという感じだろうか。もちろん今後の(個人)練習を前提としての話だが、来週譜読み予定の運命のほうが、色々課題は多いのかもしれない。

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2013年5月23日 (木)

平河町ライブラリー

昨日は久しぶりに平河町ライブラリーへ。記録をしているわけではないのだが、多分久しぶりであろう。

平河町ライブラリーでやることとといえば、溜まった(家の)郵便物の整理と、溜まった(オケの)メールへの返信などで、それなりに高い会費を払っている割には生産性が低いことこの上ないのだが、そういう時間(とそのためのスイッチを入れる場所)が必要なのは確かだ。少なくとも自分にとっては。

ただ、本当なら昨日はさらにその後に仕事関係の考え事をする予定だったのだが、思ったより時間がなくなってしまった。多少整理はできたけれども、これは流石にちょっと(時間の使い方として)もったいなかった気がする。もっとも、仕事の事は職場でやるのが基本だから、本来あるべき姿ではない。でもまぁ集中力というか、思考効率がかなり違う実感があるので、ついついこの場に頼りがちだったりする。

さて、今日も行けそうな感じではあるのだが、どうしますかね・・・。

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2013年5月22日 (水)

親指の痛み

昨日の練習中に、右手の親指が痛くなった。念の為に書いておくと、右手の親指は弓を支える上でかなり重要なポジションを占める。まぁ他の指が不要なわけでは無いのだが。

練習のしすぎ・・・という殊勝な理由では、もちろんない。

原因はほぼはっきりしている。iPhoneの操作や文字入力を親指でやっているためだ。特にフリックは意外と負荷がかかると感じていた。自覚があったならやめておけ自分。

弾けなくなるほどひどいわけではないのだが、力を込めるとやや痛みが走る。咄嗟に持つ手が安定せず、弓の操作がぎこちなくなる。金曜日に休みをとって練習しようと決めたばかりなのになんてこった。

まぁこの際だからあまり力を込めずに弓を操る練習をする機会を得たと考えよう。実際、オケの中にいると力任せにゴシゴシ弾いてしまうことが多いのだが、これはお世辞にも綺麗な音とは言えない。親指に負担のかからない持ち方、弾き方はその辺りの矯正につながるかもしれない。

それともちろんiPhoneの親指操作は禁止。両手操作はいまいち安定しないので好きではないのだが、仕方ない。この際だからダンパーかカバーをつけて片手での操作をやりにくくしてしまうかな・・・。

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2013年5月21日 (火)

オンラインでの自己開示

今日は微妙にネタがない。

なぜ「微妙に」という書き方をするかというと、ネタ自体は幾つか思いついたのだが、文章としてまとまらないからだ。文章にまとまらない「考え」のようなものは、本来ネタとは言えないような気もするが、ま、ネタのタネようなものだろうか。

で、何故そのネタがタネの段階で止まってしまうかというと、思いついているものが時事に触れるややセンシティブな話題が多くて文章化を躊躇してしまうからだ。

で、何故躊躇してしまうかというと、このところFBの友達の範囲が増えて、このブログはそちらにリンクを飛ばしているので、そうした「新しい人たち」に読まれるにはやや刺激が強すぎるんではないかと考えてしまうからだ。ちなみにFBの友達は基本的にリアルな知人である。

もちろん、この「刺激が強い」というのは、自分のイメージの変化を気にしての問題で、特に相手の事を思いやっての話ではない。

その昔会社でオンラインの自己紹介の仕組みを導入しようとした時に「知らない人に見られるのは良いけど、知ってる人に見られるのは恥ずかしい」みたいな意見があって、なるほどな〜と思ったのだが、自己開示、特にオンラインでの自己開示は、それを目にする相手との距離が近いほど逆のインセンティブが働くということがままあるのだ。

特に自分の場合、リアルでの自己開示はあまりしていない傾向があり、オンラインとの二面性がある(そういえばこの間読んだ記事に、内向性が強い人間はネットで自己開示が強くなる、みたいなのがあったな)ので、そうしたオンライン経由のアクセスが増えてくると、微妙に気持ちにブレーキがかかってくるのだろう。

ま、ぼちぼち慣らしていくさね。

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2013年5月20日 (月)

3団体掛け持ち

昨日は府中の練習がお休みだったのだが、国連WFPのウォーク・ザ・ワールド for アフリカに参加して横浜の街を10kmほど歩いたため、今日は少々体が重い。「休みたい」とか書いておきながら、せっかくの休日に身体をいじめてどうするんだ・・・。

そんな話はさておき、土曜日からはアンサンブル・オレイユの練習もスタートした。府中、上野の森とあわせて3団体掛け持ちになる。練習日は基本的にかぶっていないのだが、時々イレギュラーで重なるため、それぞれすべての練習に出席という訳にはいかないのが、掛け持ちする場合の問題点だろう(といっても府中は基本的に休む予定はないのだが)。

今年のオレイユは、シューマンの4番(マーラー編曲版)、マーラーの10番(室内楽編曲版)と不思議な角笛というプログラム。編曲による違いはあるにせよ「全然聞いたことがない」曲という訳ではないし、ざっと楽譜を見た限りでは「何をやっているんだかさっぱり分からない」的な箇所もない。

とはいうものの、難しくない訳ではない。何というか、普通に難しい。

シューマンは、手も足も出ないということはなさそうだが、きちんとさらう必要がある。そんなことはどんな曲でも当たり前といえば当たり前なのだが、何となくは弾けてしまいそうなのが落とし穴で、気を抜くと最後まで適当に誤魔化したまま弾いてしまいそうな感じがある。

マーラーの10番は、難しいところはほとんどソロなのだが、調性の関係もあってハーモニーを作るのが難しい。楽譜で苦労はそれほどしそうにないのだが、他のパートのことを良く勉強する必要がありそうだ。
(それとトップが何回か練習を休むことを表明しているので、いざという時のためにソロもさらっておかなければならない。そういう代奏が問答無用でその時居る誰かに要求されるのがオレイユの怖さだ。)

不思議な角笛は、まだ合奏がないので雰囲気は分からない。

いずれにせよ、ちょうど府中も新曲が始まるので、やや慌ただしく譜読みが必要になるのは間違いない。何度も書いているように、譜読みは苦手な領域の練習なのだが、ま、何とかしたいところだ。

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2013年5月16日 (木)

休むということ

昨日「休みたい」と書いたのだが、では具体的に「休む」とはどういう状態をさすのかというとはっきりしない。そもそも、「休む」と口にする時に、仕事は意識されているが、オケはその対象から外れている。昔「3ヶ月休みをください!」といってオケから離れた事もあるのだが、あの時はパートの人たちは快く送り出してくれたが、今はそれ以外の部分で許されないだろうなぁ。
(大体そういうのはオケを掛け持ちしながら言う事ではない。)

そのように考えると「休む」というのは、今ある諸々の関係を一旦「断ち切った」状態に身を置くという事なのかもしれない。会社も、オケも、家族も、ネットも。

・・・最後のが意外と一番大変そうな気もするが。


さて、今日は色々あるので、会社に向かうとする。

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2013年5月15日 (水)

合奏と個人練習

うーむ、今日はテンションがあがらない。昨日のお酒のせいといえばお酒のせいだが、まぁ何というか、そんな話はおいておいて少し休みたい。しばらくは無理だが、何とか休みを取る方法を考えよう。でも結局休んでも何かしらやることができてしまうんだろうなぁ・・・。

さて、昨日の練習で、指揮者の先生が「合奏は個人練習の成果を発表する場ではないよ」と言っていたのだが、確かにその通りだろう。

で、当然の事ながら合奏は「個人練習の場でもない」訳で、その点は反省しております。

そういえば昔のこのようなメモをもらったのだった。(一部抜粋)

オーケストラ演奏家の毎日の基礎練習
1 各楽器の最高の音色を引き出すために、今与えられている曲の音階練習。
2 与えられた曲を声に出して、リズムを叩きながら唄う。メトロノームを使いながら唄う。
3 与えられたメロディをゆっくり大きな音でメトロノームを使って弾く、吹く。
4 作曲者のテンポで、音程正しく弾けるようになったら、強弱、ダイナミックスをつけて、書かれてあるとおりに弾く。
5 その際、音色がその場所にふさわしいかどうか確認する。柔らかいのか固い音なのか頭にイメージを浮かべる。
6 作曲家のイメージを知るために、あらゆる文献を読む。時代背景も読む。歴史まで。
7 合奏する前に全スコアを読み、自分のパートが誰と関わっているのか、完全に把握する。
8 指揮者が来る前に、テンポが変化する箇所をチェックする。友人と合わせておく。
9 完璧に準備されていない場合、迷惑がかかるので、合奏を見学する。
10 全体練習がうまくいくと、さらに細部に進むことが可能になり、音楽がさらに面白くなる。

後半(というか1以外)は「毎日の基礎練習」ではないのだが、合奏に臨む心構えはこのようなものかもしれない。ま、これができていればアマチュアではない気もするが・・・。

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2013年5月14日 (火)

楽譜と音のリンクを作る

府中の本番が終わったので、次に向けての練習を開始しなければならない。本来トップとしてはもう譜読みぐらいは終えていなければいけないのかもしれないが、とてもそんな余裕はない。いや、余裕があるからやるというものでもなく、関心がない、いや違うな、「出来ない」が正しい。

恥ずかしながら、自分の読譜能力は最低である。楽譜から音楽をイメージするのが苦手で、まず耳から入るのだが、それも音源で聴いたぐらいではあまり入ってこない。

楽器を弾く時の楽譜に対する自分の感覚はおおよそこんな感じである。

1.楽譜があれば弾ける・・・通奏低音なんかはだいたいこんな感じだろうか
2.音が分かれば弾ける・・・旋律なんかはこうした部類に入る
3.練習すれば弾ける・・・音が分かっても反復練習が必要なパッセージはある
4.練習しても弾けない・・・どんなに練習しても弾けない箇所はある

問題は、2以降に関しては、一度なりとも合奏などに参加しないと結構手も足も出ない事だ。音が分かれば弾けるというのは、逆にいえば音が分からなければ弾けないという事だからだ。そんな訳で初回の練習などでは、きちんと練習をしてくる人たちを頼りながら、自分の中に「音が分かる」状態を作り上げていく事になる。

この「分かる」というのは、例えば旋律を知っているとか、口ずさめるという事ではなく、何というか、自分の中で楽譜上の音符と指板上の押さえるべき位置がリンクするという事をさす。ようするにそのリンクを作る能力が弱いため、他の人に一緒に弾いてもらうというサポートが必要なのだ。何だか書いていて情けなくなってきたな。

さて、次回の府中のプログラムは次の通り。

ワーグナー:「リエンツィ」序曲
Rシュトラウス:ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら
ベートーベン:交響曲第5番「運命」

音楽的な難易度はさておき、楽譜としての関門はティルだろうか。正直今の段階では楽譜を見ても音がさっぱりイメージできていない。この段階では、実は弾いてもたいして弾けるようになる効果がない。せめて楽譜から目だけは落ちないように準備をするぐらいしかできないのだ。
(いやもちろん練習はするのだが、経験上それが生きた事はほとんどない。今の段階で弾けるところというのは、ようするに初見でも弾けるところという事で、初見で弾けないところというのは、練習では一見さらえていても、実際には音が分かるまでは弾けないところなのだ・・・。)

その前にはオレイユの初回練習も控えている事だし・・・ねぇ。

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2013年5月13日 (月)

演奏会終了

府中の定期演奏会が終了。毎回のことながら良い演奏会だった。
で、いつもならここで運営面の課題を書き連ねるのだが、毎回代わり映えしない上に、今回は諸々多すぎるので、ちょっと演奏面について考えてみる。

本番前日のG.P.の前に少し時間があったので、いつもよりも丁寧にスケールをさらってみたのだが、その後の練習で思った以上に指が回るという体験をした。さらったスケールはハ長調だけで、曲の調ではないにもかかわらずだ。

おそらく、曲の調性でのスケールをしっかりやっておけば、さらに結果は違ったに違いない。
そう考えると、やはりスケールというのは基本中の基本で、しっかりやっておく必要があるのだろう。

しかしまぁこれは「演奏会」には特に関係がない。きちんと練習しようというだけの話だ。

演奏会はといえば、今回はやはり大谷康子さんのバイオリン協奏曲が素晴らしかったのだが、特に緩徐楽章の美しさというのは、録音ではなく生で聴かないと分からないのかもなぁと感じてしまった。CDなどで聴く時とは違う、演奏者の繊細な息遣いまでが感じられるのは、生演奏ならではだろう。もっともそれはステージ上で共演しているが故の感覚かもしれないが。

それにしても、ああした弱音での表現力はどうやったら身につくのだろうか。そもそも練習量が桁違いなのはもうどうしようもないのだが、それにしても、何も考えずに弾いていても身につかないものだろう。問題は何を考えて弾いていればそうなるかだ。

第二楽章のバイオリンソロの冒頭、大谷さんは開放弦で弾き始めたのだが、この音が息を飲むほど美しい。自分だったら、隣の弦で同じ音を押さえて、ビブラートで音色を作ろうとしてしまうと思うのだが、右手だけでそうした音色のコントロールができるということだ。プロだからと言ってしまうのは簡単なのだが、開放弦を綺麗に鳴らす、その音色を右手だけでコントロールするというのは、もっともっと意識して練習をする必要があるし、何よりも「練習したい」と感じさせられる音色だった。

・・・どう練習すれば良いかはさっぱり分からないのだが。

悲愴の終楽章などは、そうした弱音での音色のコントロールが繊細に要求されたのだが、どうにもカエルを潰した(というとカエルに申し訳ないのだが)ような音にしかなっていなかった気がする。ミニクラシックコンサートで、バーバーのアダージョやアンダンテ・カンタービレを演奏した時にも思ったのだが、弱音というのはそもそも「雰囲気」を出すのがとても難しい。

力任せに大きな音を出すというのもどうかとは思うのだが、そうした音量に合わせた「らしさ」を出せるようになるかは、今後の課題の一つだろう。


ご来場いただいたみなさま ありがとうございました。

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2013年5月10日 (金)

「忙しい」という高揚感

心を亡くすと書く「忙しい」は、普段使わないようにしている言葉なのだが、時々そういう状態に陥る事がある。「時間がない」ではなく「忙しい」だ。

そうした状態は、自ら招いた結果ではあるのだが、少々困ったことに、「忙しい」時というのは、ランナーズハイのような高揚感がある気がする。周囲に配慮する余裕もなくのめり込む必要があるほど追い込まれている状態だからなのか、アドレナリンが異常に分泌されているとでもいおうか。

慢性的に「忙しい」のであれば、また少し変わってくるかもしれないが、時々な場合それは麻薬のような拘束力を持っているように感じられる。(いや麻薬は経験したことはないので、あくまで想像だけれども。)

心を脳に置き換えるなら、白黒ついて「やるしかない」状態にあるということかもしれない。逃げるにせよ襲うにせよ、その瞬間「そのことしか考えていない」状態というのは、脳としては安心している状態だ。「忙しい」時というのは、余計なことを考えないだろうから、脳としては逆に不安がない。何というか本能に従う動物的な状態で、逆にいえば人の心というのは、不安定なゆらぎの中にこそあるのだろう。

で、今はそんな状態にあるわけだが(とはいえ、時間外にはこのブログを書く程度の余裕はある)、こうして書いていて、ふと感じるのは、今の「忙しさ」はこうしたハイな状態を得るために脳が無意識に招いた事態じゃあるまいな、という疑念だ。

こういう事態を招かないための対処は本来幾つもあるはずだ。ただしそれは脳を常に不安な状態に律するという事でもある。その不安に耐えられなくなった時に、あえて「忙しい」という真っ白な状態を招いてリセットしているのかもしれない。周囲の環境とか、「たまたま」立て込んだなんていうのは、そのための単なる言い訳だ。

とはいえ理屈を考えてみても、別に「忙しい」状態が解消されるわけでもない。やり切るまでは解消されないのが「忙しい」という状態なわけで、一度そのスイッチが入ってしまったら、何とかするまで抜け出すことはできない。

・・・などと、暇なことを考えてみたりしたのだった。さて、「忙しい」状態に戻りますかね。

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2013年5月 8日 (水)

優先順位とタイムマネジメント

昨日は上野の森の練習・・・だったのだが、会社でどうしても外せない「飲み会」が発生してしまい、急遽欠席することになってしまった。楽器をただ背負って通勤しただけというのは、何だか悲しい(哀しい?)感じがする。

とはいえ、平日の練習というのは、何処かでそういった事態が発生してしまうものなのかもしれない。

少し前にこんなTweetをした。

仕事と趣味のトレードオフは、双方に定めた時間枠を越えない事で解消できる。優先順位ではなく、タイムマネジメントで何とかできて初めて一人前とも言える。
・・・現実は厳しいけど。
2013年4月30日 18:22:18 HootSuiteから

基本的なポリシーはそういう事で変わっていないのだが、どうしても重なる事はあるもので、そこは優先順位で考えざるを得ない。ま、確かに現実は厳しいのだ。

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2013年5月 7日 (火)

基礎練習を積み重ねる

府中の本番が今週末に迫り、5日は最後の練習。後は前日のG.P.と当日のリハのみとなった。意外とあっという間だったな・・・という気がするのは、他の演奏会が立て込んだせいだろうか。それとも仕事が立て込んでいるせいだろうか。いずれにせよ、年の前半はやることが多いのは確かだ。

そんな話はさておき、たまたま翌日6日も休みだったこともあり、一部のメンバーに声をかけて飲み会を開催してみた。コンサートマスターの大学時代のトレーニングの話などを聞いて、ああやっぱり基礎的なトレーニングは大切だな〜などと思ったのでメモとして残しておく。
(でも今思い返すと既に話の一部は忘れている・・・まぁそのままできるわけでもないのでよしとしよう。)

ようは、個人練習ではスケールとアルペジオの練習を徹底しようという話だ。

今もなるべくやるようにしはしているのだが、まだまだ中途半端だ。どうしても曲をさらう方に意識がいってしまう。ところが、曲をさらうのは何故か集中力が持続しない。逆にスケールはいくらでも続けられる気がする。

多分それは、フィードバックというか手応えが明確だからだ。上手くできたできないの判定が明確で、しかも偶然の要素がほとんどない。曲の難しいパッセージというのは、何かの拍子に偶然できてしまったりするが、スケールにはほとんどそれがない。できないものはできない。

スキーでひたすらプルークボーゲンの練習をするのに似ている。長いコースを一気に滑り降りるのと、緩斜面でプルークの練習をするのは、処理している情報量はおそらく同じぐらいなのだが、その情報の質が違うのだ。(もっとも、何も考えずにプルークをするなら、それは当然情報量は少なくなる。)

曲をさらう、あるいは長いコースを滑る時に処理している情報の多くは、楽譜やコースに関する情報だ。一方、スケールや緩斜面でのプルークではそうした情報はそれほど多くなく、自分自身の楽器やスキーをコントロールする情報が大半を占めるようになる。

うっかりするとその空いた処理能力で全く別のこと(演奏会の運営のこととか)を考えてしまうのだが、そうした事をせずに、ひたすら楽器に集中するのであれば、その密度は相当に濃いものになるはずだ。

とまぁこんな話はこれまでにも書いているような気がするのだが、改めて再認識したのだった。
いや曲をさらう事はそれはそれで必要なんだけどね。

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2013年5月 4日 (土)

判断のブレ

今日は休日なので、本来はブログはお休みなのだが、なんとなく書きたくなったので(でも家では気分的に書けないので)、近所のマックで朝食。この時間だと他にお店の選択肢がほとんどない。

あくまで自己評価として、自分は判断がブレないほうだと思っていたのだが、このところブレることが増えてきた。ブレるというか迷うというか。

理由はおそらく「自分の考えではない」判断をする機会が増えたからだ。

判断をブラさない方法は大きく分けて2つある。
一つは、行った判断を記憶に留めておき、それをベースにして次の判断をすること。
もう一つは、自分ならこうするというグランドルールで判断をすることだ。

実際には両者のミックスで行なっていく訳だが、これまでの自分の判断は後者の傾向が強かった。というか、前者の形で行うことが苦手だった。

言った端から忘れていってしまうからだ。

だから逆に言うと、後者の軸で判断ができなくなると途端にブレるようになる。「この間はこう言っていた」みたいな指摘を受けるのはそのためで、その時には後者の基準では判断をしていないケースが多い。

このところブレることが増えたというのは、ようするにそういうことだろう。「自分の考え」ではなく、「組織としてあるべき考え」とか「立場としてあるべき考え」を要求される機会が増えてきて、齟齬が生じているのだ。仕事でも、オケでも。


余談だが、マックで隣りに座った若者達が、会話は朝帰り的でけだるそうなのに、うちの一人がフランクルの「夜と霧」を机の上に置いていてちょっとビビった。本も読んでないな〜。

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2013年5月 1日 (水)

弾けているという勘違い

昨日は上野の森の練習で、2度目となる弦分奏。前回も思ったのだが、見てくださるトレーナーの先生の指導は個人的に好みである。

何というか、出来ない所を指摘するのではなく、出来ていると勘違いしている穴を指摘してくれるのが良い。自覚している出来ない所はほおっておいても練習するか、練習しても結局出来ない所なのだが、自覚していない出来ない所は、指摘されない限り気づかないからだ。

特にアマチュアは(と一般化するのは良くないな、自分は、としておこう)指が回って音が出ていれば、とりあえず弾けているとしてしまいがちだ。だからそのステップをクリアしたら、次の「指が回らず音が出ない」所に目が向いてしまう。

それはそれで大切なのだが(弾けない所を弾けるようにする事はもちろん大切だ)、せっかく指が回って音が出ている所に、さらに磨きをかけないのはもったいない。何よりもそうした所は、ほんの少しの意識の持ちようでランクアップ可能な事も多い。

難しいのは、どうやってその意識を持つかだ。何しろ無自覚なのだから。
自分が弾けていると勘違いしていたら、何でそんな所が指摘され、何度も繰り返すのかとイライラしてしまう人もいるかもしれない。

でも自分が出来ないと分かっている所を指摘されても仕方が無い。画期的なアドバイスでサラッと弾けるようになるのであればいくらでも指摘されたいが、結局練習を積み重ねるしかないのであれば、別に指摘されなくても練習を積み重ねるしかないのだから。

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