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2013年6月27日 (木)

自分が何を担っているか

異動に伴って引継のための仕事の整理と資料の作成を進めているのだが、思った以上に雑多というか、整理がされていなかった事に愕然とする。自分としてはできているつもりが、他人からみればできていないというのは、こういう事をいうのだろう。

仕事の性格上「決めた通りにやれば良い」というものでもないので、整理といっても限界はある。ただ「自分は今何を担っているか」の境界線が曖昧で中途半端な空白地帯や侵食地帯が周囲に生じていたのは確かだ。その時の勢いに流されてやったりやらなかったりがあるためだが、考えてみたらこれはオケの運営なんかでも同じ状況を招いてしまっているかもしれない。

少し前にこんなTweetをした。

まぁそもそも自分がいなくても回るようにしておくほうがよほど責任感は高いってことはあるんですけどね・・・。 / “職場に責任感など感じるな。あなたがいなくても仕事は回る - ihayato.書店 | ihayato.書店” htn.to/jf7x8YC
送信 6月19日 8:04 From Hatena

うん、まぁ自分自身がそれができていなかったって事だ。

ただ、一方で、明確に互いの役割を線引きした上で、誰かが欠けてもすぐに代われるようにするのと、役割を線引きせずに、何となく周囲で補うようにするのと、どちらが良いのかは分からない。会社組織の場合は前者を志向するだろうが、オケのような組織では後者のような考え方もありのような気はする。

一人ひとりができることをするというのは、そういうことだろう。

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2013年6月26日 (水)

音程感(音程観?)

昨日は上野の森の練習。本番までもうほとんど時間がないのだが、客観的に見てかなりやばい状態の気がする。とはいえ、オケとしてどうかというのは、最後の追い込み感覚が分かっていないので何とも評価できない。今の段階での課題は自分自身だ。

曲が体に入ってきていない。何というか、確信を持って弾ける段階に到達していない感じがある。弾けないパッセージがあるとかそういう問題ではなく(そういう問題もあるが)もっと根本の段階で準備が整っておらず、不安を感じながら弾く状態にあるのだ。

3つのオケを掛け持ちしているから・・・というのは言い訳にならないし、実際それが原因とは思っていない。少なくとも、他の2つではそうはなっていないからだ。恥ずかしながらほとんど個人ではさらってはいないので、合奏でのみ弾いているという点で条件は同じなのだが、府中やオレイユではこのような感覚はない。

この違いはなんだろうか。

一つ感じるのは、響きというか、音程感のようなものが共有できていないのではないかという事だ。ストレートに言うなら音程が合わないのだが、周りが悪いのか、自分が悪いのかが判別できない。周囲の様子を見ていると、自分が全体からはじかれているように感じるので、自分の音程の問題である可能性もある。そのアジャストができていないのだ。

例えば「ロメオとジュリエット」にチェロが表裏に別れて弾く旋律がある。練習前にちょちょいとさらう限りでは不安を感じないのに、いざ合奏となるとどうにもあっている感覚がなく、確信を持って音を出すことができない。チェロの表裏のハーモニーもそうだが、それらを支えているオケ全体の響きに溶け込む事ができていない。

先週何度か書いているように、これは個人の練習ではどうにもクリアできない領域だ。というか、個人でどれだけさらってもあまり解決にはならず、アンサンブルの中でアジャストしていくしかない。その時間が圧倒的に不足している感覚がある。

この週末にはほぼ1日かける集中練習がある(夜は引き続きオレイユの練習だし、翌日は府中の練習だが)。
そこでどれだけアジャストできるかで、本番が何とかなるかが見えてくるだろう。その前に楽譜をさらって、どうにも合わないところをもう一度洗い出しておくと効率的かもしれない。

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2013年6月25日 (火)

土日の練習

土日の練習を振り返りたいのだが、1日空けてしまうと微妙に記憶が戻ってこない。昨日は一日外出だったので、やや慌ただしかったというのもあるかもしれないが。

土曜日のオレイユの練習では、指揮者から音程についての厳しい叱責があった。自分が記憶する限り、あそこまで声を荒げた事はなかった気がする。

音程をきっかり外さずに演奏するのは言うほど簡単ではない。先週も書いたように、アンサンブルにおける音程は、全体の響きの中に存在する。自分だけがチューナーのようにあっていても、他とあっていなければダメなものはダメなのだ。指揮者の叱責がオケ全体に向けられていたのも、ようはそういう事だろう。

そしてアマチュアだから仕方が無い、が通じるのは、最初のうちだけだ。最終的にはアマチュアであってもそこがアジャストできなければアンサンブルにならないのだから。何回かの練習の間に、そのアジャストのポイントを各人が見つけ出さなければならない。さらにそれができて完成ではなく、その上に音楽としての色を付けていくのが指揮者の本来の役割なのだから、その前で足踏みしてしまうのは確かに腹立たしいだろう。

オレイユの本番は7月末なので、もうあまり時間がない。確かに音程で云々と言っている場合ではないのは確かだ。

一方府中はまだ多少余裕がある。というか、日曜日の練習はまずは「音を並べられるようになるための」練習といって良かった。普段練習できない(自分のような)人間は、こうした機会にきちんと自分の音にしていく必要がある。

しかし、リエンツィはさておき、ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずらについては、まだ頭の中ですら音を並べる事ができていない。自分自身はもともとスロースターターなので、今の段階では正直あまり心配していないのだが、本来ならもっと早い段階で音ぐらいは並べられるようになっているべきではある。

土曜日、日曜日、そして火曜日に練習があることで、楽器を弾く時間は増えたのだが、バランス的には個人的にさらう日をもう1日いれるぐらいあると良いのかもなぁ・・・。

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2013年6月21日 (金)

地力向上のための個人練習

昨日休みをとって免許証の更新をしたのだが、その後はダラダラと過ごしてしまった。どうもこのところダラダラと過ごすオフが増えているな〜と思いながら、そもそもダラダラと過ごすからオフなのであって、何か目的を持って行動していれば、仕事でなくてもそれはオンであり、だとすると問題は「オフが増えている」事かな〜などとくだらない事を考えたりする。

そんな話はさておき、昨日の続きを考える。個人的に最近興味があるのが、いかに自分の地力をあげれば良いだろうかという話だ。アンサンブルを実現する上で、曲にアジャストするのはもちろん大切だが、そのアジャストのための力がなければ、そもそもどうしようもない。

もちろん、アンサンブルのための練習の中で(自然と)磨かれる地力というのはある。今の自分が3つのオケを掛け持ちし、平日練習のオケにまで参加しているのは、半分以上そのためだ。だが、それだけでなく、目的意識を持った地力向上のための個人練習が必要なのは間違いない。

大学時代、トランペットコンチェルトのためにお呼びしたソリストが一泊した際に、2日目の夕方のオケの練習までの間、練習室を用意したことがある。「1日中吹いてたんだよ」とはその時部屋を用意したトランペットパートから後日聞いた話。想像だが、その練習は「その時のソロのための」練習で占められて「いなかった」と思う(というかそこまで話を聞いたような気もする)。

スキーの練習でもそうだが、地力を高めるためのトレーニングは、地道な基礎の反復以外にあり得ないのだ。その積み重ねがアンサンブルにも生きてくる。

先日、府中のミニクラシックコンサートのビデオを見たのだが、はっきり言って自分の音はひどいものだった。音の発音や粒の乱れ、音程の歪み、リズムの不安定さなどなど、それらは曲に対する習熟度ではなく、そもそも基礎となる「楽器を奏でる能力」不足から生じたものだ。

その辺りを高めていくには「アンサンブルの練習」だけしている訳にはいかない。

もちろん、両者の練習を組み合わせることは可能だろう。例えば今回の府中であれば、リエンツィやティルには、半音階が何箇所か出てくる。これを「曲としてさらうか」「半音階のスケールとしてさらうか」という話だ。後者であれば、楽譜にないパターンも含めて練習する訳だが、それは当然曲にも跳ね返ってくる。逆は難しい。

マーラーの10番なら、滅多にない調性のスケールを練習する機会と捉えることができるし、それは新世界の第2楽章などにもつながっていくはずだ。魔笛ならスピッカートの練習として行う方法を考える。大切なのは「曲をさらう」事を目的にしない事だ。それをやったら「ソロの練習」になってしまう。基本は他のバリエーションを考えながらやるということになるだろうか。


・・・まぁいずれにしても最初に必要なのはそのための練習時間を確保することではあるのだが。

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2013年6月20日 (木)

不完全なアンサンブルにおける練習

昨日の続きになるのだが、市民オケが本番直前まで不完全な体制で練習をしなければならないのは避けられない事態として、それまでの間にどのような練習をしておくべきだろうか。

身も蓋もない考え方だが、「個人練習の場」と考えるしかないような気がしている。100人のオーケストラで、1人欠けても不完全なアンサンブルであるのなら、1人の練習も程度の差はあれ不完全なアンサンブルだ。そもそも楽譜は自分だけで完結するように書かれていないのだから、1人であっても、それはアンサンブルの一部なのだ。

ただし、その上で気をつける事はある。アンサンブルにおける個人練習はそもそも「ソロの練習」ではない事だ。

以前、指揮者に「合奏は個人練習の発表をするところではない」と指摘されたことがある。これは言い換えれば、いわゆる1人で練習する「個人練習」が、アンサンブルではなくソロの練習になってしまっているという事だ。ソリストの集まりでは、アンサンブルにならない。

もちろん昨日書いたように、自分でアンサンブルの全体像をイメージできて、1人であってもアンサンブルとして音楽を把握できるならそうはならない。プロの音楽家というのは、言ってしまえばそのための訓練を受けた者ということだ。だが、アマチュアすべてにそのレベルを求めるのは難しい。オーディションでも徹底するなら話は別だが、それができるのは限られた市民オケだろう。

こうした人たちには(自分も含めてだが)、むしろ周りの音をいやでも意識しなければならない状況で「個人練習」をさせた方が効果的だ。それ自体がアンサンブルの練習につながっている。

例えばこうした場合に、非効率だ、という意見がある。弾けない人間が弾ける人間の足を引っ張っているという指摘だ。だが、そうした指摘をする「弾けている人」が、アンサンブルの意味で弾けていたという例は、寡聞にして知らない。そうした人たちの意見の多くは「自分のソロの邪魔をするな」「自分の個人練習の発表の邪魔をするな」であることが多い気がする。

ソロの練習や発表の場であれば、「自分が弾いていない」時間は無駄以外の何物でもないだろう。だが、アンサンブルの練習に無駄などない。自分が弾いていない時にやらねばならないことなどいくらでもある。

隣の人が弾けない時にどう補うか、あるパートが弱い時にどうバランスをとるか、それらはすべてアンサンブルプレイヤーとして考えなければいけないことだろう。もちろん、自分が弾けてないうちは、どうやって弾けるようになるか、弾けないならどうやってアンサンブルを乱さないようにするかを考えるのもプレイヤーの役割だ。

そして、それは究極的には「アンサンブルにおける個人練習」にすぎない。その積み重ねが、最終的なハーモニーを生み出すのであって、個人練習とアンサンブルを切り離していては、いつまでたっても「(別に)練習しておいてください」をやるだけで、アンサンブルとして磨かれることはない。

もちろん、先に書いたように、プロであればそれらの大半はアンサンブルの場に臨む前に済ませておくものだ。だから彼らは短時間の限られた最終調整だけで、アンサンブルを完成させることができる。

アマチュアは、そうではない。だから長い時間をかけて練習し、調整をするのだ。


さて、合奏で個人練習をするからと言って、では「1人で練習する」時間が不要という訳ではない。

個人的に重要だと考えているのは、アンサンブルに向けた「曲の練習」よりも、トータルの技術や対応力向上を目的としたトレーニングだ。実はアマチュアに足りていない本当の意味の「個人練習」はそういう部分であり、楽譜をさらうのはアンサンブルの場でやるようにした方が、トータルでの完成度は高くなるような気がする。

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2013年6月19日 (水)

本番に間に合うのか

今朝は昨日の夜に中途半端になってしまったTweetの続きを考えてみる。

・・・ねるなよ(笑)

本番が近づくにつれ、本当に間に合うのだろうか?と思うことは珍しくない。というか、アマオケでは普通に発生するだろう。個人的な間に合うだろうか(弾けるようになるだろうか)というのは、悩む間があったら練習しとけ、で良いのだが、オケ全体のアンサンブルについては、指揮者でなくとも悩ましいところだ。
(まぁでも指揮者にとって最も悩ましいのは間違いないが。)

経験上(少ないが)、アマオケ、特に市民オケのレベルは本番直前にいきなりあがる事がある。アンサンブルや大学オケでは、おそらくそういったことがあまりない。違いは何かといえば、技量云々以前にそもそもメンバーが揃った状態で練習が出来ているかどうかだと考えている。
(だから大学オケについても、「エキストラに頼らない」オケに限定される。)

これは単純に「上手な人がエキストラで加わるから」といったものでもない。「パートが揃っていないアンサンブルはそもそも不完全なもの」という、もっと根本的なものだ。

指揮者やプロの音楽家、アマチュアでも音楽をよく理解していれば、その不完全さをイメージで補った上で、アンサンブルを完結させる事ができる。が、多くのアマチュア、特に楽器を弾くので精一杯な場合は、そんな余裕はない。それは「先に響きのイメージがあって、その中での自分の役割を自覚しながら演奏する」という本来のあり方ではなく、「耳に聞こえてくる響きにとりあえず合わせて演奏する」というアンサンブルを生む。

もちろん後者がまったくダメという訳ではなく、アマチュアなのだからそうなってしまう限界はある。問題はその時に「聞こえてくる響き」がそもそも一部のパートが欠落した不完全なものである場合だ。それは管楽器のように居ないことで完全に欠落してしまう場合もあれば、弦楽器であっても過不足によって不安定になるという事もある。

アンサンブルの完成度を高める作業というのは、突き詰めればそれぞれのバランスをどう調整するかだろう。極端な話、その中に「弾けない」人が混じっていても、それも含めて全体のバランスをとるのがアンサンブルだ。しかし、バランスを取ろうにも、そもそも不完全な体制ではどうしようもない。

だが逆に、パートが揃い始めれば、そのアジャストは劇的に進むとも言える。本番直前の急激なレベルアップは、多分そんな事情なのだろうと考えている。よく「(最終的に)できるならもっと早くからやろうよ」という意見があるのだが、これは「できるけどやらない」のではなく「揃わないうちはできない」事案のような気がするのだ。

・・・ま、でもだから揃うまではどうしようもないと言っていては話が進まないわけで、それを踏まえた上でどのような練習をしておくかが問われることになる。それはまた後日考えよう。

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2013年6月18日 (火)

iPadを活用する

iPadのホームボタンの反応が悪い・・・

・・・そんな話はさておき、今日は上野の森の練習があるため楽器持ちなのだが、そういう日は少しでもカバンを軽くしたい。

そこで出掛けに一瞬考えた。「iPadを持っていくのと、キーボードを持っていくのと、どちらが良いだろうか?」

もちろん、今日のような日はiPad+キーボードのような選択はしない。iPad「か」キーボード。キーボードはもちろんiPhoneで使うためだ。実際ブログを書く程度ならキーボードさえあれば(ないと流石にきつい)十分可能だ。

結局iPadを選択したのだが、改めて考えると日常的にはiPadは必ずしも必要ないかもしれない。iPadを使うようになる前は、スマートフォン+キーボードでブログを更新していた時代もあるのだ。いや、どこでも使えるようにわざわざ3GモデルにしたiPadさんには申し訳ないんですけどね・・・。

もちろんiPadが役に立つ場面もある。旅行(というかドライブか)の時などは、意外とナビとして重宝していたりする。さすがにこれをiPhoneでやったら危ない。ただ、やはりiPadはカバンからサッと取り出すにはやや大きいし、何しろOSがiPhoneと同じで、画面サイズ以外はほとんど差別化されていない。

iPad miniのコピーに「ミニなのは、サイズだけ。」というのがあるのだが、逆にiPadは「違うのは、サイズだけ」になってしまって、ならではの魅力を見出すのが難しくなってきている(少なくとも自分にとっては)。

もっとも、楽譜なんかを確認しようとすれば、スコアはさすがにiPadが良いかな〜とは思うのだが、正直あまり活用している訳じゃないんだよね・・・。

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2013年6月17日 (月)

今後の練習プラン

この週末は、土曜日は朝から夜まで、日曜日は朝から昼まで練習という事で、楽器を弾くという面では非常に充実していたのだが、流石に少々指が痛い。

・・・で、その練習の振り返りなどをしようと考えていたのだが、朝からFacebookに登録のない端末から不正なアクセス試行があったよーという警告が出たりして、パスワードの変更などをしていたら疲れてしまったのだった。

こうした警告があると、焦って見直したりするのだが、Facebookに限らず、警告を待つ前に定期的な見直しは必須だろう。ついつい後回しにしてしまったり、そもそも登録の範囲が広すぎたり複雑だったりで混乱したりするのだが、改めて考えると様々なところにアカウントとパスワードが氾濫している。

そんな訳で、週末の練習を受けての今後の練習プランは夜考えることにする。考えるだけだから現実に実行できるとは限らないけどね。

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2013年6月14日 (金)

国民の義務

最初にタイトルだけに反応して考えたのは、国民の義務を論じる視点って「他人である国民の義務」を語るばかりで「国民である自分の義務」の話はあまり聞かないよな〜というもの。

【正論】駒沢大学名誉教授・西修 憲法への忠誠は「国民の義務」だ
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130612/plc13061203100005-n1.htm

読んでみてもさほど印象は変わらなかったが、文中で触れられている「近年、憲法は国家権力を縛るものであって、国民を縛るものではないという議論が多くみられる。」とかみ合わないのは、

「自分たちにその義務はない」
「お前たちにその義務はある」

という主張のぶつかり合いだからなんじゃなかろうか、と思ったりした。

「自分たちにその義務はない」
「自分たちにその義務はある」

だったら、もう少し論点は変わってくる気がする。少なくとも国民の義務を論じる場合は「自分の義務」として語るようにした方が良い。他人の問題ではなく、自分の問題なのだ。


余談だが、以前某コーヒーチェーンの人の話を聞いた時に、お客様へのサービスを店員としての「義務(あるいは責任)」ではなく「自由(あるいは権利、どちらか忘れた)」と考えているという話があって、なるほどと思ったことがある。

「国民の義務」というのも、そういったコンテキストで語れると良いのかもしれない。

「子女に教育を受けさせる自由」があります(でも受けさせない自由はないよ)
「勤労の自由」があります(でもしない自由はないよ)
「納税の自由」があります(でもしない自由はないよ)

()を加えてしまうと、形を変えた義務論になってしまうだけなのだが、勤労や納税はさておき、「子女に教育を受けさせる自由や権利」がなかった時代は確かにあるのだ。それに納税だって、例えば奴隷にはその自由はなかったかもしれない(そもそも納税は「市民である」証明でもある)し、勤労というのも「自らのために働く」権利と考えれば、強制労働をさせられる人はそれにあたらない。

「自分に義務がある」という語りは「自分に自由がある」という語りに近い。対して「他人に義務がある」という語りは「他人に自由はない(あるではなく)」に流れやすい。だから反発する。

できればそういう方向での義務論を望みたいところだ。

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2013年6月13日 (木)

音楽のイメージ

昨日は寝坊した・・・。

少し前にもあったのだが、一瞬の二度寝で1時間というのは、どんだけ睡眠が足りてないんだよ、という気がする。とはいえ、まぁたまたま寝不足が重なることもあるよね。

そんなこともあって昨日は書けなかったのだが、火曜日の上野の森の練習を振り返っておく。

「半分は技術かもしれないけど、半分は(出す音の)イメージがないから」とはトレーナーの指摘。個人的に、この指摘はかなり耳が痛い。イメージ通りの音を出す以前に、イメージがなければどうしようもない。

・・・が、それを痛感する場面は結構多い。そもそも自分は音楽のイメージというもの全く持たずに弾いているんじゃないかという恐怖感だ。

もちろんイメージ以前の知識の問題もある。一昨日の練習でいえば、トレーナーが歌う(楽器を弾くのではなく声に出して歌う)際のイントネーションやリズムというのは、感性だけでなく何らかの理論に支えられている。正直そういったバックボーンはほとんどないので、理屈として「歌い方」を組み立てられないのは、まぁ仕方が無いかもしれない。

だが、自分の場合、そうした理屈以外の「感性」の領域でもあまりイメージを持っていないんじゃないか、と思わなくもない。音楽をやりたい!と楽器を弾き始めた人たちの持っている「歌いたい」というエネルギーのようなものが欠けている気がする。あるいは「何かを表現したい」という気持ちが不足しているというか。

まぁそれはそれで一つの楽器との付き合い方だとは思うのだが、それにしても「イメージ」を持っていないな〜とは感じるのだ。だったら逆に徹底的に機械的に奏でる技術があればそれでも良いとは思うのだが、そんな技術もないしね。

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2013年6月11日 (火)

Kindleで本を読む

昨日から社外にお知らせが可能になったのだが、異動する事になった。

次の仕事の業務内容はまだ把握していないので、その点についての言及は避けるのだが(そもそも把握していたとしてもこのブログで触れるような事でもないのだが)とりあえず着任日(7/16)までに関連する本の10冊も読んでおこうかと思いたった。そういう目的意識でもないとなかなかビジネス書には手が出ない。

で、改めてKindleっていいな〜と思ったなど。結局物欲かよ!

物欲云々はさておき、複数のデバイスで読み進められて、マーカーなども共有されるというのは、改めて考えると便利だ。こうなるとKindle Paperwhite 3Gなんかも欲しくなってくる。とはいえ、単機能のデバイスをどれだけ持ち歩くかと言われるとやや心許ないので、実際にはiPad miniのようなタブレットになるだろうか。もっともiPhoneのKindleアプリでも読めなくはないので、まぁ物欲と言ってしまえばそれまでである。

そしてアップルのWWDCというイベントが終了して、iPhone5Sも新しいiPad miniも発表がなかったようなので、さてどうしようかなという次第。必要のないものを無理に買う必要はないが、やや発表待ちの状態になっていたので、改めて手持ちのデバイス環境を検討し直すタイミングではある。

当面はKindleだ。iPhoneでは正直ちょっと小さいが、といって感覚的にはiPad miniでは少し大きい。実はKindle Paperwhiteのサイズぐらいがしっくりくるのだが、本を読むためだけのデバイスだと先述のように多分持ち歩かない。

その辺りは妥協して、iPhoneのサイズに慣れるのが良いのだろう。持ち歩ける時はiPadでも良い訳だし。そうなると、今更ながら5にするかという検討が浮上する(画面もちょっとは大きくなるし)。

今回は発表されなくても、次機種が出たら勿体無い・・・と考えることはあるのだが、考えてみるとそれはそれでまた乗り換えても良いのである。結局のところ一番身近に使うものだし、どこかにストレスや妥協を感じながら使う方が、案外損する側面が多いのかもしれない。

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2013年6月10日 (月)

身の回りのものを整理したい

・・・自分がこういうことを考える時というのは、大体物欲がセットだ。ようするに、古いモノを整理して、新しいモノを導入するというのが目的であって、古いモノを整理するだけで終えるという事は考えていない。

加えてそうした事を考える時というのは、実際には必要性が薄い事が多い。いや古いモノを整理していくという行為は常に続けなければいけないことではあるのだが、少なくとも緊急性はない。例えば転勤のような話になれば、そのような悠長な事は言っていられないだろう。

しかしそんな話はさておき、MacBookにMacBook Air、iPadも2台というのは、やや肥大化している感じはある。使っていないわけではなく、使い分けをしているのだが、それにしたってそもそも使い分ける必要があるのかという話だろう。正直に言うなら、ない。

ないのだが、ではそうですかと明日処分できるわけでもない。特にMacBookに関しては、MacBook Airに移行できれば楽なのは確かだが、BootCampでWindows7をインストールしてあったり、そもそもデータが全部はMacBook Airには移行できなかったり(容量不足)で少々面倒くさい。iTunes内の音楽とビデオで200GB近いというのは、256GBのMacBook Airではかなりしんどい(なので音楽はMacBook Air、ビデオはMacBookという使い分けをしている)。まぁ音楽はともかく、ビデオはすべてiTunesライブラリで管理する必要はないのだが。

そんな訳で、新たな物欲はMacBook Airを11インチにダウンサイズして代わりにディスクは512GBにしてWindowsとデュアルブートにして、オーバーするデータは外付けHDDで管理しようというものなのだった。そんな後付のような理屈で買うわけなかろう。

もっとも、Officeは必要な機会が増えてきたので、できればMacではなくWindowsの環境で用意したいんだけどね・・・。

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2013年6月 7日 (金)

仕事はいかにして成し遂げるものか

この発想をする人は意外と多いと思う。

『「仕事は、成し遂げるもの」と思うならば、「勤務時間そのもの」に捉われることなく仕事をします。なぜなら、「成し遂げる」ことが「仕事の終わり」であり「所定時間働く」ことが「仕事の終わり」ではないから』
ワタミ社内文書入手 渡辺美樹会長が「365日24時間死ぬまで働け」
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/2761

これは本来はこのように捉えられる必要があるものだろう。

『「仕事は、(所定時間内に)成し遂げるもの」と思うならば、「勤務時間そのもの」は常に頭に入れるべき絶対条件になります。なぜなら、「時間内に成し遂げた」ことが「仕事」であり「時間を超えて働く」ことは「仕事」ではないから』

とはいえ、この辺りは役職によってもコミットの仕方が異なってくるかもしれない。

経営者や管理職の場合、従業員や部下が「時間を超えて働いた」事はそもそもマネジメントの失敗を意味している。仕事の成果は本来それを成し遂げた部下の功績であって、上司の功績ではない。マネジメントの功績は、それをオーバーワークやトラブルなく終えられた事に対して発生するものだろう。

よく、仕事の評価において「プロセスを評価する」という事が言われるが、仕事の評価は成果で良いのだ。むしろプロセスの評価が必要なのは、マネジメントの方だろう。そういう意味では、マネージャーが業績で評価され、ワーカーがプロセスで評価されるというのは、実は逆なのかもしれない。

チームとしてあげた業績は、すべて部下の功績として配分され、その部下の仕事をどのように支えたかで上司が評価されるようにする。そうなると、例えばチームの残業時間なども重要な指標になるので、マネジメントにはそれをきちんとコントロールするインセンティブが働く。マネジメントの評価が業績で決まるのだったら、どんな無茶を部下に要求してでも業績をあげようとするのは必然だろう。

冒頭の言葉に戻ると、実はワーカーはこの発想でも良いのだ。時間など関係なく、成し遂げたことで評価されて良い。しかしマネジメントは「成し遂げさせたか」ではなく「所定時間内に成し遂げさせたか」で評価されなければならない。部下に残業が発生した時点で、チームでどんなに業績をあげていても、マネージャーとしては「仕事をしていない」という事だからだ。

部下や従業員がオーバーワークで成し遂げた成果を、自分の功績のように捉えられてはたまらない。マネージャーの役割ってのはそうではないでしょ?

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2013年6月 4日 (火)

アレンジしての演奏

昨日はストラディバリウス サミット コンサートへ行ってきたので、その後のTweetのまとめなど。

今日のコンサートのメインはヴィヴァルディの四季だったのだが、何というか、改めて音楽は自由でそして楽しいという事を思い出させてくれた気がする。なるほどこういうアレンジをする方法もあるんだな、と。
2013年6月3日 21:40:00 HootSuiteから

ん?と思わせるルバートを入れたり、低弦でピチカートのアルペジオやヘミオラっぽいリズムを混ぜてみたり、コル・レーニョやスル・ポンティチェロで弾いてみたり、はてはバルトーク・ピチカートまで登場して、なかなか刺激的だった。
2013年6月3日 21:46:27 HootSuiteから

それに四季という曲は「和声と創意への試み」の名に違わず、改めて聴いてみると、とても実験的で自由な感じがする。まぁその分難しいのだけれど。
2013年6月3日 21:53:18 HootSuiteから

実際、今日聴いたようなアレンジは、オリジナルをきちんと弾けて、原曲に込められた和声と創意への試みをきちんと理解した上でやらなければ、調子っぱずれのカラオケと同じ結果になってしまう筈だ。そういった意味ではとても難しい。でもやってみたい。オリジナルもまともに弾けないけどな。
2013年6月3日 22:07:02 HootSuiteから

ちなみに今日の四季は曲ごとにソリストが入れ替わったのだが、多分アレンジもそれぞれのソリストが考えていると思う。個人的には秋のアレンジの意外感が一番好き。
2013年6月3日 22:12:57 HootSuiteから


遊び心のあるアレンジというのは、それを支える技術や理論がないと、単なる下手にしか聴こえない。そういった意味でアレンジというのはとてもチャレンジングな話ではあるのだが、とても惹かれるチャレンジではある。

・・・アマチュアが手を出せる領域ではないような気もするけどね。

そもそも、ああしたアレンジが持つ「自由さ」というのは、演奏者が気ままに弾く意味での自由ではなく、元の音楽が持つ枠組みを崩さずに変形させる自由で成り立っている。

例えば本来楽譜にない音をアルペジオの形で加えるには、その瞬間における和声だけではなく、フレーズや音楽全体のコード進行に対する理解が不可欠だ。特殊な奏法による効果を加える場合も、それにより奏でられる音楽が、元の音楽の意図を壊さずにむしろ増幅するものである事が求められるだろう。

そういったある種の「計算」があって初めて遊び心のある演奏が完成する。奏者が遊んでいては成り立たないのだ(もちろん楽しんではいるのだろうが)。

今オレイユで練習しているシューマンの4番は、マーラーの編曲版だ。それはマーラーの「遊び」ではなく、シューマンの音楽をより明確に表現する(もちろん「マーラーの解釈におけるシューマン」という但し書きはつくが)ためのものだろう。

結果として遊び心のあるアレンジであっても、そうした原曲に対する理解と、その意図を壊さない配慮は必要不可欠であり、その辺りの理論的なバックボーンが(少なくとも自分には)ないんだよなぁ。

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2013年6月 3日 (月)

少人数のシューマン4番と大人数のベートーベン5番

週末はアンサンブル・オレイユと府中市民交響楽団の練習。火曜日の上野の森交響楽団とあわせて3団体掛け持ちというのは、多いといえば多いのだが、ではそれが少なくなれば練習する時間ができるかというと必ずしもそうとは言えないのが微妙なところだ。
(そして実はもう一つ入ってきそうなんだな・・・。)

土曜日の夜から日曜日の午前中というのは、オレイユと府中の練習が続くのだが、今回はドイツの作曲家が続く。特にオレイユはいつもと違って、何をやっているか分からない感がないので、両団体の練習やアンサンブルの違いというのが際立って面白い。ちなみに上野の森は上野の森で違っているので、なかなか刺激的な経験ではある。

もっとも大きな違いは人数の違いだろう。室内オケに近いオレイユは、チェロは5人だが、ヴァイオリンが3プルトらしいので、これでも多いぐらいだ(全貌はまだよく分かっていないが、弦楽器は、3-3-3-2.5-1.5の模様)。対して府中は運命を倍管の大編成でやるため、弦楽器の編成は、8-7-6-5.5-4というサイズになる(チェロだけ中途半端)。

ところがアンサンブルでは、オレイユの方がより「小さな音」を指揮者から要求される事が多い。これは「少人数でも音が大きくてうるさい」という意味ではなく、より繊細にアンサンブルを組み立てる事が要求されているという事だ。

対して府中はというと、比較するとどうしても騒がしい。何というか、集団としての人の存在感だけである種の喧騒が発生し、それを抑えきれていないような感じがある。言葉は悪いが、緩いのだ。
(この辺りは、初回の譜読みでも70人近く参加がある団体規模にも起因するのかもしれない。上野の森の場合は、最終的には府中に近い規模だが、練習時はそれほどの人数ではないため、また違う雰囲気がある。)

ただ、大人数だから大味で良いかというと(現状はそうなのだが)それで良いという訳ではもちろんない。本来規模に関係なく静寂は保てるものだし、実際本番ではそうなるのだ。

この人数が生み出す喧騒というのは、自身の弾き方にも影響を与えている。そもそもオレイユでは「極限まで音量を下げたつもりでもまだ自分の音が聞こえてしまう」緊張感があるのに対し、府中では「これ以上音量を下げてしまうと自分の音が聞こえなくなってしまう」緊張感がある。

もちろんアンサンブルの理想は「自分の音が溶け込んで聞こえなくなる」事にあるのだから、最終的には「聞こえなくなる」事をめざすべきなのだが、自分の音が聞こえないのに正しい音を出している確信を持って弾くのは難しいものだ。それに府中の場合は「音を出さなくても」そういう状態になってしまったりするので、なおのことバランスをとるのが難しかったりする。

そんな事を考えながら、そうやって否応無しに聞こえてくる自分の音の汚さに落ち込んだりしたのだった。まぁ時々は「ああ、溶け込んでる!」みたいな至福の瞬間もあるんだけどね・・・。

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