« チャリティー番組 | トップページ | マネーボール »

2013年8月13日 (火)

なぜ私は私なのか

知人から「今ここの問い」というのを教えてもらった。

なぜ私は私なのか - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/なぜ私は私なのか

・・・うん、分からない。個人的にあまりそういった問いを感じたことはない。(もっとも、昔感じたことがあっても忘れているだけかもしれない。)

世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてき、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)

なぜこの問いが必要なのか。それが分からない。

極めてみもふたもない言い方をするなら、自分がこの問いの質問者に感じる感覚はこうだ。

「私がこの人物であることには何か特別な理由があるはずだ(それを教えて欲しい)」

そんなものはない。いや、あっても良いけれども、それは私にとって大切なことであって、他人や世界にとってはどうでもよいことだ。

Wikipediaの解説にある「自分と4人の友人」の図は、この状態に「ある特定の地点へと中心化された特殊なあり方を<現に>しているのか?」という投げかけをしているが、客観的に捉えるなら、5つの○すべてについて、各地点に中心化されたあり方が成り立つので、それは特殊でも何でもない気もする。同じあり方が5つ別々に重なっているだけの話で、それは最初の5つの○と何ら変わるものではない。

「なぜ私は私なのか」という問いは、私だけが特別という主観的な視点に立った問いだ。客観的には○でしかない自分を●であると認めたいがための問いとも言える。自分が●なら他人も●なのだが、そうではなく自分が●で他人が○であるためには、自分は何者である必要があるか、という問いにも思える。

まぁWikipediaの記述を読んだだけで分かったような気になってはいけないのだろうが、紹介されているトマス・ネーゲルの言葉が個人的にはしっくりくる。

わたしがトマス・ネーゲルや、他の客観的に特定できる人物に対して、もつかもしれないどんな関係も、偶然で恣意的なものにすぎないと思われる。

偶然と恣意が両立するかはさておき、それらが単なる偶然で「私が私である理由(必然)などない」からこそ、それは自分自身で作り上げていく価値がある。

自分が自分である理由を、客観的必然性に基づいて定義されたいなんて、冗談じゃない。

|

« チャリティー番組 | トップページ | マネーボール »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/22760/57983068

この記事へのトラックバック一覧です: なぜ私は私なのか:

« チャリティー番組 | トップページ | マネーボール »