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2013年9月27日 (金)

余裕というリソース

昨日に引き続き、今日もいつもより1時間ほど早い。しかし今日を乗り切れば・・・いやいや今日こそ乗り切らないと来週も同じ事になってしまうのだ。

昨日はこんなTweetをしていた。

自転車操業のような状態で会議や打ち合わせを乗り切っていくっていうのは、テンションとして高めでもクオリティは下がるしリスクもでかいので、いかに前倒しにできるかな訳だが、その余裕にハイテンションで立ち向かう事ができない。分かっていても、できない。
送信 9月26日 23:52 From HootSuite

というか、一時的な余裕リソースを目の前の事案のクオリティ向上だけに投入しすぎなのだろう。結果その後の事案にしわ寄せがいってしまう訳だ。その辺りのクオリティの割り切りが重要なのかも。
送信 9月26日 23:54 From HootSuite

ちなみにTweetはしなかったが「とはいえ180人の前で話すとか、役員の前で話すとかとなれば、目前の事案に目を奪われるのは仕方ないよね・・・」と言い訳に続く予定だったのだが、時間切れとなったのだった。

さておき、仕事を進めていく中で(仕事に限らないが)一時的に過密になる一方で、余裕がふっと生まれることはある。もともとスケジュールというのは波があるし、粗密なものだからだ。

問題はそれをなくす事ではなく、それをどう生かすかだろう。

Tweetをしているように、自分の場合そのリソースを目前の案件のクオリティ向上だけに投入しすぎる傾向が確かにあるのだろう。時間があるなら少しでもクオリティを上げたいし、目前に迫っていれば他の事は考えたくない。

しかしそれがその他の案件への遅れを招く。結果として、常に目前の案件に全力投入して、先の見通しもなく迫ったハードルを超えるので精一杯という状況に追い込まれる。

クオリティへの割り切りというか、先の案件に対する見通しの認識が甘いのかもしれない。目前の案件に全力投球するのは、言ってみれば「楽」なのだ。余計な事を考えなくて良いから、白黒つけたい脳にとっても安心する。目の前の危機に対応しつつ、先の事を考え、時として優先するというのは、いわばグレーに近くて不安が生じる。

実際、良くない事だがテンションは高い。目前の状況を放置して先の案件に意識をはせるのはどこか落ち着かない。その逆だって長い目でみれば同じ状況なのだが、短期的には全力を出している自己満足感と安心感がある。

その辺りを上手く調節するスキルを身につける必要があるのだろう。今回のような力技がいつでも通用するとは限らないのだから、そうしていかなければどこかで破綻してしまうのだ。

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2013年9月26日 (木)

歓喜にいたれ

今日はいつもより1時間ほど早いのだが、それはもちろん仕事のためなので、のんびりカフェとかでブログを書いている時間はない。まぁそもそも6時台は24時間営業系の店しか開いてないのだが。

で、電車の中で書くかはやや迷いどころだったのだが、とりあえずと思って書き出してみた。この時点では確たるネタは無い。

今日は(仕事は仕事として)府中の定期演奏会に向けた実施要綱の最終案を作成しなければならない。毎回少しづつ試行錯誤をしながら、より本番がスムーズになるような実施要綱をめざしているのだが、これがなかなか思い通りにはいかない。

何でって、多分それは作るので精一杯になってしまい、実際に読んでもらう、使ってもらう段階へのフォローをしていないからだ、多分。

そもそも演奏会そのものの運営は、数名の分かった人間が全力で動けば何とかなってしまうものだ。市民オケは学生オケなどと違って大幅にメンバーが入れ替わるという事が無いので、毎回大量に「勝手の分からない人」が発生するわけでもない。

だから実施要綱のようなものに多大な労力を割くよりは、そういうチーム作りに力を注いだ方が良いのかもしれない。

一方で、そのやり方で進めていると、突如チームのメンバーがいなくなったらどうするのかという危機意識や、何で自分たちだけ毎回そんな事をしなければならないのかといった不満感がくすぶったりする。

そこで実施要綱のようなものを作って、何とか多くの人が関わる状況を作ろうとしたりする。結果として状況をよく分からない人が加わって混乱する場合もあるのだが、それは許容しなければならない。

とまぁアマオケの演奏会にはそんな裏事情もあるんだな~と思いながらぜひご来場ください。


府中市民交響楽団第68回定期演奏会
第49回府中市民芸術文化祭参加公演

歓喜にいたれ

2013年10月13日(日)14:00開演/13:30開場
府中の森芸術劇場 どりーむホール
全席自由 無料公演
*小学校入学前のお子様のご入場はご遠慮ください

指揮:田部井剛

曲目
ワーグナー:歌劇「リエンツィ」序曲
R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調「運命」

主催:府中市・府中市民芸術文化祭実行委員会
主管:府中市民交響楽団
協力:点字ボランティアてまり

チラシの曲紹介もおすすめですので、ぜひホームページもご覧ください。
http://www.fuchu-cso.org/02en/index.html

「歓喜にいたれ」という副題の由来も紹介されています。

みなさまのご来場をお待ちしています!

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2013年9月24日 (火)

音源からの再現と楽譜からの再現

春の祭典の練習が始まった。まだ感じがつかめない。まぁそう簡単につかめれば苦労はしないのだが。

こうした曲で難しいのは、多少なりとも各人の中に「聞いた記憶」が残っているため、リズムの取り方にそうした音源の影響が出てしまう事があるからだ。ほとんど聞いたことのない曲に楽譜だけで取り組む場合はそうした問題は起こりにくいが、有名な曲にはそうした事がつきまとう。

変拍子などを使わない曲においてもそうした傾向は出るのだから、これがややこしい拍子を持つ曲だったりすると大変な事になる。ただでさえ変拍子の曲はリズムを共有するのが難しいのに、そこに複数の音源の影響が入り混じる。

とはいえ、問題はその先で、そこで「何となくあってしまう」事が実は結構リスキーな所だったりする。一旦楽譜に立ち戻って組み上げる必要がある所を、何となく仮組みで上手くいったからそのまま・・・みたいな感じだろうか。そもそもが、音源の感覚に頼っている間は音楽としては仮組みなのだ。それが不要とは言わないが、ある程度慣れた所で、一旦リセットして楽譜から本組みするという作業を経ないと、音楽として完成したとは言えないだろう(演奏としての上手い下手はともかく)。

もっとも、そうしたリスクは春の祭典のような曲よりも、府中の運命や上野の森のブラ4の方がむしろ顕著に出るだろう。正直、運命にはそうしたリスクを感じなくもない。自分の中にも、楽譜からではなく音源から再現している部分が確かにある。

単なる練習不足といえばそれまでだし、それを補う上で音源からの再生は否定できるものではないのだが・・・。

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2013年9月20日 (金)

共有地の悲劇

今日は少々早めに出社したいので、マーラーの10番を聴きながら電車内で書くなど。

共有地の悲劇や公共財のジレンマ(多分同じ意味だと思うが)は、人間社会だけのものではないというのは興味深い。

@GoroSASAKI: この話面白い。「助け合い」はニュアンスが少し違う気もするが、協力し合い社会を形成する個体と自己を優先しコミュニティにタダ乗りする個体が何故発生するのかは興味深いテーマではある。 / “琉大研究チーム:働かないアリは長生き- 毎日j…” http://t.co/do4DXOG7tT

何故なら、本能というプログラムで動いている昆虫(偏見?)においてこうした事が発生するという事は、公共財ジレンマが倫理やモラルのようなものではなく、もっと冷徹なメカニズムで発生しているのではないか、という事になるからだ。

遺伝的に異なるという事は教育や成育環境といった後天的なものとは違うという事だろう。個人的に共有地の悲劇は社会教育的な要素が関係していると思っていたので、この話は意外だった。マナーとかルールとか、社会を維持するためには必要だという理屈とか、そうした話とは無関係に、集団にそうした個体が存在しているのであれば、そのメカニズムは何だろうか。

記事にあるように、個人的に興味があるのは「何故タダ乗り個体が発生するのか」ではなく「何故(自らの寿命を削ってまで)公共財を作ろうとする個体が発生するのか」だ。そこに特定の種において社会が形成されるメカニズムの根本があるような気がする。

あるいは個体ではなく種の本能みたいなメカニズムなのだろうか。でもだとすると逆に自己を優先する個体の発生メカニズムがよく分からなくなったりする。

それにしても、共有地にタダ乗りする発想が「育ち」ではなく「生まれ」で生じているというのは、ヒトを見る目が変わってしまいそうだ。

続きを読む "共有地の悲劇"

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2013年9月19日 (木)

フロンティアとしてのネット

昨日こんなtweetをした。

デジタルネイティブというのが誕生し、彼らが呼吸するようにネットを使うようになるというのは、そうしたネットをビジネスのパワーとして活用する発想を失わせていくという事なのではないだろうか。携帯電話が当たり前になれば、それはビジネスに普通に使われる一方で、新たなビジネスを次々と生み出すプラットフォームではなくなるように。

もちろん、現実世界同様、広大なネットの世界にもまだまだフロンティアはあるだろう。でもそれは当たり前のように目の前に広がっているものではなく、それを求めて探しまわる必要のある領域になりつつあるのかもしれない。

・・・ま、自分は普通に使えればそれで良いのだけどね。

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2013年9月18日 (水)

運弓の矯正

歯の疼きは絶賛継続中。昨日の午前中まではバファリンが効いたのだが、その後はあまり効かなくなった。今日早く帰れそうならやっぱり歯医者に行こう・・・。

昨日は上野の森の練習。相変わらず弾けていない。個人練習の形での譜読みをやっていないのだから今の段階では当たり前といえば当たり前なのだが、府中でもそうだがしばらく回を重ねるとそれでも弾けるようにはなってくる。今はまだ次の音が予想できないのだ。

それはさておき、昨日練習しながら、矯正したつもりでいた右手の弓の持ち方が以前に戻ってしまっている事に気づいた。というか、そもそも矯正できていないまま、その意識を維持するのを忘れていたのだろう。弓をコンパクトに使う事といい、無意識にできるまでは徹底して意識していかなければ、矯正はおぼつかない。

意識ができなくなるのは、楽譜を追いかけ、左手の運指だけで精一杯になるからだ。実際のところ、そうやって楽譜をおいかけているうちは、無意識の領域でもある程度コントロールできてしまう(と現実には勘違いをしている)右手への注意はおろそかになる。アップボウやダウンボウ、スラーといった指示に反射的に対応しているだけで、「次の音は何でどの指で押さえるか」といった左手のような頭の使い方はしていない。

だからこそ無意識でもできるような反復と刷り込みが必要なわけだが、そこまでは意識的に行う必要があり、一方でその余裕がないというのがジレンマになるだろうか。

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2013年9月17日 (火)

音楽的な話を技術的な話に分解する

久しぶりに奥歯が疼く。この歯の疼きが毎回厄介なのは、頭を中心とした歯以外に症状が出ることだ。今回は喉と耳と頭にきていて、唾を飲み込むたびにズキンと響いて集中できない。そしてなにより一番厄介なのは、痛み止めで対処しながら疼きが止まるの待つ以外方法がないことだろう。

・・・という話はさておき、この週末は府中の合宿だった。2日間みっちり・・・というほどの練習時間ではないのだが、やはり集中してまとまった時間が取れるのは大きい。難点は全員が参加できる訳ではないので、どうしても参加者が限られてしまう事だろう。

今回のプログラムにおける練習では、心なしか音楽的な要素というか、気持ちというか、とにかく技術的ではない部分の指導が多いように感じている。逆に技術的な要素に分解するのはこちらに任されているとでも言おうか。もちろん「技術的には・・・」という具体的な解説に踏み込む場合もあるのだが、そこまでは言わない指示も少なくない。

もちろんそれは悪いことではなく、その指示から音楽を奏でる事ができるようになれば、さらなるレベルアップになるだろう。が、練習しながら勉強不足を痛感するのは確かだ。しかもその不足を補うような勉強は実際はできていない現実がある。

ようするについていけていない。

「その時は」何度か繰り返すことでできるようになる。ただ、3回5回と繰り返す中で、技術的に何を変えて弾き分けて、それによってどこが評価されてどの弾き方がOKになったかという事が分解できていないのだ。だから再現性がない。つまり偶然できただけで、同じことを再現するのも偶然に頼るしかない事になってしまう。

よく「忘れている」と評されるのだが、実際にはもう少したちが悪いのだ。なにしろ偶然できただけなんだから。

その辺りをどのように解消していくかは、もう少しテクニカルな要素をどれだけ意識できるかにかかっている気がする。指揮者が音楽的な話をしている時に、それはそれで受け止めつつ、いかに技術的な話に分解していくかが課題ということだろう。

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2013年9月13日 (金)

ブランドとは何か?

ブランドとは何か?

ブランドとは識別記号である。
同じような商品が複数ある時に、それが誰の手によるものかを識別する。

ブランドとは知覚価値である。
そのブランドを目にした時に、何らかの価値が知覚(想起)される。
あるいは何らかの得たい価値を思い浮かべた際に、そのブランドが想起される。

ブランドとは理念である。
企業、消費者問わず、関わるすべての人たちの間で実現したい姿を共有する。
企業は生産やサービスの提供を通して、消費者は消費を通して、その実現に向けて行動する。

最初の2つは一般的な話だが、3つめは少々大げさな感じかもしれない。
そもそも、3番目は「ブランド」という言葉で括るには大きすぎる気もする。

最初の2つが個別の商品やサービスにおける「ブランド」の話だとすれば、3つ目は企業そのものの「ブランド」の話だろう。

それは言い換えれば、企業の理念でもある。ブランドという言葉を使うまでもなく、企業は何らかの理念を持ち、その理念を実現、あるいは体現しようとする。そこには顧客の巻き込みは欠かせないし、最終的にそのインパクトは社会全体に及ぶものになる。

その企業の理念に基づいて、個々の商品やサービスのブランドは形作られる。そうすることによって企業のブランド全体が一貫性を持った形で統合される。

結局のところ、ブランドというのは、識別記号や知覚価値はきちんと備えつつも、企業の理念を(部分的ではあっても)体現するものでなければ意味がないのだろう。

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2013年9月12日 (木)

スイッチ

昨日は近隣の事業所へ直行のため、朝ブログを書かなかったのだが、夜に書くかな〜と思いながら、帰ったら何もしなかったのだった。考えてみると、本当に家では何もやらない。厳密には発信とか作業などをしない。せいぜいちょっとインプットをするぐらいで、それは見ているだけってことだ。

別にそれが問題といった訳ではなく、ようはスイッチが切り替わってしまうのだろう。だから平河町ライブラリーに行くとか、タリーズに寄るとか、帰らないことでスイッチを切り替えずに作業を続けるようにする。そのかわり、帰ればぷっつり切れる。よほどの事がなければ(この間はたまたま帰ってからもやることがあったが)、その日はそれでお終いだ。

それはそれで切り替えの方法だから、ようはそうしたくない時は「帰らない」という事が重要になる。そのためのオプション(作業場所?)をどう確保するかだ。

平河町ライブラリーは最も効率の高いスペースなのだが、ちょっと困ったことに来月から事務所が変わって(異動ではない)少々遠くなる。時間や交通費など、ロスが大きい。これは契約をどうするかという問題にも関わるのだが、今の状況だと契約を切ってしまうと、再開するのは難しいという問題もある(会員の門戸が狭くなっているためだ)。

まぁその辺りは少し状況を見ながらという事になるのだが、いずれにせよこのところスイッチが切れる時間が少し以前より早くなっている気がするので、その辺りは改善していきたいものだ。

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2013年9月10日 (火)

分解せずに聴く

日曜日の分奏の練習録音を聴いた。なるべく録音をするようにはしているのだが、なかなか聴く機会がない。ただ、楽譜がある程度体に入ってくると、プロの演奏よりも練習録音の方が曲の理解の助けにはなったりする。問題点が耳につくからだ。

正直なところ、録音を聴くとまだ惨憺たる感じがある。

それはさておき、録音を聴きながらふと思ったのは、自分はどれだけ演奏中に周囲の音を聴く事ができているだろうかという事だ。それなりに合わせているつもりなのだが、録音だと一目瞭然にできていない事が分かる。

その時に必要だと思うのは、自パートも含めた個々の音を分解せずに和音として聴けるかどうかだ。特に演奏中はこれができていないように感じる。録音でさえ、無意識に自パートの音だけを拾って聴いてしまっている。楽譜に慣れ、弾けるようになるほどそうした傾向が顕著になるようだ。

必要なのは逆の意識だろう。アンサンブルが成り立つためには、自分の音、自パートの音を全体の響きの中に溶け込ませなければならない。ソリスティックに奏でるような場面はさておき、そうではない場面においては、個々の音に分解せずに全体の響きを捉える必要がある。本当にハモった時には、自分の音は聴こえないのだ。

これが出来ない。

そもそもハモっていないという可能性はさておき、沢山の音が響き渡る中で自分の音や自パートの音を捉えようとしてしまうのは、ある種本能的なものではあるのかもしれない。そうした自己のモニタリングが一方で必要なのも確かだ。が、最終的には「自分の音」という要素を排除して「全体の音」を捉えられなければ、アンサンブルにならない。

何度か書いている気がするが、これは個人の練習では身につかない感覚だ。だからこそ、アンサンブルの練習の中では、意識的にそのように聴いていく事が必要なのだろう。

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2013年9月 9日 (月)

会議の段取りと仕切り

自分自身の目下の課題の一つが、事務局として会議の段取りと仕切りをいかにうまくやるか、という事なのだが、そもそもあまり会議自体に参加の経験がないので、「上手な段取りと仕切り」というものの実感がわかないという問題がある。

それだけでなく、事務局と参加者とでは、全然立場や(会議の)捉え方が違うというのもあるだろう。参加者としてその会議に貢献する心構えと、事務局としてその会議に貢献する心構えは違うような気がするのだが、後者について自分の中で整理ができていないのだ。

一番実感としてついていけていないのは、「参加者をその気にさせる」という姿勢だ。参加側から考えた時に、事務局にその気にさせてもらわなければならないような参加者はそもそも会議にいらないんじゃないか的な感覚があり、事務局としてそうしたやる気を仕切っていくような感覚が持てない。しかし一方で、事務局として参加してほしい参加者が常に参加意識を持っているとは限らないというのも理屈としては分かる話で、言葉は悪いがなだめすかしてでもその気にさせるという姿勢も分からなくはない。

もっとも、それ以前にそもそも自分はその会議の意義目的をまだ良く理解していないのかもしれない。なんとなく前任者から引き継いだだけで、どのような位置づけで何をしていく会議で、参加者に何が求められ、事務局として何が必要かという事を突き詰めないままに、ただ「上手な段取りと仕切り」をしようとしているのではないか。

・・・と、このエントリーを書きながら思いついた。もちろん目的などは聞かされているのだが、与えられたもので自分のものになっていないと考えると、今の状態がしっくりくる気がする。

そもそも上手に段取りと仕切りをする、という発想自体、会議の目的とはかけ離れたところに目標を置いている気がしなくもない。

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2013年9月 6日 (金)

引き継ぎ

最近になって気づいたことに、自分が前任者から受けた引き継ぎは仕事のやり方に関するものが中心で、仕事そのものについては引き継げてないのではないか、という事がある。

仕事の進め方や作法についての引き継ぎが不要という訳ではもちろんないだろう。でも、さてではその進め方で実際に仕事を進めようとすると、どこまで進んでいてどこを目指しているとか、関係者や関係する組織はこうでその役割分担はどうなっているとか、その辺りが自分の頭の中に入っていない事に気づくのだ。

本来、担当者が変わるというのは、どこかやり方も変わる事を示している。それが変わらないなら人を変える必要もないからだ。一方仕事そのものは止めるわけにはいかないから、やり方はさておき、引き続きしなければならない事は引き継がなければならない。仕事のやり方の引き継ぎというのは、後輩への指導と同じで本来「引き継ぎ」ではない。

これは前任者のというよりも、むしろ引き継ぐ自分の問題だろう。やり方を聞いて何となく満足し、実際に何を進めなければいけないかへの注意を怠った。多くの仕事には付随するドキュメントがあり、それをきちんと読み込んでいれば、属人的にドキュメント化されていないであろうそれ以外の何を引き継げば良いか気づけたはずなのに、それをしなかった。

これまで自分はあまり「仕事の引き継ぎ」というのを経験していない。配属される部署の多くが「新しい」仕事を始めるような部署だったからだ。そのため、今の仕事でも似たようなスタンスで臨んでしまったのかもしれない。

その辺りを少し意識しながら、もう一度やるべきタスクを見直してみよう。何処かスムーズでないのは、引き継ぎの必要な箇所が欠けているからかもしれない。

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2013年9月 5日 (木)

考え方の浸透を仕掛ける

ある考え方、方針を組織内に浸透させていきたい場合、どのような方法が効果的だろうか。
少なくとも、一度説明すればOKという事はないのは間違いない。

一番シンプルなのは、業務として仕組み化してしまうことだが、内容によっては難しい場合もある。そもそも仕組み化というのは、ある程度浸透した後で、それを維持継続するためにあるものだ。最初の一指しとしてはあまり良い手ではないように思える。

説明会で話を聞く。そこまでは良い。問題はそれが日々の仕事を変えるまでのインパクトを与え得るかだ。説明会の内容自体に凝る事はできるが、普通に考えると、それだけで変われる人はほんの数パーセントだろう。

加えて、その時には何らかのインパクトがあったとしても、すぐに日々の業務に押し流されてしまうのが常だ。だからこそ仕組み化し業務に組み込むのが最も有効的なのだが、今のところうまいアイデアがない。しかもあまりやりすぎてしまえば、浸透させたい考え方がマニュアル化してしまい、本来期待したい、そこからの創意工夫のようなものが生まれなくなってしまう。

一つ思いついたのは、少人数のワークショップを積み重ねる事だ。

説明会のインパクトが弱いのは、大人数で一方的に聞くだけのために、受け身になってしまうからだ。考え方を浸透させるというのは、実際にその考え方を各自になぞってもらう事が必要だが、そうした現象が生まれにくい。

少人数で、各自が考えを述べるようなスタイルになれば、自ずとその事について考える事が必要になる。その積み重ねが理解を生み、行動を変える・・・のではないか(実際には行動を変えるまでにはもう一押し必要な気もするが)。

課題は、そのワークショップが、日常の業務とかけ離れた研修的な位置づけに陥らないようにする事だ。目的は日々の仕事へのフィードバックなのだから、ワークショップに参加しました、楽しかったです、明日から普段の仕事に戻ります、では意味がない。

歯止めとして考えられるのは、上司によるフィードバックとそれらのアウトプットの公開だろうか。さらにそうしたアウトプットの次のワークショップに生かすような蓄積をして、一度終わってからも進化させていくことが可能になれば、多少なりとも一過性にならないような仕掛けになり得るかもしれない。

説明会をやっただけ、ワークショップをやっただけ、では意味がない。だけで終わらせないような仕掛けが必要なのだ。

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2013年9月 4日 (水)

表現としてのテンション

このところ週に一度以上は発生している気がするが、今日は少し早めに出社したいので電車内でブログを書く。

昨日の上野の森の練習はベートーヴェンを2曲。レオノーレの3番と交響曲1番で、府中の運命といい、このところややベートーヴェンづいている。年末には第九もあるので、かなりの密度だ。

ベートーヴェンは、楽譜を読むのに追われるという事は少ないのだが、逆に楽譜を追いかける事が要求される感じがある。もちろんどんな曲でもそうした事は必要なのだが、なんというかそうしないとらしさが出ないような感じなのだ。

例えば府中の運命は、音は並ぶようになってきたのだが、当初の(楽譜に追われる)必死さが薄れてきて、逆にエネルギーが落ちてきている。熱意というか、気迫というか、そういったパワーが薄れ、安定というか(いや安定は必要なのだが)、落ち着きが出てしまっているのだ。そうすると第一楽章などは、迫力に欠ける気分に(弾いていると)なってくる。

テンションの低い、何となくつまらない感じの演奏になってしまうのだ。

もちろん本番は別の形でテンションが上がるのだろうが、できるのであれば、そうした状況環境には左右されずにベートーヴェンらしいテンションを生み出せるようになりたい。

上野の森は、まだまだ譜読み中の感じもあり、そうした意味でのテンションの高さは持てていると思うのだが、楽譜が読めてきて、気分としてのテンションが落ちてきた時に、いかに表現としてのテンションを保ち続けられるかが課題になってくる気がする。

それができるようになれば、一皮剥ける事につながるだろう。

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2013年9月 3日 (火)

「現実を説明する」のがブランド?

ブランドに対する考え方や知識というのは、どの程度一般的なのだろうか。
その辺りの距離感が分からなくなる事がある。

ナレッジマネジメントやCSRは、考えるまでもなく「まだ一般的には知られていない」という前提だった。だから話をする時は、相手はその事について知らないものとして、基本的な部分から説明をするスタンスで進める事になる。

ブランドの場合、そこまで知られていないということはないだろう。一方で、どこまで理解されているかといえば、それほどでもないような気がする(自分も含めて)。むしろ、最近のCSRがそうであるように、中途半端に人それぞれの理解がバラついているというのが実態ではないか。

というか、元々はっきりこうだと言えない世界なのだろう。その辺りは、学問的な概念が先行し、言葉としての定義におおよその起源があるCSRと異なる。ブランドは実体が先行した概念だ。その解釈、理論、定義には諸説様々あるというのが現実で、そうした実体を理論が追いかけることで成り立っている。

そういった意味では、ブランドの世界こそ、ブランドという言葉を先行させて考え方を説明していくことを避けなくてはいけないのかもしれない。常に理論が現実を追いかけるのがブランドの世界であるのに、理論としてのブランドを先行させて現実に追いかけさせるというのは、何だか微妙な感じだ。

ブランドという言葉には、中途半端に分かったような気分をもたらし、現実に霞をかけてしまうリスクがあるのではないか。

ある商品ブランドを強化すると考えた時に、実際にやらなければならないことは、ブランドという言葉とは直接関係ない日々の仕事だ。その仕事の精度がブランドの価値を向上させるのは確かだが、ブランドのために仕事の精度をあげる訳ではない。精度を高める方向性はもちろん必要だが、そこに「ブランド」という言葉は必ずしも必要ない。

CSRは「現実を変える」ために生み出された言葉であり概念だ。企業活動はかくあるべきだという理想を示し、その方向に活動を変えていく原動力とするためのものだ。
対してブランドは「現実を説明する」ために生み出された概念なのではないか。企業が活動を進めた結果、評価されたのは何故か、その理由を説明する根拠として生み出されたものではないだろうか。

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2013年9月 2日 (月)

再設定

MacBook Airの再設定は大体終了した。

試行錯誤しながら都合4回ぐらいセットアップを繰り返したのだが、最終的には1ヶ月ほど前のバックアップから環境を再構築し、バックアップの重要性を改めて認識する結果となった。
もっとも、バックアップから環境を再現したということは、ゴミ(というのは恐縮だが、ようは不要になっているがそれを認識できていない)のようなファイルなんかも多分に再現されているという事だ。

その辺り、真っ新なままから一つひとつセットアップしていくのとどちらが良かったのかは分からない。

そして今回の場合、この後Windowsを使えるようにする作業が待っている。ディスクの容量を増やしたのはそのためでもあるのだから、これはやらなければならない。そこにOfficeをセットすれば、これまで微妙に悩まされてきたファイルの互換の問題などもクリアされるだろう。

そんな訳で、完全に使えるようになるまでには、あと一息である。

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