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2013年10月30日 (水)

自由だ

昨日は知り合いにチケットを譲っていただいたので、ヨーヨー・マのソロ・リサイタルに行ってきた。サントリーホールの大ホールをほぼ埋め尽くす観衆に、ソロで音を響かせるのだからさすがといえばさすがな話である。

ちなみに中央2列目というとてつもなく良い席で、本人の息遣いが聴こえてきそうな場所からじっくり見させて(聴かせてというよりも)もらった。

まず一言で言うなら・・・自由だ。

自由というか、このクラスになると弾く姿勢とか関係ないんだなという感じで、左肩をやや下げた背もたれに寄りかかるような姿勢で、何というか自分であれば気合のキの字もなく遊びで弾いている時のような雰囲気だった。時々身を乗り出すようにして弾くのだが、姿勢を正すような感じではなく、すぐに元の姿勢に戻る。

眼鏡の奥の目は細く、もしかしたら閉じていたのかもしれない。実際楽譜もあったのだがあまり見てはいないようだった。プログラムは、バッハの無伴奏の4-6番と現代曲の組み合わせで、特に無伴奏は楽譜など見る必要はないのだろう。

左手も肘は低めで(そもそも左肩が下がっているのでなおさらそう見える)、よく言われる「ポジション移動のしやすい」肘を上げた姿勢ではない。それなのに驚異的なハイポジションを軽々と弾き、移動も滑らかで淀みがない。ハイポジションでも姿勢は前のめりにはならず、後傾姿勢のままだ。もっとも音量を出そうと思ったら、前のめりではなく、むしろ引いた方が良いとは聞いたことがある。

後傾姿勢についていえば、横からは見ていないので定かではないが、楽器をエンドピンと足だけで支えていて、胸は当たっていないようにも見えた。考えてみると、そうやって楽器と体の接点が少ない方が、楽器本来の響きが出やすいなんて事があるのかもしれない。ただ、そんな弾き方が自分にできるかといえば、とても無理だ。

そして右手の動きは美しかった。今矯正しようとしている持ち方に近い持ち方で、どのように弾いてもそのポジションが崩れない。どの程度力が込められているのかは定かではないが、折れよとばかりに力任せに弾くのとは違って、とても滑らかで余裕がある。音を出すための力の入れ方からして根本的に異なるのだと思わせる。(もちろんそれはプロとアマの違いでもあるが。)

演奏は・・・とても良かったのだが、身震いする、というほどでもなかった。多分楽器の音が直接聞こえてもおかしくない距離で、純粋にホールの響きを介した音ではないからかもしれない。実際、途中で2階席など遠い距離で聴いてみたいと思ったのも事実だ。

それにしても・・・バッハの無伴奏は良い曲だ。何とか弾けるようになりたいなーと改めて思ったのだった。そのためには・・・ま、最低限練習するしかないんだけれども。

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2013年10月29日 (火)

雑感

仕事の内容についてアドバイスが欲しい時に、仕事の進め方についてアドバイスをもらうと、正直イラっとする。こちらはその進める内容の手掛かりこそが欲しいのだが、まぁ相手としてはそこが気になるという事で仕方がない。自分の欲しいアドバイスを他人に期待してはダメということかもしれない。

朝の電車で座れるようになったので(各停だからだ)、その時間にブログを書いてみようかと思い、書き始めてみたら思った以上にキツイことが分かった。この時間はまだコンタクトをしていないのだが、膝の上に置いたiPadの文字が読みにくい。少しかがめば何とか読めるのだが、その姿勢はその姿勢で辛いものがある。

朝の時間の基本的なパターンはまだできていない。というか、基本的には会社に行くしかないわけで、行けばいくらでもやることは生まれるのだ。やらなければという焦燥感に囚われるといっても良い。あまり良い状態とはもちろん思わないが(仕事は追われるものではなく追うものだ)その辺りは立て直しができていない。目の前の緊急案件を自転車操業で乗り越えているような感じだ。

しかもその割に個々の処理速度が上がっていかない。考え悩むことに時間を割いてしまうのは自分の悪いくせだ。

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2013年10月25日 (金)

台風を見据えても外出する

朝の段階で東京では台風の影響はほとんど感じられないのだが、西日本の様子や警戒を伝えるニュース番組などを見ていると、帰る頃に混乱が生じた場合、またぞろ社畜論者とかが蠢き出すのだろうな・・・などと考えてしまったりする。

個人的には、在宅といった形でリスクを回避できるならそれをすれば良いと思うし、それをする人に対して何かを感じることはないのだが、それをしない、できない人を揶揄したいとも思わない。というか、何故そこでそういった人たちを笑ったり、時に敵意に近い感情をぶつけられるのか、その心の動き自体が理解できなかったりする。他人に関心がないといえばそれまでだが。

もちろん、「自分に対して」怒りを抱くのはいくらでもやれば良いし、自分自身の判断の甘さを自虐的に嘲笑したって良いだろう。でもそれと他人をどうこう言うことは別の話だ。会社に対して不満をぶつけても良いが、それが解消されたら自分の働き方をどう変える必要があるかは想像した方が良い。

さて、今日は外出の予定。会社からは無理ないように指示が出ているが、必要だと思って出かけるのは自分の判断だし、その結果起きうることに対しても覚悟はしておこう。それなしで混乱に巻き込まれるのは確かに問題だろうが、そうした人はそんなにはいないと思うし、というかそうした人たちだけがそうするのだったら、ぐんと出かける人が減って混乱になんかなりっこない気もする。

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2013年10月24日 (木)

物欲

iPad miniにRetinaモデルが発表されたということで、またぞろ物欲が蠢き出すなど。ただ、実のところはRetinaよりも128GBという容量に興味を惹かれる。

それなら何とかiTunesライブラリの音楽をすべて同期させられるからだ・・・多分。

本来ならそれはiPhoneにこそ求めたいものではあるのだが、それはそれとして、iPad miniならそれでも良いかもしれない。

問題はさらに買いましても使わなくなるだけということだ。特にモバイルを考えた場合に、iPadとiPad miniを持ち歩くのは意味がない。通信環境を両方で持っていても仕方ないので、考えられるのは、現行のiPadの3G契約をiPad miniに切り替えて、iPadは・・・どうするかな。

iPhoneも5sに機種変更した時に、旧機種の4をどうするかという課題が残っているのだが、使わないガジェットを持っていても仕方ない気もするし、下取りか、販売か、譲渡か、そんな何かを考えた方が良いのかもしれない。

さらに実際にiPad miniにする場合は、Kindleをどうするかという事も考える必要があるだろうなぁ・・・。

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2013年10月23日 (水)

トップサイドの役割

先週引越しをした事務所は、自宅には近くなったのだが、各駅停車しか止まらないという駅の性格上、乗り換えの回数はむしろ増えている。特に帰りは次の駅で急行や快速に乗り換え、その次の駅で特急に乗り換えるという2段階乗り換え?が必要だ。

朝は面倒なので各駅停車のままという選択をしようと考えているのだが、それなら帰りもそれで良いのでは?という気がしてきたので、せっかく座れる各駅停車に揺られながら、ブログを書いてみる事にする。お題は昨日の練習の、もとい飲み会の振り返りなど。

トップサイドの役割はと聞かれて、トップサイドの経験などないのに偉そうに講釈を垂れたりした。それはつまり、トップとして何を求めているかという話だ。

強調したのは、とにかく自分の思った通りに楽譜に書き込んでしまえ、という事だろうか。その状態に慣れてしまった身としては、いざ自分が書く立場になると書けなくて困ったりするのだが、個人的には何でも書いてもらえるとありがたい。

それは、今の指揮者の指示はパートとしてこう受け取って良いよね、というトップサイドからの確認であったり、今お前はこう弾いたから、その通り弾くぞという宣言であったりする。それが自分の捉え方と違っていれば修正するが、ほとんどの場合そういうことはない。大体において、OKと頷くだけだ。

少なくとも、府中ではそれで済むような関係を築いてきた・・・と考えている。当人がどう思っているかは知らないが、この間「チェロ人生で最も長く隣に座っている同士」と言われて、ああその通りだと思ったのは確かだ。

・・・、ここまで書いてふと顔をあげたら、この電車は違う路線に乗り入れる奴ではないか。大人しく座っているのもダメのかよ!まぁここまで来たら先まで行って別ルートで帰ろう。

閑話休題。トップとトップサイドのそうした関係は実はどうでもよく、楽譜に書き込むのがどちらの役割かというのも、本来はどちらでも構わないだろう。そう言っておかないと、自分がトップサイドになった時に困る。トップが書くならトップが書いたって良いのだ。ただ、裏の役割といえば裏の役割であるかもしれない。

昨日の相談は、自分が何をするべきなのか、役割に悩みがあるという事なので、そういう役割もあるという話をしただけとも言える。やるかどうかは本人が考えれば良いことだ。オーケストラという組織の中で、あるいはパートという組織の中で、できることやれることはいくらでもあるし、それをやるやらないは自分がやりたいかどうかで考えれば良い。
(もちろん、それとは別にお願いされたことはやらなければならない。)

うんそうだな、やはり裏に座るなら楽譜への書き込みは自分がやるものとして徹底しよう。反省。


さて、多摩センターからモノレールを使って帰るか。各駅停車の思わぬトラップだったなぁ・・・。

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2013年10月22日 (火)

ブランド体系とブランド戦略

日経新聞の「ブランドビジネス」という連載記事で、BMWが取り上げられていて、この間のセミナーで、BMWのようにコーポレートブランドに一般名称などを組み合わせるブランド構築の方法を「マスターブランド体系」と呼ぶと紹介されていたのを思い出した。

検索してみると、GLOBIS.JPの記事が引っかかった。
http://www.globis.jp/mw601

これによると、マスターブランド戦略というのは、コーポレートブランドの下に複数の事業や製品カテゴリを展開していく戦略と説明されていて、先日のセミナーのニュアンスとは少々異なる気がした。メリットは一つのブランドに資源を集中投下できること。効率的という事だが、一方で依存リスクや衰退リスクもある。

マスターブランド戦略とは違って、個々のブランドを独自に展開するのは、マルチブランド戦略という。同一カテゴリで複数のブランドを展開することにより、市場シェアの獲得やリスク分散といったメリットがある一方で、資源の分散投資というデメリットもある。その辺りはマスターブランド戦略と正反対ということだろう。

BMWの場合も、実際には「ミニ」や「ロールスロイス」を傘下に持っているので、その面ではマルチブランド戦略と捉えることができる。記事によればブランドの再構築を行っており、例えばミニは大衆車の位置づけから、高級感を重視するグループの入門車の役割を担う存在を志向しているそうだ。

そういった意味では、あまり明確にどの体系と当てはめるのは難しいのかもしれない。
それに体系として捉えてしまうと、その整合性みたいなものに目を奪われてしまうのだが、実際には戦略として捉えて、結局どうしていくかが重要な気もする。

GLOBIS.JPにはこんな記述もあった。

個々のブランドについて、「これは製品ブランドか、ファミリー・ブランドか」と厳密に区別することは、あまり意味がない。重要なのは、ブランドの階層を整理したうえで、企業が展開するブランドを体系化し、管理することである。
http://www.globis.jp/mw594

階層を整理し体系化する上で、個々のブランドが製品ブランドかファミリーブランドかというのは結構重要な気もするのだが、これもようは「整合性」よりも「戦略性」が重要と言っているのかもしれない。

そういえば、戦略的視点ではブランド体系を捉えたことがないかもしれない。反省。

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2013年10月21日 (月)

生産性の定義

気がついたら先週の木曜日、金曜日、今日とブログを書いていなかったので、とりあえず近所のタリーズに入ってブログを書くことにする。特にネタがあるという訳ではないのだが、習慣化しているブログというのは、一度その習慣が崩れると途端に継続が難しくなったりする。

事務所の引越は、少なくともブログを書く習慣に対しては大きなダメージとなるようだ。

早く着くのは良いのだが、早すぎてブログを書くようなカフェがまだ開いていない。自然会社に行くことになるのだが(朝食は会社で食べられる)、会社に行けば気分が仕事になる。自分の場合、会社では仕事、カフェではブログ、そして家では何もしない、とその場によって完全に気分が切り替わってしまうらしく、その気分をコントロールできない。習慣恐るべし。

もちろん意識すれば矯正はできるのだろう。長い時間をかけて作り上げた習慣ではあるが、作り上げられたものには違いない。今の自分にそれだけの気力があるかどうかはともかく。

と、これぐらいの戯言はカフェに入ってしまえば書くことができるのだが、休んだ後の内容がこれでしかも明日からも休むかもしれない状況でこの内容では少々情けない。

そこで、最近生産性に関する意見を多々見かけたので、個人的な意見など。(個々のブログに対する意見とかではなく、ただ単に生産性というキーワードに対する自分の意見である。)

同じ成果を出すのに、より短時間で出せる・・・それは確かに企業にとって生産性の高い社員だろう。
でも逆に働く側からすると、より労力をかけずに同じ給与を得るのも、また「生産性が高い」と言える。

この辺りにジレンマというか、トレードオフがあるような気がする。問題は、時間の使い方と、時間当たりの投下労力に関する感覚は人それぞれだということだ。

よく言われるように、時間というのは極めて平等で、20時間働いたからって1日が23時間で終わるわけではないし、6時間で切り上げたからって1日が25時間になるわけではない。生産性が問題になる場合の時間効率の考え方は、時間が平等だから単位時間あたりの行動量を増やそうという考え方な訳だが、逆に一行動あたりの時間を長く持たせてゆとりを確保するというのも、また時間の使い方に対する考え方だ。

そもそも、生産性を高める発想というのも、その浮いた時間をゆとりに回すという動機を持っている事が少なくない。仕事の生産性を高めて生み出した時間は私生活のゆとりに使われ、私生活を切り詰めて生み出した時間が仕事に使われるようなものだ。いずれにしても、1日の時間は変わらない。

いずれにせよ個人にとって生産性を高めるというのは、時間あたりの労力を減らしつつ、時間あたりの成果を増やすという事なのだ。つまり究極的には暇だけど給与が高い状態をめざす事になる。これは時間あたりの労力や、給与あたりの成果を増やすという企業にとっての生産性向上とはある種相反している。

そういう状況で生産性をあげようっていうのは、どういうことなのかなという話で、その辺りの捉え方は一度整理した方が良いような気がする。

一応断っておくと、だから生産性を高めなくて良いとか、逆に高めるべきだという話ではない。高めるの定義をどう考えますかという話だ。

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2013年10月16日 (水)

40分をどう使い、60分をどう使うか

今朝は台風だったのだが、健気にも京王線は普通に動いていたので、普通に出社。風は強くて傘を折った人も見かけたが、幸いにして無事だった。

そして台風だからという訳ではないが、各駅停車を利用してみた。これまでの電車に比べると(事業所は違っても出発の時間は変えていない)、出発は5分早く、到着は10分遅い。それでも駅間の所要時間は約40分で、これまで通っていた渋谷より大分早く着くのは確かだ。

加えて各駅停車の場合、座る事ができる。乗り換えもしないので、40分間固定席だ。ではそれを何に使うか、というのが一つ目の命題。

そしてその電車の場合、会社に直行するとちょうど7時ごろに事務所に着く事になる。今朝の朝食はというと、新たな事業所近辺には渋谷のプロントのような手頃なカフェがないので、久しぶりに社食のお世話になったのだが、これのスタートが8時。今後社食のお世話になると考えた場合に、そのスタートまでの60分を何に使うか、というのが二つ目の命題。

会社についてからは仕事に使うのが良いという考え方もあるが、それは少しさみしい。というか、仕事のためだとしても、業務ではなく勉強のために使うようにするべき時間だろう。

電車の40分にしても、寝てしまうという呪縛を逃れて、何らかの使い方を「習慣化」したいところだ。ただこちらは目への負担もあるので悩ましい。慣れない街とオフィスに戸惑わないように、通勤時からコンタクトをつけている身としては尚更だ(以前は会社についてからだったので、通勤時に誰に会っても気がつかなかった)。

さて、このブログは日中の移動時間(それはたまたまだが)に書き、就業時間後にアップした訳だが、この「ブログの習慣」に関しても、どう日々の時間割の中に組み込むかは悩み所であったりする。

とはいえ、ここで悩まなければ、流されて今まで通りになってしまう訳で、せっかくのこの機会に何か良い変化をしたいものだ。

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2013年10月15日 (火)

朝の時間夜の時間

今日は新しいオフィスに出勤のため、のんびり朝食とブログの時間はカットの予定(朝食は食べるが)。
取り急ぎ、というか、今後見直す必要があるな~と思う事を電車の中で挙げておく。

・朝食場所、時間、このブログの執筆をどうするか
・平河町ライブラリーの利用を今後どうするか、代わる場を確保できるか
・ランチタイムをどうするか
・出勤時間をどうするか

平河町ライブラリーが悩みどころなのだが、仮に利用を続けるにしても、平日というのはかなり難しいような気がしている。そもそもここ最近は使えていない。

考えられるのは土曜日の使い方を変える事だ。正直な話、時間と場所を確保しての勉強の必要性はむしろ痛切に感じるようになっている。

朝の時間にしても、今の使い方を(場所は変えても)もう10年以上続けてきている訳で、そろそろ根本的に見直しても良いのかもしれない。

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2013年10月14日 (月)

演奏会終了

府中の演奏会は無事終了。「無事」の意味はやや不明だが、演奏としては成功だったと言えるだろう。客席はもう少し入って欲しかったところだが、連休中日では止むを得ないかもしれない。

今回の演奏を一言で言うなら、「良く鳴った」というところだろうか。コンマスとも話したのだが、ホールでの響きは、とても気持ちよかった。オケとしてホールを響かせる事ができるようになってきたのかもしれない。

一方で、自分は弾けないところが目立った。これも一言で言うなら単なる「練習不足」。曲に対する習熟度もそうだが、基本的な能力の低下が目立つ。弾き方が荒れてきているとでもいおうか。

昨日弾きながら感じたのは、ああカラオケで歌う気分で弾いてしまうとアンサンブルとしてはダメなんだな〜という事だった。

カラオケというのは、周囲を伴奏にして自分だけが目立つものだ。ソロというのは根本的にそういうものだろう。だから、周囲の音は聞こえていても、それ以上に自分の音が聞こえている。聞きたいと思って歌っている。

これをアンサンブルに当てはめると、他のパートを伴奏にして自分がソロで弾くように音を出すという状態になる。自分の音が聞こえる状態というのは、ようするにそういうことではないか。

だが、アンサンブルというのはバランスだ。自分の音が聞こえて良い場面もあるが、基本的には響きの中に溶け込んで、特定の音が際立って「聞こえない」状態を作り上げるのが理想だろう。ソロとは根本的に求められている音の出し方が違うのだ。

それができていない。いやまぁそれ以前に単に弾けていないということもあるが、弾けていないのにソロの音の出し方をするのは最悪だろう。一方で「個人練習」というのはつまりソロの練習で、アンサンブルの練習は本来アンサンブルの中でしかできない。

オケが鳴るようになってきたということは、次のステップとして、ソロの練習の集合体ではなく、アンサンブルの練習にしていくための工夫というのが、今後は必要なのかもしれない。

ふむ、いまいちまとまらないな。連休最終日で、演奏会翌日で、本来は休みなのに諸事情により出勤ということで、テンションが低いのかもしれない。

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2013年10月11日 (金)

弓順を考える

今日は諸々ありそうなので電車の中でブログを書いておく。

知り合いから弓順を考える時のポイントを聞かれた。

とはいうものの、府中ではここしばらくコンマスがすべて弓順を指定する体制をとっているので、実はあまり考える事がない。弾きやすい弾きにくいを感じる事はあるが、それはそれでその指定に理由がある事も多く、他のパートとのバランスもあるので基本的にはそのまま弾くというのが今の自分のスタンスだ。

ただ、弾きやすさやフレージングを考えるポイントというのはあるだろう。特にアマチュアの場合、プロほど自在に弓を操れるわけではないので、そもそも弾ける弾けないに直結する場合もある。

まず原則としては、強拍がダウン、弱拍がアップになる順番を考える。感覚として日本人はダウンボウの方が強く弾きやすい。アクセントやsfなどもそうだ。
この辺り欧米人は違うのではないかと以前チェロ仲間と話題になったことがある。日本のノコギリは引く時に切れるのに対して、西洋のノコギリは押す時に切れるからだ。

ダウンボウとアップボウの音の出方については捉え方が難しくて、例えばブルックナーの8番の冒頭のアウフタクトは、楽譜にアップボウの指定があるが、やってみるとどうしてもその音に重心を置いたニュアンスが出なくてダウンからに変更したりした。アウフタクトやアクセントのボーイングにおける扱いは日本と西洋では根本的に違うかもしれないと感じた記憶がある。

閑話休題。その辺りは日本人でもきちんと訓練されていればできるのだろうが、アマチュアはその辺りの限界も考えながら弓順を組み立てていく必要があるということだ。

次にフレーズの終わりをどちらにしたいかを考える。これは常にどちらかということはないが、終わりをどのように弾きたいかから逆算して組み立てないと最後になって乱れたりしてしまう事があるので、弓順をあらかじめ考えておく必要のあるポイントだろう。

私見だが、初心者の間というのは、フレーズ等に関係なくダウンとアップを順番に繰り返すというのが弾きやすいように見える。途中でアップを繰り返したり、ダウンを繰り返したりするとそこに戸惑いが見えたりする。

ただこれはフレーズも何もなくただ音を出すだけの状態だからだ。

ある程度慣れてくると、今度はダウンでの弾きやすさ、アップでの弾きやすさのようなものが出てきて、逆にただ順送りでは弾きにくさを感じるようになる。
おそらくその段階までに、アップボウでの音の出し方をきちんと訓練していれば表現の幅は広がるのだろうが、悲しいかな多くの場合アマチュアにはそこまでの余裕がない。

そこで弓順はその辺りの弾きやすさを前提に組み立てる事になる。

何だか結局は弾きやすさで決めるみたいな結論に落ち着きそうなのだが、そうした自分の癖に合わせるという事も必要なのだろう。合奏曲となると他のパートの事情なども考える必要があるが、それも程度問題で常に他に合わせるのではなく自パートに合わせてもらう事もある。

細かいセオリーのようなものは、数え上げる事もできるだろうが、結局のところそれだけが正解ではないとしか言いようがない。同じ曲でも全く違う弓順になった事もあるし、そういった部分は試行錯誤しながら良い形を追い求めていくしかない。

目的は弓順ではなく、音楽なのだから。

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2013年10月10日 (木)

変える転機

会社の事務所が一時的に移転することになり、今週末の引越しまで、今の事務所で仕事をするのも秒読み状態に入った。明日はほとんど引越しの準備作業に追われるだろう。

異動ではなく、事務所自体が移転するというのは、過去一度経験したことがあるが、それは一部署の話で、今回はビル丸々だから大規模だ(実際には首都圏の他の事業所も含めた大移転になる)。新しいオフィスにあわせてワークスタイルを変えるという試みもスタートしていて、単に通勤先が変わるだけでなく、仕事のやり方なども変えていく事が期待されている。

自分についていえば今の部署のスタイルについていくのがやっとの状態で変えるも何もないのだが・・・。

ただ、何かを変えようという時に、意識や心構えではなく、やり方や習慣を変えるように動くというのは大切なことだろう(と大前氏も言っている)。そういった意味では、なかなかついていけていない今の仕事のスタイルを変えるチャンスではある。

今の仕事に変わって3ヶ月。まだ仕事の進め方に馴染めていないというのは情けない限りだが、ここで心機一転、習慣の見直しから取り掛かっていきたいものだ(・・・と「心機一転」なんて意識の話に持っていってしまうから、現実には変われないのかもしれないが)。

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2013年10月 9日 (水)

シンプルな曲の難しさ

昨日の上野の森の練習後の飲み会で、指揮者がこんな事を口にした。

「(ベートーヴェンの)交響曲が(今回の中では)一番難しい。むき出しになるから。」

今回の上野の森のプログラムは、ベートーヴェンのレオノーレ3番、交響曲1番、ブラームスの交響曲4番だが、そんな曲同士の比較はさておき、「むき出しになる難しさ」とはどういうことだろうかとふと考えてしまった。

古典の曲、シンプルな曲をやる時には、こうした話題がつきまとう。「ごまかせないから難しい」とか言ったりする訳だが、プロの音楽家はともかく、素人的にそれはどの程度実感されているのだろうか。わかったふりをして頷いているだけではないか。

少なくとも、自分はその難しさを言語化できないし、恐らく実感もしていない。論理的に説明し実証できないのであれば、それは単なる放談にすぎない。

もちろん、プロの音楽家は違うだろう。あの人たちはそもそも音の聞こえ方からして違うと個人的には思っている。アマチュアにもそうした人はいるだろうが、恐らく稀だ。もっとも稀なのはそうした音の聞き方ができない自分の方かもしれないけれども。

さて、あくまで想像だが、「むき出しになる」「ごまかしがきかない」とは恐らくこういうことだ。
こうした曲では和音の構成や進行がシンプルなため、その響きの乱れが誰にでも簡単に分かってしまう。分かってしまうからこそ、高い精度が要求される・・・。

でも冷静に考えると、この捉え方は結構失礼な要素を含んでいる。

まずプロであれば、複雑な和音の構成や進行であっても、その乱れは分かってしまうだろう。そもそも「シンプルだから」高い精度が必要なわけではなく、複雑だからこそ高い精度が要求されるという考え方もあるはずだ。そのように考えると、これらの言葉は「普通の人の場合、複雑なのは聞いても分からないでしょ」という前提に基づいている事になる。

一方、演奏側から捉えた場合、シンプルであるというのは、それだけに集中できるという事でもある。演奏側が素人である場合、複雑なのはとても理解が及ばないが、それがシンプルであれば何とか理解できて実現できる可能性もあるだろう。

あるいは、誰にも分かってしまうからこそ手が抜けないといった事もあるかもしれない。しかしこれまた失礼な話だ。シンプルだろうが複雑だろうが手を抜くというのは別次元の話だろう。

もちろん、ミスが分かりやすいといった要素はある訳だが、先述のようにどのみちプロには分かる。素人であっても自身には分かるだろう。であればミスの発生率が高いのはむしろ複雑な方だろうから、シンプルな方が難しいというのはあたらない。

そんな訳で、シンプルな曲を難しいというのは、本当にそう思っているのだろうか、そう思っているのだとしたら実はそれは結構失礼な事なのではないか、などと思ったのだった。
実際のところ、「難しい」という人たちには、そうした曲はどのように聴こえているのだろうか。

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2013年10月 8日 (火)

課題は時間ではない

資料の作成が間に合わなかったため、今日は早めの出社。遅くまで残るよりはこちらの方が性に合う。

とはいえ、時間をかければ良いという訳ではなく、課題はそれ以外だろう。正直な話、時間で済むならもっとかけても良い。問題は常に時間の外にあり、時間をかけるのは自分に対して一生懸命やったという口実にすぎないとも感じている。

もちろん、だからかけた時間が無駄になるわけではない。無駄と思ったら最初からやってない。時間をかけるのはある種の足掻きだ。もしかしたらそこから得たいヒントが浮かび上がるかもしれない。

が、可能性は低い。ない訳ではないという程度の話だ。

朝から何だか身も蓋もない話になってきたが、それでも今からの時間は全くの無駄ではないし、足掻く事もなく神がおりてくる訳でもないだろう。

課題は時間ではないと分かりつつも、では何か、に答えられないのが問題なんだよね。

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2013年10月 7日 (月)

楽しむために必要な事

府中の練習は昨日が本番前最後の練習だった。残すは前日と当日のリハのみになる。

もう少し時間があるように感じていながら、あっという間に本番を迎える訳だが、今回の運命は楽しかった。何というか、もう少し力をいれて練習できていればと今更ながらに考えてしまう。

近現代の曲は、聴くのも弾くのも楽しいが、古典にはまた少し違った趣きがある気がする。何というか、本でいうなら行間を読むような楽しさだろうか。

もちろん近現代の曲にも行間は存在しているが、悲しいかなそこまで読み込む余裕がない。少なくとも今の自分にはとてもそこまでは感じていられない。

もちろん運命だから余裕があるというわけでもない。ただ行間を読みたい、読めるんじゃないかと思わせるような所がある。合奏中も、ただ目の前の音符をこなすのではなく、周囲の事を考える事ができる。

それは音楽を楽しむ上ではこの上なく大切な事のような気がする。

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2013年10月 4日 (金)

料理をする事と引越しする事

今日は少し早い時間からミーティングがあるので、のんびりブログを書いている時間がない。という訳で電車の中で書こうかと書き始めてみたが、特にネタがないな。

昨日は仕事で少々関わる事になったお店に行ってみたのだが、何というか、今の自分に「内食」という環境が欠けている事を痛感した。もうここ数年「料理」という行為はしていない。家で食べる事はあるが、弁当や惣菜というのはつまり「中食」であって「内食」ではない。

今の自分の食生活は「外食」「中食」で構成されているのだ。

生活として考えたら、実はさほど苦労があるわけではない。そもそも1人分を作るのは面倒だし、朝早く夜遅い(帰宅は)生活スタイルで内食にこだわろうとすると、食べる時間が遅くなって逆にリズムが崩れてしまう。実際、自炊していた頃は、夕食の時間はバラバラでおまけに作りすぎて食い過ぎるみたいな事も少なくなかった。

そんな訳でチョイスにさえ気をつけていれば、外食中食で食生活としては問題なかろうと考えていたのだが、仕事に結びつけて考えると状況が違ってくる。

昨日お店で感じたのはようはこういう事だ。並んでいる食材に興味があっても、料理が伴うものは使う機会がないから買えない。結果としてどのようなものかが分からない。そもそも自社の商品の大半は内食用なのにほとんど使う機会がない。

自宅の調理施設は、使わなくなって久しい。元々ほとんど料理をしなくなったのは、何年か前に調理器具が壊れて、それっきり放置しているからという事もある。ようするに自宅のキッチンはキッチンとして機能しない。仮に直したとしても、それなりに手をかけた料理をするには元々機能が不足している。(それは承知で借りた事だが。)

そんな訳で「引越ししたい」とか昨日はTweetしたりしたのだった。どうせなら楽器も弾ければ、帰宅を急ぐ動機にもなるかもしれない。料理して夕食を食べた後に練習するモチベーションを維持できるかは別の話。

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2013年10月 3日 (木)

考えを発信する逃避行為

今日は珍しく同日内で連投。というか、朝の続きのような感じだろうか。

仕事について考えた事をブログに書く、あるいは発信するというのは、自分の中でその考えを整理し、まとめる上では結構重要な役割を担っていたような気がする。気がする、というのは、今はそうはしていないからだ。流石に雑多に考えた事を素のままに社外に発信してしまうのはリスク云々を通り越して単なるバカだろう。
(今も時々書くことはあるが、ここで言っているのはそんな大人しい内容ではない。)

そもそも「考えを書く」というのは、独白のような行為だ。発信というのは相手あってのことだから、本来は「考え」の段階ではなく、それを整理し伝える意図をもって行わなければならない。そういった意味では、昔自分がやっていたことは、発信というよりは思考の垂れ流しである。今でも自分のブログのスタンスにはそうした所があって、読者は意識しているのだが、気にしてはいない。

きちんと意図として伝える段階では、ブログに書いていたことと全く異なるといった事も・・・時にはある(ほとんどないのは、元々自分にはブログで本音、他で建前のような切り分けができないからだろう)。そもそも昨日と今日とで違うこともある。

人の思考なんてそんなものだ。書き始めの意図と結論が違うことも少なくない。

だが、そうした行ったり来たりを曲がりなりにも文章化していく事で、考えが整理されていくのだ。ちなみに昔はブログで書き散らすようなスタイルをとっていたのを、今は紙に書きなぐるスタイルになっている。多い時は月に40枚ぐらいは書くこともあるから、それなりに文章化はしているわけだ。もっとも、所詮は手書きだから文章の量としては少ないし、長文ではなく短文スタイルなのだが・・・。

で、そんなことを考えながらこんなことを書いているのは、昨日の同期の言葉で昔のような事を復活させようかなんて事を頭の片隅で考えてしまうからだ。実際そうした欲求は常にあったのだろう。

とはいえ(と、物欲同様ここから鎮めにかかるが)現実問題としては、そんな余裕はない。少なくとも会社にいる間にそんな事をする時間はないし、そもそもジャンルが昔とは違う。その発信が他人にインパクトを与えることができたのは、そのジャンル自体が社内にとってはほとんど未知の領域で、言ってみれば何を考えても目新しさと刺激を与える事が出来たからだ。
(ちなみに昔は時間があったということではなく、そもそもそれも仕事の一部のような位置づけでやっていたのだ。)

今の担当分野はそうではない。恐らく現実には昔と同じぐらい社内では未知の領域ではあるのだが、多くの人は実際にはそうは思っていないだろう。そういう「微妙な」ジャンルだ。そしてもちろん自分の考えの方が正しいとも限らない(というか、正しい考えを発信するといった意図はそもそもない訳だが、立場的にはそんなことも許されにくい)。

さらに問題もある。昔も指摘されたことだが、雑多な考えでも「発信する」という行為が伴っていると、なんとなく「仕事をした」「報告をした」という充足感を感じてしまいやすい。もちろん、ただダラダラと考えた事を発信したって、仕事が進む訳ではない。だが当時はそうした逃避的な状況が時々発生していたのは確かだ。

ああこんなに出来ない理由を並べ立てる必要があるのは、それだけそうしたいということなんだろう。多分に逃避的に。あな恐ろしや・・・。

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昔のブログ

昨日は久しぶりに会社の同期会があったのだが、その一人から「まだ(ブログを)書いているのか」と言われた。厳密にいえばブログではなくて、その昔社内の一部に向けて配信していたメールの事だ。

このブログをスタートさせる前の話だから、もうかなり古いのだが、そんな事をしていたのを覚えている事に驚いてしまった。それなりに印象は与えていたらしい。当時は社内向けということもあって、仕事に近い気付きがネタの中心だったし、かなり突っ込んだ事も書いていたという事もあるだろう。

そういう事もあると考えると、最近はあまり聞かないがイントラブログのような試みには意味がある。一般向けには書けないような内容というのは、社内にはいくらでも転がっているものだ。それはネガティブな話ではなく、むしろポジティブな話が多い。

さておき、そんな彼の話を聞いていると、今の自分は当時のようなクオリティをブログで実現できているのだろうか、という気分になるのだった・・・。

こういうのとか、こういうのとか、こういうのとか、色々書いていた時期もあるんだけどねぇ・・・。

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2013年10月 2日 (水)

言葉で語る

昨日の上野の森の練習は、本番指揮者との初顔合わせ。入団してまだ1年経っていないのだが、すでに3回目の演奏会に向けて3人目の指揮者と顔合わせというのは、意外と早いペースの気がする。何のペースかはさておき。

初めての指揮者との合わせは少しばかり緊張する。どういった振り方をするのか、どういった練習方法をとるのかが分からない。もちろん伝聞では聞いているのだけれども、こと指揮の内容に関しては、それで伝わる部分はほとんどなく、結局一緒にやってみるしかない。

さて印象としては・・・まだよく分からない。オケ側がまだ曲に不慣れな事もあるが、あまり指示や指導的な内容はなく、音楽としてどうしたいのかというのも、今の段階では明確に伝わってこない。
まぁ、仮にこの段階で伝えようとしたとしても、オケ側が応えられたかといえばそれは微妙なのだけれども。

アマオケというのは、そもそもプロと違って指揮者の要望に100%応えられるわけではない。むしろ基本は応えられない中で、どれだけ応えられるようにしていくか、というのが練習の役割だろう。リハーサルではなく、トレーニングで指揮者の要請に応えていくのがアマオケという訳だ。

そういった意味では、音楽家というだけでなく、指導者としての素養がアマオケの指揮者には求められる。自らがそれに向いていないなら、下振りなりでフォローするといった方法もあるかもしれないが、いずれにせよそうした視点が求められる事にはかわりがない。

そのように考えると、今回の指揮者は言葉少なだ。音楽は言葉で語るものではないけれども、トレーニングに言葉は不可欠だし、欠席した者に伝えていく意味でも言葉は重要だ。

まぁ先に書いたように、今の段階でどれだけ受け止められるかは微妙であるので、それは今後出てくるのかもしれない。

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2013年10月 1日 (火)

フレーズ終了モード

先週からの1時間早い出社シフトをやめて、今日は通常の時間帯で出勤したのだが、電車の混み具合の差を改めて感じた。これがさらに1時間遅くなると想像を絶するな〜と考えると、基本的に出勤は早める方向にしかインセンティブが働かないと思ったりする。

府中の練習は佳境に入った。いやすでにとっくに佳境だったのだが、残すところあと1回である。
それなりにまとまってきていると思うのだが、録音を聴き直すと幾つか課題が浮かび上がってくる。

最大の課題は、音の切り方と休符の処理だろうか。音はそれなりに出ているのだが、フレーズの最後など、休符に入る直前の音の処理がおざなりで、結果として締まりがない。舞踊などでいうと、全体のシルエットはそれなりに形になっているのだが、指先などの細部がダラっと弛緩しているような感じだ。

これが大きく2つの問題を引き起こしている。一つは全体のフレーズの終わりが先述のようにダラっとして締まりがなくなる事。もう一つは、アンサンブルとしてのフレーズは終わっていないのに、そのパートだけ休符が入る際に同じように弛緩してしまい、結果アンサンブルが乱れる事だ。

前者は言わずもがなで、ちょっと意識すればできるはず(逆にいうとアマチュアのうちは多分「意識しなければ」できない)の事なのだが、後者はやや事情が異なる気がする。もちろん意識の問題ではあるし、アンサンブル全体のフレーズ感を知っていれば十分意識できる事なのだが、それでも休符の直前に「終わらせないテンション」を維持するのは難しい。何というか、そうした弾き方が「身に染みて」しまっているからだ。ある種の癖と言ってもいい。

運命だと、第一楽章で随所に出てくる主題の処理にそんな感じが出ている。この主題は八分音符3つのアウフタクトと続く主音で構成されているので、その主音がフレーズの始まりであるはず(その前にアップビートとしての八分音符がある)なのだが、これがどうしても「フレーズの終わりの音」ようになってしまうのだ。

具体的には、主音に入る直前にテンポが緩んで、主音に入る前に溜めてしまう事が多い。冒頭など、フレーズ的にはそれで終わる場合はまだ良いのだが、曲中で掛け合いとなっている所でこれが出ると、アンサンブル全体のビートが乱れてしまい、曲としての推進力を失ってしまう。

加えて音符の長さにより弓の速度を変えたりすると、これも顕著に推進力の低下となって表れる。おまけにそこで落ちた推進力を補うために、次の八分音符でリカバリーしようとすると、さらにアンサンブルが乱れる悪循環が発生する。

大切なのは、アップビートを同じリズムで刻むことと、そのリズムで主音まで弾き切る事だ。加えてその後に休符があるような場合は、その休符でテンションが緩んでしまわないようにしなければならない。

これが意識的にできるようになれば、アンサンブルは相当に引き締まる筈なのだが、これがとてつもなく難しい。意識しているつもりでも、無意識に(あるいは脊髄反射的に)休符の前に「フレーズ終了モード」に入ってしまうのだ。

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