CSRの終焉
昨日はCSRに関する勉強会に参加したのだが、その直前に呟いた事をまとめておく。
今日は某所でCSR勉強会に参加するので、道行きで少し頭の中をその方向に持っていく。少し気になっているのは、先日少し書いた「CSRは終わったのか」という話。そうであればそもそもCSRというのは何だったのだろう。
送信 2月19日 18:19 From HootSuite
「CSRはガバナンス」と言ったのは以前のボス。解釈するに企業としての意思決定のあり方はどうあるべきかというのがCSRの本質ということになるだろうか。その意思決定の内容そのものではなく、どのように意思決定をするかというプロセスの問題という事かもしれない。
送信 2月19日 18:24 From HootSuite
この捉え方には個人的に納得していて、ようするに株主(資本家)、経営者、労働者によってなされていた企業の意思決定プロセスに新たなステークホルダーが加わる過程というか、挑戦がCSRなのだろうと自分としては捉えている。
送信 2月19日 18:27 From HootSuite
その動きは欧米においてはそれらしい萌芽があって、その最たる例がNPOやNGOといった市民団体だろう。彼らは「社会」の代弁者として企業の意思決定にアプローチした。その手段がCSRという事になる。そういう意味ではCSRは目的ではなく手段という事になるかもしれない。
送信 2月19日 18:31 From HootSuite
CSRを企業のガバナンスを変える手段と考えた場合、その意思決定の結果以上に、プロセスがどうなったかというのが、CSRの成果という事になる。社会を良くする意思決定がされたか、ではなく、そのガバナンスプロセスに市民は介在できたか、ということだ。
送信 2月19日 18:37 From HootSuite
そこで重要になるのは「市民の意思が反映されたか」ではない。「責任ある判断主体として関わっていたか」だ。そして、責任ある判断とは、何らかの行動責任やリスクを負うという事でもある。
送信 2月19日 18:39 From HootSuite
そう考えた場合、そうした関わりを持てた例はどれ程あるだろう。一時盛んに行われたステークホルダーダイアログにおいてそうした意思決定プロセスへの関与があった例は?それが「ご意見うかがいました」ではない事は言うまでもない。
送信 2月19日 18:46 From HootSuite
となると、挑戦としてのCSRはやはり終わったと言えるのかもしれない。もっとも日本においてはそのように捉えられていたかどうかも微妙で、それが始まってもいなかったと自分が考える根拠ではある。
送信 2月19日 18:48 From HootSuite
大雑把にいえば、CSRは企業の意思決定プロセスへの新たな判断主体の取り込みであると考えているという事なのだが、正直なところその「第四の主体」の企業経営における役割は不明確だ。思うにCSRが失敗した(と言ってしまうが)のは、その部分を突き詰められなかった事にあるような気がする。アカデミックにおいても、現実においても。
その原因の一つが「社会的価値」とか「倫理的経営」のような「綺麗な言葉」で語ろうとしたことだろう。それらは従来の主体にも求められることであって、第四の主体の「役割」ではあり得ない。それを役割であるかのように語り、それをもって企業経営に介在しようとしたことが混乱を招いたような感じはある。
もっとも、突き詰めてもそれぐらいしか出てこなかったのであれば、やはり第四の主体など必要なかったという結論に落ち着くのかもしれない。実際のところ、新たにもてはやされているCSVはその第四の主体の存在を否定する形で成り立っている。従来の主体のみで企業は社会的価値を生み出していける・・・というのが、その考えの本質のように思えるからだ。
まぁガバナンス変革としてのCSRは終わってしまったとしても、そこで求められていた「市民の意思の反映」自体は、結果としては残る。であればことさらに失敗などということはなく、それはそれとして評価して、一旦役割は終えたと捉えてしまっても良いのかもしれない。
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