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2014年5月15日 (木)

CSRの捉え方

今週はオケ関係で連投しようかと思っていたが、そういえばCSRに絡んで宿題があったのだった。まとめるのは後にして、ひとまず考えている事をツラツラと書き並べてみよう。

元担当者としては恐縮だが、個人的にはCSRという考え方に対しては懐疑的である。個人的傾向として、その事について理解を深めるにつれて、懐疑的になるという癖が自分にはあるのだが、というか、理解するにつれて疑問が消えて傾倒できるという事の方がよく分からない。

そんな話はさておき、CSRというのはそもそも定義からして微妙な要素がある。企業や組織(SRまで含めるのであれば)を擬人化して「良き人であれ」と考える要素が透けて見えるからだ。

組織に人格などない。傍から見てそう見えるのは、動物を擬人化するのと同様、見る側の都合である。人は機械が質問内容に関係なくランダムに受け答えるのを見てもそこに人格を感じとれるほどの想像力がある(自然に神の意思を感じたりするのも同じだ)ので、止むを得ないかもしれないが、組織というのは本来雑多な人の集合体だから、そこに「組織としての意思がある」と考えるのは無理がある。

いやでも理念とかビジョンは組織としての意思ではないかという意見もあるかもしれないが、これは本来組織の意思ではなく、そこに所属する人たちの在り方を示したものだ。組織の行動を決めているのは、組織の意思などではなく、そこに関わるステークホルダーの思惑と行動の結果だ。

CSRという概念には、それらを棚上げにして、組織に何か意思があるかのように錯覚させてしまう功罪(というか罪?)がある。何故それが罪かといえば、そうして企業や組織の責任が注目されるほど、本来それらを決めているステークホルダーの責任が意識されなくなるからだ。悪いのは企業であり、問題があるのは自分たちではない。企業は良き人として我々に配慮するべきだ。それはつまり、ケネディの演説にあるように「国が自分に何をしてくれるかではなく、自分が国に何をするか」という視点が失われてしまうことにつながる。

利害関係者と訳されるように、企業や組織に関わるステークホルダーというのは、どこかしら衝突する利害関係にある。むろんそれぞれが努力することによって、すべてにwinの関係を作り上げることができるかもしれないが、それを自らの努力ではなく、丸投げするのがCSRの考え方だ。

いやこれは言い過ぎかもしれない。以前書いたように、そうしない事が本来のCSRのあるべき姿かもしれないからだ。株主、労働者、サプライヤー、消費者に次ぐステークホルダーの組織ガバナンスの関与への挑戦と捉えるのであれば、それはとても刺激的な考え方ではある。

そうした捉え方をするのであれば、良いCSRとはすなわち、それぞれのステークホルダーに、組織の意思決定に対する関与の自由と責任がある状態を指す事と考える。その結果の倫理的な良し悪しは、彼らの(自分も含めた)意思によって生じた結果であり、その事に対する責任が負えてこそ、その企業においてCSRが成り立っていると言えるだろう。

企業に責任を丸投げするCSRの捉え方とは真逆の考え方ではあるが。

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