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2014年5月30日 (金)

成長する実感

今朝は財布を忘れて家を出てしまい、駅から一旦戻ったのだが、結局乗った電車は乗るはずだった各駅停車に追いついてしまった。まぁそんなものであろう。

もっとも、今朝の場合はもっと早く着く電車に乗る事も視野に入れていたので、その辺りのプランが狂ったのは間違いない。昨日といい今日といい、ちょっとした忘れ物ではあるが、こういうものが積み重なっていくと何か大きな事をやらかしそうな所がやや怖かったりする。

今日で5月が終わる。いやもちろん厳密には違うけれども、仕事上の話だ。会社的には半期の区切りでもあるため、「上期に成長したこと」などを問われたりする。

・・・ないな。

そんな事を言っては身も蓋もないのだが、正直あまり実感がない。実感がないのは、どのように成長しようというビジョンを持たず、当然そのための行動なども取っていないからだ。オケでもそうなのだが、過去からの繰り返しと日々の積み重ねでは、仮に成長していたとしてもそれを実感するのが難しい。

改めて問われると、そうやってダラダラと日々を過ごしてきたのだなと感じたりするのだ。

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2014年5月29日 (木)

雑感

コンタクトを忘れてきた・・・幸いなことに今日は外出などはないのだが、少々不便になるのは間違いない。

さておき、今日は再びスコアを持ってきた。重かろうが何だろうが、そういう習慣にしておいた方が良い。朝、昼、晩に見る時間は確保でき・・・ない場合もあるのだが、時間が取れそうな時に手元にスコアがないのではどうしようもない。昨日の帰り道にタリーズに寄ろうかと思った時にそう感じた。

なるほどそう考えるとiPadで持ち歩くというのは良い選択肢であるのだが、残念ながら版の違いでいずれにせよ今回は役に立たない。

そのiPadはまだ解約ができていない。そろそろ処分を宣言してしまいたい所だが、どうにもズルズルしている間に、解約可能期間を過ぎてしまうような事だけはないようにしたいものだ。とりあえず処分先だけでも決めてしまうかなぁ・・・。

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2014年5月28日 (水)

楽譜を学ぶ

昨日はマーラーのスコアを鞄に入れておいて、朝と夜にスコアとのパート譜の違いをチェックした。本番では同じ版を使うのだが、今の時点ではパート譜がないので念のため。

・・・という事で気合を入れたのだが、意外な相違点の多さと、予想通りの鞄の重さに1日で断念してしまった。

ただ、朝と夜の時間に楽譜を見る(というより読む)事は、少し習慣にしていった方が良いのかもしれない。

ふと思ったのは、音楽家(これには職業人だけでなく愛好家も含む)にとっての楽譜というのは、ビジネスマンにとっての新聞やビジネス書と同じではないかということだ。読む習慣とそこから学ぶ姿勢があって、初めて価値が生まれる。

スコアを読み解く作業は、難解な学術書を読解し学ぶ作業に似ているのかもしれない。音楽大学などで学んでいれば、その作法が身に付いているのだろうが、悲しいかな自分はそうではないので、今から独学で身につけなければならない。もっとも、義務感でやることではなく、楽しんでやることだろう。

というか、そういえばブラームスの練習を開始した頃にも似たような事を書いていた気がする。あっさり挫折しているということだが、何か学び方の作法というか、とっかかりが必要なのかもしれない。

しかしいずれにせよそうなるとスコアを持ち歩く事が必要になってくるな・・・。

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2014年5月27日 (火)

スコアのチェック

今日はいつもより25分ほど早い各駅停車に座ってみた。着くのはいつもより10分早い程度だが、身体は楽な気がする。開店時間より早いのだが、スタバにも入れるようなので、この時間の利用も視野に入れてみよう。

今日は午後から外出の予定があるため、楽器なし。代わりといってはなんだが、先日入手した次回定期演奏会のマーラーのスコアを持ってきた。ペータースの新版でサイズはほぼA4、ページ数は384ページ。およそポケットスコアのサイズではない。

ドイツ語で色々と注釈が書いてあり、本来これも訳さなければいけないのだろうが、正直目眩がする。結局こうした所で、プロとアマの差とか、好きな人とそうではない人の差が出るのかもしれない。いや嫌いな曲という訳ではないのだけれども。

さて、そんな重いスコアをわざわざ持ってきたのはもちろんチェックをするためである。早い時間に来たのも半分はそのためだ。なのでブログを書くのはそこそこにして少しでも時間を費やすことにする。


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2014年5月26日 (月)

優先順位

今日は平河町ライブラリーに行くつもりでMacBookAirを持ってきている。

昨日の夜にやりきれなかった練習録音の整理をするためだ。それだけであればまぁ自宅でも良いのだが、積極的に使おうとしないともったいない。もっとも、自宅の無線LANが不調という事もある。

オケ関係は(楽器関係ともいう)何やら慌ただしくなってきた。正直なところ、時間と場所が足りない。練習だけに限った話ではなく、楽器を弾かない時間の使い方をどうするか的な要素もある。

掛け持ちというのは、やはりそのあたりの気持ち的な慌ただしさは避けられないのだろう。今は時間も場所も確保できていないので、優先順位も発生しないが、練習のための時間と場所が確保されれば、そこで何から練習するかという優先順位が発生する。そうなったら掛け持ちとは言っていられないかもしれない。

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2014年5月23日 (金)

ホワイトカラー・エグゼンプション

日経新聞にホワイトカラー・エグゼンプションに関する記事があったので、以前から漠然と感じている事など。

こんな事が書いてある。

働く時間と賃金を無関係にすると、残業代を当て込んだ長時間労働が減り、労働生産性が上がる効果が期待できる。一方で経営者が一定の賃金で従業員に長時間労働を強いる可能性もあるため、本人の同意などを導入の条件とする方向だ。

多くの場合、経営者は前者を語り、労働者は後者を語る訳だが、それはそれで当然として、これらの議論がどちらも、

「1日12時間働いても給料は同じ」

という視点ばかりで、

「1日3時間しか働かなくても給料は同じ」

という視点がないような気がするのが気になる。時間に縛られないで働くというのはそういうことではないか。

そしてこのように考えると、何らかの時間的拘束が発生する業務にはこれらは適さない事が分かる。店舗、工場はもちろんだが、例えば「営業時間」というものを顧客に提示している職種も不適当になる可能性が高い。その時間帯に従業員を拘束する事になるからだ。理屈からいえば、適用される職種範囲というのは相当に狭い。

8時間なり、一定の業務時間は当然働くという想定で話をしていないか?

働く時間を縛らない(企業側から見ると)というのは、極端な話ある日1日営業が停止する可能性があるという事なのだ。いやいや営業時間は働いてもらわないと、というのであれば、それは時間を拘束している事になる。

さらにこの考え方を進めると、労働時間に対する規制は給与と切り離して「健康維持の側面から」残すべきで、残しても何ら問題はない(はず)という事になるのではないか。そもそもが労働時間に対する規制というのは、健康問題に端を発していて、残業代というのはそのリスクに対する補償的な側面があるはずだ。

労働時間と給与を連動させないというのは、実は労働時間を規制する考え方とはまったく別の軸の話だ。連動させておくと、企業に長時間労働をさせないインセンティブが働きやすいというだけに過ぎない。それをなくすなら(いやなくさなくても)、規制はむしろ健康面からより厳格に適用するべきなのだ。残業代という形で従業員に提供されるのではなく、罰金という形で国に吸い上げられる事になりそうだが、それに反対する経営者がいるとすれば、ホワイトカラー・エグゼンプションを導入したい理由は、つまりそういうことだろう。

そんな訳で、自分にとってホワイトカラー・エグゼンプションと、労働時間の規制は、両立する話だと思っているのだが、なぜ対立しているのだろうか。

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2014年5月22日 (木)

スタバの時間

朝はスターバックスで朝食を食べ、ブログを書くという生活スタイルがほぼ定着しつつあるのだが、スターバックスで朝食というのはコスト的には少々厳しい。昼が社食になっているので、トータルでは下がっているのだが、もしかして無駄なのかな〜と思えなくもない。

ただ、会社に行ってしまうと(社食では朝食も提供されているのでそれも可能なのだが)どうしても気分が仕事モードに切り替わるというか、ブログを書くにしても落ち着かなくなる。特にテーマもなく、ダラダラと垂れ流す日記のような内容が書けなくなるというのも変な話だが、場所で気分がスイッチするというのはあるのだろう。

このスタバでの時間は、1日の中で最もボーッとしている時間でもある。家にいる時の「何もする気がない」弛緩状態ではなく、「何をしようかな」という、何というか脳を遊ばせているような状態だ。勉強に使うとか、もっと何かできることはないかと考えたことは再三あったのだが、そうはならないというのは、そういったやや無目的に何かを考えている時間を欲しているという事なのだろう。

結果何が生み出せているのか、時間として無駄ではないかというのは、考えても仕方が無い。このような時間はなくても良いかもしれないが、なくしたら何処かに歪のようなものが出てくるかもしれない。そういう割り切りも必要だろう。

そんな訳で今日もゆったりと過ごすのだった。いや、火急の用件がないからそうしているだけではあるのだけれどね。

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2014年5月21日 (水)

休み明け

昨日は平河町ライブラリーで多少仕事をしたりもしたのだが、思ったほどはかどらなかった。作業の進め方そのものを見直した方が良いのかもしれない。なんというか、そういう事を考える努力をせずに、しんどいと言いながら無理やり力技の作業をしてしまっている自覚はある。

力技に頼るのは、そのやり方を変えたくないからだ。やり方を変えたくないのは、変えるのがしんどいからだ。力技は頭を使わないが、それを変えるには頭を使う。知恵を振り絞って新たなやり方を模索しなければならない。それをしんどいと感じていて、ズルズルと従来のやり方を続けてしまう。

マイナーチェンジというのはある。
あるいは、継続することによる多少の効率化というのもある。
だが、劇的な変化は生み出せない。それは「生み出したくない」にも等しい。

うーむ、休んだ割にはあまりポジティブな精神状態じゃないな。まぁ思ったようには過ごせなかった側面もあるので、晴れ晴れとした気持ちになれと言われても困るのは確かだが。

まぁ平日休んだ翌日というのは、メールを開くのが怖いとか、色々あるものではある。

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2014年5月20日 (火)

練習計画

今日はお休みをいただきました。

元々演奏会の翌日は休める限り休むというポリシーなのだが、昨日はどうしても避けられない用事があり休めなかった。それはそれで仕方ないとは思っていたのだが、ふと気がつくと翌日は予定がすっぽり空いていたので、休んでしまうことにした。

演奏会の翌日に休むというのは、単に打ち上げがあるからというだけでなく、土日が演奏会と準備で埋まってしまうため、生活を取り戻す必要があるという事情もある。特に今回は土曜の午前中から準備に追われたため、諸々ができていない。そんな訳でまずは洗濯をしながらこのブログを書いている。

車検の入庫予約をして、公共料金を払って、そういえばコンタクトも買いに行かなければならない。演奏会のビデオを観て、可能ならば加工をして、休んだといっても(実は)やることがない訳ではないので、平河町ライブラリーで作業をして(正直オフィスより落ち着く)、夜は上野の森の練習。うん、あまり休みという感じではないな。いつもより1時間遅く起きたのだが、改めて考えると同じ時間に起きて動いた方が良かったかも。

そんな日常的な話はさておき、次の演奏会に向けて色々考えなければいけない。今回の演奏会は、練習期間がいつもより短いにもかかわらず(実際練習日数が通常の演奏会より2〜3回少なかったはず)、パート練習ができなかったり、お世辞にも完成度が高かったとは言い難い。曲的に経験者が多かった事に救われただけだ。

次はそうはいかない。自分にとっても未経験の大曲である。練習日数はそれなりにあるとはいえ、他の練習が入るブランク期間などもあるので、気を抜くとあっという間に本番の日を迎えてしまうだろう。

とりあえずパート練習の予定は3回。それ以外に個人の練習も多分予定として組むようにしていかないと、仕上がらない。どういった練習が必要で、どのようにクリアしていくのか、プログラムを組まなければならない。これまであまりそうしたことは考えた事がないのだが、そうすることでまた一つレベルアップが可能だろう。

・・・などと演奏会直後のテンションが高いうちに考えておかないと色々ズルズルとまずくなりそうな気がするのだった。計画を立てたからってその通りにいくような簡単な話ではないんだけどね。

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2014年5月19日 (月)

演奏会終了

演奏会が終了しました。

気持ち的には今日は休みにしたかったのだが、諸事情により出勤。それはさておき、今回の演奏会はギリギリまで不安が残っていたのだが(そして本番でもそれなりの事故はあったのだが)、結論から言えば良い演奏会だったと思う。

色々と勉強になったという事だ。(ネガティブな意味ではない。)

個人的に一番収穫だったのは、「演奏者はキレてはいけないよ」という実感だろうか。このブログでも何度かキレてはいけないと書いているのだが、一方でそれはキレたい欲求の裏返しでもある。カラオケで陶酔するのと(自分はしないが)同じようなものだ。

今回は本番が近づくにつれてその部分を徹底的に治された。前日のG.P.では、コンマスの指示で、後半すべてのページに「冷静に」と書き足す徹底ぶり。それだけが原因ではもちろんないが、本番はかなり抑えた演奏になっていたと思う。

が、曲としてはそれでしっかり熱狂を引き出せるのだ(多分)。録音を聴いてみないと評価は難しいのだが、奏者の熱狂と、奏でる音楽の熱狂は実はあまり関係がないというのを実感した演奏会だった。

もちろん奏者にそうした熱狂要素があってはいけないということではなく、我々素人は、そうした熱狂に流されてまともな演奏ができなくなる罠があるという事だ。それなら昂りを抑えて冷静な演奏に徹した方が、音楽としての熱狂を演出できる。

そんな事を感じた演奏会だった。ちょっと早く録音を聴いてみたい気持ちはあったりする。

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2014年5月16日 (金)

練習する

昨日は急遽練習をしたいと思ったのだが、楽譜を持ち帰っていなかった。府中は基本的に原譜を使うので手許用のコピーがない・・・しておけという話であるが、書き込みがないので結局使わない事が多いのだ。
で、書き込みがないのはやむなしとして、iPadにダウンロードした楽譜を使用した。ああこんな所で処分を決めたiPadが役にたってしまうとは・・・などと思いつつ、とはいえ、こんな時のためだけにもっておくというのも少々無駄な話ではある。

そんな話はさておき、昨日の練習はゆっくりと指示などを思い出しながら通して練習してみる。弾かなくて良いと言われているので(悔し紛れではない)弾けない所の反復練習などはこの際無視して、合わせるポイントや前回乱れた所の確認が中心。書き込みがないのでどこまで思い出せたかは定かではないのだが、意外と覚えている。後は音の長さや裏拍の弾き方の確認。改めて、裏拍でリズムが組み立てられていると感じたりする。こうした自覚も弱かった訳だ。

とはいえ、そうして練習していると、個人練習で詰められる要素はそれほど多くないと感じる。アンサンブルの曲というのは、やはりアンサンブルを通じて磨いていくものなのだ。もちろん、そこで余計な事をせずに済むように個人練習はある訳だが、この段階まで来るとそうしたウエイトはどうしても低くなってくる。むしろこの段階で個人練習を突き詰めてしまうと、思い込みと習慣が強くなって、アンサンブルを乱してしまう気もする(ただし、本来はそれは切り分けられているべきものだ)。特に今回は、身体に染みつかせてしまうと、指揮者の指示の変化についていけなくなる可能性が高い。

練習録音を聴いていると、その日の最初と最後では、明らかに指揮者がオケに寄り添ってきているのを感じる。これは解釈を曲げてもらっていると捉えて良い。本来は初回の棒についていかなければならないのだが、それができないから妥協点としてこちらに合わせてもらっているのだ。
それはつまり、「最後にOKが出た弾き方」で固定化してしまっては意味がないという事でもある。過度な反復練習は、そうした固定化を招きやすく、結果として次の機会において、やはり初回はついていけないという事態に陥りやすい。

前回こうだった、というのは多分通用しない。ある程度は決めてあるだろうが、かなりライブ感を重視している様子もあるからだ。その時の状況により、どういった流れになるかは、多少未知数ということだ。結局どういった流れになるかをどれだけ想定して臨めるか、後は対応力次第という事になる。

今日も練習できると良いのだがなぁ・・・。

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2014年5月15日 (木)

CSRの捉え方

今週はオケ関係で連投しようかと思っていたが、そういえばCSRに絡んで宿題があったのだった。まとめるのは後にして、ひとまず考えている事をツラツラと書き並べてみよう。

元担当者としては恐縮だが、個人的にはCSRという考え方に対しては懐疑的である。個人的傾向として、その事について理解を深めるにつれて、懐疑的になるという癖が自分にはあるのだが、というか、理解するにつれて疑問が消えて傾倒できるという事の方がよく分からない。

そんな話はさておき、CSRというのはそもそも定義からして微妙な要素がある。企業や組織(SRまで含めるのであれば)を擬人化して「良き人であれ」と考える要素が透けて見えるからだ。

組織に人格などない。傍から見てそう見えるのは、動物を擬人化するのと同様、見る側の都合である。人は機械が質問内容に関係なくランダムに受け答えるのを見てもそこに人格を感じとれるほどの想像力がある(自然に神の意思を感じたりするのも同じだ)ので、止むを得ないかもしれないが、組織というのは本来雑多な人の集合体だから、そこに「組織としての意思がある」と考えるのは無理がある。

いやでも理念とかビジョンは組織としての意思ではないかという意見もあるかもしれないが、これは本来組織の意思ではなく、そこに所属する人たちの在り方を示したものだ。組織の行動を決めているのは、組織の意思などではなく、そこに関わるステークホルダーの思惑と行動の結果だ。

CSRという概念には、それらを棚上げにして、組織に何か意思があるかのように錯覚させてしまう功罪(というか罪?)がある。何故それが罪かといえば、そうして企業や組織の責任が注目されるほど、本来それらを決めているステークホルダーの責任が意識されなくなるからだ。悪いのは企業であり、問題があるのは自分たちではない。企業は良き人として我々に配慮するべきだ。それはつまり、ケネディの演説にあるように「国が自分に何をしてくれるかではなく、自分が国に何をするか」という視点が失われてしまうことにつながる。

利害関係者と訳されるように、企業や組織に関わるステークホルダーというのは、どこかしら衝突する利害関係にある。むろんそれぞれが努力することによって、すべてにwinの関係を作り上げることができるかもしれないが、それを自らの努力ではなく、丸投げするのがCSRの考え方だ。

いやこれは言い過ぎかもしれない。以前書いたように、そうしない事が本来のCSRのあるべき姿かもしれないからだ。株主、労働者、サプライヤー、消費者に次ぐステークホルダーの組織ガバナンスの関与への挑戦と捉えるのであれば、それはとても刺激的な考え方ではある。

そうした捉え方をするのであれば、良いCSRとはすなわち、それぞれのステークホルダーに、組織の意思決定に対する関与の自由と責任がある状態を指す事と考える。その結果の倫理的な良し悪しは、彼らの(自分も含めた)意思によって生じた結果であり、その事に対する責任が負えてこそ、その企業においてCSRが成り立っていると言えるだろう。

企業に責任を丸投げするCSRの捉え方とは真逆の考え方ではあるが。

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2014年5月14日 (水)

音の雰囲気は最後の処理で決まる

今日は時間がやや変則的(でしかも今は平河町ライブラリーにいる)ので、手短に昨日練習録音を聴きながらTweetした事など。

音の歯切れの良さというのは、初速はもちろんだけれども、やはり切り方で決まるのだということを改めて感じた。音楽の躍動感は音の切る際の圧で決まってくる。
送信 5月13日 18:47 From HootSuite

それと裏拍を少しだけ意識的に弾くようにすると、多分指揮者の要求する表現に近づいてくる。表拍に速く入ってしまうのは、表拍に入るのを待てないということではなくて、裏拍を丁寧に弾いていないって事だ。
送信 5月13日 18:58 From HootSuite

裏拍で拍子のカウントができるようになれば少し違ってくるのかもなぁ。
送信 5月13日 18:59 From HootSuite

弦楽器の「音の長さ」というのは、弓で弦をこすっている時間ではなく、指で弦を押さえている時間で決まる。これを勘違いすると間延びした間抜けな音になる。
送信 5月13日 22:55 From HootSuite

ブラームスの交響曲第1番では、度々アウフタクトから次の小節の頭の音に「飛び込んでしまう」事が指摘されていて、録音を聴いていると、確かにそのような感じがある。ただ、そこで、表拍にあたる音に入るのを「待てば」良いかといえば、そのような感じでもない。表拍に飛び込むように感じられるのは、裏拍の音が軽いからだ。しっかりと音の処理をせずに、次の音を出す準備動作でしかなような薄い音になっている。そのため、その拍に重さが発生せず、次の音に飛び込んでしまうのだ。

少し前にこんなTweetもしていた。

ふむ、3拍めと6拍めの音が柔らかかったり緩んでいたりすると途端に印象が弱々しくなるな。
送信 4月29日 10:25 From HootSuite

ブラームスの第1楽章では、この「3拍め」「6拍め」というのが、裏拍にあたる。弦楽器ではアップボウで弾いているのだが、ダウンボウで弾くこともあるので、そういう弾き方が要求されるということだ。むしろ裏拍を強く、表拍を弱く弾くぐらいの気持ちでもバランス的にはおかしくない。

これはアウフタクトに音がない休符の場合でも、その休符をどう準備するかによって変わってくるのと同じだろう。その辺りのシビアさをパート内に徹底できているかといえばそうではない。

さて、音の長さが左手で決まるというTweetはまた違う要素なのだが、これを意識できていないと、特にピチカートの音の長さに影響が出てくる。次の音に変わる直前まで指を離すなという事はよく言うのだが、弾いたら指を離して次の音を押さえてしまうという事を、気をつけていないとついしてしまうのだ。結果として四分音符の長さ分の響きが欲しい音が八分音符分で切れてしまったりする。

これを弓で弾く時に当てはめると、音圧を維持したい時(テヌートやレガートなど)と、跳ねたり抜いたりしたい時の弾き方が変わってくる。これまたよく言われている「スタッカートを長く」というのは、弓を使う「長さ」ではなく、音を押さえている「長さ」の事だろう。弓で長く弾いてしまっては、弾む感じは出ない。弓を弦から離す、あるいは圧力を抜いた後も、左手を維持する事によって、音としての長さを保つようにする、というのが指揮者の指示の意図のように感じられる。

難しいのは、この「左手の長さと右手の長さを別々にコントロールする」という奴で、特に左手の方を後まで維持するのが難しい。むしろ左手が移動した後も右手は残ってしまって、結果として音の切れ目があやふやでぼやけてしまう事の方が多いのだ。音の処理が滲んでしまうことが多いのは、おそらくそうした事も関係している。

一朝一夕に直せるものでもなく、普段から意識的に挑戦していくしかないのだろう。しかしこれがコントロールできるようになると、格段に表現力が上がるような気がするな。

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2014年5月13日 (火)

惰性で臨む

昨日は練習録音を改めて聞いてみた。
・・・想像している以上によろしくない。事故が起こるのは本番一週間前としては問題外だが、それを差し置いてもあまりよろしくない。

ただ、何というか、練度よりも地力の問題のようにも感じられる。オーケストラとしての基本機能が低下している、みたいな。基礎的な練習はほとんどすることが無いので(大学オケではないので普通はそうだろうが)、止むを得ないかもしれないが、個々人の技術としても、オケ全体の技術としても、衰えが見える・・・気がする。

まぁメンバーも多くは固定されているし、そのまま年を経ているのだから、多少の技術や体力の低下は否めないとして、長年やっている事による成熟感のようなものがあまり感じられないのは何故なのだろう。もっともかく言う自分も、何らかの長期的展望をもってここ数年臨んできた訳ではない。そういった惰性のような姿勢がそのまま現れているだけかもしれない。

考えてみれば、以前は定期演奏会の前には演奏上の注意事項などをまとめてパート内に発信していたりしたのだ。そういったものを「作らなくなっただけ」でも、取り組みとしては劣化している。いや表現はイマイチだけれども思いつかなかっただけで、ようは色々「やらなくなっている」という事だ。理由はいくらでも挙げられるが、楽をしている事に変わりはない。

今更ながらに考え出せば、色々改善できる所というのが浮かんでくる。そう考えればできなかったのではなくやってなかったと言われても仕方ない部分はある。追い込まれたからという事はあるだろうが、1ヶ月前であれば十分対応が可能だっただろう。もったいないといえばもったいないのだが、では自分の1ヶ月前を振り返ると、それどころではなかった(音楽の話ではなく)というのも事実としてはあって、当時今程度の音楽に対するテンションを持てたかというとかなり怪しい気もするのだ。

正直な話、見直すとすれば音楽以外の部分なのかもなぁ・・・。

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2014年5月12日 (月)

合図を出す

府中の練習はいよいよ佳境。昨日は来週の本番に向けた1日練習だったのだが・・・乱れた。

今回の指揮者は情け容赦なく揺らし、棒で歌ってくる。それについていこうとする者とついていけない者、そもそも上手く読み取れない者が入り乱れて混沌に陥っているような感じだろうか。
そんな事態に対して、コンサートマスターからはトップに対して「楽譜を見るな」「(弦のトップは)弾くな」という指示が下った。パートへの指示に徹せよという事だ。

そんな殺生な・・・とつい思ってしまったのは、そもそも自分が「弾きたい」からだろう。弾きすぎという自覚は確かに無いわけではないが、自分が気持ち良く弾きたいという欲求はそうそう抑えられるものではない。

もちろん「弾くな」という指示は比喩的なものだ。ある程度弾けるようになってしまえば、弾く真似の方が難しい。というか、トップとして合図を出すという行為を弾かずにするのは至難の技だ。ようはキレるな=自分だけの世界に入るなという事ではある。

そんな事は自明の理だから、もちろんそうしない程度の配慮は残しているつもりなのだが、今回はその配慮の幅をもう少し増やせということだろう。

それにしても昨日の乱れっぷりは結構なものだった。来週の本番は無事に乗り切れるだろうか。

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2014年5月 9日 (金)

ワークスタイルとワークシステム

考えてみたら、iPhoneでブログを書くというのは電車の中でも書けるという事なのである。

考えさせられてしまった。

日本経済の競争力回復のために「労働時間規制」は強化するべき
冷泉彰彦 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
http://m.newsweekjapan.jp/reizei/2014/05/post-644_1.php

特に仕事のやり方の1〜4については、今のワークスタイルがむしろこうした事を積極的に進める方向性(とはいえ儀礼的とまでは思わないが)にあるという実態がある。良し悪しというよりも、そうすることで仕事が進む実感があるという事だ。

それって実はワークスタイルの変革とは逆の方向なのでは?

そんな疑問が頭をかすめる。

会議の質を高める前に、それまで会議で意思決定していた内容を個人の判断に権限移譲するといった構造から見直す必要があるのではないかとか、

会話を増やす事で仕事がスムーズになるというワークスタイルは会話を生み出す物理的環境がなくなったら崩れ去るのではないかとか、

会議のための資料を分かりやすくする必要があるのは、その案件について知らない人に意思決定をしてもらうためというのは何処か矛盾があるよなとか、

そういった事を見直していくのが、個人ではなく組織として行うワークスタイルの変革なんじゃないだろうか。
いや、組織の場合「スタイル」というよりも「システム」と考えるべきかもしれない。

個人としてのワークスタイルの変革は確かに必要だ。会議の質を高めるために準備を工夫する、会話の量を増やしてスムーズに仕事を進める、資料を分かりやすくシンプルに作成するといった事は、個人の工夫として積極的に進めるべきだろう。だが、それが変わらないシステムへの対策だとすれば、会社や組織としてやるべきことはまた違ってくる。

そんな事を考えてしまった。もちろん、そうしたシステムの変革をしたからスタイルの変革が不用ということはなく、双方の相乗効果によって生産性とは高まっていくものなのだろう。

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2014年5月 8日 (木)

電車の中でメールを書く

昨日このようなTweetをした。

電車の中でスマホを覗き込むのはやめたいと思いつつ、ではいつメールのチェックやらをするのさと言われれば、1日の中でこれほどまとまった時間はないよなと思ったりする。というか、会社でも家でもほぼ見ないってことはこの時間がなければ何もできないんだよ。
送信 5月7日 22:26 From HootSuite

そうやって改めて考えてみると、プライベートのメールを処理する時間が、実は電車の中ぐらいだという事に気づいてしまった。それを「まとまった時間ができたら」と先延ばしにしていたら、週末になってしまうのは自明の理で、結局そうしないためには電車の中で返信までしなければいけないし、発信もしなければならないという事なのだ。

iPhoneを含め、携帯からのメールはどうにも苦手で(単に入力が遅いからだが)敬遠していたのだが、そんな事も言っていられないという事なのだろう。何事も慣れというのは確かだと思うが。

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2014年5月 7日 (水)

iPhone+キーボード

連休中に調べたところ、iPadの契約解除可能期間は5月11日以降という事が分かった為、連休中の云々は取り下げ。11日以降の予定はかなり慌ただしい為、どのように進めるかは思案中だ。

思案中だが、切り替えそのものは進めてみようということで、今日はiPadは持たず、iPhone+キーボードという体制。Bluetoothキーボードを使用するのは久しぶりだが、ペアリングも問題なく、iPhoneとXperiaで使用できるようにした。

実際には昨日からその環境で、出先からメールの発信等もしたのだが、久しぶりに文字化け問題に直面してしまった。このところなるべくMacから出すようにしていたのだが、相変わらずその辺りの問題は抱えているらしい。必ずしもiPhoneのメールの問題ではないと思うのだが、発信側が気をつけるしか対処のしようがないのが文字化けの辛いところだ。

もっとも、その問題もキーボードのおかげで昨日のうちに(飲み会中だったが)解決。帰ってからやろうとしたら実質今日の夜になっていた可能性もあるので、そういった事が出来るのは悪くない。

で、今朝もブログはiPhoneで書いているのだが・・・画面サイズの問題でやや覗き込む感じになり、姿勢が悪くなってしまう事を除けば、まぁもんだいはなさそうだろうか。

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2014年5月 2日 (金)

iPadの行方

連休中にiPadの機種変更をする・・・などと先日宣言しておきながら、改めて考えるとあまりそのための時間がないな〜と思いながら、こんな記事を目にした。

Lifehacking.jp – mehori
「ピークiPad」がささやかれる中で魅力が増してきたKindle Fire HDX
http://lifehacking.jp/2014/05/ipad-and-kindle/

うーむ、それも一時期考えたんだよなぁと思いながら、とはいえそこまでKindleにのめり込む訳ではないし(paperwhiteも最近開いていないし)、そもそも自分は機能を絞った複数のデバイスを持ち歩くよりも、詰め込んだ一つのデバイスを持ち歩きたい人種なんだよな、などと考えていたのだが・・・

だったら何でiPhoneやらXperiaやらiPadやら色々持ち歩いているの?

という話に立ち返ってしまった。

断捨離しようというなら、もう最初からiPadはバッサリ切り捨てるという選択肢もあるのではなかろうか。いやいやでも流石にそこまでするとKindleのコミックを読むのがしんどくなるぞ。Xperiaはそれなりに大画面だが、書籍ならともかく本には向かない。
(そのように考えると、意外と電子書籍というのは閲覧用のデバイスが必要という縛りがあるものだ。)

しかし持ち歩かない選択をするなら、それこそKindle Fire HDXでも良いのである。いやいやそもそもそのためだけなら現行のiPadでもしばらくは十分使える。いやいや元々は新機種への乗り換えを早めようという意図な訳で、使い続けるのは本末転倒だ。

ただ、いずれにしてもiPadは契約解除して処分するだけでも良いような気がしてきた。結局ブログの更新だけというのであれば、キーボードを復活させて、iPhoneかXperiaでブログを書く生活に戻してみても良いかもしれない。

・・・などとくだらない事が頭の中を駆け巡るのは、連休前の高揚感だろうか。何だか仕事前なのに緩んだ感じである。今日は会議が一つと打ち合わせが二つと連休明けに向けた資料作成があるけどな。

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2014年5月 1日 (木)

温泉

昨日はふと思いついて近所の温泉施設に行ってみた。スーパー銭湯のようなものという事になるだろうか。思いついた事ではあるが、理由はいまだに良くならない肩こりである。

平日の夜(21時以降)だし、それほど混んでるということもなかろう・・・などと甘く考えていたのだが、意外とそうではないのに驚いた。湯船によっては待つような状態。雨が降っていたので、露天風呂に行かず内湯に集中しているのかと思ったら、露天風呂にもそれなりに人が入っている。

もちろん理屈で考えれば、平日の夜だからといって閑古鳥が鳴いていたら商売になるはずがない。よくよく見ているとレンタルのタオルを使っているような客は少なく、自前の人が多いので、それなりの常連なのであろう。スキー帰りの日帰り温泉とは違うのだ。

家族(というか子供)もチラホラ見かけるのだが、印象に残ったのはグループらしい若い男性が少なくない事だ。年配層は比較的1人という感じなのだが、若手は2人以上の集団である事が目立つ。

平日の夜につるんで温泉・・・もしかしてこれがマイルドヤンキーと呼ばれている人たちかと思いあたった。というか、他に思いあたらない。イベントの帰りに立ち寄る訳でなし、それぞれがバラバラに来て、この施設に集合していると考えた方が自然だからだ。

もちろん、全体の8割を占めるとかそんな数ではなく、せいぜい3割から4割という程度ではあるのだが、意外とこうした人たちにこの施設は支えられているのかもなぁ、などと思ったのだった。


・・・で、肝心の肩こりはあまり改善せず。朝起きた時の重さを考えると、やはり寝違えの症状に近く、どうも枕があってないのではという気がしてきた。ここしばらくで突然という理由はさっぱり分からない(枕を変えたわけではないし)のだが、少しばかり工夫をした方が良さそうである。

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