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2015年1月27日 (火)

物語の愉しみ

amazonで、角川書店のフェアをやっていたせいで、勢いに任せて何冊か購入してしまい、久しぶりに小説にはまっている。元々本を読むのは嫌いではない。表現や描写の美しさのようなものにはあまり興味がなく、物語を読むのが好きなだなので、普段はその辺りが楽なコミックに流れてしまうのだが、改めて読み始めると、小説の形で物語を読む楽しさというのは、想像する楽しさなのだと感じたりする。

次にどういった場面や局面が来るのかを想像する。どんなどんでん返しがあるのかと期待する。そうした思考が働くのは、活字を読む速度がどうあっても頭の働きには追いつかないからだ。そこに想像が生まれる。こうなるのではないかとドキドキしながらも、一字一字読んでいかなければそこにたどり着かない、もどかしさと紙一重の愉しさ。

そのように考えると、自分にとってコミックにおける物語は刹那的な消費に近い。読む速度が想像を凌駕してしまうからだ。テレビと同じで、次の展開を物語の都合ではなく自分の都合で待たされることがない。目の前の情報を処理し、咀嚼し、次の展開を想像する前に、それらが提示される。それはそれで心地良いのだが、小説という形で提供される物語とは少し趣きが異なってくる。

物語の前半、断片的な情報の中から筋と伏線を拾い集める段階では、小説のようなスタイルが向いている。丁寧な描写は読む速度の足枷となり、それが逆に想像の幅を広げるからだ。コミックが持つテンポ感は、そうした想像の余地を少なくさせる効果がある。

一方、物語の後半、クライマックスに向けて畳み掛ける段階では、コミックのような映像の方が向いている。小説の場合、場面を丁寧に描写するほど読み進む速度が遅くなってしまい、ある程度見えてきた結末への展開の足枷となるからだ。それを逆手にとるようなよほどの仕掛けがない限り、そこで読者にカタルシスをもたらすのは容易ではない。

そんな事を考えながら、昨日は「ファントム・ピークス」を読んでいた。ネタバレは避けるが、この物語を映像化やコミカライズする場合、前半のドキドキ感を生み出すのは難しい代わりに、後半の迫力は格段に上がるだろうな、と。

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