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2015年3月30日 (月)

2015シーズン最後のスキー

土曜日に今シーズン最後のスキーに行ってきましたので、その記録など。

さあ、今シーズン最後のスキーに行きますよ~目指すパルコール嬬恋は4時間先の彼方だけどな。
送信 3月28日 4:55 From Hootsuite

到着。ナビ通りに来たら全面通行止めに阻まれるという事態にも遭遇したが、示された時間よりはだいぶん早く到着した。
送信 3月28日 8:00 From Hootsuite

春シフトということで営業開始が8時半。しばし動き出すのを待つことに。それにしても人少なそう。
送信 3月28日 8:27 From Hootsuite

ロケーションは良い。天気も悪くない。 ow.ly/i/a85WG
送信 3月28日 8:34 From Hootsuite

1本目。想像以上に雪が硬い。アイスバーンではないけれども、ザラメ雪を無理やり圧雪して固めたような感じ。これは長く滑るとしんどいかも。上の方は違うのかなぁ。
送信 3月28日 8:44 From Hootsuite

2本目。雪面の硬さに板が暴れて押さえ込むのがしんどい。これはこのまま滑っていたら間違いなく筋肉痛確定コース。緩斜面を流しているだけのはずなのに息が荒くなる。
送信 3月28日 8:54 From Hootsuite

3本目。隣のコースを滑ってみたが、それほど印象は変わらず。あとは上に期待。ここは以前来たときに気持ち良く内足ターンができた印象の良かったスキー場なんだがな。
送信 3月28日 9:03 From Hootsuite

4本目。撮影。初めてのコースは撮影しておこう。ここまで1本目、3本目をウェアラブルカメラで撮影。ま、自分目線の滑走ビデオに意味があるかといえばあまりない。
送信 3月28日 9:15 From Hootsuite

上まで上がってきましたが雪質やいかに。 ow.ly/i/a87zQ
送信 3月28日 9:28 From Hootsuite

5本目。撮影。上からのロングクルーズ。上部ちょっとだけ柔らかかったが大半は硬い。しばらく上だけで滑るのが良さげ。
送信 3月28日 9:39 From Hootsuite

そして今時珍しいメータークラスの板を見た。古い板ではなかったからああいった板もニーズがあって作られているのだろう。まぁ明らかにレース用という感じではある。
送信 3月28日 9:40 From Hootsuite

6本目・・・はリフト間のつなぎ。やはり上部の方が少し雪質はましな感じ。
送信 3月28日 9:55 From Hootsuite

7本目。撮影。雪はましなのだがコースが狭くて人が多かった。ちょっと危ない。 ow.ly/i/a88uD
送信 3月28日 10:05 From Hootsuite

8本目。撮影。最上部からのロングクルーズ。気温があがって雪が柔らかくなってきたので少し滑りやすくなったのだが、いかんせん斜面が緩すぎる・・・まあ承知で選んだゲレンデではあるのだが。
送信 3月28日 10:16 From Hootsuite

9本目・・・はリフト間のつなぎ。上に上がるルートがゴンドラしかないんだな。全体に動いていないリフトも多い。
送信 3月28日 10:26 From Hootsuite

10本目。撮影。コースが多いので上部以外は分散してガラガラな状況。しかし1日滑るつもりで来たけれどもこのペースだと午前中とちょっとでも良さげな感じ。
送信 3月28日 10:48 From Hootsuite

練習するって感じのバーンじゃないんだよなぁ。
送信 3月28日 10:49 From Hootsuite

11本目。1人でゴンドラ占有できてしまうぐらいの混雑具合だからなぁ。 ow.ly/i/a89GP
送信 3月28日 11:01 From Hootsuite

12本目。上部だけ混んでいるので、少し丁寧に滑ってみる。もう上までザクザクの雪になって、気温の高さを感じる。
送信 3月28日 11:19 From Hootsuite

13本目。細かい分岐を除けば大体のコースは滑ったということで、もう今日は練習とかは考えずに滑り納めらしく好きに滑る事にする。それにしても暖かい。
送信 3月28日 11:30 From Hootsuite

14本目・・・はつなぎのようなものなのだが、まぁそれなりに滑れる。雪がズブズブなので、丁寧にターンをしないと足を取られる。
送信 3月28日 11:39 From Hootsuite

15本目。ザクザクの雪の上をずらしだけで滑っていくのはそれはそれで楽しい。とはいえカービングにすると逆にしんどそうではある。
送信 3月28日 11:56 From Hootsuite

16本目。撮影。比較的長めの未滑走コースが残っていた。中間部のコースバリエーションが結構多い。
送信 3月28日 12:14 From Hootsuite

17本目。スライドさせなから滑っていると、過去一度だけやったことのあるモノスキーを思い出す。あれはインエッジを使って滑るんだけど、カービングまではいかずにスライドが精一杯だったな。
送信 3月28日 12:26 From Hootsuite

18本目。撮影。これカメラを頭ではなく脚とかにくくりつけて撮影したらまたちょっと違った雰囲気になるかもなぁ。今日はバンドがないのでできないけれども。
送信 3月28日 12:38 From Hootsuite

19本目。なんだか久しぶりに春スキーを堪能している感。ここまで春っぽい天候とバーンで滑るのって数年ぶりなんじゃないか?
送信 3月28日 12:50 From Hootsuite

20本目・・・のキリ番で終わろうかと思ったが、最上部へ上がるためのつなぎ。朝の想定より早いがまぁ多少物足りないぐらいで終わっておいた方が良いだろう。もっとも夕方まで滑ったって物足りないけどな。
送信 3月28日 13:08 From Hootsuite

21本目。撮影。終了・・・ではなくて、下まで降りすぎてしまったため駐車場に戻るためにまだリフトに乗っている。
送信 3月28日 13:19 From Hootsuite

ま、でもこれで終了。今日のスキーも、今シーズンのスキーも。来シーズンはどれぐらい滑れるだろうか。今シーズンよりは滑りたいね。
送信 3月28日 13:20 From Hootsuite

そんな訳で、今シーズンのスキーは(気持ちの中では)終了しました。
今シーズンはウェアラブルカメラを導入してみましたが、見直してみるとたいして面白くないというか、まぁ自分の目線だけでは限界があるよねというか、あまり残しておいても仕方ない感じなので、Macなどには保存せずにYouTubeにアップロードしたら削除してしまっても良いかなという感じでしょうか。

それにしても人が少ないというか、時期的な問題もあるのでしょうが、ブーム過ぎ去りし後の凋落(は言い過ぎ)を感じさせる雰囲気でした。エリアとして首都圏から非常に遠いというのも、問題なのでしょう。プリンスホテルはあるんですけどね。

来シーズンはもう少し行けると良いなぁと思いつつ、今回の日帰りのスキーも交通費含めたトータルでは結構バカにならない金額な訳で、どういう楽しみ方が良いのかは悩みどころです。

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2015年3月27日 (金)

誰にアピールするのか

今朝はいつものスターバックスではなくマクドナルドに来ています。少々早めに出社しなければいけないため、もう少し早くから開いているお店・・・となるとこうなります。ただ、以前はSoftBankのWi-Fiスポットが使えましたが、今は契約がないのでWi-Fiの接続がやや面倒なところです。

トレーに敷かれたマットには、オーストラリア産の100%ビーフパティの品質管理についての紹介。チキンナゲットの事件以来、客離れが続いていると言われるマクドナルドですが、そうしたイメージを払拭したいといった意図でしょうか。

ただ、ビーフパティへのこだわりについては、以前から盛んにPRされている内容でもあります。問題になったのはチキンナゲットですし、今その内容を読みながら朝マックのメニューで食べているソーセージはビーフパティではない訳で、このアピールがどれだけ響くかはやや疑問といえば疑問です。

とはいえ、作り手あるいは提供側として、こうしたアピールをせずにはいられないという事も分からなくはありません。生産者や販売者は、消費者に何を伝えれば評価されるのか、心に響くのかという事を、基本的には常に考える必要があります。もちろん虚飾であってはいけませんが、一方で何でも伝えれば良いという訳ではないでしょう。

その際に難しいのは、情報を求める人たちの声の大きさと、本当の意味で求められている事とのギャップです。

先日聞いた話の中で「声の大きな小集団ではなく、声の小さな大集団を相手にする」というものがありました。世間で騒がれやすいのは、前者が大きく騒いだ時ですが、実際に買っていただく中心は後者です。もちろんその商品やサービスの性格によっては、前者だけがターゲットという事もあるでしょうが、基本的に会議でもなんでも大きな声というのは必ずしも集団の総意とは言えない場合があり、その辺りは注意して見極める必要があります。

例えば今回のマクドナルドのアピールでいえば、これを読んだ人が語る意見よりも、これを見た以降再来店してくれる人が増えるかどうかが重要な訳で、その辺りはきちんとデータで実証しながら進めているという事なのかもしれません(というか、実際にそうしたデータは分析しているでしょう)。

そんな事を考えた久しぶりのマクドナルドでした。

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2015年3月26日 (木)

自己表現価値

今日は外出先に直行・・・ではなくて、当初の予定はそのつもりでしたが、実際には一度会社に寄ってから出掛けてきました。たいした理由があるわけではありませんが、Kオケの個人練習日にあたるので、折角だから練習をしようかと楽器を持っていくことにしたのです。

チェロという楽器はそこそこに大きいので、持ち運びには不便です。正直普段は持ち歩こうなどと思うことはない(特に仕事がらみでは)のですが、時々奇妙な満足感とともに持ち歩く事があります。それは「自分はそこまでしている」という満足感です。

何となく歪んでいるような気もしますが(笑)、それほどおかしい事ではなくて、ブランド品を身に付けるのと似たような感覚でしょうか。ブランドには「機能的価値」「情緒的価値」の他に、「自己表現価値」という価値があり、それはそうしたスタイルである自分を周囲に見せたいという欲求に基づいています。ナルシズムとかではなく、ヒトが互いの関係性の中で生きている事を考えれば、それほどおかしくない感情とも言えるでしょう。

先日ある方にお聞きした話では、欧州の方はそうした「自分をどう見せたいか」にこだわる方が多いそうです。あくまでもその方の個人的接点の中での話とは思いますが、実際にそうした傾向があるのであれば、ブランド、特に高級ブランドのような「持つ人のステータスに関わる」ような概念が欧州中心に盛んであるというのは分かるような気がします。重要なのは、成金みたいなにわかに自分を飾るような話ではなく、文化的風土としてそのような環境にあるという事です。

もちろん日本にも似たような風土はあるように思いますが、それはどちらかと「恥の文化」と言われるような「自分をどう見せたいか」ではなく「自分がどう見られたくないか」というベクトルにあるような気がします。そうした風土下では、「他人と異なるスタイル」よりも「他人と同じスタイル」が尊ばれやすくなり、プレミアムやニッチのような希少性の高いブランドではなく、スタンダードやコモディティのようなどこにでもあるブランドの方が好まれるようになる、みたいな事を想像してしまいますね。

誰もが持っているわけではない、自分だけがそうしているという「自己表現」と、誰もが持っている、自分もそうしているという「自己表現」。後者は一見自己表現という考え方からは程遠い感じがしますし、実際には皆と同じである事に微妙なストレスを感じていたりもする訳で、そうした日本人的な感覚を価値という言葉に置き換えるとどんな表現が適当なのか、少々興味深いです。

ちなみにチェロを持って歩くというのは、明らかに皆と同じではなく、自己満足感と同時に微妙な気恥ずかしさというのもあります。そうした気恥ずかしさを日本語では「羞恥心」と言ったりする訳ですが、実はその感覚を示す恥とは離れた概念の言葉があれば、また感覚もちょっと違ってくるのかもしれません。

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2015年3月25日 (水)

オーケストラ・アンサンブル金沢第31回東京定期公演

今週は先週の暖かさとはうってかわって寒くなったので、スキーに行きたい気持ちが盛り上がりつつ、この週末はプログラムノートを書いた方が良いかなとも思いながら、とりあえず文体はですます調で書く事になったので、しばらく調整のためにそちらで書いてみることにします。

昨日はオーケストラ・アンサンブル金沢の東京公演を聴きにサントリーホールに行ってきました。職場が渋谷から仙川に変わって正直足が遠のいており、プロオケを聴くのは久しぶりです。いただいた招待券ということで、席は5列目。近くから見上げるような感じになります。

プログラムは、以下の通り。
ペルト フラトレス〜ヴァイオリン、弦楽および打楽器のための
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58
シューベルト 交響曲第8(9)番ハ長調 D.944 「グレート」
指揮は音楽監督の井上道義さん、ピアノは仲道郁代さんです。

個人的に楽しみにしていたのはフラトレス。ペルトは現代の作曲家ですが、耳馴染みは良いけれども不思議な響きの音楽を書く印象があり、生演奏で聴くとどんな響きになるのかが気になるところ。途切れる事なく響く低音(位置的に弾いている姿が見えなかったので、最初コントラバスが出しているとは気付かず、バックステージからオルガンでも鳴らしているのかと勘違いしました)に、静かに重ねられる旋律と響きが印象的でした。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、実は聴いた事のない曲でしたが、ベートーヴェンの力強さよりは抒情性が表に出た印象の曲でした。ピアノの手元が見える位置だったので、その技巧も楽しめましたが、席がステージに近いせいか、やや生音に近い荒さも感じました。もう少しホールの響きを通して聴ける位置だと印象が違ったかもしれません。(これはオケ全体にも言える事で、特に至近の1stヴァイオリンの音がちょっと耳につきました。まぁオケの問題というよりはホールの問題かもしれません。)

メインのグレートは・・・長い、というのはさておき、室内オーケストラの編成(弦楽器は4-4-2-2-1.5という規模)で、しかも対向配置(VaとVcは入れ替えでCbはオケの最後部に配置)という事もあり、なるほど当時はこのように聞こえていたのかなと思いながら聴いていました。1stと2ndのステレオ効果や、掛け合いや和声の組み合わせが、配置によって印象が変わってくるのはなるほどという感じでした。そう考えると、作曲者はそうしたことも考えながらオーケストレーションを行っている訳で、オケの事情でいつも同じ配置で演奏するだけでなく、そうした意図を汲んだ配置を考えてみるのも大切かもなぁと思ったりもしました。
(ちなみにペルトでは対向配置にしていませんでしたので、そうした効果を考えながらの配置だったのだと思います。)

アンコールはありませんでしたが、最後は指揮者の井上さんが軽妙なトークでラ・フォル・ジュルネ金沢の宣伝をしたりして(「日帰りでぜひ!」と言われていて、確かに北陸新幹線によりそれができるようになったよなぁと思ったり)、和やかに終了しました。

全体の印象としては、贅沢をいえばもう少し遠い席で聴きたかったなという感じでしょうか。視覚的には近い事で楽しめましたが、編成がそれほど大きくない分、個々の弦楽器の音が立ちすぎてやや耳障りな感じもありました。最後の和音の残響などはとても綺麗に響いていたので、そうした位置で聴いていれば、また違った印象だったかもしれません。しかしそう考えると、自分達の演奏の時も、最前列で聴いているような人達はそういう状況なんですよね・・・。

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2015年3月24日 (火)

モバイルルーター

自宅のネットワーク環境をケーブルTVからYモバイルに切り替えてから2ヶ月ほど経ったのだが、毎月7GBの通信量をオーバーして追加料金を払う羽目になっている。意識して通信を抑えていてもそうなのだから、自覚はしていなかったのが相当に通信量はあったのだろう。

ケーブルTVのプロバイダ契約を解約したのは、設備の更新に伴って工事が必要になり、その対応が面倒だったという理由なのだが(もっとも、Yモバイル自体の契約は以前からあったので、両方あるのは無駄だというのは以前からあった)、さてどうしたものか。そんなの工事すれば良いではないかとなりそうだが、そのためにはTV用のアンテナ端子へのアクセスが必要になり、その前にはローチェストなどの固定家具がそびえ立っている。

面倒というのは、まぁそういうことだ。アンテナ端子はそうそう抜き差しが発生するわけではないので、一度配線してしまえばその一角はアクセスが不要になる。結果として動かしにくいモノがその一角に集中する。

まぁ一度覚悟を決めてやってしまえば良いものではあるのだが、ちょっと1日作業では終わる見込みがなく、おまけに工事日までそのエリアを空けておけるほどのスペースの余裕がない。ついでに言えば、追加料金そのものはケーブルTVのプロバイダ契約よりはまだずっと安い。

ただまぁ、通信量を気にしながら使うという状態にストレスを感じるというのも確かで、Yモバイルに通信量無制限の契約があれば多少高くてもそうしたい所ではある。ただ、そうした契約はないようだし、2年縛りで契約変更にも解約金が発生する。とはいうものの、UQ WiMAXの無制限プランは魅力的だし、その方向で検討してみるかなぁ・・・。

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2015年3月23日 (月)

新世界の難しさ

先週は散々な状態であったのだが、今週はその煽りは受けつつも、何とか立て直したいところである。

・・・と結論めいた事を冒頭に持ってきた上で、昨日のF響の練習の振り返りなど。先週のパート練習が効いたのか、そこそこまとまりつつある感じがある(パートとしては)。ただ、新世界という曲はそこから先の難易度が高い曲のような気がしてならない。

新世界を洗練された演奏にするための方法をどなたか教えて下さい。これ何に気を使えばちゃんとした演奏になるのだろう。主観的にではなく客観的に。
送信 3月22日 8:27 From Hootsuite

主観的にというか、演奏している身としては楽しいのである。よく知っている(つもりの)曲であるし、ただでさえ馴染みやすい名曲なので、脳内補正が見事なまでにかかって、満足感や高揚感は半端なく高い。

・・・が、毎回録音を聞くと、その落差に愕然とさせられる事が多い曲でもある。通常練習録音というのは「まぁこんなもんだよね」という程度である事が多いのだが、それが「え?こんなもんなの」になるのが新世界の不思議だ。とにかく、「出来てるつもり」と「出来てなさ」の距離がやたら遠い。

演奏中は出来ているつもりで弾いているから、各パートが自分勝手に乱れがち。譜読みの難易度が高くないというか、旋律的な馴染みやすさから、とにかく勢いで弾いてしまいがちだ。これが前回のマーラーだと、そうやって気持ちよく行けそうな所に「何だこれは」というブレーキがかかったりして引き戻されるのだが、新世界にはそれがない。

そのくせアンサンブルが緻密というか、ただ楽譜通りに弾けば合うという要素が(多分)少ない。多分というのは、その部分の構造が未だによく分かっていないからだ。厄介なのは、分からない部分が分からないものとして気持ち悪く感じるのであればともかく、そういったざらつき感がなく、まあいいかー!と勢いで進められてしまうという所にある。弾いている最中は気持ちが良いのに、後で録音されたものを聞くと愕然とするのは、録音では分かるアンサンブルの違和感が、演奏中には感じられないからだろう。

気持ちよく出来たような気分にさせておいて、実際には全く出来ていないというカジノのような曲である。

この曲にはどのようにアプローチすれば良いのだろう。楽譜を緻密に読み込むのは大切だろうが、アンサンブルとして考えると限界がある。大体において、個人レベルの精度の問題ではないような気もするが、現実問題としてはそもそもパート内の足並みをそろえる事すら難しい。

一つやれることは、練習録音を緻密に振り返って、一つひとつの問題をクリアしていくことだろう。演奏中に客観的に捉えることが出来ないのであれば、後は振り返りで補うしかないのかもしれない。

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2015年3月20日 (金)

雑感

日曜夕方から体調を崩し、体調だけでなくスケジュールまでガタガタになってしまっていたが、少なくとも体調に関してはようやく戻ってきた。もっとも、熱が平熱まで下がっただけで、万全感は未だない。どうも毎年この時期は体調を崩しやすい気がする。

それでもまぁ熱は下がったという事で、今日はようやくいつも通りの朝になった感がある。出張で書いていなかった分も含めて、ブログを書くのも1週間ぶりだ。まぁだから書きたい事がたまっている訳でもなく、むしろダラダラ書き出してしまうのもいつも通りといえばいつも通りだろう。

今週はかなり暖かかった事もあり、スキーに対する気持ちも冷めつつある。いずれにせよ体調を考えると明日は行けそうにないが、残す来週を行ったとしても今シーズンは5日、行かなければ4日という滑走日数で終わる事になる。おいおい本当かよ・・・。

オケの方はというとF響の方はパート練習(体調不良により途中早退という羽目になったが)をやって、少しましになってくるかなという状況。Kオケの方は若干計画の立案が遅れている。何分事務作業も含めて手をかけられる時間と場所が限られているのはやりづらい。

一方、気軽に引き受けてしまった練習オケ(という呼び方が適切かは分からないが、基本練習での合わせだけでステージでの本番がないオケ)2つの予定が迫ってきていて、ほぼ一発合わせの割には難易度が高い曲なので、どう譜読みを進めるかが悩ましい所である。加えて8月本番のエキストラの要請があって、どう練習を組んでいくか、そもそも引き受けるかの判断を迫られている。

平河町ライブラリーは、これまでのウィークデープランからナイト&ホリデープランに変更して継続。今年度はほとんど行けなかったが、来年度はせめて元を取る程度には利用したい。休日が利用できるようになるので、利用しやすくはなるだろう。


・・・しかし、こうしてみると仕事以外の状況ってほとんど変わっていないよなぁ。いや良いんだけどさ。

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2015年3月12日 (木)

プログラムノートを書く

昨日は帰宅前に図書館に寄った。

今日は図書館に寄ってエルガーの情報をインプットしよう。プログラムの曲紹介って、前回の第九で書いてるからそんなに間は空いてないんだがな。
送信 3月11日 19:11 From Hootsuite

久しぶりなのか、またか、なのかはともかく、F響のプログラムノートを書くことになったので、必要なネタを探しに行く。前回書いたのは2013年の第九のプログラムノートだが、その時のメモはこんな感じだ。

・ウィーン・フィルハーモニーによる1843年の初演時のリハーサル回数は13回
・シラーの詩「歓喜に寄せて」全編に音楽をつけようと決心・・・1793年1月26日付のボン大学教授フィシェニヒが友人のシラー夫人に宛てた手紙で確認できる
・「彼はシラーの『歓喜』を、全節作曲することを企てています。私が知るかぎり、彼はひたすら偉大なもの、崇高なものに向かって思いをこらしています」
・この「天才」を体現しており、ヘルダーやゲーテ、そして後にはシラーの偶像となったのが、ギリシア神話で人間を創造し、火を与えたとされるプロメテウスであり、近代の芸術家ではシェークスピアだった。
・シラーなどの詩で歌われた「歓び」は、18世紀には英語のenthusiasm(熱狂)の訳語でもあったのだ。
・歓喜に寄せての発表は1786年。ヨーロッパではフランス革命前夜、アメリカ独立宣言が1776年。
・1節8行のソロと4行の合唱で全9節108行の詩。同時代の人たちから熱狂的な支持を受け、多くの研究者が否定的な評価をしている。
・第九に使われたのは、1803年の改訂版。多くの人が親しんだのは1786年初版で数多くの曲がつけられた。第二次大戦後にドイツで出版された歌集では民謡と化しているほど歌われていた。
・晩年のシラーはこの詩について批判的な意見を残している。
・50以上の曲がつけられ、酒場で歌われる「集いの歌」となっていた。
・ベートーヴェンはそうした集いの歌の要素を極力排除して編集し、普遍的なメッセージを活かそうとしている。
・初版発表時のベートーヴェンは16歳。シラーは27歳。
・当時の人たちが感じていたのは、第九からイメージされる「苦悩から歓喜へ」と言ったものではなく、友と酒を楽しむ歓びが歌われていた。

まぁ最終的に完成したものを改めて読み直すと、それほど使用している訳ではない。アイデアとして合唱団の声を盛り込んだので、それほど独自の文章を入れる余地がなかったのだ。

今日は時間があるので、長くなるが全文引用してみる。文中指揮者ソリスト以外の人名は伏せた。

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プログラムノート 歓喜に寄せて

手塚治虫がベートーヴェンの生涯を描こうとした未完の作品「ルードウィヒ・B」に、若き日のベートーヴェンがフリードリヒ・シラーの「歓喜に寄せて」(An die Freude)に感動し、曲をひらめく場面がある。ベートーヴェンがシラーの詩に出会ったのは1972年のことであり、知人の書簡には彼が全節に曲をつけることを考えているという記述が残っている。

ベートーヴェンの交響曲第9番を大きく特徴付けている第4楽章の「歓喜に寄せて」の歌。このプログラムノートでは、出演する合唱団のみなさんのメッセージとともに、「歓喜に寄せて」に迫ってみたい。(文中Sはソプラノ、Aはアルト、Tはテノール、Bはバスをさす。なお、今回多くのメッセージをいただいたため、すべては紹介しきれなかった。プログラムに挟みこんである「出演者の声」もぜひご覧いただきたい。)

「日本の年末はベートーヴェン作曲の「第九」が合唱付きの競演で活況を呈する。3年の歳月をかけて1824年「第九」は完成され、耳の聞こえぬベートーヴェンの心に鳴り響いた天上の音楽で、上の栄光を褒め讃えたシラーの詩「歓喜の歌」が声高らかに歌われる。今回の演奏会に参加できることは誠に歓喜の極みである。飯守泰次郎先生の指揮下で、合唱団員一同成功裡を念じ、この栄ある今日のよき日を共に祝いたい。」(A)

第九という曲の全体を貫いている「苦悩を超えて歓喜へ」というテーマが結実するのが、4人のソリストと合唱団が歌い上げる終楽章の「歓喜に寄せて」の歌だ。「O Freunde(おお友よ)」という最初のバリトンの歌い出しはベートーヴェンによる作詞、続くシラーの詩は、歓喜を意味する「Freude!」で始まる。府中市出身のバリトン、青山さんの声に力強く呼応するのは、合唱団のほぼ中央に陣取るバスパートだ。「学生の頃から合唱をやっていて、第九を歌いたいと思っていた。30才代で何度か歌わせてもらい、第九の奥の深さに感動した。定年後10年前からここで歌わせて頂いている。オーケストラと合唱という壮大な作品をドラマチックに歌えることに喜びを感じている。聴衆と舞台が一体となって響き合うよう、頑張って歌いたい。」(B)

その後ソロも合唱も声部を加えて盛り上がっていき、真打ちのようにソプラノが華やかな歌声を響かせる。冒頭に限らず、男声が口火を切り、女声が重ね合わされていくパターンが多いのだが、口ずさみやすい旋律のようでいて、実は歌い手には結構な技量が要求される。「生の第九を聞いた事もなかった私が初めて参加したのは所属する合唱団に入った翌年、ドイツ語も全くわからず悲鳴に似た声での練習、何度やめようと思った事でしょう。そして迎えた本番、オーケストラと合唱の響、プロの歌声の素晴らしさ、鳴り止まぬ拍手、歌い終えた達成感、自然と涙。再度、あの感動に会う為に今年も参加します。」(S)「私の府中「第九」の合唱初参加は1988年です。オーケストラで、しかも独語で歌い終えたとき、「歓び」というより「ほっとした」事を鮮明に覚えています。数年前から学生時代の友人達が聴きにきており、終演後、ミニ同期会を開きます。お互いに「健康」を確認し合い、楽しい一時を与えてくれるのが「第九」演奏会なのです。」(A)

今回で15回目を数える府中「第九」演奏会のオーケストラは、当初から府中市民交響楽団が担っているが、毎回公募される府中「第九」合唱団にも、何度も参加している人が少なくない。「30数年前朝日新聞に、府中市民響の団長のK氏が府中市でベートーヴェンの第九を演奏したいとの投稿を見て、私も是非実現出来たらと思った。その後商工会議所の知人を介して、K氏より相談を受け、第九を歌う市民の会を結成する。以来第九は一度も休むことなく参加。今後も歌える限り参加したい。」(A)「歌うことが好きで合唱を始め第九への参加は6回です。毎回熱意ある指導者、情熱的な指揮者とソリストに恵まれ、皆様に披露することができました。今回も市民響の演奏と合唱団、客席、会場が一体となって響きを堪能したいと思います。健康でこの場に立てることへの感謝と喜びを第九に込めて歌います。」(A)

中にはご夫婦で参加する人もいる。「第九を歌った時の感動を夫にも味わってもらいたいと誘ってから二人で4回目の参加です。だいぶ慣れた、と思いきや、増々むずかしくなるね、と楽譜とにらめっこ。いよいよ後半に入り、当日が近づくにつれ、たくさんの方の支えと参加できる事への感謝を忘れず、感動の日を迎えます。」(A)「両親は金婚式を迎え、夫は50歳に、私は年女に、そして我々夫婦は結婚20周年というイベント続きの年になりました。そんな折、ずっと参加したいと思っていた府中第九の応募を知り、夫婦揃って参加を決めました。記念年を締めくくる「歓喜」にふさわしい舞台に立てることを幸せに思います。」(A)「妻は府中市民交響楽団でヴァイオリンを弾いています。同じステージに立ちたくて、第11回演奏会に申込み、テノールを歌いました。厳しい練習も晴れやかな本番のステージもとても楽しくて、それ以来、囚になりました。今では孫達や友人に聴いてもらう恒例行事になりました。」(T)こうしたハーモニーが響き渡るのも市民による第九ならではだろう。

300人近い合唱団全員で神(Gott)を讃えた後、曲は一旦静まり行進曲がスタートする。一歩一歩を踏みしめるような歩みの中から高らかに歌い出すのは、青山さんと同じ府中西高出身で府中市在住でもある望月さん。ソプラノの半田さんも府中西高出身であり、府中「第九」の合唱を影で支えているのも府中西高合唱部。老若男女が集うのも第九の魅力である。「有名指揮者、ソリスト3名が府中西高出身、定演でいつも満席の支持を得ている府中市民響、西高合唱部を含む大合唱団、魅力満載です。そして世界最高の名曲、人類賛歌とも言うべき歌詞と旋律に感動し酔いしれます。定年退職後直ちに府中第九に参加し、又、市内某合唱団に入団、合唱を通じて多くの知己知見を得ました。」(B)

テノールのソロに男声合唱が続いた後、オーケストラが息も絶え絶えになる猛烈なフーガを奏で、一旦静まった後に最も有名な歓喜の主題が響き渡る。「人は何のために生まれてきたのか?幸せになるために生まれてきたと私は思う。「第九」を歌う時、私は幸せを感じる。そして、その幸せを皆で分かち合いたいと願う。いつか世界中の人々が「第九」を歌うようになったら、地上の楽園も夢でなくなるだろう。」(A)「多くの人の声のハーモニーがこんなにも力強く感動的なものなんだなと、6年前に初参加したこの「府中第九」の本番直後に目頭が熱くなったのを覚えています。聴く感動と奏でる感動を同時に味わえるこの機会。こうしてまた参加できることを嬉しく思います。」(T)「第九合唱は、世界の人々と一緒に歌える共通語の歌だと思います。地球上の人と心一つで、歓喜の調べを歌える喜びを感じます。」(A)

シラーの「歓喜に寄せて」は全9節108行に及ぶ長い詩である。この詩には発表時すでに曲がついており、当時50以上の曲がつけられていたそうだ。酒場に集った人々が興じて歌う「集いの歌」として大流行し、戦後のドイツでは「民謡」として歌集に収録されたりもしている。そうした当時の人たちを熱狂させた「歓喜に寄せて」はどんな曲で歌われていたのだろうか。もしかしたら、今日私たちが第九を通じて感じる印象とはまったく異なるのかもしれない。様々な解説を紐解くと、ベートーヴェンは単にシラーの詩に曲をつけたのではなく、自らの表現したい世界を表す言葉として、シラーの詩の一部を使ったというのが実情のようだからだ。そもそも友と酒場で歌うのに「苦悩を超えて歓喜へ」みたいな深遠なテーマは考えないだろう。ベートーヴェンはそうした要素は極力排除し、普遍的なメッセージとして「歓喜に寄せて」を再構築し、第1楽章から続く壮大な物語のフィナーレとしたのだ。

さて、順番が逆になってしまったが、それぞれの楽章についても少し紹介しておきたい。第4楽章の冒頭で「おお友よ、このような調べではない」と否定されてしまう(笑)のだが、それぞれの楽章も素晴らしい魅力に満ちている。

第1楽章は、のしかかる苦悩とそれと闘う強い意志。雷鳴のように轟く中間部のティンパニの連打や、地鳴りのように重苦しくせり上がってくる最後の低音楽器の響きは、当時耳が聞こえなくなっていたベートーヴェンの苦悩の深さを感じさせる。

第2楽章は歓楽的な熱狂。弦楽器や木管楽器が奏でる軽快な疾走感は、全力疾走のような心地よい興奮をもたらす。ちなみにシラーの詩の「歓喜」は、18世紀には英語の「熱狂(enthusiasm)」の訳語でもあったそうだ。

第3楽章は甘美な愛。繰り返されるヴァイオリンの変奏により、どこまでも穏やかな世界に誘われる。シラーの詩にあるElysium(楽園)はあるいはこうしたものかと想像させられるのも束の間、第4楽章の冒頭「恐怖のファンファーレ」がその世界を突き崩す。

そうした物語も感じながら、歓喜の調べを待ちわびて欲しい。

最後になってしまったが、順番が逆のついでに「プロメテウスの創造物」序曲について。この曲はベートーヴェンが残した2曲のバレエ音楽のうちの一つだが、現在ではもっぱら序曲しか演奏されない。人類に火を与えたとされるギリシア神話のプロメテウスの「創造物」とは、つまり人間ということなのだろうが、原作が残っておらず、どのような物語であったかは不明らしい。プロメテウスといえば、火の一件でゼウスの怒りを買い、ヘラクレスに助けられるまで張り付けにされた悲劇の神という印象があるのだが、音楽にはそうした重々しさはなく、軽快で明るい曲である。

それでは、本日の音楽をお楽しみください。
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第九のプログラムノートは文字数が多いので実は書きやすい。この時はアイデアの関係で足りなくなり、別紙を追加する羽目になったが、それはやむない事情で、基本的にF響のプログラムはコンパクトなため字数制限はシビアで、当然ながら指定された文字数内におさめる必要がある。

今回の担当は、序曲と協奏曲で、文字数は1,000〜1,300。第九のようにメジャーであれば曲の情報そっちのけで上記のような遊びも可能だが、多少なりとも基本情報を入れる事を考えると、意外と書ける事は少ない。

もっとも、昨日図書館にある書籍で入手できたネタは想像以上に少なかった。特に協奏曲に関してはちょっと背景情報が少ない。

さて、どう書きますかね。

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2015年3月11日 (水)

図書館に寄る

昨日は帰宅してから近所のスターバックスに出掛けた。

家だと何故か何もやる気がせずにだらだらしてしまうので、近所のスターバックスに来てみた。近所といっても歩くにはちと遠いので車を使うのがやや面倒。
送信 3月10日 20:50 From Hootsuite

どうせ何かをするなら、平河町ライブラリーに行った方が良いのだが、そのためには朝から準備をしておく必要がある。それはちょっとばかりしんどい。もっとも本来はそれもスケジュールに入れてマネジメントしていくべき事だろう。

カフェでもろもろ事務的な作業をするというのは良いのだが、考えてみたらWi-Fi完備のバーとかあったらそれでも良いかもなぁ。お酒が飲めるカフェとかならコーヒーで良いけど、ウイスキーとか悪くないよね。
送信 3月10日 20:53 From Hootsuite

こういう選択も悪くはない。一般的な店内の明るさを考えると少々作業には向かない環境であろうが。

何れにしても、家ではよほど追い詰められないと諸々のやる気スイッチが入らないため、その辺りは環境でコントロールしていくしかない。パブロフの犬のような状態といえばそうなのだが、それも一つのやり方だ。少なくとも自分の場合、「さあやろう」という心の中の宣言だけでは、ほぼ行動には結びつかないが、そのためにそういった場に身を置きさえすれば、ある程度自動的にそうした行動を起こす事ができる。

正直にいえば、毎週火曜日のU響の練習に行かなくなってから、その時間を持て余す事が多い。なら練習に行けよという話ではなく、当時練習に行く事でやらなくなっていた、あるいはできなくなっていた事を、再びやるマインドセットに戻っていないのだ。

まずはまっすぐ帰ってダラダラしてしまうルーチンを断ち切らなければならない。平河町ライブラリーはそのために最適な環境なのだが、何分反対方向で、思い立って行くという訳にもいかない。

そんな事を考えていたら、そういえば府中の図書館に寄るというオプションがあるのを思い出した。帰り道だし、それなりに遅くまでやっているし、なかなか良いじゃないか。

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2015年3月10日 (火)

会議の役割

昨日、こんな事をtweetした。

会議の目的・役割を「皆で物事を決める場」ではなく「決裁者が適切に判断するための多様な意見を持ち寄る場」にすれば、余計な根回しも意見を言わない参加者も不要になって、多少良くなるのではないかと思わなくもない。
送信 3月9日 19:12 From Hootsuite

そもそも、日本人の「会議」のイメージというのは、大は国会、小は学級会のような捉え方があるのではないかと思うのだが、あれは「議会」であって「会議」ではない・・・という言葉遊びはさておいて、民主主義を実現していく上での「議論の場」と、会社としての「意思決定をしていく場」というのは、そもそもの役割と機能が違うのではないかと思っている。

第一、立場が平等で舌戦を繰り広げる議員と違って、会議に参加するメンバーは平等ではない。逆に立場を平等と考えて、議会と同じような場と考えるのであれば、最後は多数決で決を取らなければならない。

どうもその辺りが混同されているというか、整理されていないような気がする。いやまぁ、責任を取りたくないというか、曖昧にしておきたい体質があると言ってしまえば身も蓋もないのだが。

決める場ではなく、意見を聞く場としてしまえば、その会議が必要かどうかは決裁者が判断すれば良い。招集をかけられた際に、特に提起できる意見がなければ、判断は一任するということで欠席すれば良い。決裁者の意思決定の多くは、会議の場ではなく直談判の場で行われているが、それで判断できるなら会議は不要だし、それだけで判断するのは危険だと決裁者が判断すれば、会議を利用すれば良い。

理屈の上ではそういう事になる。ただ、実際には難しい側面もあるのは、組織が大きくなって決裁の案件が増えるにつれて、権限委譲が適切になされていないと、一部の決裁者に過剰に負担がかかるという事だ。結果、決裁者の負担を下げるという名目で、権限委譲による適切な判断分散ではなく、事務局主導による会議で何でも決めていこうとする考え方が幅を効かせるようになる。

そうやって考えると、適切であるべきは権限構造であって、会議ではないという事にもなる訳だが・・・会社の意思決定がどのようにあるべきかというのは、もっと真剣に社内で議論されても良いのだろう。でも、その議論も会議ですることになるのか、うーん・・・。

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2015年3月 9日 (月)

豊かな響きとトナリゼーション

どういう訳か、今朝はやたら眠い。どういう訳かというのは、昨日はいつもより早めに寝た記憶があるためだが、まぁ慢性的な寝不足というのはそういうものなのかも知れない。

昨日のF響の練習は、ソリストとの初合わせ。滅多にない同じ楽器の協奏曲ということで、楽しみにしていたのだが、同じ(の訳ないが)楽器なのに、あんなに豊かな音が出るというのは何故なのだろう。そもそも楽器の鳴り方が全然違う。いつも思うのだが、特に低弦の響きが深い。

アマチュアはどちらかというと高弦の響きを気にする事の方が多いのだが(一般化してはいけないかもしれないが、少なくとも自分はそうだ)、本当に上手な人は低弦の響きが素晴らしい気がする。もっとも、高弦の響きは当たり前としてあっての低弦の響きだから、まずは高弦にこだわるのはそれはそれでありだとは思うが(大体難しいパッセージはハイポジションなので、費やす時間も長くなりやすい)、本当は低弦を豊かに鳴らせるようになれると良いのであろうなと思う。

低弦の響きが豊かなのは、その分倍音を有効に使えるからだ。逆に言えば、倍音まで響かせることができなければ、ああした豊かな音は出ない。

倍音をきちんと響かせるためには、少なくとも音程を正確に捉えなければならない。チューナーで合わせるところの音程ではなく、楽器が響くところでの音程だ。

そうした丁寧な練習は、普段の練習の中ではどうしても後回しになりがちだ。限られた練習時間の中では、どうしても楽譜をさらう事に、それも音程を丁寧に省みる余裕などないような箇所に集中しやすい。それはそれで必要な訳だが、後回しになってしまった練習を後日取り返せる事は・・・ない。

そういえばスズキメソッドには「トナリゼーション」という練習があって、練習曲の合間にそのための楽譜が挟み込まれている。当時(もう20年以上前の事だ・・・)どういう練習かを意識したことはなく、特に集中して練習したという記憶もないのだが、改めて意味を調べてみると、ようするに今回書いているような響きを作っていくための練習だった(ちなみにスズキメソッドによる造語らしい)。

その辺りに気付いて、手を抜かずに練習していれば、またちょっと違ったかもなぁと思いながら、少し思い出しながら練習してみようかななどと思ったりしたのだった。

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2015年3月 6日 (金)

アンサンブルにアジャストさせる

昨日はKオケの練習。なかなか練習の糸口をつかむ事が出来ない。個人としてではなく、オケとしてである。そう考えると、指導者としての指揮者の役割というのは大きい。

大体において、自分はパート練習ですら満足に指導できないのだ。自分をアンサンブルにアジャストする勘どころは大体分かっているつもりなのだが、他人をアンサンブルにアジャストさせる勘どころがよく分からないのである。端的に言えば、合っていないのを合わさせるメソッドを持っていない。「合わせて」というのは指導でもなんでもないだろう。

それはつまり、合わない原因をしっかり把握できないという事だ。練習不足で弾けていないとか、なんて事は奏者は分かりきっている訳で、指摘した所で簡単に直るものではない。そもそも、弾けているのに合わせられない所もあるのだから、そういった意味の練習不足は問題ではない。

互いの音を聴けていない、というのも、それは結果としての現象であって原因ではない。なぜ聴けないのか、聴けるようにするにはどうしたら良いか、そのアドバイスの糸口を見つけなければならない。

自分の場合はどうなのだろう。どうやって聴いて合わせているのか。多分その辺りを感覚ではなく理屈として把握しなければならないんだよなぁ。

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2015年3月 5日 (木)

インプットの機会を作る

朝食を食べないことにしてから1週間経ったのだが・・・感想としては可もなく不可もなくという感じだろうか。食べないからきついという事はないし、食べないから体調が良いという事もない。1週間では分からないという事かもしれないが、正直身体の状態について何という事はないというのが実感である。

もっとも、土日は朝食を食べている訳だが・・・。

一方で、食事に時間を取られない分、朝の時間には余裕ができたというか、具体的にはブログを書いた後に本を読む時間をそれなりに確保できるようになった。それ自体は悪くないと言えるだろう。頭が冴える・・・という事は(全く)ないが、インプットの時間が確保できるというのは重要だ。本に限らないが、そういう時間を増やした方が良いというのは・・・一昨日参加した勉強会で改めて思った。

インプットそのものよりも、それをきっかけとして玉突きのように湧き出す発想が重要なのだ。蓄積され寝かされた中からアウトプットを引き出すために、違うインプットが必要で、そのためには継続的なインプットが欠かせない。

そういった機会作りが欠けている。過去3ヶ月で外出した回数の少なさがそれを物語っている。やる事に追われてそうした時間を確保できないというのは、多分言い訳だ。そうした時間を言い訳に仕事を遅らせる事はもちろん論外だが、仕事を言い訳にそうしたインプットを減らしていては、結局先細るしかない。

朝食の話からなぜインプットの話になるのかはさておき、面倒に流されずにそうした機会をもっと作っていかなければならない。

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2015年3月 4日 (水)

マーケットインとプロダクトアウトのブランディング

昨日はちょっとした縁から、某化粧品のブランドマネージャーをしていた方の話を聞いてきた。ブランディングであり、マーケティングでもある話だったのだが、印象に残った事をメモしておく。

特に印象的だったのは、マーケットインとプロダクトアウトの話。
どちらが正解という事はないのだろうが、両者を対比させる表現が幾つか出てきた。

・「森を見て木を植える」か、「木を植えて森を作る」か
・「商品」と呼ぶか、「製品」と呼ぶか
・「商品を作るのに芸術品はいらない」

昨日の講演者の発想として徹底していたと思うのは、マーケッターとしていかに市場のニーズを見つけ、答えていくかというマーケットインの姿勢だ。明言はしていないが、話を聞いていると、自社の商品やブランドに対して、何らかの自分達なりのこだわりを持っているうちは、どんなにマーケットインを唱えていても、プロダクトアウトの発想から抜け切れていないのだという気になってくる。

それは彼がブランドマネージャーとなって立て直しを図った化粧品のブランドのコンセプト構築プロセスの話を聞くとよく分かる。そのブランドのアイデンティティとコンセプトは、メーカーとして「こうありたい」を社内から抽出したものではなく、お客様の「こうあって欲しい」を社外から抽出した形で構築されていた。そのカテゴリーにおける商品について、お客様の「こうあって欲しい」がどうやって生まれているかを把握し、そのトレンドから求められるブランド像を構築し、当てはめたという形だ。

そこにはメーカーとして「こうありたい」という発想は、ある意味微塵もない。実際にはあるのだろうが、それはお客様の求める姿がAかBかで二分したような時にどちらを選ぶかというような領域の話で、「自分達の考えるこのブランドの姿はこうである」という柱がまずあるのではなく、「お客様の求める商品に最も合致するブランド像はこうである」が基本となっているのは間違いない。

ある種ドラスティックな考え方だが、そうして再構築されたそのブランドは大成功している。

もっとも、マーケットインであるがゆえに今もそうであるかといえばそうではないような気もする。マーケットインのブランディングは、ファッションでいえばモードのようなもので、移りゆくトレンドを追いかける(あるいは作り出す)事で成り立っているので、常に変化が必要であり、それに伴う浮沈はあるものとして受け入れなくてはならないのだろう。そう考えると確固たるスタイルの確立とそれに対する支持者で成り立つトラディショナルの世界はやはりプロダクトアウトのブランディングであり、それはそれで一つの手法という事になる。

ようは自分達がどちらのスタイルに拠っているかを明確にして、それに沿った戦略を構築していく事が重要という事だ。難しいのは、隣の芝生は青く見えるというやつで、特にプロダクトアウト型の人間というのは、その発想を捨てきれない割には、マーケットイン型に憧れてしまったりするんだよなぁ。

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2015年3月 3日 (火)

客席で聴く

昨日は人間ドックだったのだが、それはさておき、日曜日はF響のミニクラシックコンサートだった。小編成のアンサンブルを中心とした演奏会で、幾つかの団体に分かれての演奏となるため、普段の定期演奏会とは(普段のって何だ)少し趣きが異なる。

出演者でもあるため、実際にはそんな余裕はないのだが、本来であれば他の団体の演奏などは聴いた方が良いのだろう。もっとも、客席はそれなりに埋まるので落ち着いて聴けるわけではないし、といって立ち見が並ぶのは具合が悪い。リハーサルも直前まであったりするので、その辺りは割り切らなければいけない。

・・・のだが、やはり聴いた方が良いよなという気もする。普段の合奏とは違う形で、仲間の音を聴く機会だからだ。そういう経験がオケでのアンサンブルにどれだけ影響するのかは分からないが、聴かないよりは聴いた方が良いだろう。管楽器同士は、音を聴けば誰が吹いているか分かるそうだが、そういった事が分からない身としてはその一助にもなる。

困った事に、そういった事は録音ではよく分からない。いやまぁ厳密には生で聴いても分からない可能性が高いのだが(当面は)、機械を通してしまうとどこか均質化されてしまうというのは確かにあって、ロビーでスピーカーを通して聴いてもそうなってしまうので、結局は会場で聴かない限り難しい。

で、何が難しいって、出演者でなくなれば今度はスタッフになるので、やっぱり聴けないって事なのだ。まぁ我々はあくまでも主催側で、お客様ではないのだから、そういうものだと諦めるしかないのかもしれない。

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