« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »

2015年5月29日 (金)

Kオケ本番終了

Kオケの本番は無事?終了。想定の50席よりも多い66人のお客様に来ていただいたという事で、まぁ成功と言っても差し支えないであろう。仕事の都合で参加が危ぶまれていたメンバーもギリギリで参加できたため、オケ17名、合唱10名での演奏会となった。演奏の質は・・・まぁ問うまい。

編成上の都合もあり、いわゆる通常のクラシック音楽として演奏できたのは1曲のみ。あとはポピュラーも含めた編曲版で、クラシック好きであれば物足りないかもしれないが、そうでない人達にとってはむしろ良かっただろう・・・と思いたい。個人的にもクラシック音楽を追求するならF響でも良い訳なので、Kオケについてはそういった雰囲気を保っていきたいと考えていたりする。
(などと言いつつ、F響でも少し違った雰囲気の曲を演奏するのを画策していたりするが・・・。)

今回はスタッフという形で手伝ってもらったが、次の練習からは新しいメンバーも参加してくる。今回の演奏会は新規団員の勧誘も目的としているので、他にも声がかかれば良いなと思いつつ、次の演奏会に向けては何か手当てを考えていかなければならないだろう。特に弦楽器をなんとかする必要がある。

そういった諸々はあるのだが、まぁとりあえず一つのヤマは越えたという事で、それはそれで喜ばしい。前回は形としては依頼されての余興演奏に近いものだったが、今回は自主演奏会という事で、実質的には初演奏会。かなりバタバタはしたのだが(前の会議がなかなか終わらずにセッティングが遅れたとか)、それはそれで演奏会の楽しみである。F響が先週終わり、Kオケが昨日終わり、次はアンサンブルOである。U響は今回は降りているが・・・どうするかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月28日 (木)

Kオケ本番

木曜日はKオケの練習があり、楽器を会社に持っていかなければならないので、大体一度会社に直行して楽器を置いてからスタバに戻ってくるのだが、今日はまっすぐスタバに来ているので、机の脇には楽器が鎮座している。

一度会社に置いてくるのは、他の社員が多数出社してくるタイミングを避ける意味合いもあるのだが、今日は演奏会という事で、アピールも兼ねてその時間帯に楽器を持って出社する事にしたのだ。まぁ電車のタイミング次第で全く遭遇しない場合もあるのだけれども。

Kオケの演奏会は、一応2回目である。ただ、1回目は期末の納会の席での余興演奏だったので、演奏会と銘打って単独で行うのは今回が初めてだ。社員対象の就業後の演奏会という事で、どの程度社員に来てもらえるかは不明だし、そもそもメンバーが時間通りに集まれるかさえ不安が残るのだが、何とかここまで来たという所だろうか。

もっとも、何とかといっても、特に抵抗や障害があった訳ではなく、そういった意味で会社の理解はあるし、進めやすかった事は確かだ。役員がメンバーとして参加している事も大きいのだろうが、元々その辺りは寛容な雰囲気がある。

目下の課題は、メンバー集めである。今取り組んでいる曲は編成に合わせて編曲された曲が中心で、いわゆる一般的なクラシックの曲を演奏するには、どうしても人が足りない。本格的な演奏会となればエキストラを動員する方法もあるが、練習や本番の環境を考えると何気にエキストラでも集めるのは簡単ではなかったりする。

それでも、今回はそれでもサロンコンサートに近い雰囲気があるが、次の演奏会はそれなりのホールで実施する事になる。元々オーケストラを結成した目的がそうなのだから、出来ないとは言っていられない訳で、そのためにどうしていくかというのが次の課題だろう。そういえばその部分はまだ全く考えていないな・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月27日 (水)

尻拭いとしての集団的自衛権

集団的自衛権の問題はデリケートな話題ではあるのだが、その行為の是非という問題の他に、その行使を担う政府のガバナンスを信頼できるかという問題が混ざっていて、日本の場合は前者よりも後者が問題なんじゃないかと思わなくもない。少なくとも推進している人達の日々の発言とかを聞いたりしていると。もっともメディアを通じたものなので、どこまで本当なのかという問題はある。

集団的自衛権の行使はやむなく必要なものだったとしても、それが必要になったという事態に対して責任は負わなければならない。そもそもそうした行使なしに世界の平和と秩序を維持するというのが、政治家の役割であろう。集団的自衛権という実力の行使は、いわば平和維持の最後の手段であって、最初の手段ではない。

例えるなら、学級の秩序を維持するために体罰を行う教師には、その行為自体は仮にやむなしだとしても、その事態を招いた責任はあるという事だ。そうなる前に食い止めるのが教師としての役割なのだから。体罰にせよ集団的自衛権にせよ、それらは「対処」であって「予防」ではない。そしてより重要なのは予防であろう。

だからという訳でもないが、集団的自衛権を行使した政府は事態収束後にそうせざるを得ない事態を招いた責任をとって総退陣という規程でも加えておけば良いのではないだろうかと思わなくもない。それでもそうした決断をした事は、その必要性を裏付けるものにもなるし、退陣したからといって蔑む必要はなく、むしろ後世まで賞賛される決断になるだろう。

それでは割りが合わないというのであれば、集団的自衛権の行使には政治家にとって割りに合う何かがあるという事になり、そういうメカニズムがある意思決定の仕組みには胡散臭さが免れない気がする。

現実問題としては、そうした仕組みを組み込む事は事実上意思決定を不可能にし、法案自体を有名無実化してしまうので、発想としては机上の空論に過ぎないのだが、ようはそういう覚悟があるのだろうかという話ではある。

集団的自衛権の行使というのは、それ自体は国際平和の維持のためだとしても、正義を守る剣などではなく、それまでの失態の尻拭いに過ぎないという意識ぐらいは持っておきたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月26日 (火)

やりたい事をやるのではなくやらせようとする人達

F響の定期演奏会が終了。今週はもう一つKオケの演奏会もあったりするのだが、ひとまず一段落という所だろうか。とはいえ昨日は休みを取っていたのだが、二日酔いのダメージが大きく、やろうとしていた事の半分もできなかった。

今回のF響の演奏会では、運営面では段取りが不足していたというか、何やら準備不足で臨んでしまった感がある。実際にはそれなりの運営は出来ていたはずだが、どこか物足りないというか、力を尽くした感が薄い。気がついたら本番が迫っていて、何もできないままに終わってしまったような感覚がある。

実際にはそれでも演奏会自体は回っていくので、そういうものだと割り切ってもう少し良い意味で手を抜けという事なのかもしれないが、そういうのが落ち着かない。打ち上げで聞かれて少し話題になったのだが、演奏に集中したければ、この調子で運営から手を抜いていけば良いのだが、多分黙っていられないし放置もできないのだ。

で、自分はそういう性格なので、ついつい他人も同じように考えていると思ってしまうのだが、もちろん現実はそうではない。やらなければならないというやらされ感とそれへのストレスを感じてしまう人もいれば、そういった運営上の事にはノータッチで気づきもしない人もいる。やってもらうものだと当然のように思っていて、自分のして欲しいように要求する人もいる。

自分がそうしたいのであれば、そうしたいようにすれば良いと思うのだが、そうして欲しいという要望をぶつけられるのは正直困る。これは運営だけでなく演奏でもそうで、なまじパートリーダーなどもやっているものだから、こうして欲しいとか言われたりもする。

いやいや、やりたいならやれば良いじゃないか、自分がパートリーダーになって。本来アマオケなんて誰が何をやったって良いのだから。パートリーダーはかくあるべきだと思うのであれば、それを人に要求するのではなく、自分がやれば良いのだ。

と、まぁ自分はそう思っているのだが、そうは思っていない人も少なくないという事なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月22日 (金)

新世界より

もう本番直前で今更なんとかできるものでもないのだが、先週の練習の録音を聴く。新世界は何と言ってもチェロにとっては冒頭が鬼門である。そもそも音程が当たっていない。2度目3度目ではなく、最初の話だ。

昨年春のブラ1の時に、チューニングの間にどれだけ冒頭の音の響きをイメージできるかが重要と言われた事を思い出す。これは単純に音を取っておくといった話ではなく、チューニングに用いるAの音から、冒頭の和音の響きをイメージしておくというものだ。分かったような分からないような話ではあるのだが、そうした意識の積み重ねが、音楽の最初の響きを作り出すのは間違いない。

新世界の冒頭は、旋律のチェロがE、ベースがオクターブ下のE、ヴィオラがGで和音の構成はシンプルなのだが、この出だしが意外に上手く響かない。出した瞬間にあっと思っても後の祭りである。

とはいえ、今からでも冒頭の音の取り方をもう一度考えた方が良いのかもしれない。技術的な難易度がある訳ではなく、意識や工夫の問題である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月21日 (木)

ブランドの強さを指標化する

昨日tweetした内容だが、こちらにも残しておかないと流れていってしまうので・・・。

あるカテゴリーにおいて、あるブランドの購入者比率と想起者比率が異なるのであれば、その差こそがブランドとしての強さであると考えられる。買った事のない人にまでブランドが浸透している事は、新たな購入や継続的な利用のモチベーションにも繋がるだろう。
送信 5月20日 18:29 From Hootsuite

そう考えると、ブランドの強さは単純な想起比率よりも、購入経験者比率との相対差によって測った方が良いのかもしれない。それは直接購入者以外へのブランディングの動機や重要性にも結び付く。CSR等による企業ブランディングの必要性にも繋がるだろう。
送信 5月20日 18:33 From Hootsuite

もう少し厳密に捉えるなら購入「経験者」だと昔買ってネガティブな印象を抱いた人まで含まれてしまうので、現在購入者の比率と比較するのが良いかもしれない。
送信 5月20日 18:39 From Hootsuite

買った人が想起するのはある意味当たり前な訳で、もちろん他者との比較は発生するが、むしろ重要なのは買わない人にもどれだけ知られているかという点なのだ。それは将来のターゲットだけでなく、全くのターゲット外も含まれる。そこまでを考慮に入れるのが、ブランディングのキモという事だ。
送信 5月20日 18:45 From Hootsuite

ブランドの強さを数字で捉えるというのは、それをマネジメントしていく上では重要な要素だと思うのだが、その辺りについては寡聞にしてそれらしい数字というものを聞かない。おそらく、あらゆるブランドに共通する指標というのがそもそも難しく、それぞれの業界ごとに考えなければいけないという事もあるのだろう。実際、例えば服飾と食品でブランドの強さを比較しても仕方がない。もちろん、そこに競争軸を設定できるのであれば別だが。

そのように考えると、業界に関係なく一律にブランドのランキングを出すような調査は、ランキングそのものは実は意味がないという事になる。あえていえば株式市場ではそれなりに公平かもしれないが、それも業界特性を考慮しなければ意味がないだろう。

さて、そう考えると昨日tweetした内容についても、ではこれはどの業界において意味のある捉え方か、という事が問題になる。まぁ基本的に自分の考察は自身の所属する業界に立脚しているので、そうそうずれる事はないとは思うのだが、その業界において本当に通じるものなのかは検証が必要だ。

上記の一連で言えば、時間切れで途切れたという事もあるが、「現在購入していない人はそのブランドを知ってはいるが嫌いな人だ」という捉え方もできるので、そうなるとそれは必ずしもブランドの強さという話にはならない。

また、ポジティブな認知を持っているが買っていない人というのは、何かの事情で買えない人かもしれない。その解消はブランディングの領域とは少し異なるが、それを放置する事は印象がネガティブに流れるリスクを抱えるという事であり、その層が厚い事を単純に喜んではいられないかもしれない。

それに指標として考えた場合、購入者比率を下げる事によっても上げる事が出来てしまうというのは正直よろしくない。そもそも購入者比率を下げるのは本末転倒であろう。しかし、それを上げれば上げるほど今度は指標上の評価が下がるというのは、ビジネスの指標としては無価値に等しい。

そう考えると、この考え方は思いつきの域を出ず、指標とするのは難しいという事だ。まぁ、それが一応の結論という事で、また別の指標たり得るものを考える事にしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月19日 (火)

段取り力とは何か

段取りというのは、自分の時間や能力に合わせて組むのではなく、求める成果にあわせて組まなければ意味がないのだが、気がつくと自分の能力に合わせて組んでしまっている事が多い。積み上げ式の予算のようにやれる事を積み重ねても、ゴールに到達するための段取りにはならない事は少なくないのだが、ついついそれを忘れてしまう。

ここ2年ほどで短期長期幾つかのプロジェクトを進めていた中でハッキリしているのは、スタート前に終わりまでのスケジュールをあらかじめ決めていた場合と、そうでない場合とでは明らかに成果が異なるという事だ。

で、そうはいってもプロジェクトはまぁそういったスケジュールはまだ組みやすいのだが、これが個人の仕事となると非常に組みにくくなる。ハッキリとしたゴール設定がない中で取り組むようなケースが多いという事もあるが、そもそもが自分の能力に合わせた段取りを組んでしまうからだろう。その辺りのマインドセットがなかなか変えられない。

実際には一念発起してそうした段取りを組んで進める場合もあって、その場合はまぁ上手くいくのだが、どうも無理をしているという事なのか、後が続かないだけでなく反動のように次がグダグダになってしまう。

段取りを組む力というのは、もちろんゴールまでの筋道を立てる能力という事なのだろうが、実はそのゴールを具体的に描けるかどうかが重要なのだろう。ゴールを明確に設定できれば、そのためにやる事も明確にイメージできるようになる。それは段取り力とは別次元の話ではなく、段取り力の根底にある力なのだ。

今描けているゴールにはどのようなものがあるだろう。それは何となく漠然としたイメージではないだろうか。細部までくっきり鮮明に描けているだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月18日 (月)

倦怠感と切迫感

金曜日から土曜日にかけての会社として参加している勉強会の合宿と、日曜日のF響の1日練習で、今朝は倦怠感が半端ない。いやもちろん参加している間はテンションが高い訳で、だからこそ疲れる訳だが。

そして今週がまた立て込んでいる。いや、改めてスケジュールを見るとそれほど詰まっている訳ではないのだが、重要な会議があるせいか、切迫感が強い。F響はもちろん本番という事で、週末ものんびりはしていられない。

何でこんなに先を見通す能力がないのだろう。先々に備えて準備を積み重ねるという事をしていれば、ここまで切迫する事はなさそうな気もするのだが。一方で、準備をしたら準備をしたで、それに合わせてタスクが増えて結果は同じになりそうな気もする。

まぁ今日は金曜日に外出してしまった分を取り戻すという事もしなければならないので、さっさと会社に行こう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月14日 (木)

Kオケのモチベーション

今日はKオケの練習日のため楽器を持って出社をしたのだが、思いついてコンビニでおにぎりを買ってきた。これなら朝から会社のカフェを使っても、朝食の時間まで待つ必要がない。

とまぁそんな話はさておき、実はKオケでは今月末に演奏会を予定している。企業オケなのであくまでも社内を対象にしたものだが、前回会社の納会の中で演奏したのとは違って、それなりに会場をあつらえての演奏会だ。案内はこれからで、平日夜の演奏会になるため、どの程度聞きに来てもらえるかはなんとも未知数なのだが、多少なりともお客様を呼べれば成功だろう。

Kオケを今後どういったオケにしていきたいか・・・これは結構悩みどころである。まったく個人的な事情をいえば、F響などと重なるような一般のクラシックのオケではない方向を目指したかったりするのだが、メンバーの事を考えれば必ずしもそれが良いともいえないだろう。その辺りが難しい。

先日訪問した企業オケはその辺りの方向性もはっきりしていたのだが、そうした部分の欲求は市民オケでも担えてしまうので、自分がその企業の社員だったら参加したかはやや微妙である。数あるアマチュアオーケストラの中で、どこを選ぶかというのはつまりそういう事で、自分の所属する企業だからというのは、少なくとも自分にとっては動機にならない。

自分達でオケを作る、といった要素も、F響で運営まで経験していると別に改めてできなくてもという気にはなる。そういった意味では、ドライなようだがKオケを立ち上げていくモチベーションというのは、少なくとも自分はそんなに高くないのだ。

一方で、こうしたものを形にしていかなくては、というある種の使命感みたいなものはある。だからこそ気持ちとしては淡々としているが、こうして活動を進めているのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月13日 (水)

仮説の抱え込み

今朝は結局スタバにしてしまった。

まぁでもスタバだからできる事も多々ある訳で、多少高めの朝食となっても、それは必要な経費と考えるべきものなのだろう。もっとも、フードの内容が変わって、実はそれがあまり気に入らないという事情もあったりする。

「仮説思考」(内田和成/東洋経済新報社)を読んでいて、自分の今の仕事における「仮説」の必要性とは何だろうかと考えてみた。個人的な性向としては、本の中で批判されている「網羅的思考」が自分のやり方に近い。それほど大量に情報を収集する訳では無いが、ひとまず手当たり次第収集した上で、漠とした中から生まれてくる「何か」に期待するというやり方だ。

まぁ演奏会のプログラムノートぐらいであればそれでも良いのだろうが、仕事ではそうも言っていられない。そもそも全ての情報を網羅的に収集するのは不可能だ。結局「手に入る範囲の」情報を集めて自己満足に浸っていると言われても仕方がない。

一方で、自分がやっている事の大半は、仮説以外の何者でもないという気もする。そういった意味では、参考にするまでもなく仮説に基づいて情報を組み立てているのは間違いない。むしろ注意しなければならないのは、この部分だろう。

要するに 、立てた仮説を後生大事に自分ひとりで抱え込むということさえしなければ 、間違いや不十分なことをおそれる心配はないのである 。

別に後生大事にしようとは思っていないのだが、仮説をぶつける相手がいない。それはそもそもの課題設定が誤っているのではないかという事でもあるのだが、テーマ自体を自分で探していると、そうした袋小路に陥る事も少なくない。

そういう意味では同時に購入した「論点思考」の方が重要なのかもしれない。さっさと読んでそちらに進もう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月12日 (火)

独創性

今朝はスタバではなく会社に直行してみた。で、会社のカフェ(食堂)でブログを書くべく、iPadを取り出したのだが・・・あまりネタが思い浮かばない。

その辺り、環境が気持ちを作るといった部分がないとは言えないのだろう。いやもちろんスタバでもネタが思い浮かばない日というのはいくらでもあるので、たまたま両者がかち合っただけという可能性もあるのだが、比較的自分はやる事にあわせて環境を切り替えるという事をしているので、場所によってテンションが異なるという事は少なくない。

実際問題として会社のカフェの環境が悪いかといえばそんな事は無いのだが、一つ可能性としてあるのは、この時間はまだ食事が提供されていないので、スタバと違ってまず朝食から入るという事ができないという事はあるかもしれない。


・・・とここまで書いて少し気分が乗ってきた。

昨日は録画してあったカンブリア宮殿を見た。キングジム社長の宮本彰氏がゲストで、そのユニークな開発姿勢はなるほどと思う反面、浮沈が激しいのではと気になったのだが、その話はさておき、村上龍氏の編集後記で「独創性」が取り上げられていて、番組を見た印象とちょっと異なったのが気になった。

「10人に1人が欲しい」なら発売!
面白文具の型破り開発術
http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/20150507.html

村上氏は「独創性」をこのように捉えていた。

独創性とは、それまで存在しなかった「組み合わせ」について考え抜く力だ。

確かにキングジムの開発スタイルが、そうした組み合わせから生まれているという文脈は番組としてあったので、その捉え方もおかしくは無いのだが、個人的に番組から受けた印象は、「自分を信じ抜く力」こそが独創性なのでは無いかというものだった。

他人の意見は聞かず、自分が欲しいものを作る。役員の9人が反対しても、1人が賛成すれば商品化する。そういったキングジムの開発スタイルの根底にあるのは、「自分が欲しいもの」を信じ抜く力だろう。もちろんそれが世界にただ一人では意味が無いわけだが、どんなに独創性のあるものでも、それを理解し賛同する者が何処かにはいると信じるという事でもある。

そんな文脈を感じていたので、編集後記のまとめにはやや違和感を覚えたのだった。いやまぁ別に村上氏の捉え方もその通りなんだけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月11日 (月)

音楽の楽しみ方

この週末はそこそこオケ三昧。

土曜日は練習3回で本番(といっても録画のみ)というドヴォルザーク7番をやるオケ。3回の練習でまとまったかといえば、それはそうではないというのが正直な所だが、こうした演奏会(?)というのは、音楽を楽しむという視点においては興味深い。

音楽というのは楽しむためにやっているうちは良いのだが、楽しませるためにやろうとすると途端にハードルが上がる。上がるというか、発生する。
送信 5月10日 8:49 From Hootsuite

人に聞かせるための演奏会というのは、つまり後者のことだが、音楽の楽しみ方としては前者があっても良い筈だ。もちろん、何のハードルもないという事はなくて、少なくとも賛同者がいなければアンサンブルやオーケストラは成り立たないのだが、意外とそういった楽しみ方が増えてくると、全体の底上げのようなものにもつながってくるかもしれない。

日曜日の午前中はF響の練習。本番は2週間後なので、いよいよ追い詰められてきた。

こちらはもちろん楽しませる音楽でなくてはならない。前回のマーラー5番は直前までさらいがいのあるハードな楽譜だったが、今回のドヴォルザーク9番は、楽譜のハードさはそれほどないにも関わらず、アンサンブルが揃わない難しさがある。各人とも、個人の練習ではそれなりの精度に仕上がっている筈なのだが、それがアンサンブルの精度に結びつかないのだ。

ま、単純に難しいという話ではある。互いのやっている事を理解した上で、どうすり合わせるかというのは、個人練習では難しく、どれだけ意識的にアンサンブルの練習を重ねられたかにかかってくるのだが、その辺りはどうしても不足しがちだ。いずれにせよ、集中的にアンサンブルを重ねる事が一つの解決法なので、来週の1日練習でどこまで集中できるかにかかっている。

そして午後は某企業オケの見学(と終了後は懇親会)。
主としてKオケの参考とするための訪問である。

オケにも中長期ビジョンが必要だと諭された今日の情報交換。さすが企業オケと思いつつ、いやそれ自分がやるのは正直きつい。
送信 5月10日 20:44 From Hootsuite

正直な話、普通の市民オケにも籍を持つ身としては、企業オケだけにのめり込むのは難しい。実際問題として、オケにそうした中長期ビジョンを持ち込もうと考えるのであれば、自分はKオケよりもF響を優先するだろう。きついというのはそういう事だ。

一方で、Kオケの持続的な発展を考えるのであれば、誰かがその部分を埋める必要があり、誰かがやらなければならないとすればそれは自分の役割なのだろうとも感じる。他のオケという逃げ道がある状態ではなかなか難しいのかもしれないが、何かやらなければな〜という気にさせられた。

・・・練習したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月 8日 (金)

ブランドという言葉の定義

ブランドというものを考える時に、正直厄介だと感じている事の一つに、その言葉の定義が曖昧という問題がある。いや、定義自体は種々あると思うのだが、人によって認識が様々で、噛み合わない事が少なくない。

連休中にブランドに関する本を2冊読んだのだが、その中ではっきりブランドを定義付けたのではないが、筆者がああこのように認識しているのか、と感じられた一節を引用してみる。

世の中にあらゆる商品・価格帯のブランドがあふれている今、30年以上その価値を保ち続けているブランドは0.02%とも言われています。つまり、ブランドが生まれてから成長し、成熟期を経て衰退するまで30年だということです。
(「奈落の底からはい上がるブランド再生ストーリー」フミ・ササダ/宣伝会議)

”理念からビジョンまでの一貫性”は、言い換えれば”過去から未来への一貫性”です。効果のスピードにかかわらず長期的で持続性のあるものでなければ、ブランドはすぐに揺らぎ、発揮される効果は少なくなってしまいます。
(「ブランドファースト」木村裕紀/日経BPコンサルティング)

本の内容自体が、前者は商品ブランディング、後者は企業ブランディングを中心としているという事もあるだろうが、両者のブランドの認識はかなり異なるものであるように感じる。やっかいなのは、その違いがあまり言語化できない事だ。

これはそもそもブランドが心の中に作られるものであるという事に起因しているのだろう。ブランドの定義というのは、その点の認識については大体において一致するのだが、それが故にその先に差異が生じている感じがある。

加えて本に書かれる主張というのは、科学論文とは違って筆者ごとに異なっていてこそ意味があるのだから、なおのことかもしれない。そもそも人によって違うものという事を前提とする必要があるのだ。

正直、社内でブランドの話をする時には、各人が自らブランドと考えるものについてレポートし、それを共有した上で、互いの考えの違いを理解した上で会話をした方が良いような気もする。

もっとも、それはブランドに限った話ではなく、諸々そうなのであろう。だからこそビジネスは数字という認識のブレようのないものを土台にする必要があり、それができていないのが課題ということかもしれない。

理念とかビジョンとかを数値化するってのもなぁ・・・できなくはないような気もするけど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月 7日 (木)

連休明け

今日は連休明けなのだが、テンションが低い。というか、そもそも体調が悪い。昨日は1日寝ている羽目になったのだが、どうもいつもと違う生活リズムになると、体調を崩す率が高い気がする。

土曜日は午前中F響の定期演奏会に向けた実施要綱を作成し、午後は練習した。
日曜日は午前中F響の練習があり、午後は掃除をした。
月曜日は久しぶりに自転車を引っ張り出して、サイクリングをした。
火曜日は平河町ライブラリーに行き、本を読んだ。
水曜日は寝ていた。

ターニングポイントというか、体調に変化を感じたのは火曜日の朝で、発熱を自覚したのはその夜のなのだが、そう考えるとサイクリングのダメージという事になるだろうか。なんだそれ。

もっとも別の見方としては、月曜日の夜は少々寒かったという事はあるかもしれない。火曜日に平河町ライブラリーに行く際も、少々肌寒さを感じたのだが無視してしまった。その辺りの変化に無頓着だったという事はあるだろう。

何れにしても、少々困った事に、今日から4日間飲む機会が続くのだ。今日はKオケの練習後の飲み会なのでまぁ辞するとしても、明日は自分が幹事、明後日はこれっきりになる一発オケの打ち上げ、明々後日はこちらから持ちかけた他企業のオケとの懇親会で少々欠席しづらい。

まぁ、低空飛行で乗り切るしかないだろう。もちろん仕事も。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月 1日 (金)

NBとPB

NB(ナショナルブランド)とPB(プライベートブランド)の違いについては、ブランドというものを捉える上で色々考えさせられる事が多いのだが、先日はこんな事を考えた。

しかしこういうのを読むと、PBというのは小売の最大の強みである「目利き」を失わせて、メーカーが得意とする「ものづくり」の土俵に巻き込んでしまう、長期的にはメーカー有利の戦略なのかも知れない気がしてくる。 / “「トップバリュやめよ…” htn.to/6vXJp9NXp3R
送信 4月29日 17:23
From Hatena

ものが作られてから販売されるまでの機能をメーカーと小売の2極に単純化して考えてみる(実際には卸や物流といった機能も間に挟まっていて事態はもう少し複雑だ)。

メーカーは、あたりまえだがものづくりに長けている。技術をベースにしたコスト低減や品質向上などにも強いと言えるだろう。
小売はそれらを仕入れて売る立場だから、目利きに長けている。市場のニーズを捉えるという点でも優位性があるだろう。

複数の商品の中から良いものを見極めてチョイスする能力、最終購入者のニーズを敏感に察知できる能力を生かして「ものづくりをする」というのが、PBの考え方だ。一般的にPBは安さが特徴となる事が多いが、本質から言えばそれは全体のコストのどこを誰が担うかを変えただけの話で、PBだからコストが安いと特徴付けるのは安直だろう。

PBづくりは、ものづくりの領域だから、その製造において目利きが優位に働く事はない。そもそもチョイスが存在しなくなるのに、目利きなど必要ない。品質の向上というのも、ものづくりの領域だから、小売の強みよりはメーカーの強みが発揮される領域だ。という事は、PBの持つ優位性は、直接接する最終購入者のニーズに敏感に対応できるという点にしかないという事になる。

しかしこれは昨今ではメーカーでも獲得できる能力でもある。肌で感じる事は出来ないだろうが、ネットの普及やビッグデータなど、そうしたニーズに近づく方法は格段に増えてきている。さらに言えば、「肌感」というのは、小規模組織である内は生かす事が可能だろうが、小売としての組織規模が大きくなれば意思決定の現場から遠ざかる事は想像に難くない。

かくしてPBはNBと同じ土俵の競争に巻き込まれる。そもそもCMなどを含めたマーケティング施策が必要になる時点でもうPBとは言えないだろう。そうしたコストが不要である事がPBの価格を支えていたとすれば、それを行うという事はそうした優位性を失う事にも繋がる。残るのは、NBメーカーとPBメーカーというメーカー同士の対決という構図になり、小売は目利きの余地もなく脇へ追いやられる事になる。

そんな事を考えたりしていた。英国などは日本よりもずっとPBの比率が高いそうだが、小売の寡占化も進んでおり、その競争構造は「小売という名前のメーカー同士の競争」のようにも思える。極端な話、メーカー側が小売業に進出した場合でも、同じような構図になっていたのではないだろうか。

では無印良品のようなオールPBのお店はどうなんだという話もあるかもしれないが、あれは小売からスタートしたと言ってもあそこまでいけばメーカーとほとんど変わらない。小売の機能を市場における複数の商品からの目利きにあると考えるのであれば、MUJIのあれは目利きではなく、ニーズに寄り添った「ものづくり」であろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »