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2015年5月27日 (水)

尻拭いとしての集団的自衛権

集団的自衛権の問題はデリケートな話題ではあるのだが、その行為の是非という問題の他に、その行使を担う政府のガバナンスを信頼できるかという問題が混ざっていて、日本の場合は前者よりも後者が問題なんじゃないかと思わなくもない。少なくとも推進している人達の日々の発言とかを聞いたりしていると。もっともメディアを通じたものなので、どこまで本当なのかという問題はある。

集団的自衛権の行使はやむなく必要なものだったとしても、それが必要になったという事態に対して責任は負わなければならない。そもそもそうした行使なしに世界の平和と秩序を維持するというのが、政治家の役割であろう。集団的自衛権という実力の行使は、いわば平和維持の最後の手段であって、最初の手段ではない。

例えるなら、学級の秩序を維持するために体罰を行う教師には、その行為自体は仮にやむなしだとしても、その事態を招いた責任はあるという事だ。そうなる前に食い止めるのが教師としての役割なのだから。体罰にせよ集団的自衛権にせよ、それらは「対処」であって「予防」ではない。そしてより重要なのは予防であろう。

だからという訳でもないが、集団的自衛権を行使した政府は事態収束後にそうせざるを得ない事態を招いた責任をとって総退陣という規程でも加えておけば良いのではないだろうかと思わなくもない。それでもそうした決断をした事は、その必要性を裏付けるものにもなるし、退陣したからといって蔑む必要はなく、むしろ後世まで賞賛される決断になるだろう。

それでは割りが合わないというのであれば、集団的自衛権の行使には政治家にとって割りに合う何かがあるという事になり、そういうメカニズムがある意思決定の仕組みには胡散臭さが免れない気がする。

現実問題としては、そうした仕組みを組み込む事は事実上意思決定を不可能にし、法案自体を有名無実化してしまうので、発想としては机上の空論に過ぎないのだが、ようはそういう覚悟があるのだろうかという話ではある。

集団的自衛権の行使というのは、それ自体は国際平和の維持のためだとしても、正義を守る剣などではなく、それまでの失態の尻拭いに過ぎないという意識ぐらいは持っておきたいものだ。

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