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2015年8月31日 (月)

オフからの切り替え

今週は丸々休みを取ろうと画策していたのだが、結局取れなくなった。多少予想はしていたとはいえ、覆す努力が足りなかったのだろう。いずれにせよ、休みを取れるように業務をコントロールしていくのも仕事のうちなのだから、自分の問題ではある。

逆に言うと、そうしたこともあって今週はなるべく予定を入れないようにしていたため、少々隙間が多い。今週に持ち越すことになってしまった仕事を除けば、週としてやる事が他に予定されていないので、この機会にこれまで先延ばしにしてきたことを片付けるには良い機会かもしれない。早めに片付けて後半だけでも休みを取るという選択肢もあるのだが、休みを取らないのであれば、木曜日のKオケの練習にも出ておきたいし、そうなるとまとまった休みにするのは難しいので、まぁすっぱり諦めてしまった方が得策であろう。

とはいえ、正直に言えば、気持ちはついてきていない。やらなければならない持ち越し分はもちろん終わらせるにしても、それ以外に何かをやろうという気持ちを作りきれていないのだ。気持ち的にはオフに入ってしまっているに等しい。

そういう精神状態というのはある意味もったいないのだが、一方で仕事にモチベーションやテンションを持ち込むなよという気持ちもあったりして、こういう週をどのように過ごせるかが、きちんと仕事にコミットしているかのバロメーターになるのかなと考えてしまったりもする。

さて、気持ちを入れなおそう。とりあえず予定を組もう。

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2015年8月27日 (木)

可視性とブランド

少し前のメモにこんなものが残っていた。

ブランド化とは「可視性を下げつつ」「理解してもらう」事である。

やや言葉不足なので補うと、ブランド化とはそのモノやサービスの価値の可視性を上げずに、価値の理解を促進し、価値を高めること、みたいな感じになるだろうか。余計分かりにくいな。

可視性というのは、そのモノの価値が分かりやすく見える事を示していて、そうやって買い手の理解が進む事で価値を決定づける要因、差別化の要因が少なくなり、やがて価格だけで評価されるコモディティ化が進むのだそうだ。

例えばそのモノの良さがAという何かに起因している場合に、その模倣が起こればその要因による差別的優位性がなくなる。その価値を生み出している要因が分かりやすければ分かりやすいほど、そうした事は起こりやすいため、伝える側としては分かりやすく伝えたいのだけれども、分かりやすすぎても良くないというジレンマに陥る事になる。

ブランドによるイメージ形成には、その可視性を下げる要素がおそらくある。何が良いのかよく分からないけど良い、と認知されれば、その模倣は極めて難しく、差別的優位性の維持に大きく貢献するだろう。

一方で行き過ぎれば単なるイメージで糊塗したまがい物、みたいなやり方になる。偽物というのはそういう事で、価値を示す可視性が低いからこそ、表面だけを模倣したモノが出やすいというのは、別の側面の真理だろう。身も蓋もないが。

BtoBの世界にブランドが通じないというのは、その世界では可視性が低いままでの取引などあり得ないからだ。ただ、そう考えると、BtoBの世界でブランディングなど可能なのか、という気もしてくる。逆の見方をするなら、可視性の低い状態でブランドなんかで評価していて大丈夫か、というものだ。

ただ一方で、取引相手に対する一定の信頼のようなものは確かにあり、それは定量的にはなんとも推し量り難いといった要素もあるような気がするので、その辺りは結局人間同士の取引だから、みたいなところに帰結すのかもしれない。

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2015年8月26日 (水)

クリエイティブであるという事

デザインとか、アートとか、クリエイティブとか、そうい「感性的な話」はよく分からない。

正直に言うなら「クリエイティブである事」「クリエイティブでない事」の違いがよく分からない。自分の感性でしか分からない事を誤魔化すために使っているだけなんじゃないかと思わされる事が多々あるので。 / “IDEOトム・ケリー氏が語る「…” htn.to/UP91T1nPU
送信 8月25日 13:07 From Hatena

IDEOトム・ケリー氏が語る「ビジネスマンだった私が、クリエイティビティを身につけるためにしてきたこと」
http://bizzine.jp/article/detail/871

いや、分からないというのは逃避かもしれない。以前書いた音楽の話ではないが、例えば視覚的要素が、人間の脳に与える影響を科学的に測定できるようになれば、上記のような「なんとなく感性で評価している」みたいな部分というのも、そうではないものに変わってくる。

デザイナーやアーティストというのは、そういった部分をある程度経験的に分かっていて表現に反映させられる人達だと考えれば、科学的要素がなかった時代の天才音楽家の音楽と同じである。
そしてそれに対する脳の反応は、ビッグデータの分析などを通して徐々に解明されていく方向にある。

しかし、だ。

そうなると「クリエイティブである」という事も、人工知能に置き換える事が可能になっていくという事になるのだろうか。最近噂の五輪のエンブレムなども、そうしたデータから人工知能がデザインする事が可能になっていくのだろうか。

いや、その場合は、定義そのものが少し変わってくるのかもしれない。「多くの人に受け入れられるデザイン」ではなく、「多くの人の認識を変えていくデザイン」という事だ。いやいやまて、それでもデザイン自体を生み出すのはデータから導く事が出来ない訳ではないよな。ようは最大公約数ではないポイントを選べという事なのだから。

何となくだが、そのような環境になってくると、クリエイティブであるというのは、「新たな価値を生み出す」という創造力以上に、「新たな価値を認める」という受容力の領域の問題になっていくような気がしなくもない。新たな価値を生み出すのは人工知能でも出来るが、それを新たな価値として認めて受け入れるのは、人間にしかできない。そもそもその価値は人間を対象として生み出されたものだからだ。

先の記事のインタビューの中にはこのようにある。

この成功は、二人がそれぞれ自分の専門分野を持ちながらも、互いに上手く協働したからこそなし得たことです。得意分野が異なる人同士が協力し合えば、大きな成功が得られる可能性が高まる。

ここでのポイントは、専門分野を持つ双方の「生み出す力」ではなく、上手く協働する「受け入れる力」がクリエイティビティの発揮につながった、つながるという事を示しているのかもしれない。

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2015年8月25日 (火)

ブランドの浸透ターゲット

マーケティングはもちろんだが、ブランドというのもその認知や浸透を図るターゲットの設定が重要である。特にブランディングという実際の浸透活動に当てはめた時に、きちんとリーチすべき対象は誰なのかは非常に重要な問いかけだろう。

コンシューマブランドの場合、大抵は「より多くの人に知ってもらう」事が目的になりやすいので、そのあたりの意識が希薄になりやすい。だが、厳密に言うならばそうではないはずだ。マーケティングは基本的に顧客(および潜在顧客)に対するリーチが重要だが、ブランディングの場合はもう少し厳密に、階層化というか、セグメントを切り分けてリーチの仕方を変えた方が良いような気がする。

例えばメーカーのコンシューマ商品のブランドの場合、実際にその商品を買ってもらう消費者(生活者)の他に、それを店舗に並べる直接顧客(場合によってはバイヤーと売り子でも違うかもしれない)、競合他者(参入させないなどの優位性を築くため)などが、認知浸透の対象として考えられる。高級ブランドなどの場合は、実際に購入しない人も(購入者の優越感を高めるために)認知ターゲットになってくるかもしれない。企業組織の場合は、その商品を作る従業員ももちろん浸透のターゲットになる。

彼らに抱いてもらうイメージは、基本的に同じである必要があるが、接点はまるで異なるし、場合によってはメッセージの伝え方も異なってくる。もしブランディングというのを分析的な視点で捉えるなら、そうした細分化が必要になってくるのではないか。

そして、そのように考えれば、例えば広く認知されることを目的としないようなターゲット設定を持ったブランドの構築というのも可能になる。基本的にBtoBの世界でブランドを考えるのであればそういうことになるだろうし、BtoCにおいても、カテゴリーによってはその方が有効になってくる可能性もある。

また、そうしたターゲット設定は、広く一般への認知を目的とした場合の属性情報(年齢性別など)とはまったく異なってくるかも知れない。

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2015年8月21日 (金)

Xperiaのない1日

今日は・・・Xperiaを家に忘れてきた。

おそらく特段困るという事はない・・・筈だが、スケジュールなどはXperiaで確認する事が多いのでやや面倒ではある。もっとも、Googleカレンダーでの管理なので、手帳などと違ってそれだけに依存していないのは利点といえば利点だろう。

あとは外出などがあるとちょっと手間だったりしたと思うのだが、幸いというか、今日は1日会議でカンヅメの予定で、基本的にそうした出番がない。プライベートのメールとか、SNSなどを空き時間に確認できないという事はあるが、それは特に不便というものではない。

そう考えると、基本的に手放せない割には依存していないとも言える。おそらく通信デバイスとしての基本機能部分に、生活がそれほど依存していないからだろう。

もっとも、意外とそんな時に限って何かあるのかもしれない。

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2015年8月20日 (木)

メンバー不足にどう対応するか

今日はKオケの練習。ここしばらくは会社にサイレントチェロを置きっぱなしにしてそれを使っていたのだが、9月に急遽演奏の機会が入ったため、通常の楽器を持って出勤した。

・・・雨なので萎えそうになったが。

Kオケはすでに社内では2回演奏を行っていて、次は時間としては短いながらも3回目になる。演奏技術云々はともかく、意外と機会があって、それはそれで良いことだろう。ただ、回数が増えてくれば、演奏レベルを笑って済ませる訳にもいかなくなってくるので、その辺りのバランスというか、さじ加減が難しい。ポリシーとして、レベル向上よりも様々なメンバーが集まる事や楽しさを目指しているので、参加のハードルが上がってしまうのも考えものだ。

一方で社内で認知されるようになってくれば、今回のような声もかかる。そうやって認知が広まらないと、潜在的な参加者へのアプローチもできないし、声がかかるようでないとそもそも活動自体の維持が難しくなる。

もう一つの課題は・・・その機会にちゃんと人がそろうかどうかだろうか。自分もそうだが、楽器的にどうしても欠けると困るメンバーというのはいて、出欠を確認したらその1人が当日欠席になっていて、これをどう補うかというのは結構難題である。

まだまだ小規模で、しかもトラで補うのは難しい訳だが、さて、どうしたものか・・・。

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2015年8月19日 (水)

メンバーの役割

会議運営の難しさは、本質的にはそれが出席者のための会議なのか、運営者のための会議なのかに左右されるような気がする。

ファシリテーションの技術を運営側の技術と狭い意味で捉えるなら、それは極論すれば「出席者は無能」という思想に基づいている。これは全人的な意味ではなく、あくまでもその会議において無能という意味だが、いずれにせよ非協力的であったり、無理解であったり、そのままでは会議そのものには資する事のないメンバーからいかに実りある議論を引き出すかというのが「ファシリテーション技術」というものであるなら、それは人を機械的に工数で捉え、マニュアルで働かせる発想に近い。

少なくとも、出席者自身はそのまま変わったり成長したりする必要はなく、ファシリテーターが上手に導くことで、有効な会議の結論を導こうという手法だ。いや実際は違うのかもしれないけれども、そのように感じられる。少なくとも、会社の会議運営において、メンバーではなく運営側に問題があるとされることが多いのは、根底にそうした発想があるからだろう。

個人的には有能な(その会議において有能な)メンバーであれば、運営側にどんな不手際があっても関係ない。というか、そもそも運営方という概念が必要ないような気がする。

これはリーダーシップの話などにも共通していて、フォロワーが優秀であれば、リーダーは自然にリーダーたる。優秀なフォロワーであれば(それは追従者という意味ではない)、リーダーになっても自然に振る舞えるだろう。フォロワーを無能と捉えて、それを導くというのがリーダーシップの発想だが、フォロワーというのは、いわばその組織のメンバーの大半であり、その中で「役割として」中心を担うのがリーダーであるなら、メンバー一人ひとりがそうした役割を明確に意識していれば、リーダーにはさしたる努力は不要になる。

ま、理想論といえば理想論で、現実はそうではないから、ファシリテーターやリーダーががんばるという構図になるのであろう。

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2015年8月18日 (火)

オケを選ぶ

ようやくというか、オーケストラEの音源を入手した。CDで探せるとよかったのだが(探すのも楽しみのうち)、時間が無いため、今回はiTunesストアで購入。便利といえば便利だが、味気ないといえば味気ない。

さておき、これでようやく曲の全貌が分かる(まだ聴いていない)。本番まで約1ヶ月ということを考えると今更感もあるが、頭のなかで聴いたことのある曲をなぞるような状態に持っていければ、楽譜を見て弾くべき音の処理をするよりも大分反応は早くなる。変拍子が多用される曲もあるので、感覚的な慣れも重要なのだ。(もっとも、変拍子は音源を聴いただけでは処理できない事も多い。)

それにしても、オーケストラEもF響もアンサンブルMも、同じ期間に本番が集中していて、昨年の2週連続4公演よりはマシだけれども、何故こうなってしまったのかがよく分からない。その辺り「選ぶ」ということをしないからそうなる。選んでいないわけではないが、選ぶ基準に時期的な集中とかが考慮されていないのだ。

一方で、縁あってのものなので、特に初めて声をかけられた時は、まず乗ってみる前提で考えるのはやむを得ない。都内には数多アマオケがあるが、関われるのはごくわずかだ。いや一つで良いのではという話もあるが、少なくとも声がかかった縁は大切にしたい。

もっとも、次回以降もどれだけ関われるかは、その初回の感触によるのだが・・・。

反省というか、注意点として、自分の場合ズルズルと居付いて流されてしまう傾向がないわけではない。能動的に乗るオケを選ぶということも時には必要なわけで、その辺りはもう少しシビアに見るようにしないと、乗り気のしない曲に何となく乗ってしまうという事態になりかねない。

なんといっても時間は有限なのだし、さらえるリソースもそれほどないのだから、本来その部分はもっと冷静に選択をしていく必要があるだろう。特に弦楽器は基本的には全乗りが前提なのでなおさらだ。

今日は練習するかなぁ・・・。

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2015年8月17日 (月)

休み明け

短いながらも夏休みが終了した。

特段何をするということもなく、あえて言えば海を見に1日ドライブをしたりはしたのだが、事前に計画をたてていた訳でもないので、夏季休暇だからという感慨は特にない。少し長めの連休があったなという程度の感覚だろうか。

どちらかと言えば無目的にぼーっと過ごしていたためか、気持ち的には無為に過ごした感もある。いやドライブなどは12時間に及んだ訳で、それなりに時間は使っていたのだが、昨日日曜日のF響の練習も休みだったので、全体に(準備や気構え等を含めて)何もしていない時間が多い感覚なのだ。

でもまぁ、それが充電ということだよな、と思う休み明けであった。

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2015年8月12日 (水)

広島交響楽団「平和の夕べ」コンサート

叩いて音を出す、それも直接ではなくメカニズムを通して叩く仕組みにもかかわらず、どうしてそんなに豊かに音色を使わけることができるのか・・・昨日は縁あって広島交響楽団の「平和の夕べ」コンサートに行ってきたのだが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を弾いたマルタ・アルゲリッチの演奏に対する感想はそんな感じだった。

ピアノという楽器は、仕組みとしては「打楽器」なので、一度叩いて音が出てしまえばその後音色を変えようがない・・・と単純に考えてしまうのだが、人間の探究心というか、技術によってそれらを克服していけるというのは素晴らしい。言葉にするのは難しいのだが、音が出そうで出ない、でも出るみたいなもどかしさ、切なさのような事まで表現できるとは思っていなかった。ただ静かに音が響くのとはまた違った情感で、超一流の演奏というのはああいったものを言うのだろう。

プログラムは、ベートーヴェンの「エグモント」序曲にピアノ協奏曲第1番、ヒンデミットの交響曲「世界の調和」で、当初は「世界の調和」がメインだったが、当日はピアノ協奏曲が後半に据えられていた・・・のは多分上記のVIP事情によるものだと思うのだが、結果としてはその方が良かっただろう。趣旨は分かるのだが、ヒンデミットは、初めて聴くと(そして初めて聴く人も多かったと思うのだが)難解でちょっとしんどい。その点ベートーヴェンはシンプルで聴きやすく、ソリストのパワーも絶大だ。

もっとも個人的に期待していたのは「世界の調和」の方だったりした。知らない曲ではあったが、20世紀の音楽家となれば現代音楽に近く、コンサートホールでこそ聴ける響きのようなものがあると期待していたからだ。

・・・が、残念ながらその部分は肩透かし。先日聞いた現代音楽の作曲のやり方にまではもちろん到達していないだろうから、そういった事まで期待した訳ではないのだが、大編成のオーケストラだからこそ奏でられるような響きが感じられない。曲がそうなのか、演奏がそうなのか、はたまたホールの席の関係なのかは不明だが、個々の要因ではなく、複合している感じがある。

席はアルゲリッチの表情まで見える至近だったのだが、オーケストラの響きという点では管楽器の音が遠くて抜けてしまうような感じがあり、弦楽器の繊細な音色は聴けたのだが、管楽器とうまく調和していない。弦楽器をかき消してしまうか、弦楽器にマスクされてしまうか、いずれにしても一体感が薄い感じで、もしかしたらホールの響きを通して聴ける少し後方の高い位置の席のほうがその辺りの響きは良かったのかもしれない。いや招待券でもらっていて席に問題があると言ってしまうのも何だが・・・。
(その代わり、ピアノはばっちり聴こえた。キーを叩く音がホールのどこかに反響してノイズになってしまっていたのが気になったが、あの臨場感は前方席ならではだろう。)

それにしても弦楽器の一体感は素晴らしく(エグモントの冒頭だけちょっと乱れた)この所アマチュアの演奏しか聴いていなかったので、やはりプロは違うよなぁなどと思ったのだった。あの各パートが一つの音になって聞こえるアンサンブルをいかに実現するかというのが、オーケストラの弦セクションの課題なのは間違いない。

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2015年8月11日 (火)

インナーブランディングと理念浸透

インナーブランディング(インターナルブランディング)は、特にそれがコーポレートブランドのブランディングである場合、経営理念の確立と浸透に主眼が置かれる場合が多い。インナーブランディングというのは、従業員を対象としたブランド浸透のことであり、コーポレートブランドの場合のブランドというのは、多くは企業理念に表されているものだから、その考え方自体はあながち間違いではない。

間違いではないと思うのだが、違和感がある。それなら何故「理念浸透」と言わずに「インナーブランディング」と殊更に言う必要があるのか。単なる横文字化なのか、それとも何か異なった概念があるのか。

さらにアウターブランディング(エクスターナルブランディング)と対比した場合、何かを浸透させるという目的レベルの話ではなく、手段としてのブランディングを考えると、どこかレベルが異なるような印象を受ける。インナーブランディングとアウターブランディングは、対象が異なるだけで同じなのか、それとも対象だけでなく手段や概念まで異なるのか。

インナーブランディングとアウターブランディングが同じかといえば、多分違うだろう。対象者が違うというだけでなく、インナーブランディングはその結果従業員の行動を通してアウターブランディングに結びつけるという目的がある。言ってしまえば、アウターブランディングの手段の一つだと考えても良い。ただ、それが手段という位置づけであるなら、当然そのゴールは理念の「浸透」ではなく、その結果体現された行動が、アウターブランディングとして成立することが必須になる。言ってしまえば、理念浸透もひとつの手段に過ぎない。

その辺りは企業の理念というものをどのように位置づけるかで違ってくるのかもしれない。本来企業の理念というのは、人類や社会の持つ「人としての理念」とは違う。あくまでも組織として行動する上での判断基準であり、指針である。それはつまり、ステークホルダーに対して、その組織がどのような組織であるかを印象付けるための規範と考えて良い。ここでいう「印象」というのは、もちろん見せかけのイメージではなく、本質として実体だが、当然ながら見た目のイメージも含まれる。

つまり、そうしたものとして理念が作られているのであれば、その浸透は限りなくインナーブランディングに近い。近いが、より現実的には、その浸透の結果がどのような印象につながるかまでをKPIで捉えられる必要がある。あるいは、理念自体をそうしたものに組み替えるといった事も必要かもしれない。

まぁ実際には理念までを修正するのは難しいとなれば、その理念を印象に結びつけるまでのプロセスをマネジメントすることが、インナーブランディングには求められる。それは具体的な行動規範であったり、評価制度であったり、研修制度であるかもしれない。

そのように考えると、インナーブランディングで重要なのは、理念浸透という目的ではなく、従業員の行動を規定するあらゆる取り組みに一貫性と整合性を持たせることだと言えるかもしれない。

企業理念を因数分解して、アウターブランディングに繋がる要素を抽出し、それに関わる従業員の行動を洗い出して、その行動を方向づける施策を俯瞰する。それらの施策の結果、従業員が同じ方向に向かうことが出来るかを検証し、施策間のバランスを調整する。

そうなると、単なる理念浸透とは違った要素が生まれてくるに違いない。多分インナーブランディングにはそうした緻密さが必要なのだろう。

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2015年8月10日 (月)

アンサンブルの頻度

この週末は練習が2件だけで、「だけ」という書き方はなにか違うような気もするが、アンサンブルOの練習がないだけで気分的には平穏な週末だった。来週はお盆でF響の練習も休みになるので、少し中だるみ感が(気分としては)出てしまいそうで少々怖い。

実際にはそれほど悠長な事は言っていられないのである。先週は本番直後でしかも猛暑が続いていたので練習という気分ではなかったが、この気分を持続させてしまうと、お盆が終わった以降に勘を取り戻すのに多大な時間がかかる。

以前にも書いたが、アンサンブルOの練習をしている期間というのは、他の練習において楽譜の細部に注意が及ぶようになる奇妙な現象が発生する。逆に言えば、それ以外の期間は楽譜に対する注意力が低下しているとも言える。

重要なのは、そうした楽譜に対する注意力を維持することだ。昨日のF響の練習では、多少それが残っていた。しかし、次の練習の時に残っているかは分からない。

今週末はF響の練習はないが、オーケストラEとアンサンブルMの練習がかぶっていて、どちらかには参加する予定。まったく合奏の機会が失われてしまう訳ではないが、アンサンブルの頻度が低下するのは確かで、その場合に感覚が鈍っていくのは否めない。

そういった意味では(今は休団している)U響の平日練習というのも大切な機会なんだよねぇ。

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2015年8月 7日 (金)

ブランドの価値を高める

商品につけるラベルとしてのブランドと、もう少し幅広い意味での価値を感じさせるブランドとは、同じブランドという言葉を使っていても、実は何かが違うのかもしれない。

・・・なんて事をふと思ったりしたのだが、何が違うのかはうまく言葉に出来ない。同じような気もするし、仮に違うとしても、それが何の意味があるのかという気もする。「人権」という概念が、その概念よりも実際に侵害されている人を守ることが重要であるように、「ブランド」もその概念がどうこうというよりも、実際にどのような価値を生んでいるのかが重要であるように思うからだ。

そもそも、そういう事を考えるのは研究者の仕事だ。実務者たらんとするならば、本来、もっとプラグマティズムな発想であるべきだろう。自分の場合、実務者と言い切れる権限があるかはやや微妙ではあるが。

商品につけるブランドが、安心・安全・信頼の証であると考えたとする。提供する側は、ブランドを付けることでそれらを保証するだけでなく、その商品が実際にそれらの価値を提供する事を示していかなければならない。ブランドが商品に一方的に価値を付加するのではなく、その商品自体の価値を持ってそのブランドがどのようなものであるかを示さなければ、ブランドの価値の連想強化にはつながっていかないからだ。

例えばある商品を作って、これはこのブランドに相応しい価値を持っているから、そのブランドをつけよう、という発想でいると、商品自体はブランドの保証を受ける事はできても、ブランドの価値を強化することにはつながらない。ブランドの保証する価値の範囲内にとどまった価値しか提供していないからだ。
お客様はこのように感じるだろう。「このブランドなら当然だよね」と。

逆に、ブランドの価値を強化するためには、どういった要素を高めていく必要があるのかを考え、それを実現し伝えていくためにはこうした商品が必要だ、という発想で作られた商品は、その商品に接した人のブランドへの評価を高めていく効果が期待できる。既存の価値の範囲内であっても、その価値への評価を強化する事になる。
お客様はこのように感じるだろう。「さすがこのブランドだね」と。

商品のレベルにおいては、新商品やリニューアルにおいて、そのような連想強化を生み出せることが望ましい。少なくとも、そうした意図を持って開発し、伝えていくことが必要だろう。それらは作ってから考えることではなく、作る前に考えることだ。

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2015年8月 6日 (木)

モノづくりのスタイル

日本人のモノづくりはすり合わせに強みがあるという話は良く耳にする。これはそのモノの品質を高めるためる上では強みとなるが、コストを下げるとなると容易ではない。

対して欧米人(というか多分米国人)の強みは標準化によるコスト削減にある。品質についてはある程度妥協した上で、コストを下げる。そうする事によって、より多くの人に届けることができるようになる。もっとも、標準化にはある程度の品質を均質的に確保する意味合いもある。

すり合わせによる高品質のモノづくりにおいて重要なのは、モノづくりにこだわること以上に、そのモノの価値をきちんと伝えて、高くても納得して買ってもらうことだろう。つまり、単なる認知拡大ではなく、対象を絞り込んだコミュニケーションコストが必要になる。そもそも「大量に作って幅広く売る」という発想自体が本来はなじまない。大量に均質に作るために必要な発想は、すり合わせではなく標準化だからだ。

標準化による低コストのモノづくりにおいて重要なのは何だろうか。コミュニケーションとしては、ターゲットを絞るというよりは幅広い認知拡大が優先される。少量生産品は、売り手が顧客を選ぶ必要があるが、大量生産品は、顧客に選んでもらうための施策が中心になるはずだ。

高付加価値品というのは、その価値の方向性にある程度のベクトルがなければ突出した価値にはならないため、そのある意味では偏った価値を認めてくれる相手を商品の側から選ぶ必要がある。その場合は、販売チャネルもコミュニケーションチャネルも制限される。その究極が直営店で、高級ブランドがそうした直販を選択するのは、その商品の特性上至極当然の話である。

低付加価値品・・・というのは表現としてはちょっとおかしいので、より万人向けの標準化された付加価値品とでも言おうか(そういう意味では高付加価値品というのも違う呼び方が良いかもしれない)。そうした万人向けの商品というのは、相手を選ばないし選べないので、販売チャネルとコミュニケーションチャネルをいかに拡大するかが課題になる。より多くの人にリーチすることによって、買ってもらう人を増やすのが戦略の中心だ。チェーンストアとマス広告によって拡大する世界である。

どちらも理にかなったやり方だし、強みにそって展開すれば十分に戦える。中途半端に混同さえしなければ。

で、日本企業は結局どっちを選びたいのだろうか。

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2015年8月 5日 (水)

大企業病

長々書いた文章が吹き飛んだ。なんとか再現を試みたいが、たぶん無理であろう。

個人的に「組織」というものには、個人とは異なる評価軸が必要だと考えているので、挙げられている5つの特性は個人としてみた場合はそうだろうなと思うのだが、組織の側から見たら違うのではないかと思わなくもない。

1.視野が狭い
視野が狭いというのは、逆に一分野に集中特化して他をそぎ落としているという事でもある。組織というのは分業により効率化を追求するものなので、個々人にそうした視点を要求することで、組織全体としての視野を個人ではとうてい無理な領域まで広げることを可能にしている。
そもそも「視野が狭い」という人物評価の多くは、「相手が自分の関心領域に関心を持っていない」と同義である場合も多いので、一度相手の関心領域に自分がどれだけ関心を持っているかを検証したほうが良いだろう。

2.試行錯誤をしない
試行錯誤というのは、トライ&エラーといえば聞こえは良いし、行動している分勇ましいのだが、テストで言えば選択肢をすべて実際に検証して正解を探して回答する、という行為にあたる。それが経験の蓄積や実力に結びつくという要素は否定しないが、本当に効率的かどうかは注意が必要だ。落とし所というのは、本来各人の検証を持ち寄ることで正解に近づくためのアプローチの結果であろう。組織というのはそうした多くの検証を束ねるためにある。
・・・ま、そうではない議論に陥ることがあるのは否定しないが、それは組織の問題というより個人の問題のような気がしなくもない。

3.足りないものばかりが視野に入る
4.飛躍した非連続的思考についていこうとしない
試行錯誤と同じで、多くの検証が束ねられれば、当然足りない事柄もそれだけ集まる。気づかずにやってそれをエラーとするか、気づいて事前に止めるかの違いと考えたほうが良いような気がする。
そもそも個人が考える「7割」と組織の捉える「7割」はかなり規模感が違う。個人の視野で7割というのが、組織においても7割とは限らない。

5.現地現物を実行せず、ただ正論を唱え、げきを飛ばす
組織の一員として、マネジメント層にそんないらだちを感じることがない訳ではないが、結局実行されないものは、どんなに正論に見えても正論ではなく、実行しないで済んで良かったという話である。個人的に、実行されない正論で終わらずに、とにかくやるんだと強引に実行された結果陥る状態のほうが傷が大きい気がしなくもない。(とにかく行動を唱えるコンサルタントの机上の空論に踊らされた結果とか。)

組織というのはある種の安全装置を担う要素もある。個人にとっての正解と、組織にとっての正解は必ずしも同じではないということをよく理解した上で、組織としての強みをどう活かすかを考えるのが本来だろう。「大企業病」という欠点を論じる事こそ、まさに大企業病的行動であるような気がする。

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2015年8月 4日 (火)

現代音楽の楽しみ方

先日の演奏会の打ち上げで聞いた話の中で、個人的に衝撃的だった事がある。

それは現代音楽の作曲家のアプローチの話。現代音楽を演奏する際は、演奏家としての個性を込める以前に、自分がパーツであることに徹する必要があるという話の流れの中で、音のスペクトル分析から曲を作っているという話があったのだ。

よく分かっていないのだが、スペクトルというのは光だけの話ではなく、音にも関わる話のようだ。Wikipediaによると、

音源も同様に様々な周波数の成分の混合である。周波数が異なれば、人間の耳には違った音として聞こえ、特定の周波数の音だけが聞こえる場合、それが何らかの音符の音として識別される。雑音は一般に様々な周波数の音を含んでいる。このため、スペクトルが平坦な線となるノイズを(光の場合からのアナロジーで)ホワイトノイズと呼ぶ。ホワイトノイズという用語は、音声以外のスペクトルについても使用される。 https://ja.wikipedia.org/wiki/周波数スペクトル

となっている。どういった周波数の音が人間の耳にはどのように聞こえるから、その音の周波数を生み出すために、この楽器のこの音とあの楽器のあの音を組み合わせて・・・といった事を計算しながら作る(作曲家もいる)のだそうだ。

確かに、そうやって書かれた曲の場合、演奏家一人ひとりが何か自由な解釈を挟む余地はありえない。加えて、CDなどで再現された音では、本来聞こえるべき音が聞こえていない可能性もある。その話をしてくれた人は、現代音楽こそホールで、それもS席で聴くことを勧めていたが、そうしたホールの響きまで計算して作られているとすれば、まさにその通りだろう。

そこからもう一歩踏み込めば、どういった音が人の脳にどのような反応をもたらすかといった事まで計算された曲というのが登場するのもそう遠くないに違いない。少なくとも音楽家の経験的には、どういった音が心地よく、どういった音が不快かといった事はとっくに分析されている。それに脳科学が加わり、文字通り脳内の反応まで計算された音作りがされるようになるという訳だ・・・マクロスプラスの世界じゃないか。
(マクロスプラスには、登場するバーチャルアイドルの歌が、人の脳の反応をモニタリングしながら作曲されている場面がちょっとだけ登場する。個人的に衝撃的なシーンだったのだが、絵空事ではなくすでにそれに近い状態だったとは勉強不足だった。)

そんな訳で、ちょっとそんな音楽を聴いてみたいと思ったりしたのだった。もちろん演奏したいかどうかは別の話である。

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2015年8月 3日 (月)

演奏会終了

アンサンブル・オレイユの第21回定期演奏会が終了した。

ようやくというか、これでニールセンとも一旦お別れである。もうさらわなくて良いという安堵感と、もっと楽しみたかったというちょっとばかり残念な気持ちが入り交じっているが、おそらく二度目の演奏機会は余程のことがなければない訳で、貴重な時間だった。しかしそう考えると、U響のシベリウス5番に乗らなかったのは(比較という意味でも)残念であったかもしれない。

まぁ二度目があったとしても、弾けるようになるとはとても思えないのだが・・・結局歯がたたないところは歯がたたないままで、最後何とか曲についていけるようになったショスタコーヴィッチの室内交響曲に比べると、消化不良な感じは否めない。もっと速いパッセージでも弾けていた事はあるはずだが、ニールセンは最後まで音の動きに馴染めることはなかった。ああいった自分自身の文脈にない音の進行をどう消化して弾けるようになるかは、課題といえば課題だろう。ただ、そう遭遇するものではないので、どこまで克服すべきかは微妙ではある。

さて、これで一段落ついたということで、次は・・・まぁ色々あるのだが、まずはF響のラフマニノフをしっかりさらわなければならない。オレイユの本番翌日は分奏だったのだが、曲についていけているようで、細かい部分がまったく追い付いていない。実は本番までそれほど間がある訳ではないので、早急にいい加減な部分をクリアにしていく必要がある。

もっとも、ニールセンと違ってラフマニノフの場合は、その音の進行はほぼ自分の文脈の中にあるとは感じていて、ようは歌えるようになれば弾けるようになるだろうという感覚はある。自分の場合、どこかで音が身体の中に入ってくると弾けるようになるのだが、それがどこかで訪れるだろうという感覚はあるのだ。まぁ本番直前になってしまうかもしれないけれども。

昨日はアンサンブルMの練習もあったりして、こちらは弾いたことのある曲ばかりなのだが、これも見ておくことはしないといけないよね、などと感じたのだった。考えてみればF響の本番前にはオーケストラEの本番もある訳で、9月後半から10月前半にかけてはまたまたラッシュになるのだ・・・。

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