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2015年10月30日 (金)

マエストロの指示を問われる時

今日はあまり時間がないので、昨日呟いた内容のまとめなど。

合奏でトレーナーに「ここの弾き方はマエストロはどう指示されていますか」と質問されるのは、指示の有無を聞かれているのではなく、ようするにそろってないよと言われているのだと受け止めた方が良い気がしてきた。マエストロの指示ではなく、オケのアンサンブルの意思を問われている気がする。
送信 10月29日 17:38 From Hootsuite

オケの側にそろえる意思があってそろっていれば、音の長さといった事についてマエストロの指示がどうなのかを確認する必要はない訳だ。ばらついているからこそどちらなのか確認の必要が生じる。
送信 10月29日 17:41 From Hootsuite

ではそのような質問があった時にオケとしてはどのように答えるべきであろうか。とりあえずはコンマスにそろえるしかないよね。というか、マエストロの指示があろうがなかろうがコンマスにあわせるしかない。
送信 10月29日 17:44 From Hootsuite

逆にトレーナーはそろってないのは指示の問題ではないと割りきって、そろえるべきパートにあわせるように言ってしまった方が良いのだろう。マエストロからの指示があったにしても、全員が寸分たがわずにその長さを同じく捉えているとは限らないし、いずれにしてもアンサンブルは生物なのだから。
送信 10月29日 18:09 From Hootsuite

追記するような事もないのだが、指示の有無を聞かれた際に、すでに明確に指示がなされていればそれは「出来ていない」「不徹底」という事で直せばよいのだが、指示がなされていない場合にはそこから先に進めるのが難しくなってしまうのだ。

その辺り、指導を受ける側としてもどう答えるべきなのかは考えておく必要があるのだろう。聞かれないに越した事はないのだが、まず無理な話ではある訳だし。

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2015年10月29日 (木)

投資としてのデバイス購入

今日は展示会のため幕張に来ている。自宅からだと相当に遠い。随分と久しぶりだと思っていたのだが、駅を降りてみたら最近見たような感覚があって、そういえばここ1年以内に来た事があるような気がしてきた。覚えていたのは駅にあったラーメン店だったけれども。
(カレンダーを見ると3月だった。結構最近。)

展示会が始まるのは10時なので時間はたっぷりある。会社に立ち寄る事も考えたが、悲しいかな出社するぐらいの時間に出ないと間に合わないのでやむを得ない。

昨日はセミナーだったのだが、色々とヒントを得る事ができた。
ただ、そういう仕事の話はさておき、名刺交換をした講演者がMac(で多分スライドはKeynote)で指輪型のプレゼンツールを使い、Apple Watchを着けていた事が印象に残ってしまった。メーカーのブランディング担当者だったのだが、デジタルマーケティングも担当していて、職種も食品ではなく電子機器系なので、そういうものなのかもしれない。(そういうもので良いかどうかはともかく。)

Apple Watchを身に着けている人はあまり見た事がない。腕時計なのでそうそう目に入るものではないのだが、はっきり目にしたのは二度目ぐらいだ。まぁそんな事を言い出したら自分が着けているSmartBandTalkなんて一度も目にした事がない訳だが、この辺りのウェアラブルデバイスをいかに有効に使い倒すかというのは、まだまだ想像がしにくかったりする。そういう意味では出費に見合うメリットがあるかは微妙だろう。

デバイスの買い替えというのは、消費だろうか、浪費だろうか、投資だろうか。投資と思って買いたいものだが、結果としてROIが高いとは言い難い。むしろ浪費に近い。ただ、単なる浪費というには、必要となる機能要素もあるので単純に断じ難くもある。投資として活用できているという人がいれば、ぜひその根拠を教えてもらいたいのだが、その場合もせいぜい経費ぐらいで、投資としての回収ができているかは微妙な気もする。

趣味として買うものだと割り切ってしまえばそれまでだけれども。

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2015年10月28日 (水)

鞄の重さと使い倒す一手間

今日は外出があったので、久しぶりにMacBook Airを鞄に入れずに家を出た。

軽い。やはり1kgを超えるウェイトがあるのとないのとでは随分と鞄の重さは変わってくる。最近は(使いもしない)iPad miniも鞄には入れっぱなしだったので、そうしたデバイス関係で無意味に鞄が重くなっていたのは確かだろう。

実際、このブログもそうだがiPad miniでダメという事は全くなく、MacBook Airの方が少々作業には便利というだけに過ぎない。それも多分、iPad mini側の使い方を少し工夫(Gmailの運用の工夫も含めて)していればさほど問題がないものを、面倒でやっていないから起こるだけの話だったりする。

その辺りは、デバイス単体でどうするというよりも、サービストータルの使い方をどう工夫するかなのだ。使い倒す意味では、iPad miniはもっと活用の幅を工夫した方が良いのは確かで、それはiPad miniというハードの問題よりも、その上で活用するクラウドサービスの使い方次第だったりする。

昨日の話に戻るのであれば、現在の複数のデバイスの使い分けは、そうしたサービス側の使い方で工夫を凝らすのではなく、とりあえずハード側でなんとかする的な発想からきている部分もある。Googleのサービスを面倒なく使うためにAndroidにしたり、とはいえ音楽はiTunesだからiPhoneは残したり・・・デバイスがあるからそれぞれを使い倒そうというのはある種の言い訳で、一つにするための一手間が面倒だからという側面は確かにあるのだ。

だから手放せずにどのデバイスも手元に残していたりする。その辺りもきっぱり決別した方が良いのかもしれない。

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2015年10月27日 (火)

デバイスの共通化

手持ちのデバイスを共通化したいという欲求と、分散したいという欲求は別々のタイミングで交互に現れる(同時にある訳はないが)。現状の手持ちのデバイスというのは結構分散していて、やや中途半端に使わい分けているというのが実情だろう。ただ、意識的にそのようにしたというよりは、ずるずるとデバイスが増えることで結果そうなったという感じが強い。

そんな訳で、共通化したい欲求に襲われている。単なる物欲である。

先日書いたように、iPhone6s plus+AppleWatchがその選択肢だ。XPERIA Z3 compactを買ってわずか1年ではないかという話はおいておく。買った時はしばらく使うつもりで購入したのだが、1年も経つとそのような気持ちに襲われてしまうらしい。

XPERIAにした動機の一つに、Googleのサービスとの親和性が当然ながら高いという事情がある。デバイスは乗り換えても、サービスを乗り換えるつもりはないので、それならばよりGoogleに近いAndroidの方が良いのではないかと考えた。XPERIAにしたのは、ウェアラブルとしてのSmartBandTalkに惹かれたからで、当時すでにAppleWatchは視野に入っていたが、デザイン的にイマイチに感じていた。

その辺りのデザイン的なイマイチ感は今も同じだが、一方でサービス的にはiPhoneでもGoogleの主要サービスのサポートについてはそれほど遜色ない事が分かってきた。調べてみると、Googleが提供しているアプリも結構あって、XPERIAで使用しているアプリとそれほど違いはなさそうである。
(ちなみに基本的に純正アプリを使用するのが個人的なポリシーである。サードパーティ製のアプリは機能的な差別化がされていて、それが便利な一方でそれに依存してしまう。そういう独自の機能は使わず、自分の使い方をサービス側の機能に合わせるのが、個人的な考え方なのだ。)

しかし残念ながら、SmartBandTalkについては、流石にiPhoneでは使えない模様。AppleWatchに切り替えるのならいずれにせよこれは不要となる訳だが、何となく惜しい。

もっとも共通化を徹底的に進めるのであれば、現在手持ちのXPERIA Z1とZ3 compact、iPhone5s、場合によってはiPad miniまでを手放さなければ、結局デバイスが1台2台増えるだけという話になってしまう。流石にiPad miniは迷いどころだが、主機となるiPhoneの他に通信機能をキャンセルしたスマートフォンを3台持つというのでは本末転倒だ。

実際には3Gも残っていたりして、これはすでに一切の通信が行えない目覚まし時計と化しているが、せいぜいそれぐらいで、とにかく不要になるのであればバッサリ断舎離するぐらいの気持ちが持てないのであれば、やめた方が良いのであろう。

そうそう、それとXPERIAの優位点はおサイフケータイがあったな。スイカとナナコとスタバがチャージされていて、それなりに役に立っている。その点はちょっと何か考えないといけないだろう。

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2015年10月26日 (月)

アンサンブルの練習

F響の第九の練習もこの週末で3回目。全体の回数が少ないので、来週には折り返し地点である。これまでは思い出す事が中心だったようにも思うが、これからはそこに積み重ねていく努力をしなければならない。

そんな訳で日曜日の午後はパート練習。参加人数が少ないのは残念だったのだが、コントラバスのトップとトップサイドに(一部)出席してもらった。

つくづく、アンサンブルの練習はアンサンブルの中でしか出来ないと思う。チェロとコントラバスのユニゾンであってさえ、チェロ単独とベースと一緒では気を使う部分が異なってくる。ましてや個人でさらうのとは全く異なる。個人でさらえばなんとかなるというのは、「楽器の演奏」の話であって、「アンサンブル」の話ではないのだ。

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2015年10月23日 (金)

言論の自由

昨日こんなことを呟いた。

「権利」の所は、当初「自由」と書いていて、最終的に「権利」にしたのだが、改めて考えるとやはり「自由」の方が良いような気がする。

我々は一人ひとり意見が違い、それに固執しやすい。異なる相手の意見を受け入れるというのは、自分の固定化され、凝り固まった考えを解放することだ。

そう考えれば少なくとも前半は「自由」の方が良いのだろう。後半は「権利」のほうが良いかもしれない。

言論の自由というのは自らが他人の言論を認める自由であって、自分の言論を他者に認めてもらう権利ではないのだ。

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2015年10月22日 (木)

kindleライブラリと利用端末の整理

昨日少し読書の事を書いたので、kindleのライブラリの整理をする事にした。具体的にはいくつかの端末で使い分けをする。

正直な所、XPERIA Z3 compactでは、少々読書はしんどいと感じている。どこでも読める利便性はあるが、画面上に表示される文字数が少なくてもどかしい。そこで、書籍に関しては以前そうしていたようにXPERIA Z1を使うことにする。Wi-Fiのみなので、Whispersyncが少々厄介なのだが、複数の端末で読もうとするからそうなるわけで、少なくともビジネス書についてはZ1に統合する。(小説は思案中。)

あわせて、読了したものは端末上には残さずに一旦削除する。どちらもZ1上に残しておくと、読み終えていないものがよく分からなくなってしまうのだ。

コミックはZ1でもサイズ的に厳しくて、元々iPad miniでしか読んでないのでそのまま。最近は増えてきてしまったので、最新刊以外は端末上には保存せず、読みなおす時に改めてダウンロードするようにしている。

そうなるとZ3をどうするかは思案のしどころで、昨日はビジネス書(Z1)と小説(Z3)で分けるかと考えていたが、もしかしたら未読(Z1)と読了(Z3)で分けても良いかもしれない。読み返しやハイライトの確認はどこでも通信できる端末で出来たほうが便利ではある。既読分はMacBookAirにダウンロードしておく方法もあるのだが、Mac用のKindleクライアントはコレクションの機能が使えないのが泣き所だ。

ひとまずその整理法で進めることにして、ではこれから少々整理をする。

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2015年10月21日 (水)

読書のスタイル

昨日読書のことを書いたのだが、考えてみたら明確なアウトプット(要約したレポートを作成するとか)を意識しないかぎりは、何も考えずに読んで漠然とした情報プールを自分の中に形成するというのが自分の読み方なので、ようは何かを得ようと考え過ぎなのがいけないのではないかという気がしてきた。

最近読んだ内容というのを反芻できず、そういえば何が書いてあったんだったかな、他人に説明できるかな、みたいなことを感じる機会が増えていたので、ついつい読みながらメモを取ろうとか、感じたことを残しておこうとか、余計な色気を出しながら本を読んでしまっている。

そういう目的意識は、それはそれで大切だと思うのだが、多分自分のスタイルとしては向いていないのだ。小説だって、登場人物の台詞やとある一節で使われた表現を覚えていて引用したりする人がいるが、そういうことは(自分は)出来ないのだと割り切ったほうが良いと感じている。そもそも場面の雰囲気と全体の流れしか把握せず、細かい描写は読み飛ばしている事も多い。

ビジネス書についても、そうしたスタンスが必要なのだろう。それでも残るものは残ると割り切るみたいな。何となく二度読むのもな・・・という感じで、1回でインプットを完結させようとしてしまうのだが、2回目があるかはさておき、しっかり吸収しようなんて姿勢は肩がこるだけだと思ったほうが良いのかもしれない。

あるいは逆に、冒頭に書いたように明確なアウトプットを意識して、一読ごとにまとめや書評を作成するといった事をやるかだ。ただ、そういうのって結局その本を読む目的から外れた行為のような気がしなくもないんだよね・・・。

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2015年10月20日 (火)

読書というインプット

昨日は帰りに寄り道をして少々連絡作業をして本を読んだ。

本に関して言えば、インプットは全然足りていない。乱読でも何でもインプットをする事が重要と感じているのだが、なかなか出来ていない。加えて読んでいても、あまりインプットされている感じがない。

好奇心や興味がかきたてられないからだ。

内容の問題と言ってしまえばそれまでだが、課題感というか、自分の側の意識の問題もあるような気がする。小説やマンガは受身で読んでもそれはそれで楽しいが、ビジネスや学術系の本というのは、受身では頭に入らないし発見にもつながらない。そういった意味では、ダメだと思ったらさっさと諦めて他の本を読むという選択肢もあるのだが、さりとてそこまでも思いきれない。

正直まったく楽しくない訳でもないのである。その辺りが微妙だ。

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2015年10月19日 (月)

クリーニング

日曜日の第九の練習は、初めてのトレーナーによる練習だった。大変参考になるというか、とても丁寧な「トレーナーによる練習」だったような気がする。

具体的には、テンポを落とし弾き方を変えて、オケ全体の和音の響きや和声の進行を確認するものだったのだが、勢いだけで疾走してしまう第九の第二楽章などでそうした練習をすると、これまで見えていなかった世界が見えてくる。人によっては「ゆっくりだから弾きやすい」で終わってしまうかもしれないが、それはそれとして、「ゆっくりだから聴きやすい」状況を作るというのは、オケとして互いを聴き合う習慣を身につける上で重要なトレーニングだろう。

さらに重要なのは、こうした練習を本番の指揮者ではない練習においてやっておくことだ。上記の練習は、曲の解釈に関わる要素はほとんどない。「クリーニング」という表現を使っていたのが印象的だったが、合奏の中でノイズとして発生しやすい要素を取り除く作業は、こうしたやり方さえ知っていれば、団員による練習指導でも可能だ。あの1回で劇的に変わるとまでは思わないが、習慣的に積み重ねれば相当変わってくるだろう。すべてそうすれば良いというわけではなく、楽譜の状況に合わせて様々なやり方があるのだろうけれども。

そういえば悲愴のパート練習で、第三楽章をゆっくり練習した時に、表裏で分かれている互いの音がどう絡み合っているかを実感として確認できた事を思い出す。ああした事をオケ全体でやるというのは、やはり大切なのだ。

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2015年10月16日 (金)

メンバーを増やす

昨日はセミナーで、元々聞きたいと思っていた講演は正直イマイチだったのだが、別のスピーカーの話に認識をガツンと揺さぶられたのであった。マーケティングをサイエンスで捉えるというのはたしかにそういうことだよなぁと。

そんな話はさておき、昨日はKオケの練習。久しぶりに復帰したメンバーや新たに参加したメンバーなどによりそれなりに充実した練習だった。もちろんフル編成でアンサンブルができる訳ではないのだが、これはこれで楽しいのである。

とはいえ、音が丸裸になるのは正直しんどい部分もある。これはそれなりに人がそろっているオケでは経験できない緊張感だ。自分ができない所、何となくで済ませてしまっている所が筒抜けになる感覚というのは、管楽器ならともかく、オーケストラの弦楽器プレイヤーには中々味わえない感覚だろう。それが嫌だという人もいるだろうし、オーケストラとしての本来の姿でもないのだが、惰性で弾いてしまいやすい自分のような人間には時にそうした刺激も必要な気がする。

一方でこの(個人的な)楽しさに安住していては、いつまでも集団としてのオケの形は定まってこないわけで、やはりメンバーをどう増やすかというのが課題になる。その辺りは演奏以上に考えるのがしんどいので、ついつい後回しになりがちだ。どこかでと言わず、ハッキリ期限を決めて動く必要があるのだろう。

ただ、どういうやり方があるのか、どうにも手詰まり感がある。F響とはまったく逆の悩みではあるのだが、これはこれでなんとかしていかなければならないのだ。

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2015年10月15日 (木)

音声認識

昨日、ふと思い立ってiPhone5sとXperiaで音声認識を試してみた。iPhoneは言わずと知れたSiriで、Xperiaは(docomoのしゃべってコンシェルではなく)Googleの音声認識である。

ほんの少しやりとりを試してみただけだが、やはりSiriに一日の長があると感じる。対話型のやりとりがスムーズで、スケジュールの確認など、ちょっとした事なら音声だけで操作が可能だからだ。Googleの方は、時折検索結果を提示して後はデバイス上での操作待ちになってしまような場合があり、音声だけで何とかなる感じがない。

そんな事を試してみたのは、AppleWatchにSiriを組み合わせれば、iPhone6Plusのサイズでも何とか普段使いとして運用できるのではなかろうか、などと感じたからだ。理想を言えば、iPadぐらいのサイズで通話機能をAppleWatchで代替できるのが良いのだが、そこまででなくても良い。

SmartBandTalkを身に付けるようになって分かってきたのは、このデバイスがある事によってスマートフォンをチェックする頻度がかなり低下してきている事だ。それは「時間の確認」「スケジュールの確認」「メールやメッセージの確認」といった、これまでスマートフォンを開いていた理由の多くの部分を代替しているから、と考える事ができる。

時間の確認はそもそもスマートフォンの主機能ではないのでさておき、スケジュールの確認とメッセージの確認を、通知だけではなく(現状は通知だけ)、内容の確認までウェアラブルデバイス側で出来るようになれば、その頻度はさらに低下する。スマートフォンが鞄の中にあっても、必要な機能を手元で使う事ができれば、そのサイズを手持ちの使いやすさに最適化して考えるのではなく、視認性に最適化して考える事ができる。

それなら大きい方が楽かもしれない。

なんの事はない、単なる物欲ではあるのだが、キモとなるのは音声認識だ。ウェアラブルデバイス上で視覚で情報を捉えるのは容易ではないし、そんな事は時間の確認だけにとどめたい。

ただまぁ、今の所はSmartBandTalkでもある程度の需要は満たせそうではある。正直スマートウォッチはちょっと大きくて邪魔くさいので、この程度のサイズの方が楽ではあるんだよね・・・。

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2015年10月14日 (水)

門戸を閉ざす

アマチュアオーケストラにおいて、団員の数というのは一つの悩み事である。少なければ常に補う必要が出てくるし、といって多ければ良いというものでもない。団員は金をもらって演奏するのではなく、金を払って演奏をしているので、例えば団員が多いことによって乗れない場合に不満を抱く場合もある。というか、多くはそうなりたくはないのであろう。そもそも参加している動機を考えれば、乗れなくても良いとか思ってしまう自分の感覚の方がおかしいのは間違いない。

市民オケの場合はそういう考え方になるわけだが、学生オケではそうではない場合もある。さらに言えば、スポーツなどで考えればまったく違う。試合に出られるレギュラーというのはほんの一部にすぎず、出られないのは自分の問題であって、組織の問題ではない。オーケストラはスポーツとは違うのだと言われればその通りだが、例えばレベルアップというものを考えた時に、組織内でも切磋琢磨があるのか、特に進歩はなくても席は確保されているのかでは、結果は大きく異なる感じがする。

スポーツ選手は、試合に出られなくても、むしろ出られなければなおの事一層練習する。
オーケストラプレイヤーは、演奏会に出られないなら、もうその曲は練習しないのだ。

まぁそれも、趣味で楽しみたい世界に競争を持ち込むなよと言われてしまえばそれまでだ。アンサンブルというものの性格を考えれば、ライバルを蹴落とすような関係よりも、楽しく和やかな関係の方が良いのかもしれない。あまりそのように感じたことはないけれども。

それでも個人的には、既存の団員の既得権益のように新規の希望者を締め出すことが本当に良い事なのか、常に悩みはある。アマチュアの市民団体は、市民の趣味の受け皿として、広く間口を持つべきではないか。特定のテーマと仲間意識を持って結成された団体であるならともかく(アマチュアオーケストラにはそうした趣旨の団体も少なからずある)、市民のための団体を標榜する時に、既存団員のポスト的な都合で門戸を閉ざすことが本当に良いことなのか。

団員が足りていないオケでは到底発生しない贅沢な悩みなのだが、そんな事を悩んだりする。

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2015年10月13日 (火)

他オケの本番と第九の練習

アンサンブルMの演奏会が終了し、F響の第九の練習がスタートした。

土曜日のアンサンブルMの演奏会については、直前の練習2回を他の本番や練習の関係で欠席せざるを得なかったため、演奏面についてはあまり貢献できた感じがしない。個人練習でのカバーもあまりできなかったので、無理な参加だったなと反省する。出来ない曲ではない筈なので、結局は練習への参加回数を稼げないオケに参加するのは注意が必要ということだ。

本番は和光市民文化センターの大ホールだったのだが、ステージがやたらと広く、奏者間がかなり離れた感じで配置されたのが印象的だった。F響はホールが固定されているので、他のホールを経験できるのというのは、他のオケに参加する動機の一つだろう。

一方、運営面ではいくつか参考というか、ヒントになる取り組みもあった。置きチケットを一括で準備する仕組みや、乗り番によって演奏会費を変動させる考え方は、そのまま取り入れることができるかどうかは別として、なるほどという気もする。少しアレンジを考えてみても良いかもしれない。


日曜日のF響の第九は、先週本番を済ませたばかりなのに、いきなり本番指揮者による合奏。初見であれば無茶な話なのだが、第九に関しては2年毎に取り組んでいるため、少し事情が異なる。年末までの短期間で仕上げられるのも、過去の蓄積があってのことだ。

・・・が、練習では、その過去の蓄積が悪い意味で慣れとなっているという指摘があり、コンマスからも「一番言われたくない言葉だった」と(後で)言われた。一方で全然ダメなパートなども存在はしたのだが、それよりも慣れからくる惰性をどう解消するかが、これからの練習でのポイントになるだろう。

一度慣れてしまったものをリセットするのは難しい。それに慣れること自体は決して悪いことではない。ようは惰性にならず、真摯に楽譜に向かい合えるかという問題だ。例えば今回の楽譜はベーレンライター版なので、前回前々回のブライトコプフ版とは細部が異なっている。そうした違いをどう弾き分けるか、あるいは指揮者による解釈の違いをどう察知して反応するか。その辺りの緊張感が「慣れ」によって失われてしまう事を戒めよという事だろう。

加えて、毎回指摘される事だが、オーケストラとして主体的にアンサンブルを作っていくのをF響は苦手としている。パート単位、セクション単位でどのようにオケ全体のアンサンブルを創り上げていくか。そこには他のパートの理解も必要になるし、その絡み方に合わせた表現が求められる。楽譜についていくのが精一杯という段階は第九の場合は通りすぎているのだから(いや弾けない所は多々あるけれども)、本来はそうした部分により注力する事によって、アンサンブルの精度を高めていく事が必要なのだ。

いずれにせよ、練習回数が少ないので、効率的に、計画的に組み立てていく事が必要だろう。次に指揮者が来るまでの練習をどれだけ充実させることができるかどうかだ。

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2015年10月 9日 (金)

ミラーニューロン

先日のF響の打ち上げで「あなたはミラーニューロンが発達していないのだ」と言われた。

ミラーニューロンというのは、Wikipediaはこうある。

ミラーニューロン(英: Mirror neuron)は霊長類などの高等動物の脳内で、自ら行動するときと、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞である。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように"鏡"のような反応をすることから名付けられた。他人がしていることを見て、我がことのように感じる共感(エンパシー)能力を司っていると考えられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3

このミラーニューロンというのは、ざっくり言ってしまえば先天的な本能に基づく反応ではなく、後天的に(他の個体の行動から)獲得した反応を生み出す機能だ。この考え方はとても興味深い。共感能力もそうだが、ヒトの持つ社会性のような要素を作り出す根源にもなっているものだろう。
(そういう意味では、例えばアリの社会性とヒトの社会性は持って非なるものということになる。)

それにしても、共感能力を司る・・・我ながら納得である。ぶっちゃけていうなら、自分のそうした能力は本当に低い。そんなことはないという反応が(他人から見て)あったとすれば、それは自覚的な学習と努力の結果で、ミラーニューロンのような無意識の反応ではないような気がしなくもない。開き直るわけではないが、実際ある程度の自覚はあるので、意識的にそうしようとする場合もある。とはいえ素になるとそういった要素があっさり顔を出す。

ミラーニューロンの研究はまだまだ未知の要素が多いようなので、ではこれが本当かと言われればそうではないかもしれないわけだが、個人的に納得した話であったのは確かだ。

考えておかなければならないのは、「自分はミラーニューロンが発達していないから気をつける必要がある」ではなく、「他人はミラーニューロンが発達しているから気をつける必要がある」という事だ(多分その捉え方自体他人とは違っている気もするが)。

共感やそれに基づく協調的な判断や考え方というのは、彼らにとって無意識で当たり前の産物なのだ。
・・・自分とは違って。

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2015年10月 8日 (木)

インナーブランディングの対象は誰か

インナーブランディングは何のために、誰に対して行うのか。
昨日は社外のブランド関係の方々と飲んだのだが、ふとそんな事を考えた(というか、口走った)。

ブランドに対するロイヤルティを高め、モチベーションをアップする・・・というのは、実はインナーに限った話ではなく、そもそもブランディングそのものである。それが目的であるなら、「やりやすい」従業員だけを対象にするのではなく、それこそ株主や投資家に対しても仕掛けるものでなければならない。

昨日の話の中では、短期的な投資対効果を求める投資家の存在がブランドの育成を妨げるような議論もあったのだが、ブランド育成の視点というのは、そうした投資家をも取り込んでこそ成り立つ。特に経営に結びつけて考えるなら、対立軸で捉えるのではなく、共創軸で捉えなければ、いつまでもトレードオフにしかならない事になってしまう。CSRもそうだが、ブランドを価値創造に結びつけていく上で重要なのは、何かと対立し消耗しあう形ではない関係の構築のはずだ。

閑話休題。関係者のモチベーションと結びつけて考えるのであれば、それを「インナー」に留める線引はおかしいのではないか・・・そんな気がしなくもない。もちろん、ファーストステップとしてそこから始めるというのは分かる理屈だが、その場合、インナーではない領域への拡大も視野に入れた形でなければ、単なる内輪の満足感で終わってしまう。

そしてファーストステップであるなら、目的はモチベーションではなく、その他のステークホルダーに対して影響力を発揮していく為の地ならしという位置づけでなければならない。ブランドをもっとも体現するのが、もっとも近い距離にいる従業員なのは間違いない。その従業員を通したその他のステークホルダーとのコミュニケーションにおいて、ブランドとしての統一感を演出していくための手段がインナーブランディングだとするなら、それは納得できる。

ただ、ではその場合においても、インナーという線引が「従業員」という捉え方で良いのかという疑問は残る。

あるいは「ブランドにとっての」インナーとアウターというのは、その忠誠心によって計られる距離感の問題で、組織の内外や、特定のステークホルダーという形では捉えられないものかもしれない。従業員の中にも「アウター」は存在し、投資家の中にも「インナー」が存在するのが、ブランドが生み出す関係性なのではないだろうか。

そのように考えれば、インナーブランディングはすでに存在する忠誠心をより高めるアプローチであり、アウターブランディングは、今はまだ存在しない忠誠心を植え付けるアプローチだと区別ができる。その対象が誰であるかに関係なくだ。

意外とその辺りの捉え方が良いのかもしれない。

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2015年10月 7日 (水)

楽器が鳴らない時

昨日は練習をしたのだが、音が思ったように鳴らなかった。響かなかったと言っても良い。弓が弦に上手く吸い付かず、弾かれるような硬い音しか出ない。

時折そういうことがある。楽器のコンディションなのか、自分のコンディションなのか、本番などであたってしまうと最悪なのだが、そういった事はなかったように思うので、気持ちの問題なのかもしれない。ただ、個人練習ではなくオケの練習ではそういうことはあったように思うので、たまたま本番にはあたっていないか、テンションが高くて自覚できていないという可能性もある。

楽器が鳴らない時の練習はしんどい。ただでさえ個人練習はしんどいのに、楽器を弾く楽しさ自体も損なわれてしまう。そもそも練習が効果を発揮しているように感じられないのだ。こんな音しか出せない自分に楽器を弾く資格があるのかとさえ感じたりする。いや、それは言いすぎか・・・。

いずれにせよ、そのような状態ではあまり練習が成果につながらない。結局思い出しておくためにスコッチの楽譜を一度なぞるにとどめて終わったのだが、それはつまり第九やマイスタージンガーの練習は出来なかったということだ。今週どこかでもう一度時間を確保するべきか、諦めて当日に賭けるかは悩みどころである(賭けるなよ・・・)。

ちなみに楽器が鳴らない時というのは、スケールをやってもエチュードをやってもとにかくしっくり来ない。曲がさらえなければそれ以外の練習を・・・というのさえ通じないのがしんどいところだ。

結局あれは何なのだろうか。

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2015年10月 6日 (火)

降り番を活かす

府中市民交響楽団の演奏会が終了。

正直に言えば前回の演奏会終了後、「今回は降りる」という気持ちからスタートして、結局は乗るという結果になったのだが、演奏会自体は悪くなかった。そもそも「降りる」というのは、飽きたとか疲れたとかではなく、(乗れるのに)降りるという経験が何をもたらすのか、それで何ができるかという関心があってのものなので、それが出来なかったからモチベーションが下がるとか、そういったものではない。

弦楽器奏者は、ほとんどの場合降り番になるということはない。
多くのオケは奏者の不足に悩まされていて、エキストラを呼ぶほどなのだから、降りるという選択肢はそもそもありえない。その一方で、そのシステムが意識としても定着してしまうと、例えば編成を小さくするといった事が難しくなる。アマチュアオケは奏者のためのものでもあるので、プロのように「今回はお休みです」のような割り切り方はできないからだ。

もっとも、現実にはすでに府中では降り番が発生している。協奏曲などでは編成を小さくせざるを得ない場合も多いからだ。これは弦楽器奏者がほぼ不足していない恵まれた状況にあるためだが、一方で降りる人たちのケアができているとは言い難い。

この場合の「ケア」というのは、乗れない不満を解消するとか、そういった気持ちの整理の話ではない。その降り番を単なる「休み」にせず、当人やオケに対して何らかのポジティブな効果をもたらす何かができないかという話だ。ようするに管楽器も含めて、降り番を「出番なし」「練習休み」と受け止められやすい意識自体に個人的には不満があって、降り番によって発生する各人の時間を、何かに活かせないものかと考えてしまうのである。

ただし、これは降り番を経験したことのない人間の妄想や戯れ言である可能性もある。現実のものとして考えるには、一度経験してみるしかない。それもそういう課題感を持って経験する必要がある。漫然と受身で経験しても、それでは休みにしかならないし、そもそもその期間中にやれることを模索し、試すということに取り組まなければならない。

仕事であれば、そういうミッションを与えれば済むわけだが、愛好家の集まりではそんな訳にもいかない。人によっては、降り番に空いた時間を別のことに使うといった事もあるだろうし、それ自体を否定はできないからだ。それでも、毎週一定の時間をオケのために割いている中で、降り番というだけであっさりそれ以外にリソースを振り向けてしまうのではなく、オケの活動自体に振り向ける(それは別に運営だけの話ではない)方法はないものか、そんな事を考えてしまうのである。

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2015年10月 1日 (木)

録音する

本番を週末に控えている事を考えるとややギャンブルなのだが・・・弦を張り替えた。

弦を張り替えた直後は、チューニングが安定しないと言われている。しかし、冷静に考えるとガット弦なんかを使えば常にチューニングを求められる訳だし、「安定」というのは、単に面倒を少なくするだけの話ではないかと思わなくもない。ギターなどは、とにかく新しい方が音が良いという事で、どんどん張り替えるそうだ。ただまあ、演奏中にチューニングはできないし、本番直前の慌しい中チューニングにそれほど手間はかけられないというのも分かる。

正直にいえば、リスクもある。実際経験上はチューニングが安定しない。特にA線に関しては、そもそもペグが安定しない。この辺りはメンテナンス不足などもあるのかもしれないが、あとほんの少しが上がりきらないというか、そこをあわせるとペグが緩んで音が下がるという事が、張り替え直後は何故か頻発する。昨日の段階ではそういう事はなかったが、問題はこれからだ。今日はKオケの練習だが、そこで実際にどうなのかが問われるだろう。(早々に安定する事もある。)

実際のところ、今回は言うほど劣化はしていない筈だ。前回張り替えたのが4月なので、半年経っていない。昨日引いた感触では、劇的に変わるという事もなく、どちらかというと気分的なものに近いかもしれない。

で、録音もしてみた。すべて聴いてはいないのだが、聴いた範囲でやはりもうちょっとなんとかならんかな〜と思う。音がのっぺりしているのはビブラートが不足しているからで、特に音の切り替わる前後に途切れてしまうのが痛いのだが、右手の運弓で響かせることが出来ていない感じがある。

一方、録音しながら練習してみると、無意識に緊張感が高まるというか、普段いかに気を抜いて音を出していたかが自覚される。速いパッセージや難しい箇所を練習するのに録音は必要ないが、歌い込みが必要な箇所などは、やはりこうした練習を取り入れた方が良いのだろう。

正直、聞くに堪えないけど。

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