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2018年4月13日 (金)

続・赤信号を渡る理由

昨日の赤信号の話だが、この「赤信号」という例えが結構微妙に(人間性を見る上では)良いポイントを突いているというのは確かだったりする。

例えば昨日の例が、「誰も居ないお店のレジで商品を持ち帰るか」だったら、おそらく答えが割れることはないし、持ち帰ると答える人間は一発アウトだろう。「誰も見ていない崖の上で憎い相手がこちらに背を向けて立っている」でもそうだ。

窃盗や殺人であれば、(極論として実際にどうするかは別としても)それをすると答える人間はまず考えられないし、答えとして迷う事もない筈だ。(ただし、そこで理由を問われてしまうと逆に難しい側面があるかもしれない。)

それが赤信号の場合は迷い(意見の相違)が生まれやすい。その理由は、おそらくその行為の対象者が見えないからだろう。窃盗にせよ殺人にせよ、そこには明らかに被害を受ける相手が存在し、その結果を直接想起しやすいが、赤信号はそうではない。誰も居ない状況で赤信号を渡る行為が誰かに影響を与えると考える人は少ないだろう。

だから自分も状況によっては渡る。昨日の話は「自分に渡りたい理由があれば渡る」というもので、「渡る理由もないのに誰にも見られていないからと渡ったりはしない」というだけの話ではある。

一方で、では「誰かに影響を与えていない」と果たして言い切れるだろうかとも考える。この「対象者を想起しにくい」事案というのは他にもあって、昨今話題になっている海賊版の漫画サイトなども、悪びれず利用している人にとってはそういった類にあたる。想起できるかというのは、環境だけでなく当人の想像力にも影響されるからだ。

誰も見ていない赤信号を渡る事は、本当に世界のなにものにも影響を与えないものなのだろうか。誰にも迷惑をかけないというのは、単なる自分の想像力不足からくる無知ではないのだろうか。

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