« 2018年4月 | トップページ | 2018年6月 »

2018年5月31日 (木)

iPad miniとevernoteのストレス

最近iPad miniにイライラさせられる機会が増えてきている気がする。

自分が最も使うアプリはおそらくevernoteなのだが、そのレスポンス低下が著しい。そのような場合にevernoteというアプリではなく、iPad miniというハードウェアに矛先が向くのは、他のデバイスでも使用しているクラウドアプリだからだ。Googleカレンダーもそうだが、他では問題なく使えているというのが、ストレスにさらに拍車をかける。
(ちなみにGoogleカレンダーがフリーズする問題は今も発生していて、その都度再インストールをしてしばらくは使えるのだが、またある日使えなくなるというループになっている。)

少し使い方を変えた方が良いのかもしれない。

うっかりした事にiPad miniは一括で購入していない。かかるコストは結果同じといっても、分割の料金が毎月かかるというのは気分的にはストレスなので、余程の事情がなければ機種変更ということはしないだろう(などと書きつつあっさり変更することもあるのだが)。であれば付き合い方を変えるしかない。

kindleなどの閲覧系についてはまぁ問題ない。ミュージック関係は問題があるようならそもそもappleファミリーからおさらばものだろうが、最近は聴く機会も減っている。

Googleカレンダーはもう諦めるとして、evernoteは入力に使用するのでやや深刻だろう。これをXPERIAにしても良いのだが(過去はスマートフォンサイズのデバイスにキーボードで使っていた事もある)、その場合キーボードの接続先を変えなければならない。

Googleカレンダーと同じように再インストールというのも考えるのだが、抱えているデータの関係でチャチャっとやる事が出来ないのが難点だ。まぁオフライン運用をやめるという考え方もあるのだが。

さて、どうしたものかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月30日 (水)

何をやらないか

今日は外出も控えていて時間がないので手短に。

仕事であれ、趣味であれ、やるべき事やりたい事というのはいくらでも出てくるものなので、その中で「何をやるか」を考えるのは、自分を追い詰めるだけだと考えるようにしている。

重要なのは「何をやらないか」で、そうやって削ぎ落としていって最後に残ったものが「今やる事」だと考えるべきだろう。

とはいえそれはこうして常に意識していないと抜け落ちてしまう。

そういった意味では容易なようで困難な意思決定なのだろう。「何をやるか」を考えるのははるかに容易である。その結果は断崖への道だとしても。

逃げてはいけない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月29日 (火)

インプットサービスの見直し

サービス解約からおおよそ1ヶ月経ったので振り返りなど。

日経電子版についてはあまりストレスを感じていない。それだけ読んでいなかったという事で、その点についてはさておき、コスト的な事だけを考えれば良いコストカットだったと言えるだろう。もっとも、情報が抜け落ちている事象というのは自覚が難しいので、実は致命的なリスクを抱えている可能性は否定できない。

dマガジンに関しては若干ストレスがある。こちらは結構読んでいたこともあり(読み切れていなかったという事でもあるが)、そうした情報が抜け落ちたという自覚がまだ残っているからだ。しばらく経てば消えてしまうのかもしれないが、こちらに関しては復活しても良いかもしれないと考えている。

いくつかの雑誌はオンラインでチェックすれば良いと考えていたのだが、これは見込違いというか、思ったほど機能していない。眺め方の問題なのかピンとくる記事が少ない(これは記事の問題というよりこちらの感覚の問題である)し、何より広告が酷くてやたらとストレスがある。リンクで辿ってきた単独の記事ならともかく、サイト単位で見ようという時に何をしようにも同じような広告を度々見せられるのは辟易してしまう。この点はサイト運営者もクライアントももう少し考えた方が良いのでは無いかという気がする。

ちなみに解約ではなく契約だが、日経クロストレンドについては今の所は概ね満足だろうか。ただ、これも雑誌の形で読むのとは違って、ウェブでのチェックはどうしても偏るなという印象がある。結局、ページをめくればある程度強制的にインプットが発生する形態と違って、クリックを前提とするウェブメディアは少し違う位置付けで捉えておいた方が良いのかもしれない。

そして雑誌の購読が無くなった分、本を読むようになったかといえば、確かに若干は増えたのだが、雑誌ほどのインプット圧にはなっていない。やはり少し構えて読もうとしてしまうからなのか、接する時間をそれほど確保できていないのだ。もっともこちらはここしばらく音楽の方に気を取られていたという事にもよる。ポッドキャストも、練習録音を聴く方を優先してしまってなかなか聴けていなかった。

その辺りは少しスタイルを見直す事にして(少なくとも練習録音に関しては、通勤時間などのながら聴きスタイルではあまり有益では無いような気がしてきていて、根本的な見直しが必要と考えている)、dマガジンは来月復活を検討という感じだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月28日 (月)

社畜のニュアンス

「社畜」という言葉は、多くの場合嘲笑や揶揄のニュアンスで使われていて、会社への帰属意識のようなものを逆の側面から批判するための概念になっている。そこにあるのは会社の奴隷のごとく会社のために全てを捧げる事を否定する感情だろう。

それ自体は、まぁ分からなくはないのだが、この「会社」を「仕事」に置き換えた言葉って無いような・・・とふと思ったりした。

「会社への隷属」と「仕事への隷属」。同じようなニュアンスで使われている場合もあるが、社畜批判をする人たちの中には、仕事に隷属しているとも受け取れるようなハードワーカーも含まれていたりするので、両者は以って非なるものであるらしい。

会社への隷属というのは、つまりは組織に対する盲信である。組織の指示であれば他のあらゆるを犠牲にしてでも従い、時として世間の常識から外れても組織の論理に従うという事だ。まぁ社畜批判する人たちの常識が世間の常識かどうかはまた別だけれども。(ちなみにその組織が宗教であれば「信者」、国である場合は「愛国者」という。)

対比するなら、仕事への隷属というのは、組織ではなく仕事という行為に対する盲信という事になるだろう。他も同じように置き換えて捉えて構わないと思うのだが、不思議とこちらは「世間の常識」から外れていると感じる人は少ないような気がする。それ自体が世間の価値観化していて、それ自体を疑ってみる人が少ないとでも言おうか。

これは組織というものが個人の外部にあるものなのに対して、仕事は個人の行動として内在化されてしまうからだ。外部の組織を批判するのは簡単だが、内心を批判するのは難しい。働き方改革が、前者的な意味で受け入れられ、後者的な意味で批判されるのは、前者は他者否定だが、後者が自己否定につながるものだからだろう。

余談だが、家畜というのは、その最後はともかく、飼育されている間はむしろ大事に育てられるものである。それが商品価値につながるからではあるが、いってみれば奴隷とはむしろ逆の待遇であると考えた方が良い訳で、なんとなく社畜のニュアンスというのも家畜のニュアンスとは違うよなと思ったりする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月25日 (金)

時間配分

昨日はKオケの練習。合間にちょっとだけヴィシェフラドをさらってみたのだが・・・

ヤバい、ヤバすぎる。弾ける気がしない。

いやまぁ個人の譜読みでの読譜力と合奏での読譜力には何故か違いがあるので、合奏に直面すれば別かもしれないが、何れにしても曲を聴きながら楽譜を見るぐらいではダメで、何らかもう一工夫(でも足りなそうなのでふた工夫以上)しなければ難しそうである。力技でさらうのも難しそうだし、そもそも力技でさらう時間などない。

とはいえ、時間がないとはいっても、何をするにも時間は必要なので、まずは時間の確保だろう。しかし今週末も来週末も土曜日は夜まで丸々埋まっている。今週末の日曜日は(まだ確定ではないが)昼から飲み会の予定があって、来週末の日曜日には合奏が来てしまう。

・・・詰んでいる。

この辺りはリソースの配分の問題というか、無理な掛け持ち(決めた時は別に無理とは思っていない)が課題として露呈した形だが、いずれにせよその中でやれる事を考えていく必要がある。加えていうならそもそもさらう必要があるのは『我が祖国』だけではない。

もっとも、練習する曲がある事は幸せな事だとポジティブに捉えることもできるだろう。平日の夜や休日に何をしようかと迷う必要がないというのも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月24日 (木)

続:楽譜を読む

昨日は再び読譜にチャレンジ。すぐに眠くなってしまった・・・。

音源を聴きながら楽譜を追うという行為が良くないのかもしれない。いや必要な事だと思うのだが、すぐに集中力が途切れて追いかけられなくなってしまうのだ。最後はただぼんやりと音楽を楽しむだけになってしまい、楽器を弾くためのシミュレーションにもなっていない。

単純に寝不足で(読譜に関係なく)眠気が勝ったという可能性もあるが、正直あまり有効な形で読めていないのは確かで、別の方法を考えなければならない。

音をイメージできない事を補うために音源を聴きながら進めようとするのだが、実際には満足に読み取れないまま(音楽は)進んでいってしまっているという事を考えれば、むしろ音源は無視して、一つひとつ音符を追いかけていくのが良いのかもしれない。ただそうなるとやはり楽器が欲しくなってくるというか、音を出さない形で進めるのは無理があるような気もする。

オーケストラの場合、旋律だけを担当する訳ではなく(むしろ旋律は少ない)、頭の中で思い浮かべる曲の感じと楽譜の感じが想像以上に違っていたりするので、すぐに分からなくなってしまう。それを補うために、自分の場合は合奏に実際に身を浸すという事を必要としていて、それが結局初回は準備なしで何もできないまま終わるという事につながっていくのだが、これを何とか打破したい。

明日の夜にも時間を確保しているのだが(スケジュールしないとまずできない)、これも楽器なしの時間である。さて、どう進めたものか・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月23日 (水)

ハラスメントの欺瞞

セクハラにせよパワハラにせよ、そこに「ハラスメント(=嫌がらせ)」という行為者側の意図を問うニュアンスが加わるからややこしくなる気がしている。実際には受けた側がどう感じるかが重要という事を考えれば、そこに殊更やる側の気持ちを入れる必要はない。

「痴漢行為」「わいせつ行為」「暴力行為」「迷惑行為」と言えば良いだけの話だ。

逆にハラスメントにこだわるのであれば、そこに意図があったかは明確に問うた方が良い。相手に対する嫌がらせとして(やりたくないのに)痴漢行為を働いたのか、自らの欲求に基づいて(やりたくて)痴漢行為を働いたのか。意図はどうあれ痴漢や暴力である事は明白なのだから、どちらでもないとしても行為としては認定してやれば良い。行為の基準となるのは、それを受けた側だから、行為者側の判断尺度は関係ない。

この手の話で出てくるのが、愛情表現という詭弁である。自分はやりたくないけど相手のためにやった事という奴だ。これが詭弁であるのは「相手のため」というのは自分側の理屈でしかないという点だろう。相手に受け入れられてこそ相手のためなのであり、そうでないのは単なる自己満足に過ぎない。共通しているのは「行為側の意図」で判断しようという視点である。相手のためであれ、嫌がらせであれ、行為者の意思で捉えるのは対人のやり取りにおいては意味がない。

受けた側がハラスメントだと主張するのは、「相手に嫌がらせの意図がある」という事になるのだが、そこまで相手の気持ちを忖度する必要があるだろうか。多くは知り合い間で行われるので、気持ちを図りたいのは分かるのだが、それを嫌がらせだとするのは、どこかで自分に嫌がらせを受ける原因があると受け入れてしまう事にもつながってしまう。見知らぬ他人であれば痴漢であり暴力であるなら、それは見知った隣人でも痴漢であり暴力だと捉えてしまった方が良いような気がする。

見知らぬ相手に殴られたら暴行で、指導者に殴られたらパワハラなんて、そんな事はないんだよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月22日 (火)

楽譜を読む

30年以上楽器を弾いてきて何だが、基本的にソルフェージュができない。

初合奏に初見で参加してしまうのは、別に弾く自信があるからとかいう話ではなく、楽譜が読めないのでどう練習したら良いかが分からないのである。もちろんまったく読めないというつもりはなく、ある程度は読めているので、その中で初見の対応をしているのだが、これは楽譜を読んでいるというよりも、記号通りに指を動かしているという所作に近い。

五線譜上に並んでいるいわゆるオタマジャクシにあわせて、どのように運指するべきかというのは大体分かっている。音を出すためにどう運弓をすれば良いかというのもほぼ分かっている。ただし、その結果どのような音が出るかは分かっていない。本来は出すべき音をイメージした上で、それを実現するために運指と運弓を行うのが「楽器を弾く」という行為なのだが、その順番が少々逆転しているのである。

もっとも、馴染んでくれば音はイメージできるようになり、間違えた際にはそれが分かるようになり、状況に応じて修正もできるようになるのだが、最初の段階ではまずそうなっていない。

・・・と毎回開き直っていても進歩はなく、そもそもソルフェージュというのは学習して身につけるものだから、ぐだぐだ言わずに勉強するしかないのである。単にそれをサボっているだけの話だ。

という訳で昨日は読譜にチャレンジしてみたのだが、あえなく轟沈したのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月21日 (月)

演奏会終了

F響の演奏会が終了。退団騒動などもあって色々と微妙な心境で臨んだ演奏会だった事もあり、練習不足やら段取り不足やらバタバタとした感じになってしまった。

演奏面については、途中練習が抜けた分の穴は思った以上に大きかった。テンション的に回復しなかった事もあるが、ただでさえ難しい曲に絶対的な練習量の不足は否めないだろう。普通に参加していれば身体に入ってくる部分が入っていないので、演奏中のポカも多々やらかした。

今回は努めて冷静に弾こうという事で、前日のリハではかなり意識できていたのだが、本番ではプッツンと切れてしまっていて、結果として平常心であれば弾けるような所もできなかった。「平常心ならできる」というのは、言い換えれば考えながら弾いているという事になるので、精神状態によって思考が途切れると身体に送られる指令にも変調をきたしてしまうという事だ。

ようは「キレても弾ける」状態まで持っていった上で、考えながら冷静に弾く、ぐらいの心持ちでなければダメという事だ。しかし、キレても弾ける状態に持っていくのは難しい。個人練習でキレるという事はないので、合奏でそういう状態に身を浸すしかないからだ。これまでは合奏への参加量がそれを支えていた訳だが、今回はそこに及ばなかった。

運営面については、これも段取りを詰めておきたい時期に離脱をしていたので、外部スタッフの確保も、内部スタッフの配置も遅れをとった。何とかなったのは各人の努力の結果で、事前の段取りによるものではない。

演奏サイドはそうは言っても弦楽器なので多少代替はきく(弾けなくても多少は何とかなる)のだが、運営サイドに関してはそうもいかないので、結局退団を踏みとどまったのはそちらの要素が大きかった筈だ。大きかった筈なのにこの体たらくでは、別にやめても良かったのでは・・・という話だろう。後継者という言い方は良くないが、少しずつ誰でもできるような手順化を進めて、今回のような時も、自分自身含めてスムーズに乗り越えられるようにしておかなければならない。
(そのあたりU響はうまく仕組み化ができていた。)

昨日は打ち上げも一次会で辞して、車だったのでお酒もなし。素面で打ち上げのテンションについていく事は出来なかったが、では飲んでいたらついていけたかといえば多分そうではないので、当面はそんな感じに過ごしていく事になるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月18日 (金)

休日にブログを書く

今日は有給をとっているのだが、休日というのは会社を休む日であって身体を休める日ではないため、朝から通常行動である。近所のドトール(スタバに行ったら改装工事中だった)で朝食を済ませて先日届いた日経クロストレンドを読み、この後はスタジオに行って練習。その後の予定までは立てていないが、いずれにせよ何かしらはする。

とは言うものの、文字通りの休息日というのも必要だよね・・・とは思わなくもない。ただ、現実には「何もしない」状況を終日単位で作り出すのは難しく、結局は何かしらをするというのは避けられない。キリスト教の安息日だって「神に感謝」はしているのだから。

今日はダラダラ動き出すということがなかったので、いつもと違ってとりあえずブログも書いてみた。しかし、特に何というネタはなかったな・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月17日 (木)

レベルアップ

昨日は社内イベントでのアンサンブル演奏。こういう機会がもらえるのは大変ありがたい反面、どこまで対応していくかは悩みどころとなる。昨日の場合は、メンバーはフレックスで早上がりをして準備をする形だったのだが、いつもそのように対応できるとは限らないだろう。働き方としてはそれもありだろうけれども。

お酒の席での演奏という事もあり、自分たちにもお酒が入ってしまったので、さてどれだけ満足いく演奏ができたのかというのは(お酒だけでなく事前の練習という意味でも)微妙で、「不協和音が・・・」みたいな評価もいただいたりした。もちろんレベルアップははかっていかなければならないのだが、一方で参加の敷居を下げたい(自分でも参加できるかもと思ってもらいたい)という気持ちもあり、不協和音はさておいても、あまりレベルをあげてしまうのもという悩みもあったりする。もっともその辺りは憧れてもらうという戦術もあるので、言い訳にならないようにしていかなければならない。

さて、今週は週末にも演奏会がある。こちらは言い訳は効かない演奏会で、できればもう一段精度をあげたいところである。明日休みをとっているので、付け焼き刃でもそこでもう少し足掻いてみたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月15日 (火)

録音を練習に取り込む

昨日は水曜日のアンサンブル本番に向けた練習。若いメンバーに混じって(と書くと自分が老けたと感じるのだが、実際20年近い差はある)練習していると、遠慮してあまり言ってこないのだが、録音を聞いたりするとその音程の悪さに、これなんとかしろよと思われているだろうなぁと落ち込んだりする。

録音というのは不思議である。弾いている時には気づかないアラなどが見事なまでに浮かび上がって、現実を突きつけられる。弾いていて気づかないのは何故だとも思ってしまうが、録音でもきれいに聞こえる演奏というのはあるのだから、録音ではなく演奏の問題なのは間違いない。

昨日感じたのは(その前から感じていたけれども)そうした録音を当たり前のようにさらっと活かす姿勢だったりした。スマホで録音してその場で再生、気づいた点を言い合って、また録音して・・・という練習は、もっと取り込むべきなのだろう。そのひどさに落ち込む事はあっても、その積み重ねが結局糧となるのだ。

ちなみにもっというなら録画をした方が良いんだよな・・・とも思ったりして、スキーと自転車でしか使っていないアクションカムをそうやって使ったら良いのではないかと思ったりもするのだが、これがまた恥ずかしくてできていなかったりする。もっとも、弾いている姿は時々ビデオで確認したりするのだが、それなりに様になっているので、課題は音なのだと考えれば、録音で十分ではある。

さて、今日も練習がある。昨日は音程もそうだが楽器の鳴りも少し良くなかった。今日は少しは回復しているだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月14日 (月)

老いてこそ練習せよという指摘

今日は楽器運搬の関係であまり時間がない。今週は水曜日にアンサンブル、日曜日にオケの本番という事で、充実しているとも分散しているとも言えるのだが、ひとまず今日明日はアンサンブルに備えなければならない。楽しいから良いのだけれども。

土日のオケの練習は、練習不足やら集中力不足やら、色々と考えさせられる練習だった。「老いて衰えるならその分練習せよ」という指摘は、その通りだが、実態は逆になる事が多い。なんとなく誤魔化す事を経験で身につけてしまうからだ。そうした甘えを削ぎ落としてきちんと練習する事は確かに必要だと思わなくもない。

もちろん経験は邪魔になるわけではなく、多くの場合は弾くことを助けてくれるものだが、ついつい誤魔化す事に使ってしまうのも確かだ。もっとも自分の場合、昔は弾けた的な事はあまりなくて、昔も弾けなかったような気はするのだが、昔弾けなかった事が弾けるようになる事こそが成長だろう。この場合の弾けるようになるというのは、楽譜に対する習熟度の話ではなく、もう少し根本的な技術の話である。10回やって弾けるようになるというのは習熟だが、それを5回でできるようになればそれは成長だ。

衰えを練習でカバーするというのは、10回を5回でできるようにする努力というよりは、10回でダメなら15回20回練習するというのに近い。もちろん後者の積み重ねが前者につながる部分もあるのだが、より重要なのは前者をどう実現していくかでだろう。回数を減らすという意味ではなく、10回を5回でできるようにした上で10回練習すれば、より高みを目指す事ができるという意味だ。

そういえばひととき立て続けにやっていた個人練習もしなくなっているな・・・と思いながら、そんな事を考えたりした。今週は予定としては金曜日に休みをとっているので、そこで個人練習ができると良いのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月11日 (金)

Kオケの練習

昨日はKオケの練習。今日もあるのだが、来週に向けたアンサンブル練習のそれとは違って昨日はもう少し先を目標にしたオケの練習である。まぁ人数はアンサンブルに毛が生えた程度なのだけれども。

それでも昨日は新入社員が入団希望として来たりして、ああこんな感じで輪が広がっていくと良いのだよなぁと思ったりした。実際にはこの先のフォローがオケとしてきちんと続けられるかという問題もあって、彼女次第な側面もあるのだけれど、こうした縁は大事に育んでいきたいものである。

で、昨日の練習は7月にある会社OB会のパーティー向けなのだが、来年第九をやるとぶち上げた手前、アピールも兼ねてフラッシュモブ編曲版の第九をプログラムに入れている。並行してオリジナルの練習もしなければいけない事を考えるとやや混乱するような気もするのだが、周囲を巻き込んでいくためのアピールとしては外せない。もっとも、プログラムにどう組み込むかという課題はあって、曲の仕立て的に冒頭ソロが長く続くので、これを1曲目に持ってくるか、途中に組み込むかは悩みどころだ。

そういえば出演メンバーの確定も含めて、そろそろその辺りの段取りもまとめ始めなければならないのだった。F響の実施要綱といい、そういった段取りまわりが少々重荷になりつつあるな・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月10日 (木)

「やらない」をいかにマネジメントするか

久しぶりに時間管理の本などを読んだりして改めて思ったのは、こうしたメソッドの中で最も重要なのは「如何にしてノーと言うか」だろうと言う事だった。

このノーと言うのは、要するに「如何にしてやらないか」という事で、仕事であれプライベートであれ、自分の時間をマネジメントする上で最初に考えるべき事になる。整理整頓も、まずは捨てて(整理)、それから残ったものを整える(整頓)という順番な訳で、その逆というのはない。時間の管理についても、考え方や進め方は同じという事だろう。

が、これがなかなか難しい。モノの場合は最初に総量を把握してある程度固定してしまう事が可能だが、時間の場合はそれが刻一刻と変化してしまうからだ。全体を見て「やらない事」を決めるのは恐らくさほど難しくないと思うのだが、今目の前に発生した事象に対して、都度「やるかやらないか」を判断していくのは意外と難しい。
(ついでに言えばそういった事を考えられるのは「時間的に余裕がある」場合が多いので、逆に余裕があると勘違いをしてしまいやすい。)

そういった意味では基本的には「やらない」ぐらいのスタンスでいた方が良いと思うのだが、一方でチャンスを掴むというのはその逆のスタンスでないと難しい側面もあったりするので、その辺りは結局割り切りの問題だろう。

もっともこの「やらない」というのは、必ずしも捨てる事は意味していなくて、人に任せて自分ではやらないといった事も含まれている。「やらない」とか「捨てる」といった捉え方のイメージが問題だというなら、そこに別の表現を当ててやれば良いのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月 9日 (水)

音楽の愉しみ

野球が好きな人というのは、野球をする事自体が好きなのであって、野球する姿を見てもらう事が目的ではないだろう。もちろん試合で応援があればそれがモチベーションにつながるのは確かだろうが、観客に見せるために野球をしているわけではない。

音楽についても同様だろうと個人的には考えていて、応援(=聴衆)があればモチベーションは高まるが、失礼ながら聴かせる事が目的では必ずしもない。音楽を奏でる事自体が好きであり目的なのであって、極端な話必ずしも聴衆は必要としていない。意識上本番と練習の違いはあっても、それは環境よりも意識によるものだ。

昨日とあるオフ会イベント(なんと言ったら良いのか、練習なし聴衆なしの本番演奏会とでもいうだろうか)の案内を知り合いに送りながら、そんな事を考えたりしていた。身内だけの演奏会のようなものだが、ネットで呼びかけられているので集まるのは見知らぬ他人である。それが音楽という共通言語でつながれるというのは、口に出すのは恥ずかしいがある種の文化的な豊かさの表れだろう。(て、何か前にも同じような事を書いた事があるような・・・。)

こういう機会はもっともっとあっても良いのではないかという気がする。たまたま知らないだけで、結構頻繁に行われているのかもしれないけれども。
(とはいえ企画するのは普通にオケをやるのと同じだろうし、その手間を考えると主催者には頭が下がる。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月 8日 (火)

自分の楽器の音を聴く

昨日はKオケのメンバーによるアンサンブルの練習。来週とあるパーティー(?)で演奏する事になっていて、いつものKオケとは雰囲気を変えて室内楽でクラシックという構成にしている。

曲によっては初見での初合わせという事で、昨日は感触を掴むだけではあったのだが、音楽的な難しさはさておき、こうした曲であれば音が荒れないなと改めて感じたりする。Kオケだからという事はなく、むしろ普段オケとして練習している時には荒れやすい。理由は比較的シンプルで、編成的に音量を張り上げなければならず、無理をする事になるからだ。

では編成が問題なのだろうか。それとも曲の問題だろうか。あながちどちらか一方と言えないのは、カルテットの編成であっても曲によっては無理が出そうな気がするからだ。曲と編成の組み合わせというか、身もふたもない言い方をするなら、自分に余裕があるかで決まるような気がする。

昨日に関しては、色々な要因において余裕があったという事だ。

しかし、そうなると、では余裕のある曲だけやれば良いのかという話になる。それでは進歩は望めないので、何処かで無理というか、背伸びをする要素は必要だろう。問題は、どこで背伸びをするかという話だ。

編成に無理があるKオケでは、譜読みに余裕がある代わりに、音量で無理をする必要がある。
編成上無理がないF響では、音量で無理をする必要はないが、それなりに曲は難しいので譜読みで背伸びをする必要がある。

問題は、F響においても音量で無理をしている側面がある事だろう。これは無理をしなければパートとして音が不足するというものではなく、自分の音のモニタリングが上手くできていない事に起因している。自分の音がモニタリングできない状況では、譜読みでの背伸びもしようがない。結果が分からないからだ。

つまるところその部分の矛盾の解消というか、調整ができなければ、「音が荒れるからオケはやるな」という主張に行き着く事になる。しかし、世には多くのオーケストラプレイヤーがいるのだから、そうした課題をクリアしている例も多々ある筈である。(もっとも遮音板のようなツールがあるのだから、生身の努力だけでは難しい側面もあるのかもしれない。)

自分の楽器の音だけがもう少しクリアに聞こえるような仕掛けとかはできないものだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月 7日 (月)

音が荒れる現実

オーケストラの中で弾いていると音が荒れるという事はよく言われている。指導者によってはそれを理由にオーケストラに参加させないという事もあるようだ。これについては、オケであれソロであれ、自分の音をいかに保つかという事に変わりはないのではとも思うのだが、一方でそうだなと実感してしまう現実に直面する事もある。

昨日は午前中にオケで合奏をして、午後は低弦セクションの練習があったのだが、自分自身の音が荒れていると感じた。正直な話、最近は楽器が悲鳴をあげるような音になってしまっているような感覚がある。

スケールを落ち着いて弾いている時などはそうした事はないので、要は曲を弾いている最中にそうなってしまうという事だと思うのだが、理由はさておきとにかく音が出ないと感じる。力任せに弓を叩きつけてしまって、逆に上滑りをしているような感じだ。

物理的には運弓を司る右手のコントロールがうまくいっていないという事だ。力を入れすぎなのは間違いないのだが、では単純に力を抜けば良いかといえばそうではない。弦に対して必要とされる適切な圧力をかける感覚を失っているとでもいえば良いだろうか。狙わなければいけない圧力の上と下にぶれてしまっている。例えば楽器をきれいに鳴らすのに必要な1から10までの圧力の幅があったとして、0以下と11以上のオンオフでしか圧力をかけられていないとでもいえば良いかもしれない。実際に1から10を使えていない訳ではないのだろうが、演奏中に0や11に飛び出してしまう機会が多いという事でもあるだろう。

意識的には気をつけているつもりである。ブラームスは滾る要素が多いのを意識的に封印しているつもりだし、R.シュトラウスも自分の音が聞こえないのは気にしないようにしている・・・筈なのだが、やはり無意識に滾って過剰に圧力をかけたり、自分の音が聞こえない事に不安になって必要以上に弾きすぎたりという事があるという事なのだろう。

あるいはこれが音が荒れるという事なのかもしれない。

しかしそうなるとどうしたら良いのだろうか。オケの中で弾いている事が自身にこの状態をもたらしているとするなら、シンプルな解決方法はオケから離れる事なのだが、オケから離れるというのは、自分の場合、楽器から離れるという事でもある。楽器を続けるという事を考えた場合、オケとの付き合いはそのままで、楽器を丁寧に鳴らすにはどうしたら良いかという事を考えていかなければならない。

いやそれは個人練習でしょ・・・というのはその通りだが、オケの合奏の中で実現できなければ結局意味がないのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月 2日 (水)

万年筆とノートの相性

少し前にLAMYの万年筆の太さをEFからMに変えたのだが、使用しているMOLESKINEのノートでの裏写りがひどくなった。EFのインクの量だと問題ないのだが、Mではインクの量が多すぎるという事なのだろう。

この裏写りの問題はちょっと気になっていて、例えば使いたいと思っているPILOTの場合、細字でもしっかり裏写りしてしまう。これはインクとの相性だと考えるべきだろう。しかしそうなると、変えるべきはノートの側という事になるのかもしれない。
(その前に万年筆をやめたらどうかという話は置いておく。)

もちろん現状で裏写りをしないLAMYのEFを使うという選択肢もあるのだが、個人的にちょっと気になる万年筆がPILOTにあるのと、なんとなく太字を使いたいという気持ちがあって切り替えてみただけに、また戻るというのも、妥当な選択とはいえちょっと寂しかったりする。

一方でノートを変えるというのも微妙な話で、カイエのサイズとページ数が絶妙で他に代替できるものがなかったりする。正直紙質などは他に良いものがあると感じているのだが、そもそも最後はスキャンしてしまうノートの話ではある(その割にevernote editionを使っていたりするのだが)。

まぁ、PILOTの万年筆の話はさておき(今使っているレグノというモデルもお気に入りではあるのだが実質使っていない)、今のインクが尽きたらEFに戻すといった感じになるだろうか。もっともその際に、サファリにするか、アルスターにするか、はたまた新しいサファリを買うかはまた別の話である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月 1日 (火)

連休をどう過ごすか

今日は連休中日という事で、気分的には休日感があるのだが、一方で予定の方はびっしり詰まっていたりする。もっとも、連休中の休みが全てオケの練習に設定されていた昨年と違って、今年の休日は普通に休日らしい感じなので、平日が詰まっていても別にどうという事はないだろう。

ただ、何もない休みというのは意外と過ごし方が難しい。それが一番贅沢な時間の使い方だという事は分かっているが、どうしても何かしなくてはと思ったりする。せっかくまとまって時間が取れるのだから、なかなかできずにいたあの事を・・・などと思いながら、結局できずにむしろ悶々としてしまったりするのも、何もない休みにはありがちだ。

そもそも連休というのはどこに出かけても混雑しているので、のんびりしている感がない。家で過ごすと何もしなかった感よりも、何もできなかった感が強くなってしまうので、何かしら家を出て何かをする(あるいはしない)事が必要なのだが(気分的には)、それがなかなか難しいのが、連休という一斉休暇だ。

まぁやらなければいけない事がない訳ではないので、それはそれでやるための時間をきちんと確保する必要がある。まずはそこからかな・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年4月 | トップページ | 2018年6月 »