2009年6月19日 (金)

CSRレポートの位置づけをどう考えるか

社内にCSRレポートが浸透するに従って、掲載する内容についての意見をもらう機会も増えてきたのですが、そこで毎回苦労というか、説明に困ってしまうのが、いわゆるネガティブな情報の取り扱いです。

浸透してきたと言っても、それは「そういったものがあり」「自分たちの仕事なり、会社の役に立つ」という認識であって、その役割や位置づけまでが浸透した訳ではありません。そもそも巷のCSRレポートを見ても、そのスタンスは千差万別で、担当者としても「これです」とスタンダードを提示しきれない側面があります。
(「あの会社はこうだった」と言われるとそこで議論が終わってしまうのです。)

そうした「自分たちの会社のことを伝える」という側面に注目していると、ではなぜ自分たちがことさらに不利になるような、ネガティブなイメージに伝わるような情報を開示するのか、という話になってきます。このあたりはつきない議論ですが、個人に置き換えて「履歴書にどこまで正直に自分にとってネガティブな情報を書き込むか」と考えれば、少なくともその感情的な抵抗感はなんとなくわかるような気がします。

であれば、CSRレポートはそのように位置づけてはあまりよろしくないことになります。
ではどのように位置づけるのか。

あえていえば、「自分たちの行動に健全な批判をいただくための情報開示」と言うことになるでしょうか。

会社のことを紹介したいのであれば、会社案内に力を注げばよろしい。会社案内というのはまさに個人で言えば履歴書です。相手に批判をしてもらうことが目的ではなく、相手に知ってもらうことが目的なので、ことさらに伝えたくない情報まで開示する必要はありません。

そもそも多くの場合、相手もそのような情報開示は望んでいない場合も少なくないのです。
健全な批判をするというのは、精神的にも大きな負担を伴います。自分の感情で否定すればよいというものではないからです。そんなことまで求められても・・・というのが多くの人の反応で、そういった「制作者」「読者」双方の思惑もあってCSRレポートの多くがそういった「批判の呼び水」という内容にはなっていないような気がします。

でも、「批判をしてもらうための情報開示」と位置づけると、CSRレポートを制作するというのは非常に苦しい作業になります。誰だって自分から積極的に批判されたいとは思っていません。これは素直な感情です。総論としては理屈はわかっていても、ここの具体論に踏み込まれるのは避けたいというのが人間の感情でしょう。
(後から振り返ってその批判を受け止めることはできても、最初から承知でさらすというのは生半可な覚悟ではできませんし、個人であればまだしも組織となればなおのことそういったことには臆病になります。)

情報を提示するにあたっても、ついつい言い訳がましくなったり、できれば批判を受けずにすむようにしたいと思うのは当然の気持ちです。

これを乗り越えるのは容易ではありません。しかも担当者は、実際に批判を受けることになる各部門を説得して情報の開示を促す必要があるのです。自分が批判される立場に立つ方がまだましなぐらいで、担当者は「社会から批判を受けるために」「社内から非難されながら」レポートを制作していくことになります。

そんなことでもめるぐらいだったら、そもそもCSRレポートなんて作らなければいいのに、などとも思いますが、はてさて、CSRレポートを作ろうと考える経営トップというのは、そのあたりをどこまで自覚しているんでしょうね。読んで気持ちがいい情報開示をしたければ、先ほど書いたように会社案内を充実させた方がよほどよいような気もしますが。

・・・愚痴でした。

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2009年6月 4日 (木)

企業の情報開示に何を求めるか

伊藤忠商事が、サプライチェーンのCSR行動指針となる「伊藤忠商事サプライチェーンCSR行動指針」を発表しました。

http://www.itochu.co.jp/main/csr/topics/2009/csr_090514.html

公開されている行動指針そのものは、それほど目新しいと言うわけではありません。おそらく策定している他の会社の指針も似たようなものでしょう。もともとそれほど独自性が出せる領域ではないからです。

個々の詳細の規定を見れば、そこでは企業や業種なりの独自色が出てくると思いますが、方針についてはそれほど「とがった」ものが打ち出せるわけではありません。

それでも、ちょっと気になったのが行動指針の最後の一項。

9.上記の各項目に関する情報の適時・適切な開示を行う。

こうした開示ポリシーを指針の中で宣言しているのは、少し踏み込んでいるというか、「何を開示していくのか」という興味をそそられます。「適時・適切」をどのように判断していくのか、ということです。

たとえば第一項「従業員の人権を尊重し、非人道的な扱いを行わない。」に対する適切な情報開示の内容とはどういったものでしょうか。そういったことが行われていないと担保できる情報開示にはどんなものがあるのか。改めて考えると難しい気がするのです。

「担当者が確認しています」では、担保にはなりません。「第三者が確認しています」でも、それだけで「情報開示」と呼べるのかというと少々気になります。その第三者の調査結果が「サプライヤーの名前も含めて」公開されれば、情報開示と言えるかもしれませんが、今度はそこまで踏み込んだ開示が適切かどうかという疑問が生じてきます。

このあたりは、伊藤忠商事がどう考えるかというよりも、社会が(市民団体や生活者一人ひとりが)何を適切な情報開示と考えるか、という答えを提示する必要があるように思います。それも自分たちの知りたいことはこれ、という個人的関心の領域ではなく、社会にとって有用かつ適切な情報は何か、という視点での答えです。

そう考えて自分を生活者に置き換えてみると、はたと迷ってしまいます。生活者の一人として、どんな情報の開示を自分は求めるべきだろうか。個人的関心ではなく、他者にまで敷衍するような関心事は何だろうか、と。

・・・そこには意外と教条的なレベルでしか考えられない自分がいて、情けなくなってしまうこともあるのですが、我々は企業に対してどのような情報開示を求めていけばよいのでしょうか。

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2009年5月27日 (水)

納品業者への圧力

台湾アップル社に対して、納品企業に対して適切な指導をせよという申し入れが行われたそうです。

台湾アップル社への抗議行動(レイバーネット)
http://www.labornetjp.org/news/2009/1243012123334staff01

内容としては、

アップル社は、著名な世界的ブランドであるにもかかわらず、納品業者であるWINTEKが、台湾および中国で大規模なリストラ、賃下げなどを行っていることに対して何ら対策を採ろうとしていない。抗議を行った団体は、アップル社が「納品業者行動規範」にのっとり、WINTEK社に待遇改善を行い、搾取をやめ、労働者代表と話し合いの席に着くことを指導するよう要求した。

というもの。サプライヤーの労働環境に対して、適切な指導を行えという要求で、いわゆるCSR調達を求める内容と言ってもよいでしょう。

ただ、少し気になる点がいくつか。

一つ目は「著名な世界的ブランドにもかかわらず」という部分。そうしたブランドでなければ良いのでしょうか。取引契約がどうなっているかは分かりませんが、たとえばこの納品業者はアップルとだけ取引をしているのでしょうか。そうではない場合、「たまたまアップルという世界的な企業だから騒いでいる」と受け取られかねません。

もっとも、グリーンピースの抗議行動などにも見られるように、話題性も含めて社会的なインパクトの大きい相手を選ぶというのは、政治的なアピール手法としては理にかなっています。誰も聞いたことのない企業に対して要請しても、マスメディアが取り上げてくれることもなく、そもそも納品業者に対する圧力自体が発生しないでしょう。

二つ目は、これまた手法としては理にかなっていますが、問題のある企業への直接的な抗議ではなく、そこに対して圧力をかけられる企業を選んでいる点。なぜ、直接的な抗議をしないのでしょうか。部品業者のために不買などの直接的な行動を起こせないということはあるかもしれませんが、あるいはすでに抗議をしたけれども反応がなかったと言うことかもしれません。

もっとも、そうした社会的な圧力をそれほど受けない相手ではなく、世界的なブランドを持ち、そのブランドを守るために様々な対応をせざるを得ない相手を土俵に引きずり出すというのは、相手の弱いところをつくという意味では理にかなっています。

三つ目は、これが一番気になるのですが、こうした抗議行動は、サプライヤーに対してこれまでとは違ったルートで圧力を与えるものだということです。企業にとってはサプライヤーも重要なステークホルダーであり、不当な圧力をかけないように配慮する必要のある相手です。

この抗議行動は、そのサプライヤーに対して、従来の(価格や納期、品質といった)圧力に加えて、さらなる圧力をかけろ、と言っているに等しいことになります。特に今回の場合、特定の業者が名指しにされているというのが微妙な気がします。

アップル社に対して「納品業者行動規範」の遵守を求めるまでは問題ないでしょう。その規範が守られていない、という指摘もあって良いと思います。ただ、それがさらに個別の企業への取引にまで踏み込むというのが、本当に良い結果に結びつくのかという点については、少し気になるのです。他の取引業者はどうなんだろうか、と考えてしまうからです。

もちろんこうした問題は放置して良いものではなく、抗議する側にとってはやむを得ない手段なのかもしれませんが、こうした形の抗議は、アップル社にとっては、自社の課題ではなく「もらい事故」的な受け止められ方をされてしまう可能性があるのです。その場合、対応としてまず考えられるのはしっぽ切りでしょう。サプライヤー全体への対応改善ではなく、個別の企業が問題であると考えるなら、切り捨てれば良いと思うのは決して不自然ではありません。

一方これをそのまま受け入れてしまえば、今後同種の圧力が追随してくる可能性もあります。そう考えるとアップルはこの業者に限ってではなく、ある程度普遍的な対応をしなければ後から困ることになるわけで、そのあたりの対応も気になるところです。

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2009年5月22日 (金)

安全と安心は両立できるのか

安全と安心は、(特に食の分野などでは)一緒に語られることの多い概念ですが、はたして両者は両立できるのだろうか・・・今回の新型インフルエンザ騒動で、マスクをしている人たちを見ていて、ふとそんなことを考えてしまいました。

安全というのは、多くの場合健全な危機意識があって成り立ちます。工場の安全活動などはその典型で、環境を整えるのはもちろんですが、本人の適度な緊張感があってはじめて安全が保たれるとして、そうした意識付けをすることが多いでしょう。

ではそれは安心な状態かと言えば、安心というのはある意味「緊張感のない」状態とも言えるので、安全を守るために緊張感を持っていれば、それは安心とは言いにくい。

一方で本当に安心してしまった場合、緊張感が失われ、安全度が下がる・・・そんなトレードオフの関係が、実は安全と安心の間には横たわっているのではないか、という気がします。

マスクにはインフルエンザから身を守る一定の効果があります。つまり安全度を高める効果があります。一方海外では、マスクをすれば大丈夫という安心感から外出が増えると、それだけ感染のリスクが高まる、ということが懸念されているそうです。

実際のところ、マスクを付けている人たちの映像を見ていると、付け方はどうでも付けていれば大丈夫なんでしょ的な空気が見えたりして、本人は安心しているようだけれども、安全という観点からはどうなのだろうという気がしてきます。
(マスクで予防する場合、鼻と口を隙間なくしっかりおおうようにつけ、一度外したら二度とつけずに使い捨てにする必要があるそうです。テレビではサイズの合わない大人用のマスクを隙間だらけで付けている子どもなんていうのも出てきて、親はそれで安心しているのかもしれないけど、安全にはまったくつながっていないよな〜などと感じてしまいます。)

安全は常にリスクを想定することで成り立ちます。一方安心はリスクを想定しないことで成り立ちます。もちろん、それはリスクを想定しないで済むような環境を構築することが肝要で、気にしないとか忘れると言った次元の話ではないのですが、いずれにしてもその取り組みの方向性は真逆を向いているということはないでしょうか。

最近は安全と安心をセットにしない傾向が増えているそうです。特に企業からのメッセージとして両者をセットでうたい文句にしない動きが増えているのですが、それはどちらかというと「安全は企業が取り組むもの」「安心は消費者が評価するもの」だから企業が安心を言うのはおかしい、という文脈で語られています。

でも実はもっと根本の部分で、両者は相反するものではないか・・・そんな気がします。

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2009年4月30日 (木)

ファイナンスの考え方におけるステークホルダー

CSRを考える上で、ステークホルダーは誰かというのは結構重要な要素だと思うのですが、ステークホルダーという概念自体はCSRの専売特許ではなく、より一般的な概念でしょう。

たとえばファイナンスの考え方においては次のように定義されているようです。

企業が利益を還元しなければならないステークホルダー(利害関係者)は、債権者と政府と株主の三者である。企業に対して最も強い権利を持っているのが債権者で、次が政府、そして株主がいちばん弱い立場にある。利益の還元は権利の強さの順に行われる。
(「MBAファイナンス」グロービス・マネジメント・インスティテュート/ダイヤモンド社)

債権者というのは借金、政府というのは税金、株主は・・・配当、ということになるでしょうが、その強さの順位はさておき、そこには消費者や調達先、従業員といった、CSRではお馴染みのステークホルダーは挙げられていません。

「そういう考え方が問題なのだ」と否定してしまって、CSRが定義するステークホルダーの考え方を押しつけるのは簡単ですが、それでは整合性がとれた主張とは言えません。そんな単純な感情論ではなく、論理的な構築が必要でしょう。これまで主張されてきた考え方もある程度包含できなければ、CSRは単なる絵に描いた餅に終わってしまいます。

おそらくポイントは「利益」の考え方にあるのでしょう。利益の還元において消費者や調達先、従業員が出てこないのは、企業が出す利益との関わり方が債権者や政府、株主とは違っているからです。彼らへの利益配分は実際には企業活動の中で行われているので、その結果生じるのがここで言う「利益」だとすれば、それを配分してしまっては二重取りになってしまいます。

それではお金を出した側は黙っていられないでしょう。企業の活動に資金を投資して得られるリターンを「利益」と定義するのであれば、確かに「利益の還元」において考えなければいけないステークホルダーは、挙げられた三者ということになりそうです。

ただ面倒なのは、消費者への「利益還元セール」のようなうたい文句や、もっと直接的には従業員への「利益配分としてのボーナス」といったものをどう考えるか、でしょう。現実には、これらはすべて株主たちへ配分される「利益」を算出する前に経営上のコストとして積み上げられているものだと思うのですが、言葉としては同じだけに少々やっかいです。

(以前にも書きましたが、AIGの幹部報酬の問題は、この部分が曖昧になっていることが原因のような気もするのです。配分が問題なく行われているうちは曖昧でもよかったのでしょうが、経済状況が厳しくなって奪い合いが激しくなると、こうした部分が問題になってくるということだと思います。)

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2009年4月23日 (木)

エコ偽装にはどう対応するべきか

日立の冷蔵庫の「エコ偽装」で、サステナ・ラボにこんな記述がありました。

エコ偽装、今度は冷蔵庫
エ コを売り物にしているのですから、看板に偽りがあったらきちんと返品を受けつけるとか、そういう対応をしてくれるのでしょうか? 再生紙のエコ偽装の際、製紙会社や、その用紙を使用した紙製品は一斉に回収になりましたよね。今のところ不当表示についてお詫びを出しただけですが、今後どのように対応するのかウォッチが必要ですね。

もちろん、偽装は偽装(どうも問題は虚偽表示により誤解を招いたということのようで、LCA以外の環境性能などに偽りは無かったようなのですが)として、さて、こうした場合、返品により廃棄されたり回収ということになれば、環境には(特にLCA的には)さらにダメージを与えることになります。

それを企業の責任だからやむなしと考えるか、どういった解決方法が良いのか、企業と社会双方が次善の策を考えていくかで、サステナブルな社会の成熟度というのが計れるのかな・・・などとも思ってしまいました。
厳しいようですが、あだなおさんはコンサルタントなのですから、そこにこそ焦点をあてて、返品や回収などという安易な解決にこそ走らないような提案をしていく必要があるようにも思います。

たとえば今からでも何らかの形で削減したはずの分のCO2クレジットを付加するといったことは可能でしょう。失墜したブランドイメージを回復することにはなりませんが、少なくとも購入者が期待したのがCO2の削減効果ということであれば、オフセットという形で補填をし、その証明書を購入者に届けるといったやり方は考えられそうです・・・購入者が本当にCO2削減の実績を望んでいるのであれば、です。

難しいのは「だまされたから交換しろ」「弁償しろ」といった類の話です。だまされたことは確かに許せない。ですが、そこで交換や「別の新品に買い換えるための」金銭的な保証を求めるのだとすると、そもそもその人が「何を理由に買ったのか」が問題になってきます。
ランニングコストなどの環境性能に偽りがあった場合は若干事情は異なってきますが、今回の偽装が製造時におけるCO2削減だと考えると・・・どうなんでしょうか。

個人的には、専門家ほどこうした動きに対して冷静な対処を訴えていく必要があるかのように思います。返品や直接的な金銭保証が求められるのであれば、結局その人が求めていたのはエコではなかった・・・なんてこともありそうです。
(もっとも企業からすればクレジット相殺よりも返品や金銭保障の方が楽でしょうが・・・だからなおのことそうした安易な手段に走らせないことが重要なのかな、という気もします。)

再生紙の偽装があった時、会社では特に返品などはせず、在庫分に関しては使い続けました。コスト的な問題もありますが、返品すればさらに環境にやさしいかといえばそうではなく、むしろ逆の事態を引き起こすのは明らかだったからです。もちろん、その後も使い続けることはありませんが、特に環境品質クレームの場合、通常の製品品質クレームとは違った対応が求められるのかな、などと考えてしまいました。

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2009年4月22日 (水)

貧しい人が幸せになるための条件

しばらくメモ用に使っていたトラベラーズノートから、ほぼ日手帳にメモを書き写しているのですが、こんなメモがありました。

------------------------------------
貧しい人が幸せになるための条件

  1. 環境(きれいな水と空気)
  2. 平和、防災
  3. 健康、予防医療
  4. 教育
  5. 伝統文化

→「幸せ」になるためであって「豊か」になるためではない
→自分の力だけではどうにもならない
------------------------------------

我ながらみもふたもないことを書いているな・・・と思うのですが、こうした条件を、さもすばらしいことであるかのように、現在「豊かな」人たちが「貧しい」人たちに向かって言うのはどうなのか、と思ったことは確かです。

この条件は「貧しい人」が、「貧しいまま」で幸せになるための条件であって、貧しさから抜け出すための条件ではありません。この条件で幸せを感じるのは、貧しかろうが豊かだろうが一緒です。

もっとも、貧しいということは、こうした条件が整いにくい、ということは言えるかもしれません。ですが、であればなおさら、豊かであればそうした条件を整えやすいということになるので、やはり「豊かさ」というのは必要なことではないのかな、と思います。

もちろんそれは、「自分だけ豊かであればよい」という話ではありませんけどね・・・。

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2009年4月17日 (金)

収益を得るプロセスと還元するプロセス

昨日上司が知り合いの(多分海外の方の)話としてこんなことを言っていました。

「日本企業が、事業で得た収益から社会に貢献するのではなく、事業の目的自体に社会への貢献を掲げているのは、(資本主義の考え方からすれば)ユニーク。」

ああなるほど、と思ってしまいました。

欧米で(特に欧州で)CSRという考え方が台頭して、どことなくそれが日本では違和感を持って迎えられてしまうのは、実は根本的に企業に対する考え方が違うということなのかもしれません。

恐らく、欧米での企業のあり方というのは、基本的に収益を得ることが第一で、その収益の使い方において社会への貢献を考えるということなのでしょう。もちろん、収益を上げるためにどんな手段を使っても良いということではなく、そこには倫理観や公平性は求められるのでしょうが、少なくとも「収益をあげる」「(得た収益を)使う」が考え方として分かれていて、特に社会への貢献として考えられるのが「何に使うか」という視点なのではないか・・・そんな気がしました。

一方、日本では両者が分かれていないと言うか、得た収益を「どのように使ったか」ではなく、収益を「どのようには得たか」が問題になっているのではないでしょうか。

事業活動において、社会に貢献する、というのは「収益を得るプロセスにおいて社会に貢献する」ということです。一方欧米においては「収益を還元するプロセスにおいて社会に貢献する」が考え方のベースになっていて、それが寄付といった行為に表れているような気がします。

そこで最近のCSRの流れは、欧米において「収益を得るプロセスにおいても社会に貢献する」という考え方がクローズアップされてきた、ということかもしれません。

この分野は、欧米ほど体系付けられていないにしても日本においてはある程度一般的な考え方であるような気がします。少し変な言い方かもしれませんが、そうでない企業というのは、「悪い意味で半分欧米化されて」収益を得るプロセスにおける社会への貢献を考えなくなった(でも一方の収益を還元するプロセスでの社会への貢献という考え方には目をつむった)企業といえるかもしれません。

そう考えると、実は日本企業が考えなければいけないのは、欧米のまねをして「収益を得るプロセスを考える」以上に、「収益を還元するプロセスを考える」ことではないでしょうか。欧米では恐らく自然なこととしてあまり注目されていないその分野をしっかりおさえていくことが、意外と日本企業には求められていることかもしれない・・・そんなことを考えさせられた話でした。

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2009年4月 9日 (木)

プロフェッショナルボランティアとアマチュアボランティア

4月11日発行の週刊ダイヤモンドの特集テーマは「社会起業家」でした。かなり力の入った特集で読み応えもあったのですが、個人的に一番考えさせられたのが、日本ホスピタル・クラウン協会のところにあったこんな一節です。

約五年にわたる活動が実り、「ホスピタル・クラウンになりたい」と大棟氏の元を訪れる人も増えた。この活動は「かわいそう」「どうにかしてあげたい」などの気持ちが先行しがちだ。しかし大棟氏は、「子どもにとっては質の高いクラウンと接することがいちばん。まずはプロになってほしい」と譲れない思いを語る。

ホスピタル・クラウンというのは、病院を訪ねて子どもたちを元気づけるクラウンのこと。確かに非常にプロフェッショナリズムが求められる領域ではあるのですが、実はボランティアには大なり小なりこうした性格があるのではないか・・・そんな気がしたのです。

別のページで、日本のNPOが抱える問題として寄付文化がないことが取り上げられているのですが、その中に社会起業を自認する経営者ほど寄付集めやボランティアの活用を避ける傾向があることが紹介されています。

「寄付やボランティアに頼るのはアマチュアのやること」というわけだ。

この両者を組み合わせると、実は「ボランティア」というのは、気持ちよりもスキルを持った「プロフェッショナル」であることが重要で、その彼らの活動を支えるために、気持ちだけの「アマチュア」は寄付をする・・・そんな構造こそが必要なのではないかという気がしたのです。

一方で、アマチュアほど「自ら行動すること」に価値を見出すことも少なくありません。ですが、気持ちさえあれば何とかなる、というのは、厳しい言い方ですが竹やりで敵機を落とそうとするような精神論に過ぎないかもしれない、ということも考えておいたほうがよさそうです。

ボランティアは、気持ちで論じられることが多いのですが、実は他で培ったプロフェッショナルスキルを提供するこそがその本質なのかもしれません。そうした前提の上で、スキルがない人間が自らの気持ちを金銭という形で表明するのが寄付という行為なのでしょう。

「お金」よりも「行動」が尊ばれる価値観の中で、そうしたことを訴えていくのは難しいことなのかもしれませんが、ボランティアを考える人は、気持ち以上に、「自分が提供できるプロフェッショナルスキルは何か」ということを冷静に見つめることが必要なのかもしれません。

もっとも、純粋にマンパワーを必要とするようなボランティアもあるので、一律に論じることはできないんですけどね。ただ、時として気持ちはあってもスキルのないボランティアは、プロフェッショナルの足を引っ張るだけになる可能性もあることは、肝に銘じておいたほうが良いのかもしれません。

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2009年4月 7日 (火)

温暖化ガスの排出量はどこでカウントされているのか

昨日4月6日付の日経産業新聞に、鉄鋼、製紙、電機、自動車大手企業の2007年度の温暖化ガス排出量が掲載されていました。

掲載されていた企業を上位から並べてみると、

新日本製鉄:6,305万トン
JFEスチール:6,253万トン
住友金属工業:2,367万トン
日本製紙:731万トン
王子製紙:444万トン
大王製紙:379万トン
トヨタ自動車:198万トン
東芝:185万トン
シャープ:137万トン
松下電器産業:109万トン
デンソー:101万トン
日産自動車:82万トン
三菱電機:70万トン
日立製作所49万トン

そうそうたる数値ですが、ちなみに食品企業である自社の排出量を報告書で調べてみたら・・・10万トンにもはるかに及ばない排出量でした。

特に鉄鋼業界の排出量は圧倒的ですが、製紙業界もかなりの排出量で、世界のトヨタもかすんでしまうような差があります。こんな数値を見ると、10万トンにも満たない食品企業で排出量を削減する努力にまい進することにどれだけ意味があるのか・・・などという気にもなってしまいますが、本題はそれではありません。

まず一つ気になったのが、デンソーの101万トンという数値です。多い少ないという話ではなく、デンソーは自動車部品メーカーで、トヨタ自動車に多くの部品を納めているだろうという話なのです。

その場合、その「部品の製造」によって排出された温暖化ガスは、どちらの企業でカウントされるべきなのでしょうか。自動車を作っているトヨタでしょうか。部品を作っているデンソーでしょうか。

さらに突き詰めると、自動車に使われている金属を作るために、鉄鋼業界が排出した温暖化ガスはどうでしょうか。鉄なんていうものは、それ自体で使われることはめったになく、多くは何かに加工されるはずです。

上記のリストはおそらく加工した段階でカウントされているのだと思いますが、であれば、自社以外で加工して最終製品だけを作ることにした方が排出量が(その企業の見かけ上においては)少なくなるということになります。

それでは、それを国に当てはめて考えるとどうでしょうか。

「世界の工場」といわれる中国は、温暖化ガスの排出量も半端ではありませんが、一方で中国は今のところはまだ「世界の消費地」ではありません。今後はそうではなくなるかもしれませんが、現在はまだそこで作られた製品の多くは、日本や欧米など先進諸国に輸出され消費されています。

こうした「消費ベース」で温暖化ガスの排出量を測定し、削減目標を掲げるようにした場合、各国の思惑は結構変わってくるということはないでしょうか。少なくとも、生産を海外に移転して、自国は知識資産で勝負・・・といった戦略は国家レベルでは通用しなくなります。生産ではなく消費を見直すということに転じなければいけないからです。

たとえば、カーボンフットプリントなどの取り組みは、そうした「消費地で排出量をカウント」という考え方をベースに行うようにすれば、中国をはじめとした「生産国」は、競って取り付けるようになるのではないでしょうか。言葉は悪いですが、消費国に「押し付ける」ことができるからです。(逆に言えば今は押し付けられている?)

それとも、今でも各国の排出量はすでに「消費」ベースでカウントされているのでしょうか。そもそも「比較対象となる年」の設定だけでも大きく変わってくる温暖化ガスの排出量削減目標ですが、どこでカウントされるかというのも重要なのではないかという気がします。

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2009年4月 6日 (月)

CSRが階級社会を生む?

先週4月2日の毎日新聞に、中谷巌氏の寄稿がありました。内容としては日本社会と欧米社会の違いを階級社会という視点で比較したものだったのですが、その中に少し考えさせられた一節があったので、少し長いですが引用します。

日本企業の競争力は「現場力」にあるとしばしば指摘されてきたが、「現場」が強いというのは、日本が平等社会であり、一般従業員の「当事者意識」が高いという事実から生まれている。階級社会的な要素が少ない日本では、現場従業員に上から搾取されているという「被搾取感」が比較的少ない。だから、現場での仕事ぶりは意欲に満ちており、投げやりなところがない。これが「現場力」の源泉にある。(4/2毎日新聞17面)

も ちろん中谷氏は、日本にはまったく階級がない、ということを言っているわけではなく、欧米に比べて(アメリカも以前は奴隷制度がある階級社会で、その名残は今も残っています)その要素が比較的少ない、ということなのですが、そこで考えてしまったのが、欧州発の「CSR」という概念です。

たまたま先週はとあるアンケートの回答期限だったのですが、その中にステークホルダーエンゲージメントに関する質問がありました。経営に生かす形で、下記のステークホルダーとのエンゲージメントを行っているかという内容なのですが、もちろんそこには「従業員」も挙げられています。

欧米で、ステークホルダーエンゲージメントの対象に従業員が挙げられるのは、階級社会の考え方に基づいて従業員と企業とが峻別されているからではないか・・・そんなことをふと考えてしまったのです。

そんなことはない、と言い切れるほど、我々の多くは欧米の会社の統治構造を実感として知っているわけではないはずです。勝手に日本企業に置き換えているだけで、実はまったく別物かもしれません。
(余談ですが、外資系企業のやり方だから欧米流とも限りません。国内と国外でやり方を変えるというのは、日本企業だってやっているはずです。外資系企業のやり方は、「海外におけるその企業のやり方」であって、「自国におけるその企業のやり方」とは違うかもしれないのです。)

そうした「欧米の階級社会」に基づいた考え方を、「CSR」として日本に持ち込むことは、実は日本を欧米のような階級社会にする(それも歴史的背景により自然と社会がそうなったというのはではなく、考え方を輸入する形で人工的に社会をそうする)ということにつながるリスクがあるのではないか・・・そんな恐ろしいことを考えてしまいました。

(これまた余談ですが、欧米のNPOやNGOの多くは、知識層によって構成されていると思うんですよね。階級社会において知識層というのはトップエリートですからね・・・。)

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2009年4月 3日 (金)

CSRと教育支援

昨日はお誘いがあって急遽セミナーに参加しました。CSRと教育支援がテーマだったのですが、参考になる事例を聞けつつも、一番肝心な部分は「?」のままでした。

それはそうした企業による教育支援活動が、CSR(あるいはもう少し限定して社会貢献)なのか、広告宣伝なのか、という定義部分があいまいだったからです。モデレーターの方があえてそこに踏み込まなかったのは、その部分を話題にしてしまうと話がこじれるからではないかとも思いましたが、担当者としてはその部分は結構大きな悩みです。

ただ、一方で話を聞きながら、その境界は企業側にはどうやっても定義できないのではないか、とも思いました。どんなに企業がそれを社会貢献だと考えていても、受け取る社会がどのように考えるかはまた別の話です。一方で、企業としては広告宣伝(教育の場合は広報活動ぐらいの意味合いかもしれません)と割り切っていても、社会の評価は社会貢献、という場合もないとはいえないでしょう。

であれば、その点は細かく考える必要はないのかもしれません。活動自体を素直に眺めてその効果を評価すればよいことで、その意図が何であるかを問うてみても、結局その意図を受け取る評価の軸は人それぞれなのです。

もっとも、企業としてはそうした活動への評判が結局は自社の本業の活動にも影響してくるものなので、神経質にならざるを得ない側面もありますが・・・。

企業側の立場に立ってみると、自社の教育支援を「所詮は広報活動でしょ」と社会が判断するのであれば、企業の支援に頼らずに社会自身で教育をきちんとしてみろ、と言いたくなる部分もあるかもしれません。「社会的責任」の名目でそうした意図にまで干渉されるというのは、企業でなくともストレスを感じるはずです。

個人的には「教育」という若干上からの目線ではなく、相互に学習していく、というスタンスで関係を構築していけるとよいのではないか、とも思います。社会は企業から学び、企業は社会から学ぶ。NPOとの協働などはそうしたきっかけになるものですが、そうしたスタンスで考えると企業側は教育コンテンツを提供すると同時に、自社としては何を学びたい(情報を得たい、とかではなく)のかをある程度明確にしていくことが求められるような気がします。

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2009年4月 2日 (木)

協働のメリットは誰が考えるのものか

現在、あるNPOとの協働の企画を進めているのですが、その際のNPOからのアプローチが少し気になっています。

「企業にとってどんなメリットがあるのか」
「自分たちが何を提供できるのか」

そういったメッセージをこちらに伝えてくるというアプローチなのです。これまであまりNPOとの協働というものを考えたことはなかったのですが、こうしたアプローチに若干違和感を感じています。

企業との協働の際に、NPOが発する必要のあるメッセージは、

「自分たちのやっていることの意義や社会へのメリット」
「企業に提供して欲しいこと」

なのではないでしょうか。

そういえばと思って改めて振り返ってみると、これまで直接コンタクトのあったNPOの多くは、「企業イメージの向上」といった「企業のメリット」を語ることが中心で、自分たちの事業のインパクトの説明が薄かったような気がするのです。

NPOは企業にサービスを提供して対価を得るのが組織としての目的ではありません。NPOがサービスを提供するのは、あくまでもその対象となっているヒトやモノに対してのはずです。そして企業がNPOと協働する際に求められるのも、まずはその対象に対してどういったサービスを提供できるかであり、その上で(企業として)自分たちのメリットを確保していくことでしょう。

企業とNPOが協働を企画する際に、「NPOが企業にどんなメリットを提供するのか」ということを第一にして話を進めてしまえば、本来のサービス対象であるヒトやモノを「だしに使う」ということにもなりかねないのです。

一方で、NPOの方がそうしたアプローチをするのは、おそらく企業側がそうしたことを求めているからだろう・・・ということも想像できます。むしろ問題の多くは企業側にあると考えたほうが妥当です。

ただ、あえて言い切ってしまいますが、もしNPOが企業に協働を呼びかけた際に「企業としてのメリットは?」と言われたら、それはやんわりと断られているのだ、と考えてしまった方が良いような気がします。その協働に自社のメリットを見出すのは、NPOの役割ではなく、企業の仕事です。NPOの方がどんなに企業のメリットを訴えても、与えられたメリットでは、協働ではなく取引になってしまい、後はコストと提供されるメリットを比較するだけになってしまうからです。

青臭いかもしれませんが、やはりNPOが訴えるべきは自分たちの事業による社会へのメリットなのです。企業はNPOにお金を出すのではなく、NPOが行おうとしている問題解決にお金を出すのですから、その点をもう一度強く訴えて賛同を求めていくことが大切な気がします。

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2009年3月27日 (金)

コモンズの悲劇は時間軸でも発生する?

昨日は知り合いに誘われてセミナーに参加しました。いわゆるセミナーというよりも、オープンカレッジに近いでしょうか。東北大学大学院の環境科学研究科にあるSEMSaTというユニットが主催している公開セミナーです。

「循環型社会の新しい住まい・ライフスタイル」というテーマで、特に集合住宅(マンション)についての話でした。

その中でちょっと考えさせられたのが、こんな話です。

「200年持つ建物の投資効果が出るのは200年後で、第一世代の人にとってはむしろ初期投資の負担が大きい。第一世代の負担を第二世代、第三世代に分散する仕組みが必要。」

なるほどというか、確かに建物が200年持っても、住む人は200年は生きられないので、第一世代の人にとっては初期投資の負担をするインセンティブが働かないというわけです。

ただ、そう納得してからあれ?と思ってしまったのが、よく言われているサステナブルの概念です。

「将来世代のニーズを損なうことなく、現代世代のニーズを満たすような開発」

これは、これまでの開発が「将来世代の資源を食いつぶす」ことで行われてきたことへの反省から生まれてきた概念です。その典型が環境破壊や過大な資源消費というわけですが、これを上記に当てはめれば、第一世代が担うべき負担を第二世代、第三世代に先送りしているということ、と考えることができます。

こうした「逆の世代間負担配分」が問題になる中で、では200年住宅はどういった「世代間負担配分」によって作られるべきなのか。これは意外と調整が難しそうです。

バランスといってしまえばそれまでですが、こうした世代間の負担を「平準化」するというのは、いわゆるコモンズ(共有地)の悲劇の解決以上に難しいことなのかもしれません。
変な話ですが、初期投資の負担を第二世代、第三世代に分散しておきながら、第一世代で利益を享受しつくす(200年持たせる努力をせずに自分の世代で駄目にする)ということも起き得ない話ではないからです。

特に集合住宅の場合、戸建ての住宅と違って第二世代、第三世代は身内ではなく第三者になるのです。自らの子孫に財産を残す、というインセンティブが働かない場合に、はたして初期投資の負担を引き受けるのか、残していくために大切に使うという気持ちが働くのか・・・倫理に訴えるのは簡単ですが、やはり仕組みとして乗り越える方法を考えることが重要な気がします。

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2009年3月26日 (木)

AIG幹部へのボーナス

ついに iPod classic を買ってしまいました。手元のCDをインポート中ですが、まだ1GBほどしか使っていません。どこまで使えるのか、なんとなくワクワクしています。少し環境の見直しをしなくてはいけませんね。

閑話休題。

米AIG幹部への高額ボーナスが減額(返上?)されるというニュースがちょっと気になっています。昨日のめざましテレビでキャスターがこうした高額ボーナスに対して「一般常識を欠いている」とコメントしていたのが印象に残っているのですが、果たして「高額である」という感情論でこうした契約に基づく給与の減額を進めてしまって大丈夫なのでしょうか。

大丈夫か、というのはこういうことです。たとえば一般的に非正社員よりも正社員の給与は高いとされていますが、それを「高いから」という理由で減額する会社があったら、どういう印象を受けるでしょう。

仕事柄、今回のボーナス減額をCSRレポートに記載するとしたら、どんな記述になるだろうかと考えていたのですが、どうにも釈然としません。感情論として「高すぎる」というのは分からなくはないのですが、会社の経営や経済の調子の良い時はそうした待遇を認めておいて、不況になると一転反故にする、というのでは、契約社員を期間満了前に解雇するのと本質的に同じです。

気になっているのは、今回のボーナス減額というのは、会社と従業員の関係で考えれば、従業員に分配すべき資源を会社が「社会のあと押しを受けて」分配しなかった、という構図になっていること。社会はそうしたスケープゴートを作ることで溜飲を下げていますが、経営にとっては人件費の削減にもつながり、願ったりかなったりでしょう。それもボーナスということは、そのボーナスに見合う(とされる)働きをした社員への対価を支払わずに済んだということですから。

公的資金が注入されているのにけしからん、というのであれば、本来は資金注入前にそうした減額をしておいてから注入すべき(あるいは従業員には分配しないと使途に条件をつけるべき)だったのではないか、そんな気がするのです。

こうした企業における給与体系を見直すべきではないかという議論と、「高すぎるから返せ」という議論。明らかに後者の方向で進んでいる(ようにメディアの報道では見える)のは、本当に社会にとって良いことなのか。そんなことが気になってしまいました。

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2009年3月19日 (木)

対談とコミットメント

※今日の内容はCSR日記にも掲載しています。

CSRレポートの大きなコンテンツに「トップコミットメント」があります。
以前はいかにも「ご挨拶」のような内容が多かったのですが、最近はいかにも「コミットメント」といった内容が増えてきているように思います・・・そんなにたくさんの報告書はチェックしていませんが(笑)

いかにも、と書いたのは、同じように報告書に携わっている身として、本当にトップが自分の言葉でこれを語っているのだろうか・・・などと思ってしまうからです。

トップコミットメントは、最近では第三者によるインタビューをもとに書かれることが多いようです。そのものずばり「対談」という形で掲載している報告書も見られるようになってきました。
(かくいう自社の報告書もそうした対談を掲載していますが・・・笑)

ですが、その内容がいかにも「CSRのコミットメントでございます」という内容になってしまっているように見えてしまうものも少なくありません。多 くの場合、インタビュアーはこの世界で知られている人なので、それを知っている人にとっては、「ああこの人ならこういうことを聞くだろうな」ということは 分からなくはないのですが、さて、そうしたことを知らない多くの一般の読者のみなさん(これには自社の従業員も含まれます)にとってはどうだろうか、と考 えてしまうのです。

この人にはもっと本音の部分で聞きたいことがあるのではないか。
この質問は、会社の側で用意した(あるいは想定済みの)質問ではないか。
そもそもこのトップの回答は、普段言っていることと矛盾していたりしないのか。

2年前から対談を掲載し、今回3回目を行う身としては、自社の対談においてもそういった状況に陥っていないか、気にならなくはありません。

対談やインタビューといったライブの場面で出てくるのは、本音かあるいはシナリオです。
本音としてそのメッセージが出てくるほど、CSRという概念がトップに浸透しているのであれば、こうまで企業のCSRが叫ばれることはないでしょう。トップの本音は組織の方向性を決めるものでもあるからです。

そういった意味では、最近は「対談」と「コミットメント」は分けてしまってもよいのでは?という気がしています。

コミットメントは、本来考え抜かれ、整理され、その上で血肉となっている必要があります。ただ、現実には組織やトップの血肉にまではなっていないから、CSRレポートのような形で毎年確認をしていくことで、血肉としていくプロセスを設ける必要があります。

それが対談の役割だとすれば、その内容がいかにもシナリオ然としたものだと、本当はどうなのか、という気になってきます。

むしろ対談については何も考えずに、ある種の「社会との対話」として組み立ててしまった方がよいのではないか。その上で、抜け落ちてしまう部分については、整理された「コミットメント」あるいは「ご挨拶」として提示したほうがよいのではないか。

ちょっとまとまりませんが、最近はそんなことを考えています。

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2009年3月16日 (月)

貧困のない世界を創る

※今日の内容はCSR日記にも掲載しています。

先週の「環境とビジネスは両立するか」に引き続き、日曜日に同じくアカデミーヒルズで、グラミンバンクのムハマド・ユヌス博士の話を聞いてきました。(知りませんでしたが物理学博士だそうですね・・・銀行家とはまったく関係ないですが。)

個人的に印象に残ったのが、講演の中で博士が「たったの27ドルを42人に貸すことから始めた」と話していたことです。同時通訳の中なので細かいニュアンスは違うかもしれませんが、この「たったの」というのがふと気にかかりました。

バングラディシュにおいてグラミンバンクのマイクロクレジットが成功したのは、その27ドルで「人生が救われる」人と、その27ドルを「たったの 27ドル」と感じられる人とが社会の中に存在したから。つまり、圧倒的な格差があったためではないか・・・そんな気がしたのです。

ただし、これはマイクロクレジットに対するネガティブな指摘とは考えていません。その格差は彼が作り出したものではないですし、そもそも「格差がある」ということと「貧困がある」ということは同一ではないからです。
そこで改めて感じたのは、「格差」と「貧困」はあえて分けて考えたほうが、実はスマートに進められるのではないか、ということでした。

「格差をなくせ」と叫べば、その格差社会において上位にいる者が反発するのは当然の話なのです。そうではなく「貧困をなくす」。その原因は格差かも しれないけれども、そのことは棚に上げておいて、社会を底上げするために力を貸してもらう・・・正義の鉈を振りかざすのではなく、そんな仕組みを作り上げ ることが、まずは必要なのかもしれません。惻隠の情みたいで個人的にはちょっと気にいらないところもありますが・・・。

もう一つなるほどと思ったことがありました。それはチャリティの価値について問われた際に答えていた言葉です。

「チャリティは、できる限り早くそこから抜け出すことを目的にするべき。」

どういうことかといえば、チャリティは一時の緊急避難としてはきわめて重要だが、それを受ける側が、受けることに慣れてはいけない、ということで す。その緊急状態から脱出するにはどうしたらよいかを考え、持続的な仕組みを整える・・・その回答の一つがマイクロクレジットなわけですが、これは「寄 付」という行為を考える時に押さえておきたいポイントだと思いました。

講演を聴きながら感じたのは、博士の信念の強さというか、ゆるぎない考え方でした。マイクロクレジットは、そのアイデアが賞賛されることが多いよう に思うのですが、実はそれ自体は画期的なアイデアというほどのものではなく、実行者の信念と実行力こそが成功のポイントではないかと感じました。

恥ずかしながら「貧困のない世界を創る」はまだ読んだことがないので、近いうちに読んでみたいと思います。

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2009年3月13日 (金)

イノベーション・オフセット

※今日の内容はCSR日記にも掲載しています。

昨日はアカデミーヒルズ六本木BIZの環境シリーズ「環境とビジネスは両立するのか」というセミナーに参加してきました。すでにファーストインプレッションは書いたのですが、内容のまとめも兼ねて少し振り返ってみます。

講演で大きなポイントになったのが、「適正に設計された環境規制は、企業の国際競争力を強化させる」というマイケル・ポーターの仮説です。さまざま な著作が翻訳されているポーターですが、この仮説についてはこれまで翻訳されたことがなかったそうで、会場で講演シャン尾三橋氏が監修して翻訳されたとい う書籍が配布されました。これはまた別の機会に紹介したいと思います。

このポーターの仮説は静学(statics)ではなく、動学(dynamics)を前提にしています。あまり解説がなかったのですが、ようするにあ る一定の条件に固定された世界で考える従来の静学では環境対策はコストでしかないが、時間の概念を導入した動学では環境目標と産業の競争力は両立するとい うことのようです。

ポイントになるのが「イノベーション・オフセット」と呼ばれる考え方で、初期投資費用をイノベーションによって相殺するというもの。

比較的わかりやすい例だと思ったのが、ガソリン車の環境規制を厳しく行った日本版マスキー法で、その規制をイノベーションで乗り越えた日本車が、初期投資はかかっていても、最終的に規制対応を怠ったアメリカ車に対して優位を持つことができた、というもの。

このイノベーション・オフセット自体は、別に環境の専売特許というわけではなく、ようは初期投資が大きくなって一時的には不利になっても、そこでイノベーションを起こすことによって、最終的に勝利を収めることができる、ということになるでしょうか。

そのイノベーションを起こさせる誘因として環境規制を「適正に」するべきだ、というのがポーターの仮説のようです。

このイノベーション・オフセットを起こすために求められるポイントが次の3点。

  1. 適正に設計された環境規制は、他国よりも、先んじて法制化されれば、他国の競合企業よりも間違いなく利益をもたらす。
  2. 手ぬるい環境規制よりも厳格な環境規制の方がイノベーションを誘発する。
  3. 厳格な環境規制は、資源生産性の向上を促し、省エネ、省資源による利益を生み出す。

この3点のうち、最初の2点は「環境」というキーワードがなくても通用する考え方なので、特に環境とビジネスにおいて考えなければいけないのは3点目ということになるでしょうか。

これは意外と大切な視点だと思います。大切なのはその規制に対応することが「環境にやさしく」なるのではなく「資源生産性の向上を促す」ことにつな がるかということ。「環境にやさしい」だけでは、時として資源生産性の向上には結びつかないことがあるのではないか・・・ということは疑ってかかる必要が あるのかもしれません。

ちなみに「よい環境規制」というのはこういうものだそうです。

  1. 人々の健康(安心・安全)を守るための規制
  2. 環境破壊、劣化を防ぐための規制
  3. 早晩、実施が見込まれる規制
  4. イノベーションを誘発させる規制

今企業をとりまく環境規制のうち、1と2については強く意識されていますが、3と4についてはどれだけ意識されているでしょうか。法規制に限らず、社会が(生活者が)企業に求める環境対応というのも、実はこうしたことを意識していく必要があるのかもしれません。

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2009年3月12日 (木)

NPOやNGOへの寄付を説明する

※今日の内容はCSR日記にも掲載しています。

ここしばらく、社内のマッチングギフトで支援する団体を選定するために、NPO団体の情報を集めて整理しています。多くはホームページを参照しながら進めるのですが、情報の開示度合いに大きな差があって、横並びに比較していく難しさを改めて感じているところです。

このあたりは、企業の情報開示にガイドラインを設けて横並びに比較したいという要望と同じようなものかもしれません。

こういう仕事をしていながら、寄付などにはほとんど関心がないのですが、こうしたNPOへの寄付について、どうやって説明責任を果たしていったらいいのか、といったことには興味があります。社会システムとしての寄付はどのように説明され、各団体は何をもって自団体への寄付を正当化し、ステークホルダーに対して訴えかけていくかという部分です。

そういった意味では、企業とステークホルダーの関係はかなりシンプルです。商品やサービスを提供する相手とそれに対してコストを負担する相手が多く の場合同一だからです。広告モデルによる無料サービスなどは少し違ってきますが、意識上はあまり差がないと考えてよいはずです。

一方、NPOの場合は少し話が違ってきます。NPOへの寄付とその活動の関係は税金と行政サービスに近いと考えることができると思うのですが、ようするに寄付という形でコストを負担するステークホルダーと、それによるサービスを受けるステークホルダーとが、必ずしも同一ではないのです。

この場合、特にコストを負担するステークホルダーに対する説明責任はどのように果たされるべきか、ということが大きな問題になってきます。「良いことだから」というのは、相手の情感に訴えただけで説明とは言えないので、多くの場合その負担根拠は明確ではないというのが実情でしょう。

税金の場合は、徴収段階で説明が行われます。「これは所得に対するものです」「これは消費に対するものです」といった形で、社会的な合意事項として、コストを負担することが義務付けられて成り立っています。これは「みんながルールに基づいて負担するもの」だから成り立つ考え方で、そこに公平性があればおおむね受け入れられます。

一方、寄付の場合はそういった負担段階での説明はできません。一様に負担するものではなく、各自の意思に基づいて行うものだからです。であれば、その負担に対する説明は使途が何で、どのように使われたか、というアウトプットの段階で行われる必要があります。

「良いことに使っている」では、負担段階での説明に過ぎないため、本来は問題があると思うのです。それを寄付する側が無批判に受け入れてしまっては、単なる「寄付をした」という自己満足にしかなりません。その負担によりどういった効果がもたらされるか、ということを具体的に把握した上で、そのサー ビスに対するコストを負担する、というのが本来求められる「賢い寄付者」のあり方でしょう。

そう考えると、CSRで求められる情報開示以上に、NPOにはSRが求められる(NSR?それともOSRでしょうか)ということになります。さらにかかわるステークホルダーには彼らにそういったことを求めていく責任があるということも考えられそうです。

一方で、今回の考察を進めるうち、企業に求められている社会貢献やCSRというのは、行政だけでなく、NPOが担っていたような公共サービスにも及んでおり、これは行政の失敗であると同時にNPOの失敗ということでもあったのではないか・・・そんな気がしてしまいました。

21世紀はNPOの時代と言われていますが、実はそう叫ばれること自体、NPOが担っていた領域が企業に侵食されつつある、ということなのかもしれません。

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2009年3月 9日 (月)

利益追求より消費者第一

週末にHP MiniのVistaへの再セットアップを行ったのですが、まだ持ち歩ける状態まで設定が完了していません。
そのため今日はHT1100からの更新です。やっぱり鞄は軽いです・・・。

先週出席したセミナーで、消費者(生活者)の意識調査の分析結果についての紹介がありました。
内容自体はとりたてて目新しいということは無かったのですが、改めて引っ掛かってしまったフレーズが一つあります。

それは、生活者は企業に「利益追求よりも消費者第一」を求めている(昔から変わらないが、その傾向はより強くなっている)という話です。

これがなぜ引っ掛かってしまったかというと、聞いた瞬間に少々意地悪な考えがひらめいてしまったため。

企業の利益追求よりも消費者第一を求めるのは、自らの利益を求める消費者としては至極自然な感情です。「消費者利益よりも企業利益」を求める「消費者」がいたら、それはあまりに不自然でしょう。

しかし、そうであれば、逆に企業が「消費者よりも自社の利益」と考えるのも、至極自然ということになります。消費者が自分の利益を優先するように、企業も自分の利益を優先すると考えるのは、あまり特殊な考え方ではないような気がします。

こういった対立関係になってしまうのは、企業利益と消費者利益を対極に捉えた上で、企業利益「よりも」消費者利益という捉え方をしてしまっているからです。

そうではなく、両者のベクトルを揃えた上で、企業利益「のために」消費者利益を追求するという関係にしなければ、両者はいつまでも平行線になってしまうでしょう。

もっといえば、両者が対等な立場となっていくには、この「ために」を逆に使うことも考えていく必要があります。

消費者利益「のために」企業利益を追求する。

これはつまり、企業だけが利益を追求するということではありません。企業が自らの利益のために消費者利益を追求するように、消費者もまた自らの利益のために「企業利益を」追求することが必要になってくるのではないか・・・そういうことです。

「情けは人のためならず」にも通じるような話ではあるのですが、企業人としてではなく、いち消費者として、企業(自社ではありません)に対して、新たな利益を提供していく(ただ商品を買うだけでは対価を提供したにすぎず、消費者側からの付加価値を加えた形の利益を企業に提供することにはなっていません)方法は何があるか。

そういったことを考えることも必要な気がします。

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2008年12月26日 (金)

CSRレポートをどんな時に使うのか

昨日は家を出る時にHT1100を持つのを忘れてしまいました。会社でやることもあったのでブログは書きませんでしたが、1日持っていなくてもそれほど支障がないというのは、意外とPDAとして使っていないということかもしれません。

基本的にスケジュールの管理はGoogleカレンダーなので、会社にいる限りはあまり困らないのは確かです。外出してもそこでスケジュールを調整することはほとんどありませんし、そもそもアポイント系の予定はほとんど発生しない仕事の状況ではあります。

などと言いつつ、昨日は久しぶりに他の事業所で打ち合わせでした。打ち合わせというか、次のCSRレポート作成に向けたヒアリングです。

なるべく多くの従業員の意見を反映させたいということで実施をしているのですが、なかなか思ったようには意見を得られなかったりします。さらにそれ以上に辛いのが、参加した従業員に満足感を与えられるような内容になかなかできない点です。そういった意味ではCSRというのはまだまだ一部で盛り上がっているだけの遠い話なのかもしれません。

昨日は支店でのヒアリングでしたが、そこで感じたのは、普段顧客に「会社の説明」をしているか、「商品の説明」をしているかで、その従業員にとってのCSRレポートのようなものの位置付けがずいぶんと変わってくるのではないかということでした。

特に自社の場合、営業の最前線の人間が飛び込み営業などで新しい相手に会社や事業の説明をするという機会はあまりありません。基本的にはルートセールスで、従来からの顧客に商品の説明をすることが多いのです。相手もこちらの会社のことはある程度分かっていますから、CSRレポートに書いているような内容については、説明の機会はあまり発生しないことになります。特に数字を追いかける営業の場合は顕著かもしれません。

そういった意味では、一方でマネージャークラスの方が顧客を訪問する際にCSRレポートを持っていくことが多いという話は納得できます。彼らは現場のセールスと違って、商品以上に会社の説明をすることが大きな役割になってくるからです。

これはCSRレポートの読者、特に「使い手」として従業員を想定する際に、意識しておく必要があることではないかという気がしました。営業を受ける側に自分を置き換えて考えてみても、これまで付き合いのなかった新しい会社からの売り込みの際にはその会社の説明を聞きますが、従来から付き合いのある会社の場合にそういった話題になることはほとんどないからです。

従業員がコミュニケーションのきっかけに使うことのできるCSRレポートを作ると言っても、そのコミュニケーションの機会をひとくくりにしてとらえてしまうと問題があるということを改めて考えさせられました。

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2008年12月24日 (水)

低コストで高品質の商品

先日ふと思いついてメモをしていたのですが、企業が低コストで高品質の商品を開発して売り出した時に、消費者がそれを「高く」買わないのは何故でしょうか。

ちょっと変わった考え方ですがこういうことです。新商品よりも改良に例えた方が良いかもしれません。

企業が(企業でなくても生産者が)努力と工夫を重ねた結果、従来よりもより高品質で低コストの商品ができたとします。この努力は生産者が行ったもので、当然消費者は一切の寄与をしていません。(商品によっては「消費者の声」という寄与はあるかもしれませんが、それは品質面にはあったとしても、コスト面にはほとんど影響しないでしょう。)

消費者には当然より高い品質という価値が提供されます。この価値だけで評価するのであれば、価格は高くなりますが、消費者がその価値を認めるのであれば、当然対価として支払う必要がありますし、支払うでしょう。

これは、より高い品質を作り上げた生産者への評価ということになるので、その関係はとても分かりやすい。

では低コストというのはどうでしょうか。安いことも価値の一つかもしれませんが、低コストになったことを評価して「安く」買うというのは消費者にとって生産者を「評価」したということになるのでしょうか。

「いやいや、そもそも今まで買わなかったものを安くなった結果買うようになったのだから、それは評価にあたるよ」

確かに、これまで買っていなかった消費者にとってはそうかもしれません。でもすでにこれまでも買っていた人たちが、企業努力により価格が下がった時に、その努力を「評価」し、その努力に報いていくためには、どうしたら良いでしょうか。

コストが下がった時に、すべて消費者に還元するのではなく、折半のような形で分かち合うという考え方もあるのかもしれません。でもそれは生産者が分け与えているのであって、消費者が分け与えている訳ではない。

そう考えると、生産者が努力の結果低コストを実現した時に、その成果を消費者に提供する意味合いはどれだけあるのだろうかという気にもなってしまうのですが、どうなんでしょう。

低コストというのは、生産者から消費者に提供される「価値」ではなく、生産者同士の競争のための手段に過ぎない、と割りきってしまえばそれほど矛盾はないんですけどね。

生産者の「低コスト化」の努力に、自分が消費者であればどうやって報いればよいのか、ちょっと考えてみると良いのかもしれません。

スターバックスのコーヒーがより美味しく、でも高くなった時に、その努力に対価を払うことはできても、味は変わらずに安くなった時に、その努力に対価を払うことはできないんだよなぁ・・・。

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2008年12月19日 (金)

経済の失速がもたらすもの

日産が2000人の派遣社員をすべて解雇するというニュースを聞いて、ふと「これで日産は派遣社員を不当な待遇で働かせてはいない会社になったんだよな・・・」などということを考えてしまいました。

一時期、派遣社員の待遇が問題になり、彼らの正社員としての登用を進めることで、企業内の派遣社員を減らすという動きがありました。奇しくも、その「派遣社員を減らす」ということが、大量解雇によって実現してしまったことになります。

かなり乱暴な見方であることは承知していますが、本来一時的な労働力として定義されている派遣社員を解雇できたということは、一方で正社員のような「辞めないことが要求される」働き方はさせていなかったということでもあるのかもしれません。

もっともその場合、残った正社員が本当に正社員なのかという問題はあります。解雇したいけど法律上解雇できないというのが本音であれば、それはその社員の仕事の内容が、実は正社員に求められるものではなく、派遣社員に求められる性格のもので、派遣社員側から見れば、「不当に優遇されていただけ」ということになるからです。

また、生産調整や新工場の建設先送りなども次々と発表されていますが、これらを「環境」という視点で見た場合はどうなるでしょうか。過剰に生産されダブついていた「モノ」が、適切な需給バランスに収斂していく・・・という見方もできるのかもしれません。これまた乱暴な話ですが、物質文明に支えられた経済が収束することは環境への負荷を減らすことになるかもしれないのです。環境団体がそういった「歓迎のコメント」を出さないのが不思議なくらいです。

そう考えると、この経済状況をどう好転させるかよりも、この状況を千載一遇のチャンスと捉えて、生活スタイルの転換を訴えていくことこそ、環境団体には求められるでしょう。それができないのであれば、そもそも彼らの訴えは物質文明に依存していただけということになってしまいます。

私はどちらかといえばこんな時こそお金を使って(つまりモノを買って)経済を活性化した方が良いのではないか、と考えてしまうのですが、そうではない人たちが、どのような形で社会を持続させようと考えているのか、聞いてみたいところです。

前半と後半で話が違ってしまいました・・・。

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2008年12月 9日 (火)

人権の前提になるもの

昨日はアムネスティインターナショナル日本のCSRレポート評価セミナーに行ってきました。今年で3回目で、参加するのも3回目。有料のセミナーで、1年目は会社の経費で参加したのですが、2年目以降は自腹で参加しています。
(特に理由があるというよりも、レポートを会社に出すのが面倒なだけですが・・・結局書いていたりするので、経費で参加してもよいんですけどね。)

昨日のセミナーで個人的に印象に残ったのは、一つは「派遣は人事部ではなく資材部で管理されている」という話。どの会社でもそうという訳ではないと信じていますが、資材として、つまり「モノ」として扱われているので、人事部門が関知し得ない、あるいは知らんぷりできる構造ができてしまっているという話でした。

なんだか恐ろしい話ですが、一方で指摘されていたのが、日本では企業にとって非正規雇用者を雇うメリットが大きすぎるという話です。同一労働同一賃金の原則がしっかり確立されていれば、相対的に非正規雇用者を雇うメリットが減じられるため、すくなくともここまでひどくはならない・・・つまり、法律を含めた社会政策的な影響がかなり大きいのだと感じました。

二つ目は自分の仕事にも関わる話で、報告書ですべての事項を網羅して記載するのは無理ではないかという会場からの質問への回答です。

「記載するかどうかではなく、聞かれたときに答えられるかどうかが重要」

記載するのに紙面上の都合はあっても、それとその課題について目標を持たなかったり、現状を把握しないというのは別の問題という話です。

それはそうだろうと思いましたが、一方でそうであるのであれば、なおのこと社会の側で「企業に何を聞くか」という意思を伝えることが重要ではないか、などと考えてしまいました。今回のセミナーは、100社あまりの報告書を調査しての分析が中心なのでそういったことを目的としていないのかもしれませんが、「何の記述が足りない」と評価する前に、「自分達はこの情報を求めている」というのを、その理由も含めてしっかり出すのが、NGOのような団体の役割ではないか、と感じたのも確かです。

結局質問としてはまとまらなかったのですが、企業は情報開示に消極的なのではなく、その情報を開示する理由が分かっていないか、あるいはその理由に納得していない(説得力に欠ける)ということではないか・・・そんな気がするのです。

今回は人権団体によるセミナーということで、特に労働環境を取り巻く記述が中心になったのですが、プレゼンの最後に添えられていた「(こうした情報を)公開してください・報告するべきです」というメッセージにどこか単なる「べき論」で説得力や迫力がないと感じてしまったのは、はたして私だけでしょうか。

このあたりは、もう少し積極的かつ明確な「開示根拠」の構築が求められていて、「それが正しい」といったべき論だけでは、それ以上先に進めないのではないか、と感じてしまいました。

企業はなんのために情報を開示するのでしょうか。

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2008年12月 4日 (木)

社会貢献活動を進める上で

昨日会社で「事業(部)として何か社会貢献をしたいと考えているのだが、何をしたら良いか、そのヒントがほしい」という相談がありました。

そういった相談があること自体すばらしい進歩だと思いましたが、せっかくのチャンスなのでこんな話をしました。

「何をするかも大事ですが、決めるにあたって外部の意見を聞くのはもっと大事です」

ちょうどセミナーでNGOとの協働の話を聞いたばかりということもありましたが、今後は企業が一方的に社会貢献活動を考えるのではなく、いかに社会との接点において意見を聞いていくか、ということが大切になる、という話です。

実際に実行するとなると、色々と考えなければならないこともあるかと思います。ただ、最終的には企業で決めるにしても、そこで外部の視点を意識したかしないかでは大きな違いがありますし、特にその意思決定がどのように行われたかを明らかにすることが大きな(活動の評価において)ポイントになるのではないでしょうか。

また、事業部門で社会貢献を考える場合、広告宣伝とは何が違うのかということをある程度考えておく必要があります。

イベントなどでサンプルや商品を無償で配るのは社会貢献になるか、という質問も受けたのですが、もちろんそれも考え方次第では社会貢献になると答えつつ、シンプルな判断基準としては、その費用が経費管理上「広告宣伝費」になるか「寄付金」になるかで考えればよいのではないか、という話をしました。

個人的には、企業が事業を通じて社会貢献を行うのであれば、それは企業自身にもリターンがある形が望ましく、ある程度マーケティングの要素が入ることは必要だと考えていますが、そうした点も含めて、そろそろ考え方を整理しておく必要がありそうです。

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2008年12月 3日 (水)

ボランティア参加を支えるもの

今日は会社で月に一度の清掃活動があります。事務局側なので、清掃に参加するというよりはいかに参加者を集めるかということを考える必要があるのですが、そこで大事なことは何か考えてみます。

いろいろなボランティア活動に参加していた後輩が、こんなことを言っていました。

「活動に意義を感じて参加する人より、友達に誘われてなんとなくわいわいやっている人の方が長続きする」

すべてがそうということはありませんが、会社の清掃活動の場合、実はこれが大きなポイントになるような気がします。

変な話ですが「地域清掃の意義」よりも、「仲間でわいわいやる楽しさ」ということの方が、参加動機としても強力で、かつ持続的になる気がするのです。

であれば、訴えかける際に必要になるのは「清掃の意義目的」よりも、「皆でやる」というイベント性ということになります。

事務局側としては手間もかかるし、じゃあ清掃活動の意義はどうするんだ、などという気にもなるのですが、それはそれ、これはこれと割りきってしまうのが良いのかもしれません。

例えば清掃活動でおそろいの(会社の)ウェアを着るというのも、「会社の宣伝みたい」と気にする人がいるのですが、会社の宣伝目的というよりも、参加者の一体感を生み出すためのしかけ、と考えた方が良いような気がします。

最初はわいわいやるのが楽しくて参加していた人も、続けるうちに意義を感じるようになるということもあるでしょうし、そもそも何も考えずに参加しているから活動に価値がないかといえばそんなことはないので、それはそれで良いのではないでしょうか。

清掃前の考察でした。

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2008年11月28日 (金)

社会システムとしてのNGOの位置付け

昨日は外務省が主催する「NGOと企業のSR〜WIN-WINの関係を構築するアカウンタビリティとは〜」というセミナーに行ってきました。

いくつか印象に残ったことがあるのですが、個人的に一番考えさせられたのは、スピーカーの一人である長坂寿久拓殖大学国際学部教授が言われていた「戦後、日本は公私二元論で社会システムを作り上げてきたが、本来は公・公共・私の三元論での議論が必要だった」という話でした。
そのため、公=行政セクター、私=企業セクターだけで社会システムが構築されてしまい、公共=市民セクターの力が育たなかった、というのです。

そこで市民セクターとしてNGOのような存在が今後は重要になってくるし、行政セクターや企業セクターは彼らとの協働が必要になってくる、というのが長坂教授の方のおおよその主張でした。
(はっきり明言された訳ではないので、半分は私の解釈ですが・・・。)

先日読んだ「暴走する資本主義」でも、市民の力の衰退が訴えられていたと理解しているのですが、主張としては似たようなものを感じました。

ただ、講演後に長坂教授にも投げかけてみたのですが、スッキリとしない部分もあります。

それは市民セクターのガバナンスはどのように形成されているのか、という部分。

行政セクターは、選挙という形で社会の意思を反映させるシステムを持ち、社会から税金を集めて、サービスとして還元するという仕組みを持っています。

企業セクターには、投資や購買により社会の意思を反映させるシステムがあり、社会に対してサービスを提供して対価を得るという構造があります。

ところが、同様に市民セクターの仕組みを考えようとすると、その根幹になっているシステムはなんだろうかという疑問がわいてきます。

長坂教授は、寄付やボランティアでの市民参加がそれにあたると言われていたのですが、それではあまりに社会システムとしての基盤が脆弱な気がするのです。
(もっとも、そうやってシステム構造が脆弱であるがゆえに支援が必要というのも、長坂教授の主張の一つでしたが・・・。)

戦後の日本では、社会の「公共」にあたる部分は「公」である行政セクターが担う、という教育がされてきたそうなので、あるいは単に私の勉強不足なのかもしれませんが、この部分をもう少し分かりやすくしていく必要があるのではないかと感じました。

NGO(というのはあくまで国連用語として使っているだけで、ここでいう市民セクターと必ずしも同一ではないようですが)は、どのように社会の意思を反映させるシステムを持っているのか、提供されるサービスのコストはどのように負担され還元されるのか。
その部分をもっと明確にしていく必要があるのではないでしょうか。

個人的に気になっているのは、こうした市民セクターの追求する「公共」が、いわゆる「良いこと」のような一定の価値観で語られるだけになっていることが多いことです。問題は何が良いかという価値判断が社会の意思の反映としてどのように行われているか、というプロセスの部分なのです。この構造が見えてこないことが、社会システムとして考えた場合の市民セクターの一番の課題なのではないか・・・そんな気がします。

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2008年11月27日 (木)

栄養バランス

ブログをHT1100からのメールで更新するようになってから、メールの下書きの形でメモをするようになったのですが、少し前のブログ用のメモにこんなものが残っていました。

「食事の栄養バランスは、一回でとる必要があるのか?」
「それにより利益を得るのは誰か?」

正直なところ、1回の食事で栄養バランスをとるのはかなり難しく、1日という単位でさえかなり意識する必要があります。

問題は、それを意識するあまり、1食あたりのカロリーが過剰になってしまうこと。実際高齢者の食生活は、カロリーを気にして必要な栄養の不足に陥る場合と、栄養バランスを気にしすぎてカロリーオーバーになる場合とに二極化しているという話を聞いたことがあります。

実際のところは、1食毎の栄養バランスが少々崩れたぐらいで健康に影響があるケースは少ないのではないか・・・そんなことを考えたメモだと思います。
(メモは断片的なので、しばらく時間をおくと何を考えたか分からないようなものもあります。)

であれば、例えば1週間ぐらいのスパンで考えてもよいのではないか。一昨日や昨日に何を食べたから、今日は何にしようというバランスを考える程度でも、十分なのではないか・・・そんな気がします。

さて、ここからは少々ダークな想像。

消費者が毎回の食事単位で栄養バランスを考えるようになることで、メリットを得るのは誰かという話です。

それは栄養バランスを考えた食が健康につながると提案している食品企業自身ではないでしょうか。

例えば3日に1回程度の摂取でも十分なものを毎食摂取するようになれば、それだけ「食べてもらえる」ことになります。
さらに言えば、そうした「バランス栄養食」(注:特定の某食品を意識してのものではなく、栄養バランスに配慮した食事という意味です)は、家庭で作るのは以外に難しい。先に書いたように、それを意識するとどうしても過剰カロリーに陥りがちです。栄養バランスは完璧でも2人前・・・では、健康に良いかどうかは甚だ疑問です。

私を知っている人には「お前が言うな」と言われてしまいそうですが、企業の儲け云々はともかく、案外栄養バランスというのは気にしすぎない方が良いのではないか、という気がします。

もちろん、流動食とか医療食のように、食べられるものがある程度固定されてしまう場合には、単独での栄養バランスが重要になってくると思いますが、色々な食を楽しむことができるのであれば、トータルのバランスで考えてしまっても良いのではないでしょうか。

・・・というわけで、お昼を外食している私は、毎日なるべく別のジャンルのお店に行こうとしている、という話でした(笑)

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2008年11月12日 (水)

お前達にこそあげたくない

昨日は打ち合わせのため、朝イチで別の事業所へ行ったのだが、その道中、駅近くのパチンコ店に並ぶ大量の人たちの姿を見た。

「ああ、高額所得者よりも、この連中にこそ給付金は支給して欲しくないよ。」

そう思ってしまうのは自分だけだろうか。
実は個人的には所得で制限するという考え方で本当に良いのかという気がしているのだ。

給付金の目的は何か。

それは悪化する経済下で困窮する人たちを救済する「ことではない」。
経済対策として、景気刺激のために行うというのが、本来の目的のはずだ。

そういった意味では、冷たいようだが、給付されたお金を生活防衛に使ってしまうような人こそ、給付には意味がないのである。残酷なようだが、この給付金でプラスアルファの消費をする人たちに配られてこそ、それが回り回って経済浮揚につながる。

そうではないというのであれば、こんなバラマキはそもそもやめた方が良い。

高額所得者に不要というのは、お金はたくさんあるのだから支給する必要がない、という理屈ではなく、こうした人たちには給付金程度のはした金では消費刺激にならない、という理屈が必要なのだ。
そして、同じロジックを使うのであれば、普段の生活の延長で使ってしまう人たちにも不要ということになる。それでは景気刺激にならないからだ。

それが救済金的な色合いを帯びてしまっているのは、政治家によるパフォーマンスと支持集めにすり替わってしまっているから・・・というのは、あながち間違いではないはずだ。税金を選挙費用として投入するようなものである。

もちろん、こうしたことを正面から言ってしまえば、不評を買って支持率はがた落ちするだろう。政治家がそれを避けるのは当然の本能でだから、必ずしも一方的に非難できるものではない。むしろ国民の方にこそ、どう使うかという自覚が必要なのは間違いない。

せめて、ただばらまくだけでなく、領収書の提出による実費清算のような形にはできないのだろうか。期限と金額の上限をもうけた上で、一人一回領収書と引き換えに額面の金額を給付するのだ。

使い道への介入のようだが、そもそも税金は明確に使い道を明らかにして使うものだ。今回給付されるのは税金であり、たまたま使うのが市民であるに過ぎない。公務員と同様に領収書を提出するのは、別に理屈としてはおかしくない気がするのだが、どうなのだろう。どういった産業に給付金が流れたかが分かるので、効果もかなり測定可能だ。

もちろん、そういった形で使い道を探られたくない人は、それこそ給付を断れば良い。そういった人もいるだろうし、そういった人にまで給付を強制する必要はない。今回の給付金は、救済ではなく、景気刺激のための義務の側面があることは、もっと語られても良い。

そもそも、公務員の税金の使い道には厳しい目を向けるのに、市民が使う場合はなんの制約もないというのも、甘いではないか。

今回の給付金は、使い道こそ自由だが、形式的には公務員による経費使用と同じように扱った方が、性格が明確になって良いのではないだろうか。

さて、自分は何に使いますかね。

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2008年11月 4日 (火)

食品添加物と化粧水

食物と一緒に体内に摂取される食品添加物と、皮膚を通じて人体に吸収される化粧品(美容クリームなど)について、人体の機能という側面から考えてみる。

消化器官は、人体に限らず生物にとっては本来異物である食物を、何らかの有効な形で吸収する機能を持っている。どちらかといえば送り込まれたものは無差別に吸収してしまうので、そこで添加物のような異物を極力排除したいというのは、ある意味自然な感覚であるかもしれない。

ところが、自然の機能として考えた場合、無差別に異物を受け入れる消化器官は、多少の異物の吸収には対応できる強さがあるはずだ。

それは器官内で消化してしまった後でも吸収しないためのフィルタリング機能かもしれないし、吸収してしまった後のなんらかの排泄機能かもしれない。だが、いずれにしても、すんなり摂取してしまった後も、その異物に問題があれば、なんらかの自己防衛機能が働くのは想像に難くない。

消化器官を通じて摂取された物質に対しては、人体の側に様々なバリアがあるのだ。

逆に皮膚はどうだろうか。

そもそも異物の侵入を防ぐ機能を持つ皮膚は、浸透させないことに最大限の力を注ぎ、浸透してしまったものに対しては意外と無防備なのではないか。

そして、そんな皮膚に浸透する異物は、最初から皮膚のバリアをすり抜けるような特性を持っているため、そもそも異物とは認識されない可能性もある。本来人体にとっては異物にも関わらずだ。

これは添加物が人体への「浸透」は目的とせず、そもそも異物として認識される可能性が高いのとはまったく逆の性質である。

いやいや、だからこそ試験に試験を重ねて安全なものにしている、というのが、メーカーの言い分だし、使う側の意識だろう。

しかし、同じ理屈が食品添加物には通じない。これは感覚的なもので、どうにも解決できないことなのかもしれないが、個人的には不思議な話である。もっとも、食品業界が化粧品業界ほど信頼されていないだけかもしれないが。

特に科学的な根拠はないので、悪しからず。

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2008年10月31日 (金)

給付金による経済効果

政府が打ち出した経済対策の給付金だが、これを実際に経済効果につなげるためには、市民としての消費者や企業には何が求められるだろうか。

投入された資金から経済効果を生むには、まずそれを使わなければならない。経済というのは、結局車輪と同じで、回り動いていく必要がある。経済が停滞しているというのは、お金がないということではなく、お金が回らないことだからだ。

回転させていくには何が必要になるか。給付された個人がまずは使うのが大前提だが、意外とその先の企業の行動が鍵を握っているような気がする。

問題は消費者が使った結果得られた利益を、「何に」使うかなのだ。内部留保は最悪の選択だが、消費者に還元するというのも少々範囲が限定的で効果が弱い気がする。

一番良いのは、従業員や取引先に還元していくことではないだろうか。サプライチェーンの上流まで給付金の効果が伝わってこそ、経済が上向いていくためのドライブになる。

問題は、それを経営者やその背後の株主、そして消費者が認めるかどうかだ。株主や消費者が短期的な利益還元を求めたり、経営者が長期的な経営の安定を志向した場合、こうした資金は取引先や従業員には流れていかないことになり、経済効果は限られた範囲でとどまってしまう。

あくまで理屈上での話ではあるのだが・・・。

ところでセットで発表された消費税の増税なのだが、これも理屈でいえば、取引というフローに課税される消費税は、足を引っ張りこそすれ、経済のドライブにはなり得ない。財産としてストックされてしまう所得に課税してこそ、「税金で取られるぐらいなら使おう」という心理に結びついていくのではないかと思うのだが、どうなのだろう。持たない者のひがみだろうか。

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2008年10月28日 (火)

サイゼリヤはどうすればよかっただろうか

少し遅れた感もあるが、サイゼリヤで発生したピザ代金返金詐欺について考えてみる。

そもそものメラミン混入はさておき、こうした詐欺のような事態を起こさないために、サイゼリヤはどうすればよかっただろうか。

職場で同僚と話していてまず思いついたのは、「飲食代から差し引く」というものだ。こうなると現金ほど気安くはないので抑止力が働くだろう。

しかし、「ピザ以外も信じられない。そもそも食べたくない」と言われてしまえば抗いようがないし、結局無銭飲食という問題が発生することに変わりはない。

それではということで、直接返金するのではなく、問題のピザの売り上げを、例えば今回のメラミン騒動で実際に被害を被った人達の救済にあてるために寄付をするというのはどうか、などと考えてみる。あるいは将来的に被害が発生した場合のためにプールしておくといった方法もある。

「食べてしまった自分はどうなるんだ」という人は当然いるだろう。というか、実際に直接的な健康被害が出ていなくても、そういった人たちがいるからサイゼリヤは今回のような処置をせざるを得なかったという側面はあるに違いない。

個人的には、返金で清算してしまうよりも、直接被害が出たときの救済を将来に渡って約束させる方が意味があると思うのだが、そういった主張が出てこないというのは、結局消費者自身も「被害が出ることはない」とたかをくくっているということなのかもしれない。
(実際に健康被害が出た場合、ピザ代金ぐらいですむはずがないのだ。)

そもそも、今回の詐欺のような問題が発生することに対しては、社会的存在としての消費者がイニシアチブをとって解決をはからなければならないはずだ。この点に関して問題を起こしているのは、消費者であって企業ではない。

仮にこうした詐欺に対しても企業による対策を求めるのであれば、消費者はただ企業に依存するだけの存在になってしまう。消費者が企業に対峙する存在として社会的地位を確立したければ、この問題を消費者自身の力で解決しなければならない。「自分はやっていない」という言い訳が通用するのだとすれば、それは権利者としての消費者と呼ぶに値しないのではないだろうか。

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2008年10月17日 (金)

チャイナフリーがもたらすもの

中国産の冷凍いんげんから高濃度のジクロルボスが検出された問題で、気になっていることが2つある。

1つは、今のところ報道されているのは、餃子も含めて家庭向けの商品であることだ。しかし、中国産の食品としては、恐らく原料を含めて業務用のものが多いのではないか。仮に犯罪やテロだとして、そうした業務用の原料に対して同様のことは行われていないのだろうか。

原料としてメーカーに入荷された場合、当然担当者による検品が行われる。これをすり抜けて製品に混入されてしまったらそれこそ大問題だが、検品段階で食い止められたとして、どれだけのメーカーがそれを明らかにするだろうか。単なる品質問題として片付けられて、公にされなかった場合、この問題(あるいは「攻撃」)の範囲が過小に評価されてしまうということはないか。

小説や映画のような話だが、そこに明確な意図があった場合、全体像を把握する上でそうした隠蔽が大きなリスクにはなってくるはずだ。

もう1つは、犯罪やテロかどうかはともかく、こうした問題が発生するなかでチャイナフリーの考え方が台頭していった場合、どうなるかということだ。

中国産が忌避されて売れなくなるというのは、さらに価格が下がるということにつながるだろう。一方で中国産以外は、ただでさえ少ない供給を奪い合うことになるため、価格が上昇する。

そうした状況にあって、中国産をその他の産地に偽装する、という誘惑にどれだけ抗し得るだろうか。事故米の問題は、価格に大きな差が生じた場合にそうしたことが現実に起こりうるし、それが意図的に行われた場合、ほとんど防げないということを示していないか。

品質というのは、完全にコストに比例する訳ではないが、全く無関係でもない。多くは投入されたコストが品質を決めるのだ。
「安くて高品質」というのは、「コストの割に品質は良い」というものであって、絶対的な高品質は意味しないのだ。

中国産に対する姿勢に必要なのは、やみくもに忌避するのではなく、多少コストが上がっても良いから品質の向上を求めていくことではないだろうか。あれだけの生産力を忌避して遊ばせてしまうことは、実はもっと大きなリスクを抱えることにつながるような気がするのだが、どうなのだろう。

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2008年10月10日 (金)

消費者の感じる不信感

昨日はとある消費者団体(と考えて良いと思うのだが)の情報交換会に参加し、いくつかの講演を聞いてきた。

その講演の一つに企業の社会貢献プログラムの事例発表があり、いわゆる慈善活動的な寄付行為ではなく、ビジネスと連動した取り組みが紹介されていた。

個人的には非常に得心のいく取り組みだったのだが、案の定というか、会場からは「そうは言っても儲かったんでしょ」というニュアンスの質問が寄せられた。
善いことをしているというアピールの裏には、企業としての利潤追求があり、しょせんはそのためではないか・・・そういう不信感のようなものがあるのだろう。

動機はどうあれ善いことは善いこととはなかなか受け止められないのは分からなくもない。

こうした意識はそう簡単には払拭できないよなぁ・・・などと考えながら帰路についたのだが、その帰りの電車の中で某スピリチュアルな人(こういう人を何て呼ぶのだろうか)の新刊本の吊り広告を見かけて、ついつい「所詮は人の心につけこんだ金儲けでしょ」などと感じて、あっと思ってしまった。

消費者が企業のメッセージに対して感じる「しょせん利益のため」という不信感は、自分が最近のスピリチュアルブームに感じる不信感と実は同じようなものなのかもしれない。
なんとなく「自分はそういった感情は払拭できていて、そういった感覚は理解できない」などと考えていたのだが、それは勘違いに過ぎず、自分の中にもやはりそういった感情はあったのだ。

ではそれを認めた上で、どう視点を変えれば、自分はスピリチュアルのようなものを信じることができるだろうか・・・ということを追求していけば、消費者が企業に感じる不信感を払拭するための方策というのが見えてくるだろうか。

・・・うーむ、なんとなく望み薄な気もするのだが、一度真剣に考えてみても良いのかもしれない・・・。

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2008年9月29日 (月)

ケータイは高いのか

先週はちょっと遅い夏休みで更新を休んでいたので、少し前のネタなのだが・・・。

電車内の吊広告で見ただけなのだが、こんな見出しを見て少し考えてしまった。

通信2強の欺瞞ケータイは高すぎる!
(WEDGE10月号車内吊広告)

高いと思うのであれば使わなければ良いと思うのだが、その気もないのに高いと値下げを要求するのは、消費という行為を通じて企業に相対する消費者の態度としてどうなのだろうか。

もちろん駆け引きとしての値下げ交渉は当然の権利だとは思うのだが、そこに社会責任的な要素が混じってくるのは、微妙に嫌なにおいを感じてしまう。

結局使うくせに・・・と思ってしまうのだ。
(使わない理由として「高い」というのは分かる理屈なのだが、使っているのに「高い」というのは、では何故使っているのか、という気がするのだ。もちろん使わざるを得ないライフラインに直結するようなものは別だが、ケータイがそうだとはちょっと思えない。)


少し違うかもしれないが、こうした見方というのは、「価格に見あったサービスを求める」という意識を持っているのか、「サービスに見あった対価を支払う」という意識を持っているのか、で変わってくるのではないかという気がしている。

前者は価格を軸にした評価で、後者はサービスを軸にした評価だ。

価格を軸にしている場合、同じ価格でより良いサービスを受けられるというのは、相手にとって自分のプライオリティが高く、特別に扱われているということになる。一方でサービスが悪いと感じる時には、自分自身がそう評価されているという意識につながってくるだろう。

価格が一律で、サービスが変化する、という考え方だからだ。

一方、サービスを軸にした場合、そのサービスを自分がどう評価するかが問題になり、ドライなようだが、サービスが悪ければ自分が評価しないだけ、という心の持ちようにつながるのではないか。逆に自分が満足した時に、対価をけちったら、自分自身がいやしいように感じてしまうかもしれない。

サービスが一律で、価格が(評価により)変わってくるという場合に、「高い」「安い」といった評価は出てこないのではないか。


現実には価格を変えられるわけではなく、指定された価格に対して「高い」「安い」と感じてしまうのは仕方のないことではあるのだが、それでもそのサービスを「受け取らない」という選択はあるのだから、そういった「買わない」選択をしっかりすることの方が、さも社会正義であるかのように「高い」と批判するよりも必要なことなのではないか・・・という気がする。

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2008年9月17日 (水)

「信頼できない」のか「信頼しない」のか

昨日に引き続き、アカデミーヒルズの緊急シンポジウム「自民党総裁選を斬る~空気読めない候補者は去れ~」からの話なのだが、「国民の政治不信が言われているが、それ以上に政治の国民不信という状況が問題」という指摘があって、実は企業と消費者との関係というのも似たようなものかもしれないなどと思ってしまった。

政治の国民不信というのは、国民を信じていないからまっとうな情報公開がされず、国民自身には判断ができないと言わんばかりの過剰な規制が生まれるという趣旨の指摘だと思うのだが、企業の情報開示が進まない理由というのも、実は消費者に対する不信があるのではないか。

「(消費者に)信頼して欲しいけれども、(消費者を)信頼していない」という構図だ。

もっとも、こうした事態に陥ってしまうのは、そもそも国民や消費者の側に問題があるかもしれない、ということは考えておく必要がある。

我々が政治や企業を「信頼できない」と口にするとき、その「できない」という言葉には相手側に問題があるというニュアンスが含まれている。このように信頼が相手によって決まる構造があるのだとすれば、政治や企業が国民や消費者を信頼「できない」原因は、当然国民や消費者側にあることになるのではないか。

こんな書き方をしていると、企業側の理屈ばかりを並び立てているように自分でも感じてしまうのだが、それはさておき、信頼というのは「できる」「できない」という相手に依存した捉え方ではなく、「する」「しない」という自己の判断に基づく捉え方をする必要があるのではないかと考えている。これは国や企業であっても同様だ。

信頼の基準を相手に置いていては、いつまでたっても問題が発生した際には「裏切られた」になってしまい、相手を非難することしかできない。しかし、自分の判断に置いていれば、なぜ判断を誤ってしまったのか、という視点で自分の信頼の判断基準を再構築することができるだろう。

「信じられない」のか「信じない」のか。「信じられない」というのは気が楽だが、あえて「信じない」と口にしてその根拠を考える厳しさも必要なのではないか、という気がする。

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2008年9月16日 (火)

緊急シンポジウム「自民党総裁選を斬る」

昨日はアカデミーヒルズで行われた緊急シンポジウム「自民党総裁選を斬る~空気読めない候補者は去れ~」を聴きに行ってきた。竹中平蔵氏をはじめとする豪華メンバーによるディスカッションは聴き応えがあったが、そこで話されていた各候補のマニフェストについてなど、自分の予習不足も痛感してしまった。

振り返ってみると、セミナーなどに行く際に、そこで話し合われるテーマについて予習するなんてことは考えたことがない。しかし、セミナーでしっかり何かを得ようとするのであれば、多少なりとも予備知識や自分なりの考えを携えていくというのは必要なことだろう。今回の件でいえば、ただ受け身で聞きに行っただけだった、というのは否めない。

それはさておき、それでも内容は結構刺激的だった。自分なりの意見を持たないで行ったので「刺激的だった」としか評価できないともいえるが、印象に残ったことを一つあげるとすれば、既得権益にしがみつく官僚への批判だろうか。特に、平成に入ってから法律や規制が次々とできていて、その多くが「○○監視機構」といった形で官僚の天下り先の設立につながっている、なんて話はなるほどと思ってしまった。

ただ一方で、これらの批判が「権益を守る」「利権を生む」という話のベースで進められていては、結局変えられないのではないかと思ってしまったのも確かだ。確かにそうした利権にしがみつく構造というのはあるかもしれないが、自分はそこまで悲観はしていなくて、一方では強い使命感がゆがんで暴走してしまっているという側面もあるのではないかと思うからだ。

そして、多くの場合、変えるのが難しいのはそうした使命感を持つ人たちこそだろう。意外とそうした「価値観」をどう崩すかということを構造的に論じることが必要な気がしなくもない。官僚による過剰な規制を、彼らの利権をベースに論じるか、社会的な価値観をベースに論じるかではかなり意味合いが違ってくる。

そういった意味では、官僚を批判する際に、彼らのモラルや欲に結びつけて論じるのは、それはそれでステレオタイプなのではないか、と思わなくもない。

もっとも、彼らパネリストは直接的に官僚とやりとりもしたことのある人たちであり、自分はそういった経験はないから、やはり彼らの言う実感通りである可能性もあるのだが・・・。

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2008年9月10日 (水)

消費者の責任

先日「CSR ブログ」で検索をした時に、「CSRブログ CSR戦略の方程式」というブログを見つけたので、興味深く読んでいたのだが、その中に「業界の常識はCSRの非常識-パソコンは欠陥商品」というエントリーがあって、ちょっと考えてしまった。

おおざっぱにまとめると、故障内容により依頼先が異なり、ワンストップ修理ができないパソコンは、常識はずれの欠陥商品だ、という内容で、いかにもアメリカ的であり、日本人のものづくりの精神からすると絶対あり得ない商品だ、ということらしい。(少々過激な物言いのところだけ抽出しているので、気になる方は原文を読んでください。)

そうなんだろうか。

パソコン、というものに対する考え方の違いかもしれないが、パソコンについてワンストップでアフターサービスをする、というのは、企業の差別化戦略としてのサービスとしてはあり得ても、CSRのような「企業の責任」という考え方ではくくれないような気がする。

というのは、パソコンというのは、メーカーが作ったものをお仕着せで使うのではなく、使い手(ユーザーという言葉は使いたくない)が、自分の用途に合わせて組み上げるツールだからだ。パソコンというのものを最終的に完成させているのは、本体も含めたパーツを提供するメーカーではなく、使い手自身であって、その完成品に対して責任を持つのは、使い手自身というのが、ものづくりのあり方ではないだろうか。

少し気になってしまうのは、そもそもそういった場合に企業が何でも手取り足取りサービスすることが、本当に消費者や社会のためになっているだろうか、ということだ。少し前の時代なら、自動車でも家電でも、消費者は少々の故障は自分で直し、自らの責任で使っていたはずだ。

企業の提供する製品が高度化し、素人には簡単に手が出せなくなった、という状況はあるのだろう。では本当にそのサービスにすっかり身をゆだねてしまって、ちょっとでも不足を感じると「非常識だ」と騒ぐことが、本当に消費者自身のためになっているだろうか。そういった意味では、パソコンの世界はまだそこまでブラックボックス化が進んでいない、ということもできる。

消費者は、企業に要求をしているようで、実は自らの能力をどんどん衰退させていってしまっているのではないだろうか。

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2008年9月 5日 (金)

ブログサービスでCSRレポートを作る方法

昨日たまたま「CSR ブログ」で検索をしたら、以前書いた自分のエントリーが意外に上位にあったので、ああまだまだこの分野は開拓の余地があるなぁなどと思ってしまった。

会社のCSRレポートはブログで構成した(もちろんカスタマイズはした)のだが、もともとそういったことを考えたのは、環境的な理由でこうしたレポートが発行できない、などという考えがあるとすれば、それは違うということを示したかったからだ。

実際のところ、多くの大手が発行しているレポートというのは、とても中小企業が手を出せるという感じではなく、それだけで躊躇してしまうのは間違いない。でもそれを言い訳にしてはいけないはずだ。

もちろん、CSRというのは、レポートを発行すればよいというものではないが、レポートの制作を通して見えてくることもあるし、それは必ずしも専任担当者の多大なリソースを必要とするものではない・・・と思いたい。
(現状自分は担当者として多大なリソースをかけているが、それは組織的な役割分担の問題で、制作環境がそうなってしまっているからだ。だが、本来のあり方を考えれば、環境さえある程度整えてしまえば、基本的には個々の業務担当者がそのリソースのほんの一部を使ってできるもののはずだ。)

というわけで(どういうわけだ)「ブログサービスでCSRレポートを作る方法」というブログを立ち上げてみた。

ブログサービスでCSRレポートを作る方法(Yahoo!ブログ版)
ブログサービスでCSRレポートを作る方法(gooブログ版)
ブログサービスでCSRレポートを作る方法(blogger版)

会社のレポートはブログといってもそれなりのカスタマイズをしているが、そんなことは言っていられない企業もあるだろう。では(セキュリティとかそういった話は置いておいて)一般の無料ブログサービスを、許されたカスタマイズだけでCSRレポートに仕立て上げることはできるのか、というのがその趣旨だ。

実際には、「方法」を紹介するというよりも、このブログを使ってCSRレポートサイト(のようなもの)の構築を試みるわけだが、さて、どこまでできるだろうか・・・。

ちなみに3つのブログサービスで同時に立ち上げたわけだが、これは比較のため。
ただ個人的には、blogger版のシンプルさが気に入っていたりする。

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2008年8月28日 (木)

中途半端なクールビズ

オルタナNo.9(2008.9)で、副編集長の木村麻紀氏が「中途半端なクールビズ」というタイトルで、今のクールビズは中途半端で、もっと徹底して行うべきだという批判を展開していた。

一例としてやり玉に挙がっていたのは国会議員のセンセイ方で、単にネクタイを外しているだけで、上着を着ていては暑いはずだから本当に28度設定なのかと一蹴。

街中でも中高年のビジネスマンは上着を着ている傾向が強く、交通機関では彼らの快適性のために冷房がよけいにかけられている。この時期は冷えが問題になるので、クールビズを真剣に極めないと健康にも深刻な影響を与える、などなど、かなり厳しい議論を展開。

ある学者によると「中途半端な対策のせいで結局何の成果も上がらない政策ばかりが横行することを、私は『クールビズ現象』と呼んでいる」のだとか。

名前も明かせない学者の証言など聞くに値しないということはさておき、言っていることは正論だと思うのだが、こうした捉え方では結局互いに反発するだけで、文字通り「中途半端」になってしまうのではないか、とも感じた。

子どもを育てるのにもっとも効果的なのは褒めることだ、という話がある。逆の議論もあるので、必ずしも常に通じる真理ではないだろうが、同じ姿勢が必要ということはないだろうか。

上着やネクタイが外せないのは、クールビズの意義を理解していないからということではなく、それ以外のドレスコードが今のところ存在しないことがもっとも大きな理由だと思う。ネクタイはそれでもかなり外すようになってきたが、上着に関しては、TPOによっては脱ぐことはかなり抵抗感が強い。その場をオフィシャルと考えれば考えるほど、上着は手放せなくなる。

センセイ方だって、マスコミの目がない、たとえば自室などでは上着を脱いでいるはずだ。でもプレスの前に出ていくとなればそのままでは躊躇してしまう。上着というのは、人前に出る際のいわば鎧のようなものだからだ。

つっこむようだが、同じ号のオルタナに登場するインタビューやコラムでも、男性は上着かネクタイをしているケースが多い。オルタナパーソンとして登場する安井至氏のインタビューでも、ネクタイをして上着を脱ぐか、ネクタイを外して上着を着るかであり、木村氏が主張しているような服装では登場しない。

もちろん、そうしたことを踏まえた上で、それでも一歩踏み出すことが今求められていることだろう。しかし、こうした抵抗感があることも理解する必要はあるのだと思う。

ちなみに個人的にも上着を脱ぐのは少々抵抗あるが、結局は脱ぐことにした。でもその格好でたとえば知り合いの結婚式に出席できるかと言われれば、仮にそれがこの号でも取り上げられていた「カーボンオフセット披露宴」であっても難しいだろうな・・・。

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2008年8月25日 (月)

本業においてCSRを行う

先週CSRに関するセミナーに参加したときに、講演者の資料の中にこんな一節があった。

「本業においてCSRを行う」

・・・改めて考えてしまった。「本業においてCSRを行う」とは、どういったことを行うことだろうか。

以前と違い、最近のCSRを取り巻く議論においては、企業は「本業を通じて」CSRを行うこと、ということが俎上にあがることが多い。(もっともトレンドというよりはそれ自体は前から言われていたことだ。)

「本業において」「本業を通じて」行う「CSR」とは何か。

ここで言う「CSR」が「社会貢献活動」に置き換えられるものであれば、それほど違和感はない。社会への貢献をビジネスとは別に慈善的に行うのではなく、ビジネスとリンクした形で行うということだからだ。しかし、そうであれば「社会貢献活動」といった方がわかりやすいはずだ。「CSR」という言葉を使うのは、それとは違う範疇の意味があるからではないのか。

強い違和感を感じるのは、この概念には「CSRを伴わない本業」があるという影がちらついていることだ。「本業においてCSRを行う」と「本業を(まっとうに)行う」の間にあるこの微妙な距離感は、何を示しているのか。なぜそれは「本業」というビジネスの中に組み込めないものなのか。

「CSRを伴う本業」と「CSRを伴わない本業」の違いは何だろうか。それは分けて議論されるべきものなのだろうか。

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2008年8月12日 (火)

環境配慮の自由

しばらく前に、某フードサービスチェーンにおける「接客のマニュアルがないのは自分が正しいと判断する自由」というポリシーについて書いたのだが、この「自由」という捉え方を、なんとか温暖化対策などの環境配慮にまで広げていく方法はないだろうか。

自由、という考えで行動していると、他人の良いと思った行動を自由にどんどん参考にするようになる。
義務あるいは責任、という考えで行動していると、他人に自分の行動を義務として押しつけていくようになる。

・・・そんなことはないか。

環境問題に息苦しさを感じてしまうのは、後者のような雰囲気があるからだろう。そうしなければ後戻りできない所まで来ている、という話は分からなくもないが、それとて可能性の話に過ぎない。なんでも許されるか、というとそうではないような気がするのだ。

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2008年8月 5日 (火)

本能でサステナビリティを追求できるのは

サステナビリティというのは、一般的には「将来世代のニーズを損なうことなく、現在の世代のニーズを満たす開発」とされている。1987年のブルントラント会議での定義だ。

が、これはどことなく「~するべき」といった制約条件的なイメージがつきまとう。

「現在世代に対するのと同等の、将来世代への投資」

このように考えたらどうだろうか。今の世代のニーズに投資するだけでなく、将来の世代に対しても投資しよう、という呼びかけであれば、企業という利益追求の組織体はよりポジティブになるのではないか。

そもそも、寿命という抗いがたい時間制約を持つ「個人」と違って、企業という組織は条件さえ整えば永続的に生きながらえることができる。そこには、将来世代に対しても投資をしておく明確なメリットと目的がある。

極端な話、「現在世代に多少負担を強いても、将来世代への投資を厚くする」というのも、企業としては不自然な行動ではないのだ。

そのように考えると、企業のそういった志向に対してブレーキをかけるのは、むしろ消費者や投資家、経営者や従業員といった「現在世代のステークホルダー」達ではないか。時間的限界を持つ彼ら個人にとって、その先への投資というのは何ら自分たちへのリターンが望めず、メリットがない。

そのため「責任」といった言葉で自らを鼓舞しなければ、到底将来世代への投資を容認できるものではないはずなのだ。少なくとも本能レベルで、自分が死んだ後の社会が持続することに「メリットを感じる」ことはないだろう。「責任を感じる」のは、社会的文化的な刷り込みの結果にすぎない。

本能レベルで将来世代への投資をメリットとして捉えられるのは、企業(組織)だけなのだ。それが気に入らないから「責任」という名の制約をかけている、なんて構図はないだろうか。

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2008年7月29日 (火)

社会貢献活動の投資対効果をどう測定するか

昨日参加したセミナーで、スピーカーである某外資系企業の方が、社会貢献活動も投資と考えていて、投資対効果が(会社として)求められる、という話があった。

・・・で、よく分かるのだが、会場からはその効果測定についての質問があった。

回答をおおざっぱにまとめると、例えば想定した活動を何回行ったとか、何パーセントの人達に価値を提供できたとかを、目に見える測定できる形で評価するということのようだ。

自分があれ?と思ったように、あれ?と感じた人もいるのではないかと思うのだが、それらの「効果」は、投資に対する「金銭的リターン」ではない。個人的には投資対効果と呼ぶとき、なんとなく「いくら稼いだか」という感覚があったのだが、どうも必ずしもそうではないようなのだ。

一方で、なるほど、とも思った。つまり投資対「効果」を考える際の効果の尺度は必ずしも投資と同じ次元でなくても良いのだ。ようは実現したい価値を提供できたか、その価値を提供できたと考える尺度は何か、という視点ではかるということなのだろう。

その場合、その投資を判断する上司の役割は極めて大きいことになる。結局の所、上司自身がその効果を価値として評価するかどうかにかかってくるからだ。

例えば、ある社会的困窮者を救済するプロジェクトを企画したとする。こうしたプロジェクトの場合、会社に対する「金銭的リターン」で効果を判断するのは難しい。金銭的リターンだけで効果を評価しようとする上司であれば、その時点でこの企画はアウトだろう。

しかし、その救済の価値を定性的に評価した上で、どこまでの(定量的な)実現をもって、「投資に見合うだけの価値を生み出せたか」という尺度で判断するのであれば、どんな企画でも内容次第でOKとなり、一方でその投資対効果を測定することが可能になる。

この会社ではそういった部分の上司と部下、あるいは会社全体での「効果」に対するコミュニケーションの密度が高く、濃いものなのだろう。逆にその部分をおろそかにする会社ほど「金銭」といった一律の定規で効果を測定しようとするため、そういったフレキシブルな効果測定ができなくなるということなのかも知れない。

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2008年7月18日 (金)

CSRレポートについての講義

今日は20人ほどの学生の前で講義をする。(学生といっても、いわゆるビジネススクールの類なので、年齢はバラバラらしいのだが。)
一応プログラムを作り、資料を整えたのだが、事前練習などを行う余裕はなかった。あまり褒められた姿勢ではないかも知れないが、正直な話、そこまでの余裕はない。

内容は、CSRレポートの作成とそれを通じたコミュニケーションについて。CSRレポートを作成する目的は各社さまざまだと思うが、自社の場合は「いかにコミュニケーションのきっかけとなるか」が大きな目的になっている。講義では、一般的なレポートの説明と、自社での制作の進め方、記載している内容について説明し、簡単にグループディスカッションを行う。(何と時間は2時間半あるのだ・・・。)

このように書くと、CSRに関心のある学生向けの講義のようだが、少し違っていて、その学校は広く広報全般を教える学校なのだ。その一つとしてCSRについて・・・ということのようだが、ようは企業の担当者を呼んでのケーススタディなので、あまり縛られたテーマがあるわけではなく、話しやすいテーマを選ばせてもらった。

今週はその準備に気をとられていたので、それ以外のことがあまり進んでいない(笑)とりあえず今日を乗り切れば切り替えられるので、なんとか無事に終了させたい。いかん、なんだか緊張してきた・・・。

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2008年7月17日 (木)

気候変動を巡る議論の進め方

気候変動の対策としてCO2の排出削減を進める上で、どのような姿勢で臨むことが望ましいだろうか。

1.人類が排出したCO2が気候変動を招いた。「だから」CO2の排出量を削減を進めなければならない。
2.気候変動への対策の一つとしてCO2削減が考えられる。「だから」CO2の削減を進めよう。

前者は、原因がCO2だから、CO2の削減をしよう。後者は、CO2を削減するのが効果がありそうだから、CO2の削減をしよう。そういう捉え方なのだが、不思議と世間(世界)の論調は前者が中心で、後者のような話はあまり聞かない気がする。

それは何故だろうか。ぱっと見る限り、後者の方がポジティブな気がするのだが、気候変動対策を叫ぶ人たちは、なぜ後者のような議論を展開しないのだろう。

前者は「何が招いたか」という原因を明らかにし、「誰が招いたか」という責任を追及する考え方だ。しかし、こうした考え方は気候変動のような「共有地の悲劇」的な事態においては、単なるなすりつけに終始してしまうリスクがあるのではないか、という気がするのだ。(実際そうなっているのではないだろうか。)

一方で、前者のような考え方は、その事態を自分に優位な状況を作るために生かそうと考える者にとっては非常に有効な考え方だ。他人の責任を追及し、対策を迫るほど容易なことはない。逆にそうした刃を突きつけられた者は必死に抵抗するから、その駆け引きにおいて、実際の対策よりも原因や責任を明らかにすることが優先されてしまう。今のCO2を巡る論争には、そういった影がちらついて見えて仕方がない。

そうではなく、原因や責任はとりあえず棚に上げて、その対策においてもっとも成果を上げた者が称賛される、というメカニズムを働かせることができないのだろうか。互いの責任を追及し対策を迫るよりも、とにかく一番成果を上げた者を讃えることにして競争した方が良いのではないか。

そういった方向に議論を持っていけないのは何故なのだろう。

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2008年7月16日 (水)

何ために意識啓発を行うのか

昨日はコンサルティング会社から従業員の意識啓発のための提案に向けたヒアリングがあったのだが、目的は何か、ターゲットは誰か、目指す効果はどんなものか、と問われて回答に詰まってしまった。

意識啓発の目的というのは、啓発自体が目的ではなく、それによってどんな行動が生まれることをめざしているか、ということだ。効果と同じようなものと考えても良いかも知れない。改めて聞かれると困ってしまうのだが、自分は従業員の意識を高めて、何をして欲しいのだろう。

それも漠然とではなく、目に見えるアクションとしてどういった効果を望むかということなのだ。目に見えるというのは、ある程度数値化できる、ということでもある。

CSRに対する従業員の意識を高めるとはどういうことなのか。それによってどんな変化が生まれるのか。例えば環境に配慮した商品が何品開発されるとか、そういった話だろうか。でもそれは啓発の話というよりも、マネジメントレベルにおける意思決定の話だ。

自分としては、そういった効果までは想定せず、とにかくメッセージとアクションを投げかけていくことが意識の啓発につながる、といった程度のイメージしか持っていなかったのだが、言われてみれば、確かにそんな理由で時間を割いてメッセージを受け止める人間がいるとは思えない。

「良いこと」というだけではダメなのだ。

意思決定を視野に入れて何かをするというのは、効果は見えやすいのだが、アプローチする層は当然マネジメントレベルになってしまい、啓発したい層とはまったく異なってくる。一方で、意思決定につながらない何かというのは、効果がまったく見えないものになりやすい。

結局の所、企業の意思決定の構造がそうなっている限り、啓発に効果を求めるようなアクションは難しいのではないだろうか、なんて気にもなってくるのだが、それは単なる愚痴だろう。

意識が変わったことが目に見えて分かるような「意識啓発の方向性」はどんなものなのだろうか。そうなるとCO2のような「1人1日1kg削減」みたいな宣言をするというのは、意外と分かりやすい効果だったりする。

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2008年7月 9日 (水)

絶滅危惧種はなぜ保護する必要があるのか

少し考えがまとまらないのだが・・・。

生物多様性の議論において、「多様な生物相を維持すること」と「慣れ親しんだものにノスタルジーを感じること」は分けて考えた方が良いのではないか・・・そんなことをふと考えてしまった。

生物多様性の議論で良く話題になるのは、絶滅危惧種の保護の問題だ。確かに、それまで見知った生物が絶滅してしまうのは悲しいことだし、それが間接的に人類の手による環境変化がもたらすものだとしたら罪悪感に駆られるのは分かる。

・・・分かるのだが、絶滅に瀕した生物種がそのまま絶滅することも、生物が多様な進化を遂げていくには必要なことではないのだろうか。冷たいようだが、そんな気がしてならない。そもそも進化というのは、さまざまな環境変化に対して自らを変え、他を蹴落として生き延びる淘汰の連続でもあるからだ。

生物多様性の維持において、人類が考えなければならないのは、そのメカニズムに余計な手を加えないこと・・・絶滅危惧種であっても、手はさしのべないことではないのか。

少し違った見方をすると、絶滅危惧種というのは、現在の環境変化に耐えられない弱い種ということもできる。(環境変化の原因はこの際関係ない。)その際に、自ら耐え抜く強い種ではなく、他者に守られる弱い種が生き延びるというのは、ある意味不自然な気がしなくもない。

ではなぜ人類がそんな不自然さを求めるかというのを、人類の生存戦略という視点から考えてみると、人類が弱い種を擁護していけば、弱い種は相変わらず弱いままで人類の優位は維持できるが、人類に守られなくても新たに台頭してくる強い種は、人類を越える可能性を持っているため、まだ弱い内に「つぶしておく」必要があるから、と考えることもできる。

まぁそう考えると、絶滅危惧種を守るというのも、それほどおかしな戦略というわけでもないか・・・。

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2008年7月 3日 (木)

早朝残業をマネジメントする

「走れ!プロジェクトマネージャー!」の「早朝残業という選択」というエントリーを読みながら、ふと「早朝残業に深夜残業並みの残業代をつけるようにしたら、そうしたライフスタイルを選択する人はもっと増えるのではないだろうか」などと考えてしまった。

他社の事情はよく分からないが、今自分の会社では、早出に関しては基本的に残業代がつかない。(もちろん、業務命令として出た場合は別だが。)
一方、最近早出の残業が増えて(そのため早朝の電車が混むようになっている・・・と思う)いて、その一因として「夜だと残業代を払わなければならない会社が締め付けを厳しくしたために、サービス残業として早出残業を選択している」という話があるのだ。

そういった(残業代を払いたくないという)会社の事情はさておき、最初から早朝残業をきちっとフィーを払う形で管理して、夜にずるずると残業させることをやめ、会社全体の効率を上げるような方向に持っていくことはできないだろうか。夜と違って、朝の場合は後ろが区切られているから、自然と集中することになるし、残業代の上限もある程度管理できるはずだ。

朝の方が効率的だと考えるのであれば、しっかりと対価を払って社員をその方向に誘導するのがマネジメントの役割だろう。経営者の書いた本によく「自分は朝早く出て効率的に仕事を・・・」なんて話が出てくるのだが、彼らはその経験をマネジメントにしっかりと活かしているだろうか。どうも「だからそうやって働け」としか聞こえないのだが、彼らの役割はそんなことではないはずだ。

もっとも、そのために大勢が早朝出社するようになれば、今度は「夜の方が静かで集中できる」なんてことになってしまうのかもしれない(笑)

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2008年6月27日 (金)

講義でのワークショップ

7月にとあるスクール(ビジネス系)で講師をすることになっている。時間は2時間半(!?)で、テーマは自社の(社会環境関係の)取り組みとその広報活動についてだが、進め方は自由ということで任されてしまっているので、どんなことをやるのか考えなければならない。

2時間半をひたすら延々と話し続けるのは、聞く側も話す側もきつい(というか無理)。講義的なものはなるべく最小限にしてワークショップのようなものをやりたいのだが、さて、どんなテーマが良いだろうか。

広報担当者を育てることを目的としたスクールなので、ある程度PRやコミュニケーションに関する話題が良いだろう。もともとの依頼も、CSRコミュニケーションという話だった。しかし、シンプルに「何をどのように伝えていったらよいか」みたいなテーマを投げかけても、会社の内容を知らない学生達が考えられることには限界があるだろうから、あまりおもしろそうではない。

といって、一般的な話をしても意味がないだろう。ケーススタディとして実際の企業をモデルにするからこうしたワークショップは意味があるのだ。

また、自分にできること、という視点から考えると、広報活動やコミュニケーションといっても、報告書を中心としたものにならざるをえない。そうではない担当外の話をしても説得力がないからだ。

そう考えると、報告書を作るという視点でワークショップを行う形を考えるのが良さそうだ。ただし、純粋な報告書作成というよりも、広報的な要素を持った内容が良いかも知れない。CSRレポートの作成がテーマであればマテリアリティの議論から・・・となりそうだが、それは短時間では無理だし、そのための情報は提供しきれない。

戻るようだが「何をどのように伝えるか」というテーマで、その検討のための情報ソースの提供方法を工夫するのが良いのかも知れない。基本ソースは公開されている情報とし、追加の情報はヒアリングを行えるようにする。その際に「話せない」「分からない」情報というのは、会社として公開できない情報になり、広報活動としては公開できるソースをベースに組み立てる必要があるという制約をつける。

こうすると、こちらとしても「公開されていない」情報のどこに彼らの(=社会の)関心があるか、ということをヒアリングのやりとりの中で知ることができる。問題は自分がそのヒアリングに耐えられるかだが・・・。

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2008年6月23日 (月)

レポート発行後のコミュニケーション

金曜日に取材を受けた。

もちろん原稿にもなっていない今の段階では詳しい話はできないのだが、レポートの作成についてや付随するコミュニケーションの話などをする。こちらとしては、問われるままに思うところをとりとめなく話しただけではあるのだが、さて、どうまとまってくるのだろうか。

ただ、話しながら完成後のアクションの準備が全然できていないことを改めて感じてしまった。正直な話今そのことを考える余裕はほとんどないのだが、完成後にどのように社内外にコミュニケーションを仕掛けていくかは、早めに考えておかないとどんどん後回しになってしまう。レポートが完成すると、どうしても一段落ついたように「気が抜けて」しまうからだ。

そこで乱暴だが、とりあえず「今」思いつくことを挙げてみることにする。

社内に対しては、改めて「報告書を読む会」を実施したい。「読む会」は一昨年にやって、昨年は「勉強会」という別の形にしたのだが、準備や参加の手間を考えると、まだまだ「読む会」ぐらいが良さそうにも感じる。あえていうなら、いきなり「ハイ読みましょう」ではなく、勉強会の時のようなイントロを用意するぐらいだろうか。

特に、本社系の部署に対してどういったアプローチをするかだ。単純に感想をもらうのでも良いことはよいのだが、もう一ひねり加えたいような気がする。

後は時間配分だ。集まってもらう必要があるだけに、拘束時間をどの程度の長さにするかとその中での配分が難しい。巷では半日かけるようなダイアログもあるが、そういったものは正直なところ難しい。

一方社外に対しては、昨年のようなダイアログを(とりあえずは)企画したいところだが、昨年と同じようなパターンで良いのか、という疑問もある。お金を払って(謝礼は別だが)コンサルタントにコーディネートをお願いしたとしても、それにみあう成果を生み出せているかというと疑問もある。

そもそもダイアログというのは、「意見をもらう場」と考えると手間がかかりすぎるし、企業の経営に活かす場と考えるにはガバナンス上の根拠が薄い(はっきりと自社の活動に影響を与えるステークホルダーとの対話なら別だが、縁の薄い第三者的な立場の有識者となると、その意見の位置づけが難しい)ような気がするのだ。割り切ってしまえばよいのだが、どうもそれだけではおもしろくない。

個人的には、昨年と同じ面子で行うにしても、場所を変えて行うのはどうだろうか、という気もしている。その事業所の従業員がオブザーバー参加すれば、それなりの刺激にはなるだろうし・・・。

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2008年6月20日 (金)

原油の高騰は地産地消を救える・・・だろうか

少し考えてみる。(データなどに基づいた話ではありません。あしからず。)

元々地産地消は、物流費がまだまだ高かった時代に、「地元に必要な栄養は地元で生産する」という形で生まれたのだそうだ。

「地元のものを地元で食べる」ではない。どういうことかといえば、それまで地元で生産されていた食糧は、その土地の風土にあったものだったが、それでは栄養が偏ってしまうため、食べる人に必要な栄養にあわせて「生産するものを変える」ことで、栄養の偏りをなくそうとしたのだ。

その結果、ハウス栽培などが導入されて、土地の風土には左右されずに農産物の生産が行われるようになり、地域の栄養状態が改善した・・・というのが、元々の「地産地消」の考え方らしい。

ところが、物流費が下がり、保存技術が向上することで、遠くのものでも鮮度を維持したまま入手できるようになると、様相が変わってくる。農産物は本来生産に適した土地というのがあるものだ。そうした土地で収穫された農産物を(海外も含めて)容易に入手できるようになると、地元の本来はあわない土地で無理矢理生産されているものはどうしても競争に負けるようになってしまう。

もちろん、そうした地産地消品の中には、たまたま風土があったり、生産者の努力によりブランド農産物にまで昇華したものもあるだろう。しかしブランド農産物は「ブランド」という価値の上乗せがなければ競争に勝てないということも言える。本来、土地の風土にあった農産物というのは、質がよいものが大量に収穫できるからブランドに頼る必要がない。それが「土地にあっている」ということであって、色々と手を加えなければ良いものができないというのは、やはりどこかに無理があるものなのだ。

さて、それでは原油の高騰により物流費が上がってくると、地産地消は再びもてはやされるようになるだろうか。
残念ながら難しい気がする。原油の高騰というのは、物流コストだけではなく、生産コストにもかかってくるからだ。特にハウス栽培のような「土地にはあわないものを生産している」ような地産地消の生産物にとっては、厳しい環境なのは間違いない。

個人的には人間の事情にあわせた地産地消にはこだわらず、地産旬産は重要だが、地消にはこだわらない方が良いような気もするのだが・・・。

ちなみにこの「地産地消」というのは「国産国消」という政治の話とは違うので念のため。

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2008年6月19日 (木)

図版というのはやっかいなものではある

CSRレポートをブログを使って構築することで、制作会社に依頼せずに直接編集できるようになったのだが、それでもなかなかそうはできないものがある。

イラストや写真などの図版だ。特にイラストに関しては、簡単には手が出せない。結果として制作会社に頼らざるを得ないのだが、今度はなかなかそのイメージが伝わらず、戻しが何度も発生している。

イメージが伝わらないのは、レポートの編集をこちらが行っていて、制作会社へは部分的な依頼になっているために、情報が断片的でしかないという事情もあるのだろう。それでも何とかするのがプロだろうと思わなくもないが、一方で従来とはまったく違ったやり方のために、積み上げてきたノウハウが通じていないということはあるのかも知れない。

想像だが、制作会社ではこれまで全体のディレクションをした上で、個々の図版などのパーツ制作は外部に出していたのではないか。いずれにしても全体のディレクションをすることでデザイン的なイメージを確保し、個々のパーツに落とし込んでいたと思うのだが、今回の進め方ではその部分がないのだ。

そのために我々と制作会社(代理店)、直接のデザイナーとの間で齟齬が生じてしまっているのだろう。

もっとも、正直にいえば、これまでもそれほどイメージが共有できていたわけではなかった。全体のディレクションからお願いしていても、戻しは相当発生していたし、結局の所これは図版を作りあげる難しさ、ということなのかも知れない。

そもそも、レポートにどれだけ図版が必要なのだろうか、などと思わなくもないのだ。レポートの本質的な情報はテキストにあると考えれば、極力文章で説明するという方法もないわけではない。

問題は、そうした文字だけでは、まず読まれないだろうと言うことだ。個人的には内容さえおもしろければ読むと思っているのだが、そうではないと思っていて、実際にそうではない人は少なくない。何しろ日本人というのは、メニューに写真があるかないかだけでも売り上げに影響が出ると言われるぐらい、イメージの影響が大きい民族なのだ。
(イメージゆたかともいえるが、文字情報からの想像力に欠けるともいえる。)

それにしても図版というのはやっかいである。ソフトウェアやノウハウを揃えて自分たちで作ってしまうのが早いような気もするが、一方でそれは越えてはならない一線のような気もするのだ。

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2008年6月17日 (火)

食品メーカーこそバイオエタノールの研究を

昨日職場の同期に話した思いつき2つ。

  • 現在土壌改良材として使われている自社の廃棄物に対して、土壌改良材としての科学的エビデンスを与えることは出来ないのか。そういった研究が成果を出す見込みは薄いのか。

「良いだろう」というのと、実際の効果を含めて提示するのとでは大きな違いがある。もちろん、すでに研究した結果、そこまでは言えないという結論が出ているのかも知れないが、例えば環境問題の一つとしての土壌汚染などに対抗できるような効果があるような科学的根拠を出していくことは出来ないだろうか、という話。

  • 食品メーカーこそバイオエタノールの研究をするべきではないか。

食品産業の場合、バイオエタノールに対しては「食糧を燃料にするのか」という(微妙に)倫理的な感情論もあって、距離をおくか反対してしまうケースの方が多いのではないかと思うのだが、そうではないのではないか、という話。

方向は二つある。一つは食品残渣のエタノール化の研究、もう一つは穀物以外のバイオエタノール研究の支援だ。

後者は比較的分かりやすいだろう。穀物を燃料に奪われないためには、穀物よりも安価なバイオエタノールの原料と生産技術を確立すればよい。くだらない(と思うのだが)倫理の問題を持ち出して、生産者に「安い食糧として売れ」などと言うのはおかしな話だし、そんなことにエネルギーを使うのであれば、そうではないバイオエタノールの技術開発を進めた方が良いはずだ。

特に、原料として穀物を必要とする食品メーカーにとってこそ、こうした研究を進めることが必要なのではないか。燃料業界にとってみれば、穀物の方が十分安いのだから、さらに技術開発を進める必然性などないからだ。1社では無理でも、業界として支援をするなどしていかなければ、いつか買い負けてしまう時代がくるのではないだろうか。

食品産業というのは(製造しているものにもよるが)一方でバイオ産業でもある。そうしたノウハウを食品以外に活かしていく方法がないかというのは、考えても良いはずだし、そこで何でもありの多角化を行うよりは、こうした方向で考えた方が意味があるような気がする。(まぁ気がするだけで根拠はないのだが。)

前者の方は、日本ならではといえるかもしれない。ここでの食品残渣のエタノール化というのは、生産の工程で廃棄されている食品廃棄物をバイオエタノールの原料として使えないか、ということだ。

日本は大量の食品を廃棄する国だが、それは必ずしも食べ残しだけを意味しない。検査(サンプリングで検査したものはもちろん廃棄するしかない)や、切り替え時のロス、不良となった場合の廃棄など、そもそも消費者の手元に届くまでに「安全のために」廃棄されている食品も少なくないのだ。

(余談だが、「食の安全」の徹底というのはそういった側面もあるということはどこかで頭に入れておくべきだろう。メーカーからそれをいうことはまずないと思うが。)

一方で、そうした工程での食品残渣というのは家庭などの食べ残しと違って、モノとしては均質であることが多い。つまり、雑多な食品が混合されてしまういわゆる「食べ残し」とちがって、品質は一定の場合が多いのだ。

これをエタノールに転化できないのか。廃棄物として処分するよりも、燃料にした方がはるかに良いのではないか。

もちろん、そのための研究開発投資の余裕がない、ということはあるかもしれないが、どこかで技術さえ確立されれば、飛躍的に違ってくるのではないかという気がするのだ。

どこかで研究とかしていないのだろうか。

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2008年6月16日 (月)

森林整備活動

会社の環境活動の一環として土曜日に森林整備活動に参加した。去年から取り組んでいる企業の森における活動だが、行くのは初めてだ。今回は社内のある部署の社員旅行のコースの一つとして設定されたもので、自分たちはお手伝いだ。

まず、協力をお願いしているNPOの方の案内で、森の中を一通り歩いてみる。梅雨のまっただ中だが幸いなことに快晴で、足下もそれほど悪くない。それほど気合いの入った準備はしなかったのだが、これは助かった。

その後、森林整備にはいるのだが、まずは足下からということで、倒木や落ちている枝などを片付ける。歩いているときにはあまり意識していなかったのだが、意外に足下には色々なものが落ちていて(不法投棄は少ないのでゴミではない)歩いていて不安定なため、まずは地ならしというところだろうか。

ついで鎌で下草を刈る。本当は使い方の説明などがあれば良かったのだが、見よう見まねで今回整備を行うエリアの下草を刈っていく。(このあたりは怪我などを防止する意味でも次回以降少し考えた方が良い気がする。)

その後間伐作業。まずNPOの方がチェンソーで比較的大きな木を切り倒した後(これはセレモニーに近い)、のこぎりでも切れるような細い木を中心に間伐していく。間伐というのは密生を防ぐための、いわば間引きだが、さすがにどの木を切ればよいかは素人には分からないので、あらかじめどの木を間伐するかは指示がある。

倒した木は枝を落として集めておく。状態の良いものはベンチなどに加工できたりする。実際に森の中には前回の活動で間伐した木を使ったベンチがNPOの方によって作られていた。

こうした整備活動を行うと、森の中はずいぶんときれいになるというか、すごしやすくなる。作業前の写真を撮っておかなかったのは失敗だが、まだ整備を行っていないエリアと比較すると一目瞭然で、作業をした満足感はかなり高い。今回の活動では、別にエコトレッキングを行っていたグループが後から合流したのだが、森林整備のメンバーは盛んに彼らに今回の成果をアピールしていた。

こういった気持ち的な盛り上がりがあるというのは、こうした活動を続けていく上では欠かせないだろう。そういった意味では、全員でやるのではなく、後で合流することを考えた上で、複数にグループを分けてツアーを考えるというのはうまい方法かもしれない。自分たちだけが分かるよりも、誰かに理解してもらえた方が気持ちは盛り上がるからだ。

社員旅行のグループはその後宿に向かい、手伝いの我々は帰ったわけだが、夜の宴会は盛り上がっただろうか。その後の反応が楽しみだったりする。

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2008年6月11日 (水)

お金で解決するということ

昨日取り上げた「食の未来フォーラム」のメモから一つ考えをふくらませてみる。

  • 日本は何事も金で解決してきており、自立していない。

これは、パネルディスカッションでパネリストの1人が発言したものだ。ニュアンスとしては、お金があれば何でも買えると勘違いして、何でも買って済ませようとするといった感じだろうか。恐らく首肯した人も多いに違いない。

しかし、個人的には何となく違和感がある。

お金を使うということに、こうした側面があるのは確かだろう。しかし、本当にそれだけなのだろうか。お金を払って何かを得る、のではなく、何かを得たお礼としてお金を払うという側面があるのではないか。

こんなことを考えたのは、以前、原料農産物の協働契約栽培を推進しているメーカーの人からこんな話を聞いたからだ。

「自社の規模の会社の場合、そうしておかなければ調達が出来なくなる時代がくる。」

これはどういうことかというと、純粋な価格判断による購買では買い負けてしまい、必要な量を確保できなくなるリスクを将来的に想定しているということだ。そのため、少々言葉は悪いが価格以外の契約や義理人情によって、従来と同じ物量を(おそらくは少なくともその時の市場よりは低い価格で)確保する用意をしているというのが、協働契約栽培の裏の事情だという。

これは「お金で解決しない」やり方なのだが、より高く売りたい生産者を見ようによっては「縛っている」とも言える。

日本がこれまで札束で頬を叩くようなやり方をしてきたかもしれないことは否定しない(個人的にはそういった例はほんの一部ではないかと思うが)。しかし、それとお金で解決しないということとは少し違うのではないか、という気がするのだ。双方にとって良い道を探るときに、より高いお金を対価として払うことはいけないことだろうか。

相手の足下を見て安く買い叩くのは、買う側の傲慢だろう。しかし、それは金ではなく、買う側の立場を利用した「金以外の圧力で」解決したということであって、本当の意味で「お金で解決した」とは言えない行為ではないのだろうか。

高く買われて不幸ということがあるのだろうか。回り回ってはあるかもしれないが、それは別の問題だ。「お金で解決する」というのは、どういった状態を言うのだろう。

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2008年6月10日 (火)

食の未来フォーラム

先週、電通が主催する「食の未来フォーラム」というイベントに出席してきた。この忙しいときに・・・という気もしたのだが、ゲストがおもしろそうだったのでどうしても話を聞いておきたかったのだ。

で・・・想像通り多くの刺激を得たので、少しメモしておく。

  • 20世紀の食糧危機(価格上昇)は、不作などのイベントによるものが中心だったが、21世紀の食糧危機は「人口の増加」「食品嗜好の変化」「バイオエタノール」「水不足」「土壌汚染」「気候変動」などのトレンドによるもの。
  • 日本が世界の食糧事情にたいしてできること・・・小規模農家における高い技術の伝承
  • 日本は何事も金で解決してきており、自立していない。
  • (食糧輸出国の)輸出規制をやめさせ、輸出を義務的に強制するのは現実的に無理だが、一方で輸入国には輸入することによるさまざまな義務が課されており、バランスをとる意味でそうした働きかけは重要。
  • 食糧を輸入できなくなれば、自ずと自給率は100%になる。
  • 日本の工業は農村の余剰人員で発展してきたのであり、農業という地域的な土台があるからこそ工業が発展できた。
  • 日本やアメリカに出来る(世界の食糧事情への)最大の貢献は浪費をなくすこと。全世界で途上国に600万トンの支援をしようと議論しているときに、日本は1国で1900万トンを廃棄している。
  • 社会の基盤整備や市場の形成、ネットワークを作る上では、競争よりも協調が重要。
  • 食糧は不足させないことが一番重要だが、余剰の食糧生産は一方で価格の低下を招くため、農業従事者は生産拡大に慎重にならざるを得ない。そうした余剰分をエネルギーに回すことで良い関係が作れるのではないか。
  • 持続可能性に対する消費者の準備は出来ているが、そのための市場がない。

いくつかのメモは改めて取り上げたいところだ。

この他、電通のリサーチによる生活者の意識変化に関するリポートがあったのだが、これはちょっとツッコミどころが多かった気がする。(調査というのは得てしてそんなものだが。)

数値はトレンドとして受け止めることにして、特にフリーワードで取り上げられていた声にたいしては疑問を感じなくもなかった。

「もっと食品の大切さを消費者に教えて欲しい」
「多少価格が高くても国産のものを買う」
「ここまできてしまうともう他人事ではない」

このあたりはまた別の機会にまとめてみることにする。

続きを読む "食の未来フォーラム"

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2008年5月30日 (金)

CSRレポートをブログで構築する

ウェブ上で公開するCSRレポートをブログで構築する準備を進めてきたのだが、ようやく形になってきた。あとはテンプレートを微調整してもらいながら、コンテンツを作成していくことになる。おおよそは出来ているか、昨年のものを使うが、システムの完成を待っていたためまだ未着手のコンテンツもある。

それにしてもずいぶんと時間がかかってしまった。現在の段階でも、実現したいことの多くが実際に実現されているとは言い難いだろう。一番難しいのは、コンテンツを作成する我々ユーザー側の要望が完全には固まっていないことだ。Officeソフトなどと同じように、機能的に出来るかどうかを探りながら進めているため、要望自体が二転三転する。

テンプレートを制作しているベンダー側としてはやりにくいに違いない。それは分かるのだがこちらにも言い分はある。

ブログの機能をフル活用したら、どういったレポート制作が可能になるのか。ブログの機能をどう活かしたらよいのか。そういった提案がまったく見えてこないのだ。こちらのやりたいことにどう応えるかを考えてくれるのは嬉しいのだが(というか当然だとは思うのだが)、正直にいえばもう一歩踏み込んだ提案が欲しいのは間違いない。

そういった提案がないと、そもそもブログというシステムをどう捉えているのか、ということが気になってしまう。ブログの可能性を広げ、機能を拡大していく気持ちがあるのかないのかという点だ。ついでに言えば今回ブログで作成したい「CSRレポート」というものについても、どういったものかを特に考えることなく受け止めているのではないか、という気がしてしまうのだ。

自分のこうした考え方は異端だろうか、と思うことがないわけではない。多くの場合、業務のシステム化というのは、まず業務の枠組みがあってそれにシステムをあわせる形で構築される。対して自分の発想は、まずシステムがあって、その枠組みに業務をあてはめて考えている。CSRレポートがあってそのためにブログを使うのではなく、ブログというシステムがあって、そこにCSRレポートをあてはめる発想なのだ。

ただこれは、CSRレポートをブログというシステム的な枠に「押し込める」という捉え方ではなく、CSRレポートをブログというシステム的な枠まで「拡大する」という捉え方でもある。従来と同じものを実現するだけではまったく意味がなく、そこにはブログならではの機能拡大がなければならない。同じものを作るのであれば、従来のやり方で進めればよい。

今のところ、ブログを導入することで「ユーザー側での編集」が容易になり、「ページではなく個々の項目単位での編集」が容易になり、「日常的な更新」が容易になり、「デザインとコンテンツを別々に修正」が可能になっている。会社としての稟議はここまでで通してはいるが、個人的にはまだ物足りない。

それが何かは分からない。ここから先は「何がしたいか」ではなく「何が出来るか」という発想で見ていかなければ「ブログの枠に拡大する」ということはできないからだ。そもそも、したいことはここまでで大体実現できているわけで、その先の自覚していないニーズをどこまで引き出せるかは、ブログというシステムに出来ることをどこまで理解できるか、にかかっているとも言える。

そう考えると、やはり個人でももう少し勉強が必要なのだろう。やっぱり個人で構築しようかな・・・。

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2008年5月28日 (水)

ステークホルダーとのエンゲージメント

昨日は業界での勉強会があったのだが、その中で紹介されていた企業に対する社会の目の変化がおもしろかった。

その昔、社会は企業を信頼していた。特に根拠があるという話ではないかもしれない。

やがて、話を聞かせてくれなければ信頼しない、という姿勢になった。理由として考えられるのは、企業活動が不透明になって、その内容について説明を聞かなければ評価が出来なくなった、というところだろうか。

さらに、見せてくれなければ信頼しない、という姿勢になった。話だけではなく、実際にどのように活動しているのかを自らの目で確認しなければ信頼できない、というわけだ。これも企業活動が不透明であることと、さらに企業による(言葉での)説明が十分ではなかった、という理由が考えられる。

そして今は、中に入れてくれなければ信頼しない、という姿勢だという。自らもその活動の一部にならなければ、信頼できないというわけだ。それ以前の段階とはかなり違うが、見るだけではまだ分からない領域があるということかも知れない。

最後のステップであるeneageは、かなり難しいステップだ。そうした要求を招いた原因は、見せることを徹底できなかった企業の側にあるのかも知れないが、自らの活動を説明し見せるのと、ともに活動しその内容を変えていくというのとでは、まったく次元が異なる。

もっとも、「意見を受け入れる」というレベルでの話かも知れない。ただ、意見を受け入れるということはそれまでもやってきたはずなのだ。そのあたりがどうも釈然としなかったりする。

例えば同じ企業の中で、従業員の意見を求め企業活動に反映させるというのは、従業員の企業活動への参画意識を高める上で効果がある。これは自らの所属する企業への信頼感の向上と同じようなものだと考えることはできるだろう。その他のステークホルダーに対しても、同じような考えをするということになるだろうか。

しかし、企業に対して一律のかかわり方では、ステークホルダーとして「異なる」意味がないのではないか、という気もする。

何か別の、共通の社会的な課題を解決するために「手を結ぶ」ということなら分からなくはないのだが・・・。

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2008年5月23日 (金)

生物多様性をどう捉えるのか

昨日5月22日は国際生物多様性の日ということで、国連大学で行われたシンポジウムに参加してきた。

会場がやたらと冷えていたのが気になったが、それはさておき、少し情緒的な捉え方で話が進んでいたのが物足りなかった。ロジカルな結論として生物多様性の必要性が説明できなければ、結局企業が取り組む上では「気持ちが重要」というあいまいな結論になってしまうからだ。

ちなみにこれまで明確な定義を調べたことがなかったのだが、生物多様性というのは、すべての生物の間に違いがあることであり、その違いは大きく「生態系」「種」「遺伝子」の3つなのだそうだ。多様性というと「いろいろある」という意味で考えていたのだが、むしろ「違いがある」と捉える方が良いと感じた。「いろいろある」というのは、全体として混沌としていてとらえどころがないイメージがあるのだが、「違いがある」だと個々を比較して分析をしていけるように感じられるからだ。

違いがある、と捉えるのであれば、それは組織における人的多様性にも通じる話として理解していくことができる・・・はずなのだが、問題はその先だ。

基調講演をした千葉県の堂本知事は、生物多様性を一言で何と言い表すかと問われて、「(日本においては)文化だ」と答えた。日本の豊かな自然環境からくる「感覚」なのだろうが、感覚では意味がない。「文化だから守ろう」ではまったくロジカルではなく、ようはその価値観に賛同するかどうかになってしまう。

価値観で捉えるのであれば、違う価値観も受容するのが多様性の考え方だろう。多様性が重要という価値観を第一にするのでは、多様性の考え方と矛盾してしまう。多様性の重要性を訴えるには、そうした違いが生じない論理の世界で理屈を積み上げていかなければいけないのではないか。そのあたりがどうも釈然としないのだ。

余談だが、生態系というと思い出す話がある。以前SF小説で読んだアフリカツメガエル(ツノガエルだったか?)の話だ。彼らの生態系は、池の中に藻と彼らしかいない関係で成り立っている。しかし肉食の彼らは藻は食べられない。ではどうやって成り立っているかというと、彼らが生んだ卵から孵ったオタマジャクシが藻を食べ、そのオタマジャクシを彼らが食べるというのだ。

もちろん、この生態系ではいわゆる微生物は考慮されていない。実際には目に見えない多様な生物により成り立つ生態系なのだろうが、このきわめて「シンプルな」生態系を袋小路に追い込まれた多様性がない世界と評価するべきなのか、他とは「違った」ユニークな生態系として多様性のある世界の一つとして評価するべきなのか、はたしてどちらだろうか。

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2008年4月23日 (水)

CSRレポートを第三者として発行する

CSRレポートを、企業自身が書くのではなく、第三者が書くことは可能だろうか。
企業がNPOなどに委託して制作を任せてしまう、ということは、海外では例がないわけではない。だが、ここで考えたのはそういった形からさらに踏み込んで、CSRレポートを「外部評価として」発行するという形だ。

ガイドラインを細かく整備して、企業自身に遵守を求めていくよりも、その方が効果的ではないか。
企業からの依頼を受けて、ではなく、企業に依頼してヒアリングを行い、その評価をレポートとして発行するのだ。

現実問題として、こうしたレポート制作はすでにアウトソーシングされているケースが多い。だがそれでは「請け負う」という形になってしまい、書き手がどれだけ踏み込めるのかという課題が残る。CSRレポートに客観性を求めるのであれば、企業自身が発行するのではなく、その企業を調査した外部機関が発行する方が理にかなっていないか。

もちろん、その場合外部機関の信頼性という問題はあるだろう。それに、企業側のメリットは何かという問題もある。ビジネスとして考えるのであれば、利益をどう出していくかという問題があるし、NPOのような団体であっても、経費をどう負担していくかという問題がある。

でも例えばISOやGRIのスペシャリストとして、企業と対話を行い、その対話に基づいてその企業のCSRレポートを発行するというやり方はおもしろくないだろうか。すべてを網羅していなくても、視点が一貫しているのであれば部分的なレポートでも良いはずだ。

今のところ自分はISOもGRIもほとんど参考程度にしか知らないのだが、そういった視点で自社ではなく他社の活動をまとめるという視点で考えてみるのはおもしろいかも知れない。企業人としての発想からは離れてしまうが・・・。

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2008年4月11日 (金)

CSRサイトと企業ホームページのアイデンティティ

今日はパソコンを持ってきた(笑)ので、久しぶりに行き慣れた公園通りのエクセルシオールへ。
気分的にはやはり落ち着く。客が少ないということもあるが・・・。

少々鞄は重いが(少なくとも他に何かを入れたいとは思わない程度に)、色々と考えを巡らす意味でも、このスタイルの方が良いかもしれない。ここまで歩く時間をどうするかについてはもう少し考えることにする。

昨日は、会社のCSRサイトをブログを使った仕組みにした場合の運用案を考えていたのだが、最後にまったく別の大きな問題に突き当たってしまった。

それは、このCSRサイトのアイデンティティはどこにあるのか、という問題だ。具体的にいえば、会社のホームページによる情報発信と何が違うのかが分からなくなってしまったのだ。

最近はホームページでの企業情報の発信も進んでいる。CSRに関連する情報の内、環境関係の情報については広報部門ではカバーしていないから、これは自分たちの部署で進める必要があるのだが、その他の社会性に関する部分というのはどうだろうか。

お客様(消費者)に対する情報発信は、マーケティングの要素が強いとはいえ、ホームページの方がはるかに充実しているし、多くの情報は実際にカバーされている。株主・投資家向けの情報や会社情報もずっと詳しい。

これまではCSRレポートという形で年に1回発行という形をとっていたので、年次単位の整理という名目があった。しかし、CSRサイトは随時更新を目的として構築しているものだし、そうしたタイムリーな情報発信が最大のポイントでもある。

それはホームページと何が違うのか。別にCSRサイトを構築するよりも、CSRに関するような情報の要素をホームページに盛り込んでいくことを考えた方が良いのではないか・・・そんな問題に突き当たってしまったのだ。(もっと前に考えておけよという話もあるのだが。)

この構想を進めるのであれば、日々サイトに更新していく情報には何が求められているかという検討がさらに必要になってくる気がする。「報告書」の場合には、そこで完結させるためにまず最低限会社の活動を知ってもらうための情報を盛り込む必要があったのだが、ホームページ全体としてみた場合はそういった要素はすでにあるコンテンツでカバーできるという考え方もある。(一方で報告書としてのアーカイブの要素を考えると、ホームページにあるから載せなくても良いということにはならないため、そのあたりも議論する必要があるだろう。)

今回の仕組みは、日々更新するという要素だけではなく、単純にウェブ上で報告書を作成する仕組みとしてだけでも運用は可能で、それだけもメリットがないわけではない。だが、年次単位の更新だけでは片手落ちな感じがするのも確かなのだ。

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2008年3月13日 (木)

マイノリティを活かすのか、マイノリティをなくすのか

昨日のエントリーの最後にこんなことを書いた。

ダイバーシティは性別だけの問題ではないが、すくなくとも性別に関してはそんな課題もあるような気がする。これは性別が、社会全体としてはマジョリティとマイノリティとを分かつ属性ではないことに起因していると思うのだが・・・。

そこでふと考えた。「マイノリティの意見」を活かそうと思ったら、マイノリティであることが前提になければならないのではないか。

変な話だが、企業内の男女比で考えた場合、両者の勢力が拮抗すればもう女性はマイノリティではなくなってしまう。つまり、そういった方向をめざす方策というのは、マイノリティを活かすのではなく、マイノリティをなくすことが目的ということになる。

それが悪いという訳ではない。社会における男女比を考えれば当たり前のバランスになるというだけのことだからだ。しかし、その際に生まれる強みは「多様な組織内に点在するマイノリティの意見を活かす」ではない。

それまでマイノリティだった、ということは言えるかもしれない。だが、それまでマイノリティだったという女性の意見を活かすために「勢力的に拮抗させる」というやり方は、本当に多様性という視点から見て意味があることなのか。

そのやり方では、社会的にもマイノリティとされる人たちの意見を活かす機会が得られることはない、ということにならないだろうか。

もちろん、だから女性はマイノリティのままでよい、ということではない。企業内の男女のバランスをとって社会的なバランスへの是正を図ることと、企業内に点在する多様な意見を吸い上げて活かすこととは、少し次元が違う話ではないかということなのだ。同じモデルを例えば国籍や年齢にあてはめることはできないだろう。

ダイバーシティが目指さなければいけないのは、組織内の多様なマイノリティをマイノリティとして受容し、その意見を尊重していくことではないだろうか。マイノリティをなくすのか、マイノリティを活かすのか、両者には違いがあることは意識しておかなければならない気がする。

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2008年3月12日 (水)

ダイバーシティの社会的価値

先日に引き続きダイバーシティの話題だが、いくつか気になっていることの一つに、企業において女性の登用が進み、「企業の労働力として」確保されるようになった場合、その分で失われる「社会の労働力(?)」のようなものはどう補填されるのだろうか、というのがある。

企業内の人的バランスが偏っているのだとすれば、合わせ鏡のように家庭や地域といった社会の人的バランスも偏っていると考える方が妥当だろう。そのソーシャルバランスはどのように維持されるべきか。そういう議論はあまり聞かない。

きわめて単純化した図式で考えれば、女性の企業進出を進めた分だけ、男性の社会進出を進める必要があるということにならないか。企業が一方的に女性という労働力を吸い上げるだけでよいのか、ということだ。

これはダイバーシティの目的や価値を考える際に気をつけておかなければならない話だと思う。企業内の人的構成を社会に近づけてバランスの是正を図る、ということなのか、新たに優秀な人材を登用して企業価値を高めるためなのかで、社会における人材構成への影響が違ってくる可能性があるからだ。

ワークライフ・バランスという、個人の生活におけるバランスの議論は多くあるのだが、ダイバーシティの視点で社会とのバランスを考えた議論というのはあまり聞かない気がする。しかし、CSRの一環としてダイバーシティを考えるのであれば、こうした議論もさけられないような気がするのだ。

ダイバーシティは性別だけの問題ではないが、すくなくとも性別に関してはそんな課題もあるような気がする。これは性別が、社会全体としてはマジョリティとマイノリティとを分かつ属性ではないことに起因していると思うのだが・・・。

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2008年3月10日 (月)

ダイバーシティのあるべき姿

企業にとってのダイバーシティのあるべき姿は、『「個人の違いは価値」という前提を社員同士が共有し、異質な視点を活かして協働することで、創造性の高い組織を形成すること』(森沢徹/木原裕子「経営戦略としてのダイバーシティマネジメント」知的資産創造2005年9月号)なのだという。

同質が良いとは言わないが、異質であることはお互いにとってストレスにもなる。「個人の違いは価値」という前提をわざわざ唱えなければいけないということから考えても、異質であることは人にとって受け入れがたい場合があるということを示しているような気もする。

それに異なる視点を受け入れることと、異なる相手を受け入れることはかなり違う。異質な視点を活かすというだけであれば、必ずしも組織内でなければいけない理由はない。

そもそも、個人の違いは「価値」と考えなければいけないほどのものだろうか。個人の違いはあって当たり前だ。その上で、個人の持つ視点とは異質な「組織の視点」を各人が受け入れることで組織としての価値観を統一し、強みを発揮してきたのが、従来の組織ではないか。

その「組織の視点」には、参加する一人ひとりの視点が何らかの形で少しずつ付加されていると考える方が自然だろう。同質的な「組織の価値観」であっても、その解釈は常に同じではなく、構成員の考えによって微妙に細部を変えているものだからだ。

ただ、一方で気をつけなければならないのは、組織が大きくなり、組織の価値観が強くなりすぎると、構成員が与える影響力が相対的に小さくなってしまうことと、構成員が組織の価値観を自分の価値観と同一視するようになってしまうことだ。

意外とダイバーシティというのは、組織の価値観と個人の価値観とを、一人ひとりが自覚的に距離を置いて考えるようにすることが重要なのかもしれない。組織の価値観と自分の価値観の間に何らかの距離を置いていれば、他の人も同様に「違う」ということが自覚できるが、組織の価値観と自分の価値観を同一視してしまうと、組織の価値観と異なる価値観の人間は「異質」にしか映らないからだ。

「協調する」というのは、利害や立場の異なる者が互いに譲り合って協力することをさす。一方「同調する」というのは、他人の意見、態度などにあわせることをいう。ダイバーシティというのは、同調ではなく協調することで価値を生み出すということなのかもしれない。

・・・でもそれって「ダイバーシティ」とことさらにいうことでもないような・・・。

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2008年2月29日 (金)

食品の偽装

食品の偽装はなぜ許されないのか。

そんなことを改めて考えてしまったのは、日本テレビの「ACTION 日本を動かすプロジェクト」のブログ(?)でこんな記事を読んだからだ。

うな重171万個分!!ウナギの産地偽装発覚(第4回)
※ちなみに「第4回」というのは、このウナギに関する第4回目の情報というわけではない。ちょっとわかりにくい。

最後にこんな一節がある。

> 「食品偽装は絶対に許さない」という声をもっともっと大きくしていかないと事態は変わりません。

もちろん、偽装は擁護されるものではないし、許されるものでもない。しかし、なぜ「許されない」のかはもう少し突き詰めて考える必要があるだろう。

気になってしまうのは、無意識に「偽装=危険」というリンクができてしまっているのではないかということだ。無論危険に結びつく可能性はあるが、食品による危害は偽装には関係なく起こりうることだし、偽装されているから必ずしも危害があるという訳でもない。

偽装と安全で考える場合、むしろ多くの偽装は「安全と判断されるから」行われるとは言えないだろうか。危険を偽るのではなく、これぐらいは安全だから偽っても大丈夫という判断に基づいて行われてしまっているのではないか。

だとすると、偽装が許されない理由はなんだろうか。

個人的な答えはある。それは偽装による信頼の崩壊は、食文化の崩壊に結びつくというものだ。

食文化というのは、「他人の作ったものを食べる」「作ったものを他人に食べてもらう」という関係があって成り立っている。そのベースにあるのは「作った他人は原則として信頼できる」という共通認識だ。この信頼がなければ、食文化は成り立たない。
(この考えは脳科学者の茂木健一郎氏が「食のクオリア」という本で提示していたものだ・・・自分は読んでないが。)

偽装というのは、その信頼に対して決定的なダメージを与えてしまう。だから許されないのだ。

・・・と思うのだが、そういうことはどこまで自覚されているのだろう。

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2008年2月27日 (水)

信頼性を確保するには

昨日は業界内のCSR勉強会に参加。ISOの動向などについて話を聞いた。

今、勉強会の中で大きな話題になっているのは、第三者認証の動向だ。SRに関する規格(ISO26000)は、あくまでもガイダンスで、そういった第三者認証は求めないとしているが、ガイダンスの思惑と実際に参考にする社会の思惑は必ずしも一致しない。ISOが求めていないといくら言っても、社会が認証を求めるようになれば、現実には応じざるを得ない。

仮にそれを突っぱねたとしても(ビジネス上はかなりのリスクだが)、ISOが求めている「信頼性の確保」という点での課題は残したままになる。レポート一つとってもどう信頼性を確保するかというのは大きな課題だが、組織のSR全般に対して信頼性を確保するには、どうしたらよいのだろう。

ただ、疑問もある。そもそも「信頼」とは客観的に評価できるものだろうか。相手を信頼するのは、自分自身の判断でしかあり得ない。他人がどんなに「この人は信頼できます」と言っても、それでその人を信頼するかどうかは自分次第だ。

信頼は主観的な評価でしかあり得ないのではないか。ついついそう考えてしまうのだが、そうなるといよいよその信頼性をどう確保するかというのは難題になってくる。

それでは、信頼というのをもう少し分解したらどうだろうか。例えば「正確性」であればかなり客観的に評価ができる。
意外と、「信頼」という言葉を使ってしまうのがいけないのかもしれない。他に客観的に評価が可能な尺度というのは何があるだろうか。

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2008年2月20日 (水)

気候変動リスクの評価

昨日職場の勉強会があって、ボスがリスクマネジメントについての話をした。
リスクを洗い出し、優先順位をつけて対応する。リスクの低いものは発生しても仕方ないと腹をくくることが大事なのだそうだ。

その際の優先順位の付け方は、影響度と発生可能性。影響が大きくても発生可能性が低ければリスクは低いし、発生可能性が高くとも影響度が低ければやはりリスクは低い。これはよく分かる話だ。

そこで質問してみた。「気候変動リスクについてはどう評価するのか。」

気候変動は、手をこまねいていれば確実に発生すると言われている。一方で今発生する訳ではない。影響度はともかくとして、その発生可能性をどう評価すればよいのか。

個人的には、そうした評価軸が現状のリスク評価システムにないことが、気候変動への対応を鈍らせているのではないかと思ったのだ。

対するボスの答えは、「気候変動では大きすぎるため、具体的に発生するリスクを別個に洗い出して評価する必要がある。」

なるほど、そう考えると、気候変動リスクに関する話は、大きいレベルの話ばかりで、具体的なリスクの評価がされていない(されているのかもしれないが、伝わっていない)ということなのかもしれない。そのために、具体的にどう対応するかという評価ができず、何でもかんでもやるという「足きりができない」状態に陥ってしまっているのではないだろうか。

リスク評価の視点で見たときに、今市民レベルで行われている意識としての「エコ」はどれだけ重要なのか。チームマイナス6%などでうたわれているアクションは、どういったリスクに対してどういった効果をもたらすのか。それがきちんと見えてくると、漠然と「やろう」ではないかけ声になってくるのではないか。

そういった評価は専門家の間ではされているのだろうか。そうした評価を伝える努力はしているのだろうか。

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2008年2月 4日 (月)

意見をもらう目的

先週、とあるNGO団体と意見交換をした。報告書に対する意見を聞かせて欲しいということで頼み込んで機会を設けたのだが、準備不足というか、初めての経験でよく分かっていなかったこともあり、いまいちな内容になってしまった。

議論の投げかけ方に失敗したということだと思うのだが、具体的に自社の報告書や活動に対する意見でなく、一般概念や総論としての報告書のあり方や企業のCSRのあり方のような話になってしまったのだ。

自分がそういった議論を嫌いではないということもあり、その場では盛り上がったし、個人的には刺激にもなったのだが、後でメモを読み返すと、自社の報告書にとってはほとんど役に立たない内容しか残っていない。総論でどうあるべきかという話では、報告書に対してはほとんどインパクトにならないのだ。

反省しなければいけないのは、自分自身がどんな目的でどんな意見をもらおうと考えているのか、明確にしていなかったことだろう。ただ、言い訳をすれば、そもそも具体的に意見が欲しいという目的は、今回の会の結果として自分の中で明確になった、ということがある。事前の「聞きたいこと」リストでは、概念的な話ばかりをメモしているからだ。

そういった意味で、今後同じような機会を得た場合には、注意深く意見を聞いていく必要があるだろう。

・報告書に書いている内容で、より具体的に知りたいこと(=報告書の記載では不足していること)は何か。
・報告書には書いていない内容で、具体的に知りたいことは何か。
・それが記載されている、あるいは記載されていないことが、自社に対する評価にどんな影響を与えているか。

それに対して実際の取り組み内容や、意図的に書いていないとしたらその理由などを説明した上で、どうしていくのが最善かを考える。そういった形にして、あいまいな概念論に陥らないように注意深く議論をコントロールしていかないと、報告書に対して具体的なインパクトのある意見を抽出することはできない気がする。

これは一方で、他社の報告書を読んで意見をする際にも意識しなければいけないだろう。多少なりともこの分野をかじれば、「企業としてこうあるべき」みたいな話は簡単にできるのだ。だが、それは机上の理屈であったり、研究室の中の議論に過ぎない場合が多い。

実際の企業活動に対してインパクトを与えていくには、具体的なポイントを絞り込んだ意見に落とし込む必要がある。概念で一般論を話すのは楽しいかもしれないが、それでは現実にはなんら影響を与えないままに終わってしまうのだ。

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2008年1月31日 (木)

温暖化は人の成せる業か

ああ、もう1月が終わってしまう・・・。

それはさておき、こんなことを書くと人格を疑われるというか、視点としてシニカルすぎる気もするのだが、昨日あるレポートを読んでいて考えてしまったことがある。

国連の中位予測によると、2050年に地球人口は約90億人に達するという。
これは、温暖化対策に成功した結果だろうか。それとも失敗した結果だろうか。そしてこの人口の地球にとっての意味は何だろうか。

原典にあたっていないので勝手な想像だが、仮に温暖化対策に成功し、順当に増えた場合が90億人と考えよう。その場合、順当に増えた90億人という人口を地球は支えられるのだろうか。さらに、この増えゆく人口が、温暖化対策における足かせになってしまうという可能性はないのだろうか。

一方温暖化対策に失敗し、危機的な気候変動により壊滅的なダメージを受けた場合、人類はどの程度減るだろうか。例えば激減して20億人ぐらいになった場合、それは温暖化に対してどんな影響を与えるだろうか。「汚染源」である人類が減った場合、温暖化の進行は緩やかになる可能性はあるのだろうか。

そんな不穏な想像をしてしまった。

現在の温暖化に対する考え方は、温暖化を引き起こしたのは人類であり、その人類の責任と力において温暖化を食い止めなければならないというものといえるだろう。

仮にそうではなく、ウイルスに感染した人体が体温を上げてその死滅をはかるような(その際には当然人体もダメージを受ける)、増えすぎる人口の増加にストップをかけるための地球の抗体反応のようなものだとしたら、どうなのだろうか。

もちろんそうだとしても、ウイルスである人類になすがままに死んでいく義理などはないので、抵抗するのは自由だし当然なのだが。

そういえば、以前「マスターキートン」に、宿主が仮死状態になると一旦活動を中止して少しでも宿主を生きながらえさせようとする悪魔のような狂犬病ウイルス(仮死状態から復活すると再び活動を開始するので、結局宿主は助からないのだが)の話があったな・・・。

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2008年1月25日 (金)

インタープリテーションの必要性

昨日は東芝環境公開講座に参加した。講師はフリージャーナリストの池上彰氏、ファシリテーターはキープ協会の川嶋直氏。テーマは「とうもろこしは食料か燃料か-絵年ルぎー問題の新たな課題」というものだ。

内容については環境gooで後日公開されるものを待つとして、個人的に印象に残ったのはテーマとはあまり関係ない所だったりする。

一つ目は池上氏が言われていたメディアリテラシーの話。
健全な懐疑心を持てとのことだったが、何でも疑ってしまうと「いやな人になってしまうので」というのがおもしろかった。

メディアの発信する情報で注意をしなければいけないのは、ポジショントークと呼ばれる「その人の立場から来る」発言で、そういった立場とセットで発言内容を考えた方が良いというのも考えさせられた。これは逆の場合にもあてはまるからだ。自分の発言は、どんなに個人的な意見と思っていても、立場とセットになっている可能性があるということになる。

二つ目はやはり池上氏が言われていた「理解することと説明することの間には暗くて深い川がある」という話。
確かに、自分が理解したと思ったことでも、いざとなると説明できないことは多い。

そういった川を越えるには、専門書などを読んで勉強する際に、それを小学生ぐらいに説明するにはどうしたらよいかということを常に考えながら読むと良いそうだ。そうしたことを繰り返すことによって、説明ができるような知識として身につくのだという。週刊こどもニュースのキャスターを務めていただけに、この発言には説得力があった。

三つ目は川嶋氏が自分の仕事について説明したときに言われていた「インタープリター」の話だ。
インタープリターというのは自然と人との橋渡し役と言われ、木や鳥と言った自然の話をレクチャーするのではなく、そういった自然と自分たちがどう関わっているのか、その関係性を伝え、考えるきっかけを作るのが役目なのだという。

環境教育については、自然と人との関係を考える「関係教育」だと言う人もいるそうだが、自然と人だけでなく、例えば企業と社会の間にも、そういったインタープリターが必要なのではないかと考えさせられた。CSRのような概念が誕生したことで、両者の立場や関係は成り立ちつつあるが、まだその関係を「つなぐ」人はあまりいないのではないかという気がする。

おそらく、今の自分の仕事に求められているのが、こうしたインタープリケーションなのだろう。エンゲージメントの前にコミュニケーション、そのコミュニケーションの前に、実はインタープリケーションという段階があるのかもしれない。

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2008年1月22日 (火)

温暖化対策は誰のためなのか

映画「アース」を見たので、ちょっと思ったことなどを。

野生動物の営みや大自然の姿を伝えるドキュメンタリーとして見るのであればおもしろいと思うのだが、やはりというか、流行というか、温暖化に絡めたメッセージがあるのが気になってしまった。こうやって言葉で語られるたびに、むしろ反発を覚えてしまうのは自分が天の邪鬼だからだろうか。

そんなことを「言われなくなって」、氷という足場を探して北極海を泳ぎ回るホッキョクグマの映像を丹念に拾えば、どういうことかは分かる。乾期に追われ、水場にたどり着けなかったゾウの死体や、餌を失い餓死した動物たちの映像が映し出されれば、メッセージは明らかだろう。

しかし、それをせずに(そういった「ショッキングな」映像は出てこない)言葉で温暖化を語る。ナレーター(見たのは日本語吹き替え版)の渡辺謙さんには申し訳ないが、語られる言葉が空々しく感じられて仕方がない。もっと、観た人間のトラウマになるような生々しい映像があっても良かったのではないか。
もっとも、そうなると子どもには見せられないだろうが・・・。

そもそも、温暖化を語るのに、自然を使うというのが気に入らない。温暖化対策を自然環境保護に結びつけるのは人間のおごりではないのか。地球全体の歴史で言えば、現代より高温の時代はあったし、大絶滅につながるような急激な環境変化もあった。地球環境のそういった激変に耐えながら、変化をすることで生物は生き延びてきたのだ。

今回の気候変動は、きっかけが人間なだけで、結果は同じだ。ただ、他の動植物はそうした変化に自らを進化させることで生き延びる術を探すが、人類は自分たちは変わらずに環境を維持しようとする。それが「温暖化対策」だろう。温暖化対策は、人類が生き延びるための人類なりの都合(戦略)に他ならない。

それが悪いわけではない。種としての進化の能力を失ってしまった(かはわからないが、自分自身よりも環境に働きかけることを選んだ人類は、多分他の種よりはそうした進化の力は脆弱だろう)人類が生き残るには、環境にあわせるのではなく、環境を変えないしか方法がないからだ。

北極の氷がなくなれば、ホッキョクグマは死ぬ。だがそのかわりに別の覇者が北極に君臨するだろう。それが自然のサイクルだ。

人類が地球の覇者たる立場を維持したければ、自分たちが生き延びられる環境を維持するしかない。我々が守りたいのは、人類が覇者たる地球であって、覇者の立場を追われた地球ではないのだ。

(話がずれてしまった・・・。)

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2008年1月 9日 (水)

サステナビリティを考えるときに抜け落ちやすいもの

CSRでも大きなキーワードである「サステナビリティ」とは何か。

ブルントラント委員会が1987年に出した「Our Common Future」によれば、「将来世代のニーズを損なうことなく現在世代のニーズを満たす発展」と定義されている。

ようするに未来の世代に負担を押しつけてはいけないということだが、そこで意外と抜け落ちがちなのが「現在世代のニーズを満たす」という部分だ。今サステナビリティが語られるときに言われているのは「現在世代は反省し我慢する」になっていないだろうか。

本来それでは意味がない。現在世代のニーズを満たすために将来世代に負担を押しつけるのと、将来世代のニーズを満たすために現在世代で負担を引き受けるのとでは、構図が同じだからだ。

つまり、本来サステナビリティに求められる概念というのは、将来世代も現在世代も満足できるニーズは何か、というニーズ自体のパラダイムをシフトすることにある、と考えるべきだろう。どうもそういう議論が抜け落ちているような気がしてならない。

なぜ抜け落ちるかというと、現在の産業(企業)にとっては、同じニーズであれば現在世代を相手にしても将来世代を相手にしてもあまり変わらないからである。それは双方を満足させる新しいニーズを考えていくよりもずっと企業にとって負担が少ない。あとはその時まで耐えられるかという体力勝負にすぎない。

そう考えると、今多くの企業が大合唱しているサステナビリティは、実はターゲットを将来のニーズにシフトしただけといえるかもしれない。

なぜそうなるかと言えば、現在の企業の成長には対となる消費が欠かせず、その「消費」というニーズ自体が地域間や世代間の搾取により成り立っているからだ。であれば、商品やサービスの消費を核としない成長のモデルが描ければ、もしかしたらこの構図を変えることが出来るかもしれない。

(かなり乱暴な議論なのだが、少し思いつきとして書いてみた。CSR、というかサステナビリティを考える者に求められるのは、こういったことではないかという気もする。企業の担当者として、あるいは社会の中の一個人として、この問題に対してどのようなアプローチができるだろうか。)

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2007年11月29日 (木)

賞味期限を鑑査する

まだ使えるお札をより分ける作業を「鑑査」というのだそうだ。昨日の毎日新聞の「余録」で紹介されていた。元々の意味は美術品の価値や優劣を審査することだという。

食品についても同じような発想の仕組みはできないだろうか。期限が過ぎていても、まだ食べられるものをより分ける。きちんと保証できる部分と、あくまで自己責任に移行する部分みたいな線引きがさらにあっても良いような気がするが、そういったものをあいまいにするのではなく、はっきりと仕組み化するのだ。

賞味期限の問題は、それを可変的に運用する手段がないことだ。可変的に運用するルールがないから、可変的に運用しようとすると偽装をするしかない。昨日も書いたとおり、食品に限らずモノの状態というのは置かれた環境によっても大きく変わってくる。そこを柔軟に対応するルールがあれば、状況は変わってくるのではないか。

多くの場合、賞味期限というのは「美味しく食べることができる期間」にさらに保存環境による違いというマージンを見て設定されている。そのため「安全に食べることができる期間」というのはずっと長いことが多い。つまり賞味期限は実は「安全」のデッドラインではないのだが、実際には安全のデッドラインとして使われてしまっているのだ。

この安全のデッドラインを、改めて設定し直す仕組みはできないか。できれば、製造段階ではなく、保存状態などを鑑みながら改めて設定できる方が良い。線引きは難しいのだが、そこに製造者ではなく販売者としての「目利き」の要素を入れることで、逆にそれを強みにすることはできないだろうか。

製造者は「美味しい状態」で食べて欲しいから、賞味期限までを責任範囲とする考え方で間違っていない。しかし、流通販売の現場では、そこに価格とのバランスを持ち込むことができる。商品の状態にあわせた価格設定を行い、自らの目利きで品質を「保証」する制度を鑑査として入れることができれば、賞味期限はデッドラインではなく、参考値として活用できるようになる。

そういう二重化を行う行うことはできないだろうか。

日本の食における最大の問題は、安全とか偽装とかいう話ではない、と思う。まだ食べられる食品を、捨ててしまうこと。この食品廃棄の問題こそ、陰に隠れて見えないだけに、大きくて深刻な最大の問題なのだ。本当はその解決を図るために、どう賞味期限などの表示を「生かしていくか」を考えなければいけないと思うのだが・・・。

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2007年11月27日 (火)

CSRとは何か?

自分では担当を名乗っているくせに、いざ他人から聞かれるととっさに説明できないのは、深く考えていないか、CSRという言葉が結局は言葉にすぎないと考えているからだろう。そこで、考えをまとめる意味も兼ねて、少し整理してみる。

CSRとは何だろうか。日本語では「企業の社会的責任」と訳される。「責任」ではなく「信頼」と解釈されることもあるが、まぁ一般的には責任と考えるべきだろう。

では、企業の社会的責任とは何か。企業が「果たすべき」責任とは何か。社会(世界)の持続的な発展に寄与することだ。そのためには経済活動だけでなく、社会や環境に配慮しなければならない。これがトリプルボトムラインと呼ばれる考え方だ。

また、活動全般において、不正を行ったり、ウソをついたりなど、ステークホルダーを害して自分だけを利するような行為は許されない。このあたりがコンプライアンスなどと関係してくる話なのだが、コンプライアンスそのものはCSRの一部に過ぎない。というか、そもそも企業活動の一部に過ぎないだろう。

ではなぜ企業が社会や環境に配慮しなければならないのか。企業を個人に置き換えてしまえば、そういった配慮は当然と言ってしまえば当然なのかもしれないが、企業が大きくクローズアップされるのは、その規模が大きくなり、時に一国を上回るような影響力を世界に対して持つようになったからだ。

そう考えると、地域に密着し、地域の動向に影響されるような企業の場合は、実はあまり関係がないとも言える。地域の動向に影響を与えるような規模になって初めて、CSRという考え方が重要になってくるのは確かだ。(もっとも、どんなに小さな企業であっても、何らかの影響を周囲に与えるのは間違いないため、まったく無視できるかというとそうではない。)

企業が(特に)問題視されたことにはそういった背景(経済規模の大きさと社会や環境への配慮のバランス)があるからだが、CSRの考え方そのものは企業に限らず、あらゆる組織へと拡大しつつある。現在策定中のISOで「SR」と呼ばれているのはそのためで、どんな組織であっても、社会の一員としてこうしたことを考えましょう、ということが求められつつある。

で、問題は、こうした考え方と、自分の仕事がどうリンクしているかだ。CSRは企業活動全般に関わる話だが、自分の仕事はもちろんそうではない。このあたりが説明が難しかったりする。

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2007年11月22日 (木)

社会貢献とは何か

今日はパソコンを家に置いてきたので、まっすぐ会社に行ったのだが、朝7時半のフロアには、役員と秘書と経営企画室長だけが・・・この人たちが早く来るから会社がやっていけるのか、それとも長時間労働が当たり前になってしまうのか・・・。

それはさておき、そんなわけで今日はブログを書かないという選択肢もあったのだが、ちょっと思いついたことがあって、メモとして残しておく。

「社会貢献」とはなんだろうか。企業の社会貢献に絞っても良い。

利益の一部を、社会活動などに提供すること、と考えてみよう。ビジネスとは無関係(本来まったく無関係というのはありえないが)で、儲けといったことは考えずに資金やリソースを拠出する。それが社会貢献だろうか。

改めて考えてしまったのは、そこには企業側の事情しかないことだ。余剰かどうかはともかくとして、企業が自分のビジネスとは関係ない分野に拠出するリソースは、それだけで社会貢献と呼べるものだろうか。

ボランティア、にも言えるかもしれない。冷たい言い方だが、無償で何かをすればボランティアと呼べるだろうか。

多分そうではないだろう。社会的に解決しなければならない課題があり、そこに対して何らかのアクションを行うことが、社会貢献だ。そしてそう考えると、それがビジネスかどうかは関係ない。企業として対価を得る、あるいは利益を得る営利活動であっても、社会貢献活動としての本質は変わらないのではないだろうか。

どうもそのあたりが混同されているような気がしてならない。

実際には、そんな理屈は考えないほうが気持ちよく活動できるのかもしれないが、どうにも気持ち悪いのだ。営利か非営利かという軸と、社会貢献かどうかの軸は、別に持つ必要があるのではないだろうか。

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2007年8月 9日 (木)

久しぶりにNotesのデータベースを作ってみるか

先日のLotus Day 2007に触発されたと言うわけでもないのだが、久しぶりにNotesデータベースなど作ってみようかと考えている。もっとも自分に手が出せるのはR4ではあるのだが、考えている機能を満たすには十分だ。(というか、R4までの機能しか基本的に知らないので、そもそも構築の発想自体がそうなってしまうのだが・・・。)

以前XOOPSでCSRレポートを作成するでも書いたのだが、そもそもCSRのマネジメントは「レポート作成」によるアプローチの域を出ておらず、マネジメントを支援するITシステムは無いに等しい。(いやいやそういえばあったな。確かゼロックスが開発していたような気がする。)

もっとも、今回のデータベースの目的は企業内のCSRに関する(もう少し絞り込んでしまえば報告書に関する)情報を蓄積・整理するためで、マネジメントとまではいかない。単に情報を整理するだけであれば別に報告書自体でも構わないのだが、個人的なテーマとして各種のガイドラインと対比させたいのと、外部のアンケートに答える際のバックグラウンドが欲しいので、実際には報告書そのものの掲載情報とは異なる。

とりあえず先日から構想をメモしてはいるのだが、久しぶりと言うこともあり、いまいち形になっていない。もともと作りながら考えるタイプなので、事前に構想をまとめようというのがどだい無理なのかもしれない。

まずはガイドラインのデータベースを作る必要がある。そのガイドラインを、企業内の情報を登録する際のカテゴリに利用することで、各ガイドライン毎に整理できる・・・はずなのだが、こうした基本構造でよいのかという迷いがある。構築には一気に登録する力わざが必要なため、ここで間違えてしまうと後が困るのだ。

Notesデータベースを本格的に作るのは、ナレッジマネジメントプロジェクト時代にポータルデータベースを作って以来だ。2~3年ほどのブランクがあり、基本的な部分は忘れていないと思うが、細かい注意点などは忘れているに違いない。

さて、どうなることやら。

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2007年7月17日 (火)

エコバッグ狂想曲

アニヤ・ハインドマーチ製のエコバッグが大騒ぎだったらしい。ニュースで見ただけだが、本当にエコバッグとして使うのは殺到した人たちの何割(何%?)だろうかと思いながら、こういった仕掛けを環境NPOなどはもっと考えても良いのではないか、という気もした。
(いやいやパニックを演出しろ、という訳ではもちろんない。)

一つはエコバッグに「使いたい」という気持ちを持たせることだ。無料で配布されたバッグをどれだけ使う気になるか、というのは、じつはかなり微妙なところで、仮に無料でもプレミア感(希少価値だけでなく、希少でかつ広く知られていなくてはならない)を持たせることができなければ、使うモチベーションにはならない。

環境に優しい、だけではそうそう便利さには勝てないのだ。使わない人たちの意識を嘆くのは簡単だが、それは使わせようと思っている人たちの言い訳にすぎない。

もう一つは、今回の騒ぎは行きすぎだが、うまくプレミア感を演出できれば、企業がこれを「商売」に出来るということだ。エコのためのエコバッグの配布ではなく、ビジネスとしてのエコバッグの販売という流れは作れないか。レジ袋を有料販売するよりは、商品としてエコバッグを買ってもらった方が、企業にとっては良いに決まっている。

ユニクロのコラボTシャツではないが、そういった各企業のブランドとコラボレーションしたエコバッグを作って(数量限定で)販売してみたらどうなのだろう。イオンぐらいであれば、自社ブランドよりも取引先ブランドでエコバッグを作って販売した方が、実は面白いような気もする。

そんなことを考えながらスーパーに買い物に行き、ふと周囲を見回したら意外とエコバッグ(というか、買い物袋)持参の比率が高いことに気付いた。周りが使うようになれば、追随したくなるのが人の常だから、そういった様子を見せるのも良いかもしれない。

ちなみにレジ袋に関しては、「要りません」と言わせるのではなく、必要な人は自分で買い物かごの中に入れるような仕組みにすれば良いと思う。ついでに言えば、レジ袋を有料にするのではなく、レジ袋を使わない人は○円引き、みたいな形で実質有料にするという方法ではどうだろうか。

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2007年7月13日 (金)

個人の倫理観と社会システムの限界

昨日から今日にかけて報道されていたが、北京の露天で肉まんに段ボールが混入されていたというのは、なんともすごい話である。ミートホープの偽装がかわいく見えさえする。

(もっとも、両者の根本的な違いは、北京の事件は個人の倫理観だが、ミートホープは組織の倫理観が問われているということだ。ミートホープの事件で「社長の指示」が大きな要素を占めるのは確かだが、それを個人の問題だけに帰属するのは少々問題がある気がしている。)

さて、この事件だが、「個人の倫理観」と言ってしまうのは簡単なのだが、もう少し大きな社会システムの問題に踏み込む勇気が我々にはあるだろうか。それは、市場主義、資本主義という社会システムにそもそも限界があるのではないか、という切り口だ。

具体的には、「コスト削減」のために段ボールを混入した彼らが、それは市場経済の問題で、以前の社会主義経済、統制経済体制だったらこんなことはなかった、と主張した場合に、我々はどう反論すべきだろうか、ということだ。断っておくが、この場合、統制経済でも同じことはあっただろう、というのは(実際あったのではないかと思うのだが)あまり意味がない。

個人の倫理観に頼らざるを得ない現在の経済システムの限界にどう向き合うか、ということだからだ。

ちょっと答えはないのだが、個人的には「倫理」という言葉自体が、人間の本性に枠をはめるものというニュアンスがあって、「倫理観を求める」というのはそもそも抑制を求めるものだから、結局それが破られてしまうのではないかということだ。言葉の遊びのようで恐縮だが、ちょっとまとまっていない。

そうではなく、本性そのものをポジティブに活かせていくような社会システムはできないのだろうか。弱肉強食になってしまうかな・・・。

(でも弱肉強食というのは、「強い者は弱い者を(好き放題に)犠牲にしてよい」という格差社会の理屈ではなく、「より強い者がより弱い者を淘汰する(ことでより強靱な社会をめざす)」という競争社会の理屈で成り立つシステムのことを指しているとも思うんだよね。あ、でも自然社会の仕組みは違うか・・・。)

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2007年7月12日 (木)

安全確認による遅延

今朝地震があり、通勤に使っている京王線のダイヤが乱れた。安全確認のため速度制限をかけていたのだが、おかげで普段座れる電車に乗ることもできず、久しぶりに満員電車に揺られる羽目になった。

・・・疲れた。

それはさておき、ホームに着いたときに「今朝方地震があった関係で安全確認のため電車が遅れ申し訳ありません」といった趣旨のアナウンスが流れていた。地震は天災だし、安全確認無しで通常通り走らせて事故が起こったときのことを考えれば、謝るような筋合いではない気もするが、乗客としては誰かに謝ってもらって不満のはけ口を見いだしたいわけで、それを受け止めるためには結局しょうがないのだろう・・・なんてことを考えた。

実際、安全確認のための徐行は、褒められこそすれ非難されるようなものではない。本当は「素晴らしい判断だった」「さすが安全第一の精神が徹底されている」と褒めればよいものだが、何も起きなければ「遅れやがって」となってしまうのが、悲しいところだ。

こういった部分にプラスの評価をしていけるような仕掛けってないのだろうか。「安全」と叫んでも、そのサービスを享受する側がプラスのフィードバックができない(しにくい)ようでは、より高い安全にはつながっていかない気がする。

京王のホームページに、今日の判断を褒めるようなコメントでも入れてみようかな・・・。

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2007年7月11日 (水)

仕事と生活との調和

今週号(2007.7.9)の日経ビジネスの第2特集は「残業の減らし方、教えます」だった。書かれている内容の中で、机や書類の整理を組織的に行うというのは、「個人で」はなかなか出来ない自分としてはあると嬉しいかもと思ったのだが、それ以前の問題としてふと気になったことがある。

「残業」はそもそもそれ自体で問題なのだろうか?

ワークライフバランスという言葉が最近は良く聞かれる。仕事と生活の調和を大切にしようというものだ。が、改めて考えたときに「ワーク」と「ライフ」は「バランス」を考えなければいけないほど対立するような概念なのだろうか。

そんなことが気になってしまった。

両者をトレードオフな関係で捉えてバランスを取ろうと考えている限り、実は根本的な問題の解決にはつながらないのではないか、そんな気がするのだ。

記事の冒頭に、今年1月から原則7時以降の残業を禁止した無印良品の社長のコメントが載っている。

「夜の7時くらいには仕事を終えないと話題のスポットは閉まってしまう。11時まで会社に残っているようでは視野の狭い人間になるし、家族のニーズもつかめない。そんな企業戦士はいらない」。

一見なるほどと思うのだが、うがった見方をすれば、プライベートの時間も仕事に活かせるようにしろ、というように聞こえなくもない。話題のスポットで感性を磨くのが仕事に役立つと考えるのであれば、仕事時間内に業務として行かせるべきではないのか。プライベートも仕事に活かせるように考えて行動しろ、と言っているようなものとも受け取れるのだ。

企業が考えるべき「ワークライフバランス」は、仕事以外の私生活の充実を図れるようにすることではなく、仕事を通じて(人生が)豊かになれるようにすることではないだろうか。それが「調和を大切にする」ということではないか。

11時まで会社に残っている結果、視野の狭い人間になってしまうような「仕事」にこそ問題があるのであって、11時まで残ることに問題があるのではない気がするのだが、どうなのだろう。

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2007年7月 5日 (木)

CSR日記の再開

ゆるゆるとだが、CSR日記を再開することにした。ただし、中身はそっくり移したが、こちらの別のサイトでの再開になる。

このENIGMAというブログは、言ってみれば日記なので雑多な話題を扱うが、もう少しテーマを絞るというか、内容に統一感のあるブログにも関心はあって、今のところそういったテーマで書けそうなのはCSRぐらいなのだ。

もっともこの日記は元々は社内の希望者へのメールをベースにしていて、昨年1年ぐらい続けていたものだ。3月に報告書の作成が佳境に入り、中断していた。(今まで佳境だったのかと言われると、どうにも恥ずかしい限りだが。)

さてさて、どこまで書いていけるだろうか。

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2007年6月 7日 (木)

レジ袋の有料化ならぬゴミ袋化

今朝ふと思いついたのだが、レジ袋を有料化する代わりに、自治体の認めるゴミ袋として使えるようにするというのはどうだろうか。もっと言ってしまえば、自治体の出している有料のゴミ袋をレジ袋として使うということだ。
(もちろん、自治体によってはゴミ袋を指定していない場合もあるだろうが。)

こんなことは誰かが考えていそうな気もするのだが・・・。

買い物客が払うレジ袋の代金は、そのままゴミ袋の代金として自治体のゴミ処理に回されるようにする。小売店がお店のマークなどを印刷した袋を使いたい場合は、その分も上乗せして自治体に払う。枚数と金額は毎月集計して店頭に貼りだし、それによって処理されるゴミの量も明らかにして可視化する。

買い物客はゴミ袋としてのレジ袋が余っているのであれば、マイバッグを使う。ゴミ袋がなくなったらレジ袋を買って、ゴミ袋にする。ゴミとして捨てるのではなく、ゴミ袋として使えば無駄が少ないはずだし、ゴミ袋としても買った袋をそのままゴミとして捨てるというのは抵抗感があるから、そのまま捨てられてしまうことも少なくなるはずだ。

さらに分別用に色分けされたレジ袋、という方法もある。こうするとレジでは必ず袋の色を聞くことになるから、袋がいらない人も断りやすいし、常に分別を意識することになる。

お店は現在すでにコストのかかるレジ袋を無料で配布している(最終的にはお客の負担だが)から、有料化して得たお金を自治体に払うことにしても負担が増える(手間は増えるが)訳ではない。自治体から袋を買う、ということになると余計な利権が絡んできそうなので、多少手間はかかっても一定の規格にそったものをお店側で用意して、買われた枚数から納めるようにする方が良いだろう。

ごまかして過少申告する輩もあるかもしれないが、それ自体は別にたいした問題ではない。目的はゴミ袋とレジ袋の利用を二重化することによって無駄な袋の利用を減らすことであって、有料化はその手段に過ぎないからだ。もともとレジ袋はお客がどこかで負担しているコストであって、有料化はそれが見える化されるだけのことだ。ゴミ処理とは分けて考えてしまっても良いのだ。

極端な話、有料化がいやなら無料でも良いのである。それがゴミではなくゴミ袋としてもう一度利用されるようにすることが大事なのだ。
(大体、ゴミを捨てるためだけの袋ほど無駄なゴミはないのだ。ゴミ袋は最低でもリユースされたものにするべきだろう。)

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2007年6月 6日 (水)

企業市民活動と企業活動

今日は会社で地域清掃活動があるため、時間がないので手短に昨日の続きを。
企業市民活動というのはそもそも何なのか、調べてみた。

CSRアーカイブスによれば、

「企業は従業員を通じて、また企業活動そのものを通じて、地域社会と深い関わりを持っており、地域社会は企業の存立基盤である」

「製品やサービスの提供、納税、雇用など企業が果している社会的役割も、地域社会等、社会の健全な発展があって初めて可能となる」

そういった考え方に立って、

社会を構成する様々な主体とバランスよく連携を図り、「社会の一員として社会に役立つ事業活動を行う」という姿勢

をさすのだという。
http://www.csrjapan.jp/wording/ki.html

・・・よく分からないというか、これは「企業活動」とは何が違うのだろうか。
そもそも「社会の一員として社会に役立つ事業活動」を行わない企業なんてあるのだろうか。

それは企業ではなく、犯罪組織とでも呼んでおけ、という気もする。
(もっとも、犯罪組織だって社会上何らかの利益を得る集団がいるから成り立つもので、それを「役に立つ」ということもできる。どんな活動であれ万人に役に立つというのは考えにくいので、そもそも「社会の役に立つ」という捉え方にフィルターがかかってしまっているということかもしれない。)

ただし、これには枕詞があって、上記のような考えが生まれたのは、1970年代の企業批判の台頭に呼応してのものなのだそうだ。結局はそういった批判を招いた企業の活動に問題があったということか。

しかし気になるのは、なぜその時に「企業活動はそうあるべきではない」と、企業活動そのもののあり方を見直すのではなく、「企業市民活動」という別の概念を生み出してしまったのだろう。結局そうやって「分けてしまった」ことが、二律背反を生んでしまっているということはないだろうか。

それが企業活動には制約を受けたくない企業側のもくろみだったのだろうか。「企業活動」と「企業市民活動」を分けて考えるのは何故なのだろうか。

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2007年6月 5日 (火)

社会的利益への企業としてのアプローチ

実は今月、とあるところで自社のCSRについて話をする機会がある。
本当は報告書の作成も終わってからゆっくりその準備を・・・と考えていたのだが、結局並行して考えていかなければならない羽目になってしまった。

要望としてはCSRとは?という概念について企業の現場から話して欲しいということなのだが、内容自体はケーススタディの一種ということであまり具体的な制約がない。一度打ち合わせた時の感触では、

・社会的利益への企業としてのアプローチ
・事業と企業市民活動の関係
・事業として抱える固有の課題

といったことをテーマにすると良いようなのだが、正直なところ漠然としていてつかみ所がないという気もする。
そこで少し自分自身がどう考えるかを整理してみよう。

まず、食品という事業は、事業自体が持っている社会的利益へのアプローチの要素がきわめて強い。そうではない要素を考えるのが難しいくらいだ。しかし、一方で食品業界はさまざまな不祥事に揺れている業界でもある。

これは、事業が社会的利益と密接に結びついているからこそ、不正が非常に大きな問題になる、ということだろう。食品の場合、ポジティブな社会的利益へのアプローチよりも、まず事業自体が持っている社会的利益を「損なわない」姿勢が、企業に要求される、と考えることができそうだ。

一言でいってしまえば「安全な食の提供」に関する部分だ。

コンプライアンスとも違うとは思うのだが、まずは「事業の持つ社会的利益への影響を理解し、その利益を損なわない」ことが求められる事業としての性格はバックグラウンドとして持っておくと良いだろう。その点に対する企業としてのアプローチは、ものづくり(食品の製造)に対する考え方(安全に対する考え方)を提示することで説明できる。

ただ、CSRとして考えると、もう少しポジティブというか、アクティブな要素が欲しい。そこで積極的な社会的利益への貢献という要素で考えると、「豊かな食生活(食文化)の提供」という側面をあげることができるだろう。これも企業のものづくり(食品の開発)に対する考え方から説明できそうだ。

この両輪は、作成中の報告書でもバックグラウンドとして意識している部分でもある。

「社会的利益へのアプローチ」に関しては、食品事業と社会的利益の関係を提示した上で、自社のものづくりの姿勢を示すことで企業としてのアプローチを説明することができそうだ。

では、企業市民活動との関係についてはどうだろうか。これは明日にでも考えてみることにする。
でもそもそも「企業市民活動」って何なのだろうか。

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2007年5月15日 (火)

企業が得るのは利益か、対価か

昨日は部署内で勉強会があったのだが、その中で最近行政がNPOと協働する事例が増えているという話があった。そのためのガイドラインなども整備されているという。

そういった動きは決して悪いものではないと思うのだが、一方で少し気になったことがある。
なぜ、そのサービスをNPOではなく、企業に依頼するのではいけないのか、という点だ。両者には目に見える大きな違いがある。それはコストの違いだ。

そういったことは想定されているらしく、用意された担当者向けのQ&Aでは、NPOとの協働においてそういったコストダウンの視点を前面に考えてはいけない、という戒めがあるようだ。あくまでもNPOの持つ専門性を活かすのが目的であって、コストのかからないアウトソースではない、と。

・・・だったら、NPOに対しても企業並みの対価を払うようにすれば良いと思うのだが。

企業は良くサービスや製品の提供に対して「利益を得る」というが、これは間違いだ。企業がステークホルダーとの取引で得ているのは、そのサービスや製品に対する「対価」である。その対価の中でやりくりして、企業が内部的に生み出すのが利益であって、取引の中で生まれるのは決して利益ではない。

(もう一つ重要なのが、対価というのは決してコストの積み上げではないという点だろう。対価は提供されるサービスとそれに対する評価で決まるもので、その裏にあるコストは、サービスの質に関係はしていても、決して対価と相関関係にあるわけではない。)

NPOやボランティアという存在で気になるのは、彼らは自らの提供するサービスに対して「対価」を得る気があるのか、ということだ。利益は内部的な問題だから、別に利益がいらないというのならそれでも良いだろう。でも、対価もいらない、ということになると、そもそも取引において不当に安い対価を提示するダンピング行為と同じになってしまわないか。

NPOやボランティアの名のもとにそういった行為が行われたら、社会の経済活動そのものが立ち行かなくなるということにならないだろうか。企業が取引拡大のために行おうが、ボランティアが善意で行おうが、サービスに見合った対価を下げてしまうのは、ダンピングということにはならないだろうか。

寄付や補助金、税制面の優遇などがあるからといって、提供するサービスの対価を下げるというのは、やはりおかしいし、サービスの提供を受ける側は、そういったものに飛びつくべきではないと思うのだ。

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2007年5月11日 (金)

土づくりより土えらび

昨日、報告書作成の関係で農家を訪問して話を聞いたのだが、よくいわれる「土づくり」についてふと感じたことがあった。

「土づくりにそこまで力を入れなくても良いような土地ってあるんじゃないだろうか。」

農業では土づくりが重要といわれる。そういった話で良く聞くのが、有機肥料などを使った土づくりの話や、化学肥料を使うと土地がやせるといった話だ。

科学的な話はさておき、感覚的なことをいえば、こういった話には二つ欠けている視点があるように思う。

一つは肥料を使おうが使うまいが、その土地の地力には絶対に何らかの限界があるだろうということだ。そして自然の状態を100とするなら、人の手で農作物を作るという行為が、その100を下回っていることは絶対にないはずだ。つまりどうやったって農業を営むということは地力に対してダメージを与えることであり、土づくりはそれを補う手段にすぎない。
そもそも人のための農作物生産自体が土地にダメージであることを前提に土づくりを考えるのと、何らかの方法が土地に対してプラスの効果を与える前提で考えるのとでは、気の持ち方が違うのではないか。

そしてもう一つは、そもそも農業に適した土地というのがあり、そういった土地を意識的に選べば、ダメージを最小限にすることも可能ではないかということだ。
農業に適した土地とはどういった土地だろうか。シンプルに考えれば昔から農業が行われていた土地は、そもそも適していたから選ばれたと考えることができる。この「昔から」というのは、まだ人口が少ない時代に人が住んでいた土地ということだ。つまり、今は畑ではなく住宅となっている所・・・それは我々の足下に眠っている土地ではないか。

もちろん、すべてがそうということはないだろう。しかし、自然発生的に集落が生まれたような土地は、もともと農業に適していた可能性が高い。そして、そういった土地は、今はアスファルトの下に眠っているのではないだろうか。我々のすみかとするために。
現在の農地は、元々は適していなかった土地へと農作物をおいやった土地なのかもしれないのだ。

関東平野が、今のような人のための土地ではなく、農業のための土地だったら・・・人間なんてどこでも生活できるし、土壌の豊かさなんて関係ないのだから、そういった土地に住んでいれば良かったのかもしれない。

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2007年5月10日 (木)

企業の利益とは何か

先日の企業の社会的責任とは責任逃れのための方便ではないのかへのコメントを読んでいて、ふと思いついたことがある。

企業の利益とは何か、というものだ。

企業は利益をあげることが求められる。これがいきすぎると色々と批判されたりもするのだが、この「利益」とは企業にとって何だろうか。企業と顧客との関係においては利益かもしれないが、この利益が株主に配分されるものだとすれば、企業と株主との関係においてはコストということにならないか。

そもそも、企業という存在そのものは利益を使うことが出来ない。再生産や拡大のためのそれは、利益とは呼びにくい。利益は、株主、経営者、従業員に配分されて、配分された側にとっては利益だが、企業にとってはそうではないはずだ。

つまり、厳密には企業自身は利益をあげたりしないのだ。企業を通じた顧客との取引で、最終的に利益を得ているのは、株主、経営者、従業員であり、相対的に考えれば顧客自身もその製品なりサービスを得ることで利益を得ているともいえる。

それぞれのステークホルダーが、企業を通じてお互いのコストとメリットを交換しているという捉え方もできるだろう。企業はそのための装置であって、そこに企業としての意思は実は存在していないのではないか。

社会的責任もそうなのだが、利益というのも、実はもっと突き詰めて考えて、細分化をしてみることも必要なのではないか、そんな気がした。企業の利益至上主義とか安易に語る前に、その実体が何なのかを考えることも大切なのではないだろうか。

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2007年5月 9日 (水)

XOOPSでCSRレポートを作成する

今日は時間がないので、アイデアのみ手短に。
XOOPSを使ってCSRレポートサイトを作成できないだろうかと考えている。

コンテンツの作成、更新、整理から、フィードバック、コミュニケーションまでをカバーするレポートサイトシステムの構築だ。詳しい機能は分かっていないのだが、それぐらいはできるのではないか。

正直に言えば、今年のレポートの作成時点で同じような構想は持っていて、制作会社にはそれとなく「アイデアが欲しい」ということは伝えていた。XOOPSというツールを提示したわけではないが、要望として、来年以降も外枠はそのまま使っていけるような仕組みを構築できないか、と。
が、残念ながら現時点でのできあがりの様子を見る限り、コンテンツの構築はしていてもコンテンツのマネジメントまでは視野に入っていないようだ。

というわけで、まずは自分で勉強してみることにする。大切なのはデザインではなく、全体の構成と使いやすさだ。レポートサイトとして考える場合の必要な機能と、その後の拡張性をまずは整理しなければならない。

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2007年5月 7日 (月)

企業の社会的責任とは責任逃れのための方便ではないか

企業のCSRをまがりなりにも担うものでありながら、最近「企業の社会的責任」という言葉がどうもうさんくさく思えて仕方がない。そもそも、企業という組織は、社会的な「責任」とやらを担える主体たり得るのだろうか。

企業というのは、便宜上法人格を与えられていたりするが、それ自体は実体を持たず、意思決定の主体でもない。意思決定をするのは、経営者であり、従業員であり、投資家であり、消費者といった一人ひとりだ。その総体が企業という組織の行動に表れるだけで、企業それ自体が意思を持っているように見えるのは錯覚にすぎない。

「企業の社会的責任」という言葉は、その錯覚を現実のものとして、かかわる一人ひとりの責任をあやふやにしてしまう魔のキーワードではないか。そんなことを考えてしまった。

ただ、だから責任を問うなとか、そういったことではない。何か問題があるのであれば、責任は問うべきだ。しかしそれはその責任を担える一人ひとりにきちっと細分化し落とし込んで初めて意味があるのではないか。一人ひとりが持っている責任を明らかにすることが大切なことではないだろうか。

CSRレポートは、多くの場合、ステークホルダーに対する「企業の責任」を記述する。消費者に対する責任、従業員に対する責任、投資家に対する責任、取引先に対する責任、地域社会に対する責任・・・責任を負い、果たすのが企業の役割で、それを受け取るのがステークホルダーという構図がそこにはある。

でもおかしくないだろうか。ステークホルダーこそ、企業に対する責任を担っているのではないだろうか。もちろんそれは企業の存続のためではなく、その企業を通じて社会に供される価値に対してだ。その価値に対して、一人ひとりのステークホルダーが担っている責任を記述するのが、CSRレポートの役割ということはないだろうか。

もっとも、ではこれをどうやって記述するのか、と問われれば、正直今は沈黙するしかない。一部ではそういった記述はある。社会に提供される価値を消費者に提供する価値と置き換えれば、消費者以外のステークホルダーの(消費者に対する)責任は、記述されていることが多いからだ。

でも例えば、人権問題に対して、企業の責任は記述されていても、消費者の関わりと責任まで記述されているケースは少ないだろう。フェアトレードに取り組む企業の姿勢は記述されていても、それを購入する消費者の姿勢の評価や、逆にそれを購入しない消費者の責任を問うような記述はないはずだ。

実際にはそこまで踏み込もうとすると、企業の立場だけでは発行することが難しい。そもそもCSRレポートは何を伝えるものなのだろうか。

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2007年4月27日 (金)

野菜の産地廃棄

昨日のR25に、野菜の産地廃棄についての記事があったのだが、その記述を読んでちょっと考えてしまった。
産地廃棄について、このように説明されていたからだ。

「産地廃棄とは好天で野菜が採れすぎた場合、価格の低下を防ぐため、育った野菜をそのままトラクターなどで踏み潰し、出荷量を調整するという乱暴な施策のこと。」

自分もそのように理解していたのだが、実はこの説明と理解こそが産地廃棄の最大の問題ではないか、という気がした。というのは、先日機会があって実際に生産する農家と仲介する業者の方に話を聞いたのだが、「売れるモノなら売るが、結局売れない(から廃棄せざるを得ない)」という話だったからだ。

「価格の低下を防ぐため」「出荷量を調整する」ための廃棄と、「売れない」からやむなく廃棄するというのでは、イメージがまるで違う。前者はいかにもその施策によって価格のつり上げを図っているように受け取れるが、実態は「どんなに安くしても買ってもらえない」から、かかったコストを少しでも回収するには、廃棄により補助金をもらう以外にない、ということなのだ。

(ちなみになぜトラクターなどで潰すかと言えば、これは補助金をもらった後に出荷をしてしまうとか、農家側の問題で廃棄した野菜にまで補助金を出すわけにはいかないからだろう。あくまでも市場の相場の問題で売れなかった野菜に対し補填をするのが目的なのだから、補助金を出すためのいわば条件が「潰す」ということなのだと思う。)

あえて言ってしまえば、お店が買うのであれば産地も廃棄などしないのである。しかし、お店の方でも売れないモノを仕入れても仕方ない。結局これは記事にもあるのだが「野菜を食べない」消費者の問題を、産地の問題にすり替えているだけということでもある。
(もっとも、日々の野菜の需要が生産量にあわせてそうそう変動する訳がないので、突き詰めれば天候などに左右されやすい農作物の宿命にすぎない、という捉え方もできる。意外と問題は、報道するマスメディアの伝え方にあるのかもしれない。)

ちなみに農産物というのは面白いもので、出来の良さと量が比例する。出来が良いほど大量に収穫でき、結果として需給のバランスから価格が下がる。一方で出来が悪い時は収穫量も少ないので、価格が上がる。品質が良い時ほど安く、品質が悪い時ほど高くなるという、一見すると奇妙な価格変動があるのだ。

もったいない、と思うのは確かだが、ではその野菜が目の前にあったときに「自分が」余計に食べるか、他の人(海外でも良い)に提供するために「自分が」お金を出すか、といわれると首をかしげざるを得ない。国の政策として国のお金でそういった施策をとるということも考えられるが、そのコストは結局税金なのだ。

むろん、上手くビジネスに載せることができれば状況は変わるかもしれない。最近農水省が進めている輸出政策などもその一環だ。ただし、それが進むということは、国際的な市場の影響で野菜の価格も変わってくるということであり、我々の手に届く野菜の価格にも影響してくる、ということはきちんと考えておかなければならないだろう。

余ったときだけもったいないから分けてあげます、なんて理屈は通じるわけがない。

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2007年4月25日 (水)

シニアの社会貢献活動

そういった活動に水を差すわけではないのだが、昨日ふと「会社をリタイアしたシニアが、従来の仕事の延長ではなく、ボランティアなどのいわゆる社会貢献活動に走ることが多いのは何故だろう」と思った。

そういった活動に関心がありながら、
1.これまでやってこなかったのは何故か
2.これからやっていこうとするのは何故か
そんなことが気になってしまったのだ。

少し極端な捉え方かもしれないが、例えば「社会への恩返し」と考えているとしたら、それはすなわち自分がこれまでやってきて、しかも後代に託した仕事が、実は「社会への負担」だったと認めることになってしまわないだろうか。

これはうがった見方かもしれない。しかし、自分たちがやってきた仕事が、社会に貢献するものであったと心底考えているのであれば、「これからは社会に面倒を見てもらう」ならまだしも「これから社会に恩返しする」という発想にはならないのではないか。

いや、それ自体は謙遜というか、社会あっての自分という捉え方として納得できるかもしれない。それにしても、その「恩返し」が、これまでの仕事とはかなりベクトルの違う方向だったりするのが気になるのだ。

シニアはなぜ引退してから社会貢献をしようとするのだろう。彼らの考える社会貢献は、どんな動機に基づいているのだろうか。

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2007年4月24日 (火)

CSRレポートと履歴書

昨日のエントリーを書いていて思ったのだが、企業のCSRレポートなどを履歴書に喩えるのは、意外と分かりやすいかもしれない。
ただし、当然考えなければいけない問題もある。それはネガティブ情報をどう記載するかだ。

読んだことはないのだが、おそらく、履歴書の書き方マニュアルの中に「ネガティブ情報の記載」などという項目は皆無だろう。基本的には履歴書は自己アピールのための書類だから、自分から不利な情報を開示する必要はない、というのが一般的な考え方だ。

しかし、企業のCSRレポートではネガティブ情報の開示が求められる。普通の履歴書のような書き方をすれば、まず間違いなく「良いことばかり書いてあって、信頼できない」と評価されてしまうのがオチだ。なぜ個人の履歴書ではそういったことがないのに、企業の履歴書とも言えるCSRレポートではそういった視点で見られてしまうのか。

一つ考えられるのは、評価側の持っている情報というか、経験の問題がある。昨日のエントリーでも書いたが、企業の人事担当者は履歴書はあくまで一つの参考情報として評価を下す。良いことばかり書いてあっても、それ以外の面は担当者の眼で見つけ出すのだ。
一方企業に関しては、評価側にはそこまでの覚悟と経験がない。さらにCSRレポートが唯一の参考情報なんてケースもあるだろう。

だから一概に同列に比較は出来ない・・・と言うのは簡単なのだが、やはり釈然としない。

最近は、CSR関連の部門を希望する学生もいるようだ。何をCSRと捉えるかはあいまいではあるが、一つ思ったのは、そういった学生には自分自身の「SRレポート」の提出を求めてみるのはどうだろうか。

そう考えると、まがりなりにもCSRを担う(少なくともCSRレポートの発行を担う)自分も、そういった視点で自分自身のSRレポートを書いてみる、という経験が必要なのかもしれない。
今は(企業の方のレポート作成で)ちょっとそれどころではないのだが、そういったことを考えてみても良いかもしれない。

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2007年4月23日 (月)

信頼できる情報とは何か

エコロジーシンフォニーというサイトが発行している「エコシンめーるニュース」というメルマガがあるのだが、そのVo.133に、「CSRレポートより2チャンネルの情報を参考にする学生たち」というトピックがあった。

> 一人の学生が、「企業の発行するものは、いいことばかり書いてあっ
> て宣伝くさい。これって、プロパガンダじゃないの?と思う」と語っ
> てくれました。また、「その企業のネガティブなことも知りたいから
> 2チャンネルをのぞきに行って本音の社員の不平や不満を読む」とも。

筆者はこの発言に「担当者が汗水流して作っている会社案内やCSRレポートよりも、怪しいサイトの情報を信じているなんて!?」とショックを受けているのだが、自分としてはこの発言と筆者のショックに別の危惧を感じた。

企業の発行したものであれ、2ちゃんねるの情報であれ、「信頼する」というのは、受け手自身の判断である必要がある。企業の発信する情報に、ある種の宣伝的な情報が入るのは避けられない。開き直るわけではないが、では学生が企業に提出する履歴書に、まったく宣伝(自己PR)的要素がないなんてことがあるだろうか。

大切なのは、その情報を受け取った上で、自分がどう判断するかである。企業の人事担当者は、履歴書に書かれた情報を参考にした上で、その相手を自らの眼で評価する。CSRレポートに対する評価も、そういったものであって良いはずだ。

そもそも、CSRレポートにネガティブ情報の掲載が進んだのは、それを読む人たちが、その内容を100%信頼せず、批判的な精神で企業に対してアプローチをしてきた結果である。その緊張感こそが健全な「信頼関係」なのであって、企業がどんなにパーフェクトなCSRレポートを作成したとしても、その結果100%信頼されてしまったら、逆に両者の関係は崩れてしまうのではないだろうか。

一方、企業の発行するものを「プロパガンダ」と切り捨て、2チャンネルで「本音の不平や不満を読む」学生に対しても危惧がある。彼は、自らの判断で情報の信頼性を評価しているようには思えないからだ。プロパガンダに見えるものであっても、本音の不平不満に見えるものであっても、それはただの主観的な感想にすぎない。それだけでは何ら信頼性を担保しない情報に対して、彼はどのような「判断」を下しているのだろうか。

良いことばかりが書いてある(ように見える)から信頼できないとか、本音の不平や不満が書いてある(ように見える)から信頼できるとか、そんな判断で良いのだろうか。大切なのは、個々の情報に対して自分がどのような評価・判断を下すかだろう。

それに対してこういった切り捨て方をしてしまう姿勢自体に危惧を覚えてしまうのだ。

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2007年4月13日 (金)

CSRについて語る

少し前に参加したセミナーの縁で、(どういう訳か)CSRに関する講演の依頼があった。大学院の講義の一コマとして、企業の事例を紹介して欲しいのだという。

話があったこと自体は光栄なのだが、受けられるのかどうか、話す内容があるのかどうか、検証しなければならない。

要望としては次のようなものだ。

1.CSRとは?という概念を企業の現場から話して欲しい
2.取り組みに行き着くまでのプロセスの紹介
3.(サブテーマとして)ソーシャルマーケティングについて

1について言うと、現在社内では「CSR」という言葉を使わない形で進めているため、このキーワード自体を説明することは難しい。ただ、世間的にCSRと呼ばれている概念にそって、社内の考え方を整理して伝えることはできるかもしれない。
あえていうなら、講義全体の流れで説明されているCSRの概念にそっても良いのだ。

そのあたりはテーマ自体があいまいではあるので、いかようにも話すことはできるだろう。

2については少し難しい。何と言っても「行き着いて」いないからだ。今出来ているのは、CSRの考え方にそって社内の活動を整理しようとするところまでで、しかも具体的にはその整理の枠組みがなんとか形になった段階だからだ。
(もっともレポートなどはすでに作成しているわけで、走りながら考えている側面はある。)

ただ、その枠組みに関しては、多少ユニークさを打ち出せるかもしれない。実は現在のレポートの枠組みともかなり違うものだからだ。今後はそういった方向に持っていきたい、という思惑はある。

3はもっとも難しい。大体この手のポリシーが明文化されて社内に存在していれば、レポート作成ももう少し楽なのだ。
ただ、具体的な内容として要望されている「商品の情報をどう消費者とコミュニケートしているか」「誤った使い方などに対するリスクコミュニケーション」については、ある程度なら話が出来るかもしれない。

商品の情報に関するコミュニケーションは、多くは商品そのもの(ラベルや中身)と店頭で行われている。CMなどの要素はあるが、当社の場合あまり直接的な商品PRは積極的ではないからだ。
また、リスクコミュニケーションに関していえば、そもそもそういったリスクを生じさせないのが大前提だが、顧客対応の形でアフターフォローをすることが、それにあたるだろう。

もちろんこれはこちらの解釈にすぎないので、先方が望んでいる内容と必ずしも一致しているとは限らない。ただ、いずれにしても「これでよいか」という形でこの先に話を進めていくには、原則として「引き受ける」という前提が必要になる。

あと問題は、自分自身のプレゼン能力かもしれない。さらに、当日は質疑に多くの時間を割くということなので、そのあたりの対応が取れるかどうか・・・。

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2007年4月 5日 (木)

CSRレポートに記載する「ポリシー」

CSRレポートに「掲載したくない」情報というのがあるとする。
どうしても掲載したくないのであれば、それはそれでやむを得ないとも思うが、問題はその理由だ。

昨日少しチームで話したのは、「そもそもあまりやりたくない、お付き合いでの活動だったから」取り上げたくない、という理由を受け入れるべきか、というものだ。部署としてあまりおおっぴらにしたくない気持ちは分かるが、結果としての活動がある時に、「実はやりたくなかった」というのは、報告書掲載以前に意思決定としてどうなのか、という話になる。

それに厳密にいえば、お付き合いの活動であっても、「依頼があっての活動」には違いない。実は報告書上では動機はあまり関係ないのだ。これは、例えば寄付の理由が税金対策であっても、寄付という行為には違いがないからである。

むろん、行動自体に裏(隠れて脱税とか)があってはいけないが、動機は何であれ、寄付は寄付として評価されるべきだろう。そうでなければ、寄付した側だけでなく、寄付された側も貶めることになってしまうからである。

そのように考えると、CSRレポートに掲載する「ポリシー」というのは、実は企業の活動における「動機」を示すためではなく、「決意」を示すものなのかもしれない。動機は「こうしたい」気持ちだが、決意は「こうしていく」行動表明である。「こうしていく」ことに、理由は関係ない。もちろん、動機はあっても良いが、それは別に表明する必要がない。

結局、今回の取り組み事例については、「実はやりたくなかったから」という動機にもとづく理由ではなく、「以降継続していく気がないから」という決意にもとづく理由で掲載を見合わせるということにした方が良いということで落ち着いた。

掲載したくない理由はさまざまだ。ただ、活動の実態としてはあるのに掲載しない場合には、それ相応の理由がなければ、その活動は企業活動としてやましいということになってしまう可能性もある。

扱いが難しいのは「内々の話で、ことさらに言うようなことではない」といった話だ。控えめな日本人の気質にもあうので、心情的に納得してしまいやすい。

が、企業のリソースを使って行っていることであれば、その活動にはすべからく説明責任がつきまとう。公開企業であればなおさらだ。そう考えると「ことさら明かすようなことではない」というのは「隠している」と受け取られてしまう可能性もある。

これは、肝に命じておいた方が良いのかもしれない。企業の活動は、個人の活動とは違うのだ。個人の気持ちの延長や、美意識にもとづく判断が、実は企業を窮地に追い込むなんてことがあるかもしれないのだ。

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2007年4月 4日 (水)

人間この弱き者

上司の勧めがあって、山本七平氏の「日本はなぜ敗れるのか-敗因21ヵ条」(角川oneテーマ21)を読んでいる。トヨタの奥田氏が幹部に「ぜひ読むように」と勧めたという本だ。
小松真一氏の「虜人日記」をベースに、日本が太平洋戦争に何故敗れたのか、日本人はどんな民族かを論じている。

なんというかハードな本で、何度か読み返さないとコメントするのが難しい。読んだままにその通りだと首肯しても、いやそうではないと反論しても、山本氏の批判する日本人像の典型になってしまうのような気がして落ち着かないのだ。普段こういった本を読み直すことはないのだが、一度整理して考え直すだけの価値はあると思う。

それはさておき、今日読んでいた箇所で考えさせられるフレーズがあった。第九章「生物としての人間」にあるこんな一節だ。

「あらゆる生物が、環境の激変で死滅するように、人間という生物も、ちょっとした変化であるいは死に、あるいは狂いだし、飢えれば「ともぐい」をはじめる。そして、「人間この弱き者」を常に自覚し、自らをその環境に落とさないため不断の努力をしつづける者だけが、人間として存在しうるのである。」

これはとても深い話のように思う。安直にそうだと認める程度にしか、自分も深く考えていないのだが、もし今の日本におけて、食に対する考え方に問題があるとすれば、この視点が欠けていることではないか。それも日本という規模ではなく、全世界という規模での視点だ。

今の我々は「強き者」の視点で食を語っていないだろうか。食の安全安心という言葉、こだわりという言葉、品質という言葉は、「弱き者」の考えだろうか、「強き者」の考えだろうか。

まとまらないのだが、メモとして残しておくことにする。

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2007年3月23日 (金)

正社員とパートの立場を入れ替える

先週のR25(No.134)の石田衣良さんのコラム「空は、今日も、青いか?」で、「ユニクロの勇気」と題して、ユニクロが進めようとしているパートや契約社員の正社員への切り替えが称賛されていました。

実は、石田さんと違って、個人的にはこの「パート社員の正社員化」という流れには危惧を抱いています。パートを正社員化するということは、正社員とパートという立場の格差は解消されないということだからです。

ユニクロの計画では、切り替えられるのは20,000人の内の5,000人。残りの15,000人はパートのままということであり、その立場にかわりはないということになります。
厳しいかもしれませんが、20,000人のパートの立場を向上させるよりも、5,000人を選んで正社員化した方がコスト的に安上がりだった・・・という見方もできるかもしれません。

ただ、それでも何もやらないよりはましであり、アクションをとっただけユニクロは称賛されるべきでしょう。ただ、これにより社会全体がこの流れに追随することになった場合、本当にそれでよいのか、という危惧があるのです。

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2007年3月20日 (火)

企業の社会貢献のありかた

少し間をおいてしまったが、先週金曜日のメモから。

・「本業を通じた社会貢献」と「本業のための社会貢献」
本業を通じた社会貢献は外部目的(社会の課題解決)のため、本業のための社会貢献は内部目的(会社の課題解決)のため、それでも結果はどちらも社会貢献。

CSRの分野で、企業の社会貢献として最近よく言われているのが、「本業を通じた社会貢献」なのだが、個人的にこれはどうも座りが悪いように感じている。本業を通じた社会貢献というのは、結局本業のことではないのか、という気がするからだ。

もちろん、本来の意味はそうなのだが、それをことさらに強調することがおかしいように感じている。

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2007年3月16日 (金)

CSRにおける「ステークホルダーの意思決定」

朝にブログを書かないって、一体この時間、何をすればよいのか・・・(笑)

昨日の夜に引き続き、昨日のセミナーで感じたことをとりあえず挙げておこう。
(ほぼ日手帳に書いたメモの整理ということになるか・・・こういった作業をブログに位置づけるのであれば、それはそれでよいかもしれない。たまたまネタがあるだけと言ってしまえばそれまでだが。)

・CSRにおける「ステークホルダーの意思決定」とはどういったものか。
CSRレポートはステークホルダーの意思決定を支援するための「情報」という位置づけで議論がされていたのだが、ではその「意思決定」とはどういったものか、ということが気になった。企業にとって「心の中でこう評価した」という思考領域ではなく「その評価の結果このように行動した」というアクションに結びつかなければ意味がない。
しかし、現状この「意思決定」がどんなアクションなのか、という議論はないような気がする。

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2007年3月15日 (木)

ステークホルダーエンゲージメントとは何か

今日はセミナーだった。

終了時間17時過ぎ。仕事をとって会社に戻るか、生活をとって直帰するかは少々迷う時間である。以前の自分であったら迷わず直帰だったのだが、最近の仕事の状況はなかなかそうも言っていられないのが苦しい。

・・・結局直帰を選んだが(笑)

だが、本来はこういった「仕事か生活か」みたいな選択は不幸なことではないかとも思う。生活の一部が仕事であり、仕事の一部が生活だ、と言えればどんなに幸せだろう。もっとも、そんな中でも結局、場面場面での選択はあるのだが・・・。

せっかくなので、セミナーで考えたことなどを書いておく。「生活を優先」していても、その中でもこうした整理をすることで混在させていくことが、両者を近づける第一歩だろう。

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2007年2月20日 (火)

品質が同じ場合、なぜ安い方を買うのか

なぜ我々は、品質が同じ場合に安い方を買うのだろうか。

もしそのモノやサービスの価値の評価として対価を払っていると考えた場合、安い方を選ぶというのはその価値評価を自ら下げてしまっていることにならないだろうか。

「いやいや、安いことも品質だよ」という考え方もあるかもしれない。しかし、そのモノやサービスが提供している本質的な価値への評価というのは、本来価格とは無関係なはずだ。

一方で、価格が高いのは「ぼられている」からかもしれない、という考え方もある。しかし、実はそれもモノやサービスへの評価には関係がない。大切なのは「満足できるか」であって、「価格が正当か」ではないはずだ。

「良いモノなら高くても買う」という意見もあるだろうが、この場合モノは同じだから、「(相対的に)良いモノ」という考え方は意味がない。あくまでも、同じモノに対して価格が違ったときに、なぜ我々は「安い方に満足してしまうのか」ということなのだ。

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2007年2月16日 (金)

そのサービスの対価は・・・

先週の土曜日(10日)だったと思うのだが、WBSで郵政公社と宅急便会社の比較が行われていた。お届け時間や料金などを比較しながら、消費者のコメントなどが紹介されていたのだが・・・。

ふと思った。それは本当に「サービス」なのだろうか。「早く届くこと」「安いこと」はサービスが良いということなのだろうか。

むろん利便性は向上していることになるし、安い方が得した気分になる。利用する側の視点からだけで見れば、「サービス」と呼んでも良いかもしれない。

しかし、その裏には何らかの無理がある、という発想がもう少しあっても良いのではないか。

翌日届くと言うことは、夜間運ばれているということになる。つまり「誰かが」運んでいるということだ。その「誰か」に対して、自分が払った対価が適切である、自分が払ってもらう立場だったら納得できる対価である、と胸を張って言えるだろうか。

もし言えないとしたら、それは「サービスを受けている」のではなく「サービスの提供者を搾取している」と言えないだろうか。

自分たちはサービスの享受に対して、あまりに無頓着なのではないか・・・無邪気に比較して「こちらの方が便利ですよね」とあっさりという消費者に対して、そんな感想を抱いてしまった。

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2007年1月11日 (木)

過労死は自己管理の問題です

週刊東洋経済1/13号の特集「雇用破壊 もう安住の職場はどこにもない」に、使用者側の意見としてザ・アール社長の奥谷禮子氏の話が紹介されていた。

表題は「なんでも“お上頼り”が間違い 過労死は自己管理の問題です」
遺族を前にしたら言えそうにない、なかなか過激な発言である。

個人的には、確かに過労死は自己管理の問題という側面があると思う。ただし、奥谷氏とはまるで受け取り方が違う。本来自己管理できるはずの労働時間を、自己管理できていない現実があるから過労死が発生する訳で、実は自己管理の問題であるからこそ、それができないような組織風土・集団心理に「乗っかっている」使用者の責任はより重いはずなのだ。

ようするに使用者(管理者)の組織管理の問題がすっぽり抜け落ちた意見になっているのである。全部自己管理の問題で済ませて組織管理が必要ないなら、管理者や使用者にそのための高いサラリーを払う必要はないわけで、そういう給与体系にすればよいのだ。

それにこんな発言がある。「だいたい経営者は、過労死するまで働けなんて言いませんからね。」

なんというか、幼稚すぎる発言で笑ってしまうのだが、労働者だって過労死するまで働こうなんて思っていないのだ。この人の発言には、現実の問題を見据えてどう対処していこうか、という方向性がまったく見えてこない。
(もっとも、ブログのような本人の文章ではないので、記事の編集の問題である可能性はある。)

それにしても気になるのは、ザ・アールという会社の実態だ。「うちの会社はやっています。」と言っているのだが、実態はどうなのだろう。しかもこの会社は人材派遣業なので、自社の正社員だけでなく、派遣スタッフの派遣先でも「やっている」と言えなければ、この場合意味がないということを、この人は認識しているのだろうか。

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2006年12月12日 (火)

ローカルな問題

昨日は「食の安全・安心ブランド調査2007発表記念セミナー」に行ってきた。
講演のテーマは食品添加物で、最近の危険性を煽るばかりの風潮に疑問を呈する趣旨の内容だったのだが・・・。

細かい内容はともかくとして、気になったのは「食品添加物の問題は本当に社会的な問題なのだろうか」ということだ。社会的な問題というのがあいまいならサステナブルな話題といえるのか、ということでも良い。

食品添加物が騒がれる根本的な理由は、添加物に関する正しい知識が伝わっておらず、きちんとした理解がされていないためだ。それは、分かる話だが、では理解してもらって何が変わるのだろうか。

「添加物」では範囲が広すぎるので、保存料に焦点をあてよう。食品を長持ちさせるための保存料は、あまりイメージが良くないため、最近は「保存料無添加」ということをうたう商品も増えている。一方で、日持ちがしないために賞味期限切れで廃棄されたり、保存料を使う商品よりも菌が繁殖しやすいため、食中毒のリスクが高まっているという。

では、これは食品添加物の問題だろうか。

廃棄される食品の問題というのは、きわめて大きな問題だろう。世界の3人に1人は飢餓に苦しみ、3人に1人はその日食べるのがやっとで、残りの1人は食べて太らないかと悩んでいるという。この問題は(この問題こそ)きちんと取り上げられるべきで、食品添加物に関連してちょっと話題にすればよいというものではない。

遺伝子組み換え(最近言われ始めた環境影響ではなく、あくまでも食の安全に関連した議論)も同様なのだが、添加物の安全性というのは食の問題としてはあまりにローカルで「富める者」の話題という感じなのだ。

ただ、一方でドメスティックなビジネスを営む食品企業としては、そのローカルな話題こそ最大の死活問題でもある。そういった点をどうクリアしていくかというのは難しい問題なのだが・・・。

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2006年11月22日 (水)

CSR日記の再開

カテゴリの見直しにともない、統合を考えていたCSR日記だが、やはりそのまま続けることにした。
ブログとしてというよりは、どちらかというと社内向けの情報提供としての継続だ。ブログに掲載するのはオマケといえばオマケである。

ただ、少し内容については若干スタンスを変更する。これまでは社内の情報もちりばめて書いていたのだが、基本的には社外の情報だけを書いていくことにする。そういった意味では、ブログとしては内情暴露型ではなく、単なる情報型になる。

これは準備を進めているオフィシャルなブログと関連してのことだ。下手に個人ブログで内情暴露型のエントリをしていたら、自分の性格として連動した「裏話」を掲載してしまいかねない。そこはきっちり切り分ける必要がある。(もっともそれはこちらのブログでも同じなのだが・・・。)

もっとも、社外の情報を提供するタイプのブログの方が書くのは難しい。内情暴露型はようするに「普段の自分の仕事」を書けばよいのだが、何らかの情報を提供すると考えた場合は、そのための調査や整理がどうしても必要になってしまうからだ。正直、そんな時間を割いてしまっても良いのか、という疑問も残る。

そういった意味では更新頻度は落ちるかもしれない。

それにしても、リリースなどのオフィシャルな情報発信に、半裏話としてのオフィシャルなブログ、さらに裏話としての個人のブログなんて階層構造が今後は出てくるのだろうか。オフィシャルなブログを書きながら、その裏話を別のブログで書いているケースなんてあるのかなぁ。

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2006年11月16日 (木)

アンケートの印刷

オーケストラの定期演奏会で配るアンケートの印刷をしなければならない。
当然、安い方が良いのでそういった印刷会社を探す・・・探すのだが、そこでふと自分の仕事を思い出す。

サステナビリティという視点、CSRという視点で考えたとき、本当にその激安の印刷会社にお願いして良いのか、という疑問だ。もちろん実態は調べなければ分からないが、他に比べて激安ということは、その企業の努力だけではなく、なんらかの負荷を自然を含んだ周囲に転嫁している可能性がある。

自分がそこにお願いするということは、その負荷に荷担することになる。

いやいや、しかしオーケストラの財政事情も苦しい中で、そんなことを言ってられるか、という話もある。そもそも普通の値段でコピーしたって、負荷をかけていない保証は全くないのだ。
(乱暴な話だが、許されるなら環境配慮が目に見える自分の会社に金を払って印刷するのが一番負荷が低い気がする・・・。)

この際、担当である自分の考えだけでなく、オーケストラという組織の方針としてこういった配慮がうたわれていると何も悩むことなくそのようにして、お金の心配は別にすることになるだろう。ということは同様に、こういった方針が明確に掲げられていない企業で、そういった姿勢を担当者が貫くことは難しいということだ。

さてさてどうするか・・・。個人の範疇で良いなら、自分のポケットマネーを足すという選択肢もあるのだが、それはそれで会計上に不透明な処理が生まれることになる。それはそれでよろしくない。

今回は(時間がないので)とりあえず激安で行くとして、改めてオーケストラの方に相談をしてみるのが良いのかもしれない。正直、こんなことで頭を悩ませる時間があったら練習をして欲しいところではあるのだが・・・。

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2006年9月22日 (金)

信頼の定義

最近、というと語弊があるが、今日はブログのネタに悩む。
ないわけではないのだが、内容的にCSR日記のような気がしなくもない。2本以上のブログを並行して書いている人は、どうやって書き分けているのだろうかと思ってしまうのだが、結局普段の関心の幅がそう広いわけではないので、どうしてもかぶりがちなのだ。気にせず両方に書けばよいのだけどね。

まだ読み始めたばかりなのだが、「安心社会から信頼社会へ」(山岸俊男/中公新書)という本を読み始めた。日本型社会と信頼社会のあり方についての考察な(のだと思う)のだが、これがなかなか考えさせられる。

とりあえず読み終えたのはまだ一章だけで、信頼の定義についての話なのだが、この信頼は大きく二つの要素に分けることができる。「能力に対する信頼」と「意図に対する信頼」だ。

能力に対する信頼・・・それをやる能力があるか
意図に対する信頼・・・それをやる気があるか

あまり考えたことはなかったのだが、確かに両者は大きく異なる。両者を併せ持って初めて「信頼」に値すると言うのは簡単だが、信頼「される」ことを考える側にとって、相手が求めていること、自分が果たさなければならないことがどちらであるのかは明確に意識する必要があるからだ。

さらに、意図についても大きく二つに分けている。筆者は「安心」と表現しているのだが、「だれでもそうする(しない)」と考え方と、本来の意味としての信頼「あの人はそうする(しない)」という考え方だ。

おおざっぱな捉え方で自分も理解できているか怪しいのだが、前者は「普通ならそうする(そうしない)」という感覚のことだ。この「普通なら」というのがくせ者で、筆者はそういった感覚は社会的不確実性が少ない「安心社会」によるものと捉えている。そしてこれは本質的には「信頼社会」とは異なるとしているのだ。

もう少し読み進めてみないと分からないのだが、これが何らかのデータで裏付けされるのであれば、CSRのような活動の方向性に大きなインパクトを与える可能性があるだろう。

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2006年9月19日 (火)

市民団体は誰のものか?

先週末に参加したシンポジウムで、21世紀は市民の時代、という話があり、なんというか微妙な疑問を感じた。
「愛・地球博閉幕一周年記念東京シンポジウム」というのだが、その中で市民参加をテーマにしたセッションでの話だ。

19世紀は国家の時代
20世紀は企業の時代
21世紀は市民の時代

CSR日記のネタに近いのだが、あちらは基本的に社内向けで、あまりこういった話はなじまないのでこちらで考察してみる。

疑問というのは「市民団体は誰のものか」というものだ。これは「会社は誰のものか」と比較してみるとわかりやすいかもしれない。

会社は誰のものか。日本ではよく「従業員のもの」「社会のもの」ということが言われている。従業員とはその組織の構成員のことだ。ということは、市民団体が「構成員」のものだとしたら、日本社会においては、企業と市民団体にはほとんど違いがないことになる。

「会社は株主のもの」であれば、両者の違いは明確なのだ。
(余談だが、この「株主のもの」というのは、資本主義の捉え方としては本来の意味からかけ離れてしまう気がする。本当は「資本家のもの」と捉えるのが正しいのではないだろうか。)

日本で「市民団体」というのが欧米ほど盛んではないのは、実は「企業」の捉え方が市民団体に近いからではないだろうか。逆に欧米でパワーのある市民団体が生まれるのは、企業が資本家のものであり、それに対するカウンターパートとして「市民のもの」である組織が必要だからだろう。

さて、しかし、そこで改めて考えてみると「構成員のもの」という市民団体のあり方は、国家や企業に変わる新しいものだろうか、という疑問が生まれてしまうのだ。これは組織としてはきわめて初期的・原始的なあり方ではないだろうか。

むしろ、もともと「構成員のもの」だった組織が、大きくなるにつれて「国家」や「企業」といったガバナンスを手にしていったのではないかとも思えてしまう。

だとすれば、市民の時代とはどういった時代なのだろう。
断っておくが、自分は市民の時代という考え方を否定するつもりはない。ただ、単なる流行ではなく時代を定義するほどのものであるためには、もっと厳密な特徴の捉えが必要ではないかと思ったのだ。

市民団体を特徴づける、国家や企業との違いははたしてなんだろうか。

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2006年3月 7日 (火)

企業の社会貢献と個人の社会貢献

CSRを考えるときに一つ重要なのが「社会貢献」というキーワードなのだが、そこでいつも考えてしまうのが「企業の社会貢献というのは事業