2014年8月22日 (金)

長時間労働が奪う社会のリソース

昨日はCSRの勉強会だったのだが、終了後の懇親会でこんな事を考えてしまった。

ブラック企業というのは、企業と従業員との関係で測ろうとする限り、なくなりようがないという事が今日は良く分かった。企業による従業員の搾取ではなく、企業と社会とのリソースの奪い合いという文脈で語る必要があるのだ。
送信 8月21日 23:11 From Hootsuite

つまりCSR側面で労働時間を語る場合は、従業員への負荷という視点ではなく、本来投入されるべきだった社会へのリソースがどれだけ奪われたかという視点で捉える必要があるのかもしれない。
送信 8月21日 23:14 From Hootsuite

そうでなければ「本人は満足(納得)している」という論理を突破出来ない。ワークライフバランスとも違う。公私における公(公とは社会への奉仕であって対価を得る私的労働の話ではない)を果たす為の時間を企業は奪っているという考え方があって始めて私的活動を制限する事が出来る。
送信 8月21日 23:20 From Hootsuite

いやメンバーにワーカホリックな感じの方がいたからということもあるのだが、例えば次のような制度を考えたらどうなるだろうか。

・残業は無給とする
・企業は残業代相当及びその時間に生産されたものから得られた利益を税金として納める

多くの人はなんだそれ冗談じゃないと思うのではないだろうか。

だが、上記の金額がつまり、投入されるべきリソースが得られなかったことによる社会の損失なのだ。(理屈上は。)

公私で対比される場合の「私」というのは、私生活の「私」ではなく、「私的経済活動」の「私」であり、対価を得る活動はつまり「私」の領域の話だ。長時間労働というのは、その「私」が「公」を食い尽くす行為だと考えれば、公私のバランスが取れておらず、いわば公私を区別せずに私ばかりを行い、他者の公にぶら下がる身勝手な行為と捉えることができる。

もっともこれは極端な見方で、実際には多くの企業は公的な機能も担っているので、全てが私的活動とばかりは言えない。社会のシステムが高度に複雑化する中で、公私の役割分担が行われているのが現代社会だから、必ずしも全ての市民が公私双方を活動的に担う必要はない(金銭的に担う仕組みが税金)というのも、一つの考え方だろう。

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2014年6月27日 (金)

持続可能な開発の捉え方

昨日こんなRetweetをした。

これ逆にしたらどんな印象でしょうね。「現在世代のニーズを損なうことなく、将来の世代のニーズを満たすこと」 RT @: 「将来世代のニーズを損なうことなく、現在の世代のニーズを満たすこと」
送信 6月26日 18:45 From Hootsuite

誰へのRetweetかは伏せたが、書かれているように、CSRというか、持続可能な開発の定義はこのように言われている。

「将来世代のニーズを損なうことなく、現在の世代のニーズを満たすこと」

昨日の思いつきはこれを逆にして、

「現在世代のニーズを損なうことなく、将来の世代のニーズを満たすこと」

としたものなのだが、思いつきにしては良い線をいっているのではないか。

従来の定義でひっかかるのは、どうしても抑制的であることだ。「将来世代のニーズを損なわない」は、現在世代のニーズを満たす上での制約条件として受け取れてしまう。

まぁ、そもそもの発想の原点がそうだと言えばその通りなのだが・・・。

これを逆にすると、将来世代のニーズを満たすことがポジティブな目的になる。逆に現在世代のニーズが制約要件となるわけだが、どういったニーズがあるか分からない将来世代のニーズを制約条件にするよりも、ずっと物事は考えやすいのではないか。

それにそもそもの目的意識が違う。従来の考え方は「現在世代のニーズを満たすこと」で、これは言われるまでもなく満たさなければ、例えば企業は存続出来ない。つまり当たり前の行動原理で、それに制約条件が加わる形になる。

対して逆にすると、「将来世代のニーズを満たすこと」という新たな目的が生まれ、一方で制約条件は、言われるまでもなくすでに存在しているものに過ぎない。

と、単純に考えればよりポジティブなアクションに繋がっていくと思うのだが、何故そのようにならなかったのだろう。単純に逆転させただけだから、思いつかなかったという事はないはずだ。世界トップクラスの頭脳が(きっと)何人も関わっていて、こんな事さえ思いつかなかったとは考えにくい。

だとすれば、何か想像出来ない穴があるということだろうか。あるいは日本語でしか考えたことがないのだが、原語では異なるとか・・・。

一つ考えられるのは「ニーズ」という言葉のニュアンスが組み合わせによって少しずつ変わってくるのではないかという事ぐらいだろうか。といっても言葉に出来るほど明確な差異ではないのだけれども。

「持続可能な開発」はどのように捉えれば良いのだろう。

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2014年6月19日 (木)

CSRとマテリアリティ

また齢を一つ重ねてしまった。

・・・てな話はさておき、昨日は月に一度のCSR勉強会。いくつかある話題の中で、マテリアリティの設定について、そういえばブランドが持つべき「とんがり」の話と似ているよな、などと考えてしまった。

もし同じようなものだと考えるのであれば、考えなければならないのは、その設定プロセス以上に、最終的に定められたものが「マテリアリティ足りているか」であるような気がする。

マテリアリティが、マテリアリティとして成り立つために重要な要素は何だろうか。何が重要かを定めるというのは、何が重要ではないかを定めることでもある。つまり「やらないこと」が明確になっている事ではないか。

ブランドのとんがりを作るのは「やること」ではなく「やらないこと」であると最近思う。それも「出来ないこと」ではなく、「出来るし、することに価値があるけれど、それでもあえてやらないこと」だ。それがブランドとしてのこだわり、個性につながっていく。

同じことをマテリアリティにあてはめようとした時に、しかし違和感が生じる。CSRの重点課題は基本的にすべて「やるべきこと」として定められており、マテリアリティを設定することで「やらないこと」にする事が不自然だからだ。「できるし、やるべきだけど、やらないこと」なんて、CSRの課題において設定可能なのだろうか。

しかし、それをやらないのであれば、ではマテリアリティとは何なのか、という話になる。「すべてやるべきことだが、その中でも特に力を入れること」なんていうのが、重要性を設定した事に値するのだろうか。それは「100のエネルギーをすべてに分配せよ」に上乗せして、「さらに20を重点分野に投入せよ」というもので、「100のエネルギーを軽重をつけて分配せよ」とはまったく異なる。

マテリアリティの設定について、悩みが生まれるのは結局そういうことではないか。つまり、そもそもそうした発想が馴染まない中で、無理やりウェイト付けをしてリソース分配をしようとしている、という点だ。

最初に書いたように、それは「出来ることからやりましょう」という話とはまったく次元が異なる。「全部は出来なくても出来る所からやりましょう」と「全部出来ても、やらない所を決めましょう」は異なるからだ。

もっとも「全部出来ないなら、もっともやるべき所からやりましょう」の意味であれば、成り立つかもしれない。全部は出来ないという前提の上で、でも出来る所をやれば良いというものではなく、もっともやらなければならない事をやれという事だ。それをマテリアリティと定義するのであれば、成り立つような気もするが、言葉のニュアンス的にはなんとなく馴染まないような気もする。

CSRにおけるマテリアリティって何なのだろうか。

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2014年5月15日 (木)

CSRの捉え方

今週はオケ関係で連投しようかと思っていたが、そういえばCSRに絡んで宿題があったのだった。まとめるのは後にして、ひとまず考えている事をツラツラと書き並べてみよう。

元担当者としては恐縮だが、個人的にはCSRという考え方に対しては懐疑的である。個人的傾向として、その事について理解を深めるにつれて、懐疑的になるという癖が自分にはあるのだが、というか、理解するにつれて疑問が消えて傾倒できるという事の方がよく分からない。

そんな話はさておき、CSRというのはそもそも定義からして微妙な要素がある。企業や組織(SRまで含めるのであれば)を擬人化して「良き人であれ」と考える要素が透けて見えるからだ。

組織に人格などない。傍から見てそう見えるのは、動物を擬人化するのと同様、見る側の都合である。人は機械が質問内容に関係なくランダムに受け答えるのを見てもそこに人格を感じとれるほどの想像力がある(自然に神の意思を感じたりするのも同じだ)ので、止むを得ないかもしれないが、組織というのは本来雑多な人の集合体だから、そこに「組織としての意思がある」と考えるのは無理がある。

いやでも理念とかビジョンは組織としての意思ではないかという意見もあるかもしれないが、これは本来組織の意思ではなく、そこに所属する人たちの在り方を示したものだ。組織の行動を決めているのは、組織の意思などではなく、そこに関わるステークホルダーの思惑と行動の結果だ。

CSRという概念には、それらを棚上げにして、組織に何か意思があるかのように錯覚させてしまう功罪(というか罪?)がある。何故それが罪かといえば、そうして企業や組織の責任が注目されるほど、本来それらを決めているステークホルダーの責任が意識されなくなるからだ。悪いのは企業であり、問題があるのは自分たちではない。企業は良き人として我々に配慮するべきだ。それはつまり、ケネディの演説にあるように「国が自分に何をしてくれるかではなく、自分が国に何をするか」という視点が失われてしまうことにつながる。

利害関係者と訳されるように、企業や組織に関わるステークホルダーというのは、どこかしら衝突する利害関係にある。むろんそれぞれが努力することによって、すべてにwinの関係を作り上げることができるかもしれないが、それを自らの努力ではなく、丸投げするのがCSRの考え方だ。

いやこれは言い過ぎかもしれない。以前書いたように、そうしない事が本来のCSRのあるべき姿かもしれないからだ。株主、労働者、サプライヤー、消費者に次ぐステークホルダーの組織ガバナンスの関与への挑戦と捉えるのであれば、それはとても刺激的な考え方ではある。

そうした捉え方をするのであれば、良いCSRとはすなわち、それぞれのステークホルダーに、組織の意思決定に対する関与の自由と責任がある状態を指す事と考える。その結果の倫理的な良し悪しは、彼らの(自分も含めた)意思によって生じた結果であり、その事に対する責任が負えてこそ、その企業においてCSRが成り立っていると言えるだろう。

企業に責任を丸投げするCSRの捉え方とは真逆の考え方ではあるが。

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2014年3月27日 (木)

従業員に優しい会社

月曜火曜と風邪で寝込んだため、2日間の予定がキャンセルになった。こういうのは結構大きい。計画性がないというか、ギリギリで動いている事が多いからだ。追い込まれなければやらないというよりも、順番にこなしていくとこうなるという感じで、全体が後ろ倒しになってしまっている。

まぁそんなことはブログにいくら綴っても改善される訳ではない。どこかでリセットするなり、仕事のやり方を変えない限りは、いつまでも悪循環は続くだろう。

さて、寝込んでしまう前にこんなTweetをした。

ふと気がついたのだが「従業員に優しい会社」というのは、それが会社や経営者の温情であったら意味がなく、きちんと労働者の権利主張の結果そうなっているのでなければ、CSRとしてしっかりしているとは言い難いのではないだろうか。
送信 3月23日 16:27 From HootSuite

従業員に限らず、相手が株主であれ消費者であれ社会であれ、彼らへの優しさや配慮というものが「企業側の意図」であるのであれば、そのことにステークホルダーは危機感を覚えるべきだ。少なくとも、そうするのが当然のような甘えは排除し、どうやったらその関係が続くか、続けるためにはステークホルダーとして何をすべきかということを考えていく必要がある。

それは賞賛という形で名誉を与えることかもしれないし、もっと直接的な利益をもたらすことかもしれないが、いずれにせよ、そうすることが互いにとって、もっと広くは社会全体にとって良いことだという事を示すことができなければ、そうした関係は長続きしない。もちろん、逆にリスクとして示すやり方もある。

元々企業というのは資本家でもある経営者だけで成り立っていた。企業と呼ぶにはやや未成熟な状態だが、商人や職人というのは元々そういうものだろう。

そこから資本家が独立した。独立することで、ステークホルダーとしての関係が生まれた。

続いて労働者が独立した。利害関係者として、企業の意思決定に影響を及ぼすようになったというのは、そういうことだ。

そしてステークホルダーとしての消費者が登場した。それはつまり単に購買する者ではなく、企業の活動や意思決定に対して影響を及ぼす存在になったということだ。

次のステークホルダーは誰だろうか。例えば取引先、特に顧客ではない側の取引先は、まだ意思決定に影響を及ぼすほどの関係になっていないといえるだろう。消費者ではない社会や環境といった存在も、まだ影響力は弱い。

そんな現状にあるのだろうと思ったのだった。大切なのは、どのような配慮をされているかではなく、どのような影響力を持っているかであって、配慮というのはその結果でしかないのだ。

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2014年2月20日 (木)

CSRの終焉

昨日はCSRに関する勉強会に参加したのだが、その直前に呟いた事をまとめておく。

今日は某所でCSR勉強会に参加するので、道行きで少し頭の中をその方向に持っていく。少し気になっているのは、先日少し書いた「CSRは終わったのか」という話。そうであればそもそもCSRというのは何だったのだろう。
送信 2月19日 18:19 From HootSuite

「CSRはガバナンス」と言ったのは以前のボス。解釈するに企業としての意思決定のあり方はどうあるべきかというのがCSRの本質ということになるだろうか。その意思決定の内容そのものではなく、どのように意思決定をするかというプロセスの問題という事かもしれない。
送信 2月19日 18:24 From HootSuite

この捉え方には個人的に納得していて、ようするに株主(資本家)、経営者、労働者によってなされていた企業の意思決定プロセスに新たなステークホルダーが加わる過程というか、挑戦がCSRなのだろうと自分としては捉えている。
送信 2月19日 18:27 From HootSuite

その動きは欧米においてはそれらしい萌芽があって、その最たる例がNPOやNGOといった市民団体だろう。彼らは「社会」の代弁者として企業の意思決定にアプローチした。その手段がCSRという事になる。そういう意味ではCSRは目的ではなく手段という事になるかもしれない。
送信 2月19日 18:31 From HootSuite

CSRを企業のガバナンスを変える手段と考えた場合、その意思決定の結果以上に、プロセスがどうなったかというのが、CSRの成果という事になる。社会を良くする意思決定がされたか、ではなく、そのガバナンスプロセスに市民は介在できたか、ということだ。
送信 2月19日 18:37 From HootSuite

そこで重要になるのは「市民の意思が反映されたか」ではない。「責任ある判断主体として関わっていたか」だ。そして、責任ある判断とは、何らかの行動責任やリスクを負うという事でもある。
送信 2月19日 18:39 From HootSuite

そう考えた場合、そうした関わりを持てた例はどれ程あるだろう。一時盛んに行われたステークホルダーダイアログにおいてそうした意思決定プロセスへの関与があった例は?それが「ご意見うかがいました」ではない事は言うまでもない。
送信 2月19日 18:46 From HootSuite

となると、挑戦としてのCSRはやはり終わったと言えるのかもしれない。もっとも日本においてはそのように捉えられていたかどうかも微妙で、それが始まってもいなかったと自分が考える根拠ではある。
送信 2月19日 18:48 From HootSuite

大雑把にいえば、CSRは企業の意思決定プロセスへの新たな判断主体の取り込みであると考えているという事なのだが、正直なところその「第四の主体」の企業経営における役割は不明確だ。思うにCSRが失敗した(と言ってしまうが)のは、その部分を突き詰められなかった事にあるような気がする。アカデミックにおいても、現実においても。

その原因の一つが「社会的価値」とか「倫理的経営」のような「綺麗な言葉」で語ろうとしたことだろう。それらは従来の主体にも求められることであって、第四の主体の「役割」ではあり得ない。それを役割であるかのように語り、それをもって企業経営に介在しようとしたことが混乱を招いたような感じはある。

もっとも、突き詰めてもそれぐらいしか出てこなかったのであれば、やはり第四の主体など必要なかったという結論に落ち着くのかもしれない。実際のところ、新たにもてはやされているCSVはその第四の主体の存在を否定する形で成り立っている。従来の主体のみで企業は社会的価値を生み出していける・・・というのが、その考えの本質のように思えるからだ。

まぁガバナンス変革としてのCSRは終わってしまったとしても、そこで求められていた「市民の意思の反映」自体は、結果としては残る。であればことさらに失敗などということはなく、それはそれとして評価して、一旦役割は終えたと捉えてしまっても良いのかもしれない。

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2014年1月16日 (木)

CSRにおける統合報告の役割

昨日は久しぶりにCSRに関する勉強会に参加し、大体いつものように帰り道にTweetをしたのだが、やや眠かったのとあまり時間がなかったので、中途半端な感じで終わってしまった。

さて、帰るまでの時間で今日(主に飲み会で)口走ったと思われる発言を振り返っておく事にする。
送信 1月15日 23:41 From HootSuite

CSRレポートは企業が作成して社会に問うものではなく、社会が作成して企業に問うものではないか、という話。それが何であれレポートの目的というのが読み手にアクションを起こさせるためのものであれば、企業がアクションを起こすためのレポートを企業自身が書いても仕方が無い。
送信 1月15日 23:44 From HootSuite

統合報告はCSRが本来持つべきだった機能を損なう流れという話。企業の活動や意思決定に影響を及ぼすステークホルダーとして明確なのは株主。その他及ぼしうるのが労働者、消費者。第四のステークホルダーとして名乗りを上げたのが社会、もしくは市民と考え、そのアプローチがCSRだとする。
送信 1月15日 23:48 From HootSuite

その場合、統合報告というのは、結局株主の力に頼るという事に他ならない。市民としては、影響力を及ぼす機会を失ったという事になる。
送信 1月15日 23:50 From HootSuite

例えば異なるアプローチとしては、株主投資家に「市民としての」行動原理を埋め込むという方法もある。その場合、企業として直接的なステークホルダーとしての市民はある程度考えなくて良い。
送信 1月15日 23:55 From HootSuite

昨日の段階では以上だが、多少付け加えるなら、市民を投資家として育成することができれば(市民というのは労働者であり消費者であると同様に投資家にもなりうる)、第4勢力的な事は考えなくても、市民としての意思を企業の意思決定に及ぼすことができるようになるということだ。

これらはCSRをガバナンス的に捉えて、組織の意思決定への影響力という視点から考えたものだが、当然ながらこうした考え方は大組織にしか適用されない。大小というよりも、組織としての意思決定が個人に帰属している組織においては、捉え方が異なってくるだろう。そうした組織におけるCSRはまた別の視点で捉える必要があるかもしれない。

少なくとも株主というステークホルダーを持つ組織と持たない組織とでは、その行動の原理原則は大きく異なるだろう。CSRという概念は本来、企業ではなく株主(個人ではなく仕組みとしての株主)に対するカウンターパートとして登場したように自分には感じられる。

ただ、そのように考えるのであれば、統合報告のように株主への直接的アプローチを行うようになるというのは、それはそれで成功であり一つのゴールと捉えることもできる。だったらまぁそれはそれで良いのかな・・・。

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2013年5月29日 (水)

営利組織が得る利益

営利組織あるいは非営利組織という言葉を耳にした時に、どのような組織と捉えるか。

昨日、このようなTweetをした。

組織はすべからく、何らかの形で資金を調達した上で、消費者(あるいはもう少し曖昧に社会)にサービスを提供する役割を持っていると考える。企業であれ、NPOであれ、行政機関であれ、これを大原則にする。違いはそれぞれの資金提供者と消費者との関係だ。
2013年5月28日 12:14:22 HootSuiteから

行政機関は、資金提供者(納税者)と消費者(サービスの受益者)が、理念として一致している。再分配はその中の一部の機能にすぎない。もっとも、一致していてもそれは資金とサービスが等価で交換される「対価モデル」ではなく、いわば循環モデルのようなものになるだろうか。
2013年5月28日 12:18:58 HootSuiteから

対してNPOと企業は資金提供者と消費者が一致しない。NPOを支える寄付モデルは、資金提供者(寄付者)から消費者(受益者)までが基本的には一方通行となる。広く(そして長く)は社会全体の発展などを通じて資金提供者にもリターンが戻ってくる循環型モデルといえる。
2013年5月28日 12:24:21 HootSuiteから

一方企業の場合は、資金提供者(出資者)と消費者双方に対して対価モデルが成立する。消費者に対してはサービスと対価の交換が行われ、出資者に対しては、資金提供へのリターンとして利益が提供される。重要なポイントは、利益を得るのは出資者であって企業ではないという点だ。
2013年5月28日 12:30:21 HootSuiteから

そして厳密にいうのであれば、出資者が得ているのも利益ではない。彼らの役割は、その余剰金を新たな組織に提供し、新たなサービスを生み出していく事だからだ。
2013年5月28日 12:32:25 HootSuiteから

少し前にはこのようなTweetも。

企業が非営利組織で、NPOが非営利組織という時の「営利(利益)」というのは、その組織に対して向けられるものではなく、組織の出資者(企業なら株主、NPOなら寄付者)に対して向けられるものなんだよなぁ。
2013年5月27日 22:42:49 HootSuiteから

「企業が非営利組織で・・・」というのは「企業が営利組織で・・・」の間違いなのだが、それはさておき、「営利組織としての企業」という場合、多くの人は「モノやサービスを提供して(対価として)利益を得る組織」と考えているのではないだろうか。

多分、その部分が大きなボタンの掛け違いなのだろう。「非営利組織は対価を得てはいけない」みたいな捉え方はそうした掛け違いから生まれている気がする。

営利組織というのは「利益を得る組織」ではなく「(その組織への出資により)利益を得られる組織」と捉える必要があるのだ。そのように考えると、営利組織である企業への投資と、非営利組織であるNPOへの寄付との違いが明確になる。そこで利益を得る、あるいは利益を得ないのは、投資家であり寄付者であって、組織そのものではない。

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2013年3月15日 (金)

ブータン 知られざるもう一つの顔

昨日は久しぶりにアカデミーヒルズのセミナーに行ってきた。コンサートもそうだが、こうした機会は定期的かつ意識的に持つようにしないと、気がついたらずいぶん前回から間が空いている・・・ということがある。そういえばコンサート(注:プロの)は久しく行ってないな。

昨日のセミナーはGNH(国民総幸福量)で知られるブータンの話。それも「もう一つの顔」ということで、難民問題に焦点をあて、そもそもGNHがどのような国家戦略なのかを解き明かすという内容。知っているようで知らないブータンについて考える、なかなか刺激的な内容だった。

ブータンは1907年に王国として成立。説明するまでもないことだが、人口13億の中国と人口12億のインドという大国に挟まれた、人口70万人の小国だ。位置的にはネパールと似たような感じだが、あちらは人口3000万人で規模がかなり違う。

そしてこれは知らなかったのだが、ネパールとブータンの間には1975年までシッキム王国という国があったそうだ。今はインドに併合され、シッキム州になっている。ブータン(の政権)が恐れているのが、このシッキムの二の舞となることで、その辺りはこちらを読んだりするとわかりやすいかもしれない。

ネパール人に乗っ取られ、アメリカ娘にたぶらかされて消えたヒマラヤの小国
シッキム王国
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/sikkim.html

そんな動機はさておき、GNHという政策の目的が、その名称から感じられる「国民の幸福の追求」ではなく、ソフトパワーによる国家安全保障だというのはなるほどという気がした。ようするに、仏教的価値観や伝統文化といった国のソフト面を指標化し、その価値を国際社会に認めさせることで、他国の干渉を防ぐのが狙いということだ。

そしてそのために行われたのが、価値観の異なる国民の国外追放であり、その結果生まれたのがピーク時で11万人という難民という訳だ。

極めて大雑把かつ乱暴にまとめると、ブータンは「国民の幸せを追求するためにGNHという指標を国家目標に掲げた」のではなく「国家を守るためにGNHという指標を掲げ、その指標に沿わない国民を片っ端から追放した」国ということになる。

うん、確かにそれは「知られざるもう一つの顔」かもしれない。

もっとも、ブータンの難民問題はGNHという政策を掲げる以前から国際社会で取り上げられており、「アジア版民族浄化政策」などと呼ばれた事もあったらしい。ようするにGNH以前から国外追放政策はあり、GNHはある意味それを糊塗するためと捉えることもできるだろう。

そしてそれがなぜ政策として必要だったかというのは、先のシッキム王国のリンクを読むとなんとなく想像できる。

問題はそこだろう。ブータンの戦略は、統治者の側から「国家維持」という側面で見るなら決して間違っていない。もちろん、国民のために国家があるのであれば、その国家が国民を迫害してどうするのか、という話ではあるのだが、ではその結果国家が崩壊しても良いのか、という問題もある。

なにより、「国外追放とならない」国民にとっては、ブータンは幸せに暮らせる国なのだ。それはどんな国民かといえば、掲げられた価値観と文化を尊ぶ人たちであり、彼らにとっては、異なる価値観を国内に認めた結果、国が崩壊してしまうことの方がよほど不幸なことだろう。

これは組織においても「多様性の受容」という概念で語られる命題だ。

で・・・時間切れ。今日は外出の予定があるので、これ以上はひっぱれない・・・。

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2013年3月 8日 (金)

海外事例は日本の競争力を高めるか

昨日も練習をして、今日はハンガー・フリー・ワールドのカウントボランティアを予定しているので、後はまぁ本番に賭けるしかない状態になったのだが、今日は全然違う話。

ものづくり経済における「競争」というのは、言ってみれば「ベストプラクティス」の争いだろう。その場合の戦術というのは、他者の取り組みを分析し、真似して取り込み、改良し、その結果はなるべく隠す、という形で構築されている。

一方、知識経済あるいはサービス経済における「競争」というのは、「デファクトスタンダード」の争いだ。そこで必要になるのは、他者とは異なるオリジナリティを積極的に開示し、他者にその規格を受け入れさせる事で、確固たる立場を築くことだ。

日本は(日本企業は、ではなく日本社会は)、その競争環境へのシフトができてないのではないだろうか・・・ふと、そんなことを感じた。

Tweet from オルタナ編集長(@setsumori)
①日本のCSRレポートは環境寄り②企業の都合の良いことしか書いていない③第三者意見も都合の良い人ばかり--海外のCSR専門家が語った、日本企業のCSRレポートに対する印象。なるほどその通り。
2013年3月6日 17:37:40 webから
See More: http://twitter.com/setsumori/status/309221228059713536

引っかかったのは「海外のCSR専門家が語った」という部分(他にもあるが、それは別に取り上げる)。そういえば、「日本のCSR専門家」で、海外企業のレポートに対して同じようなアプローチをしている人というのはいるのだろうか。もちろん、現地のメディア関係者に「その通り」と取り上げてもらえるレベルでだ。

国際競争力、あるいは国力といった視点でみれば、研究者やコンサルタント、メディアといった日本の知識層がやらなければならないのは、「海外の事例を日本に取り入れる」事ではない。もちろん、プロセスの一つとしてそうしたステップは必要だろうが、本当にめざさなければいけないのは、「日本の事例を(デファクトスタンダードとして)海外に受け入れさせる」事ではないか。そういう視点で日本を分析し、発信された例というのは、CSRの分野にあるだろうか。

ちなみに「ナレッジマネジメント」はそうしたアプローチが行われた分野の一つだ。もっとも、「日本に受け入れさせるために」海外からの逆輸入を試みたような感じもあるので、日本という国の姿勢は変わっていないような気もするが。

少し前にNPO界隈では「世界を変える偉大なNPOの条件」という本が話題になったのだが、この話は厳密には「アメリカの社会を変えた」NPOの話である。原題(Forces for Good)には世界という言葉もない。

これを「世界」と訳して取り入れていこうとするナイーブさが、日本の知識層の限界なんじゃないだろうか、と感じてしまう。あれを読んで、では日本において社会を変えるNPOの条件は何か、と同じような調査をしようと考えた専門家はいるのだろうか(いると信じたいが)。

あの本の内容は、一見すれば「ベストプラクティスの提示」だが、めざしているのは「これがスタンダードだ」というロールモデルを示す事で、セクターの在り方を定義してしまうことだろう。そうすることで、さらに社会的影響力を高めるという競争戦略の一環だ。

そうしたベストプラクティスを「追いかけて」勝てる世界じゃないと思うんだがな。もちろん、勝ち馬に乗るのが目的であれば別かもしれないけれども。

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