2012年10月22日 (月)

レポートラインの役割

仕事の情報を共有したり、可視化したりする目的は、重複の無駄を省いたり、組み合わせにより新たな価値を生み出していくためだろう。評価を高めるという目的もあるかもしれないが、それは当人にとっての目的であって、組織にとっての目的ではない。

つまり可視化の評価指標は、そうした重複の削減や連携の発生件数やインパクトによってある程度定量化できる事になる。互いのことが分かってスムーズに仕事が運ぶようになるといった効果は、やや副次的なもので、やはりそうした価値を生み出してこそ意味があるものだろう。

で、改めて思ったのだが、マネージャー、というか「上司」の役割というのは、結局そこなのではないだろうか。もう少し限定して「上司に仕事の報告をする目的」というとより具体的かもしれない。

部下から仕事の報告を受ける。問題点をアドバイスし、効果を最大化する。これはこれで大切なことだが、それはあくまでも仕事をする当人のパフォーマンスを上げるという領域に留まる。アドバイスを受ける当人にとってはそれで良いかもしれないが、組織側から見た場合はやや物足りない気がする。

そうやって受けた報告を組み合わせて、相乗効果や新たな価値を生み出してこそ、組織における「上司」としての役割を果たした事になるのではないか。当人にフィードバックするだけでは、部下に対する役割を果たしただけでしかないからだ。

このように考えると、レポートラインの柱になる組織デザインの役割は重要だ。どの「上司」の階層で、どういった相乗効果を生み出していくのか、組織としての方針を示す事にもつながるからだ。その頂点にいるのが社長ということになる。

部下からの報告を束ねるというのは、そこから新たな価値を生み出してこそ意味のある仕事なのだ。

一方で、組織がフラット化し、互いの情報共有が進んで当人同士で連携ができるようになったというのは、上司がそうした役目を果たしてこなかったか、果たせないと判断されたという捉え方もできる。現場同士の連携が進むようになってよしよしとか言っている役員というのは、実は自分がレポートラインにおける上司としての役割をきちんと果たせていなかった事に気づいていないだけなのかもしれない。

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2012年9月14日 (金)

多様性と個性の境界

昨日はナレッジマネジメント学会の多様性研究部会。オフィスのファシリティにおける多様性の受容についてがテーマだったのだが、とても面白かった。

これまで部会の議論が、どちらかといえば多様性を「受け入れてもらう」側の議論だったのに対して、今回は多様性を「受け入れる」側の視点での議論になったからだ。それもマネジメントではなくファシリティという視点でだ。

考えさせられたのは「多様性」と「個性」をどこで線引きをするかという問題だ。その境界をどうするかというのは、まさに「受け入れる側」ならではの悩みで、新たな刺激だった。

例えばオフィスの椅子をどうするか。維持管理する側からすれば、誰もが使いやすいよう配慮しながらも、基本的には仕様を揃えたい。一方使う側からすれば、自分にあった椅子を使いたい。どこまでが「多様性への配慮」で、どこからが「個性というわがまま」になるのか、その線引きは非常に微妙だ。しかもそこに個々人の生産性という要素まで加わってくる。

自由と規律のバランスをどこでとるか、という問題にもつながってくるだろう。

組織には組織のポリシーがあるから、基本的には多様性への配慮といってもその範囲内での話にはなる。一方で優秀な人材を確保しようという時に、その組織のポリシーとのすり合わせをどのように行っていくかはとても大きな課題だ。それは組織にとっても個人にとっても重要な命題だろう。

もっとも、「規律」とは言いつつも、そのポリシーが組織ごとに異なるのであれば、それは組織にも多様性があるという事であり、組織の規律はいわば個人の個性と似たようなものと捉える事もできる。

そうであれば、組織が個人の多様性を受容するように、個人も組織の多様性を受容(選択?)する事がどこかで必要であり、その部分のマッチングをどうするかという問題になるような気がしなくもない。

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2012年8月10日 (金)

SECIモデル

久しぶりにナレッジマネジメントに関する相談などを受けたので、SECIモデルを思い出してみる。詳細がばれない程度に回答内容を整理しておこう。

SECIモデルについては、検索すればいくらでも出てくるので、参考までにこの辺りを紹介しておく。

SECIモデル - @IT情報マネジメント用語事典
http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/seci.html

組織における知識創造を4つのプロセスに分解し、それぞれの頭文字を組み合わせたのがその名称の由来だ。

■共同化(Socialization)
共体験などによって、暗黙知を獲得・伝達するプロセス
■表出化(Externalization)
得られた暗黙知を共有できるよう形式知に変換するプロセス
■連結化(Combination)
形式知同士を組み合わせて新たな形式知を創造するプロセス
■内面化(Internalization)
利用可能となった形式知を基に、個人が実践を行い、その知識を体得するプロセス

実務上のポイントは、それぞれのプロセスをどうマネジメントし、どのように「繋ぐか」にある。

相談内容(メール)から推察するに、これまではスタッフ部門が既存の知識データベースから連結化したナレッジを現場に対して内面化を仕掛けるアプローチを中心に行っていて、これはある程度成功しているらしい。

そこで次のステップとして、現場の持つナレッジを表出化し、連結化を行うまでを仕掛けたいという事のようだ。
(余談だが、SECIモデルの要となる「ナレッジの創出」は上記の内面化プロセスが担っているが、これはあまりマネジメントできる要素がない。というよりも、元々SECIモデルはそうやって生まれたナレッジをどう組織内に循環・昇華させていくかというモデルで、内面化プロセスを前提として、そのナレッジをどうするかを解決する事が目的と言えるだろう。)

さて、表出化をどうマネジメントするか。個人的に最大のポイントは「一気に連結化までを求めない」事にあると考えている。特にITを活用した仕組みを構築する時などは、その切り分けが重要になる。

表出化とは「何でも良いので暗黙知を形式知化する」プロセスの事だ。大切なのは「他の人がアクセスできる」形にする事であって、「他の人が使える」形にする事ではない。表出化されたナレッジを「他の人が活用できるナレッジ」にするのは、次の連結化のプロセスが担う役割だ。

これを別の形で表現するのであれば「役に立たなくても良いのでとにかく吐き出す」事をとにかく重視するべきという事になる。むしろ、大半は役に立たないと最初から前提にするぐらいが良い。

ここが議論が分かれるというか、勘違いされやすいポイントだろう。SECIモデルの最も秀逸な部分は、この「表出化」「連結化」プロセスを分けている事にあるとさえ個人的には思うのだが、多くの「ナレッジマネジメントシステム」がこの両者を切り分けていない。それ以上に運用する人たちが切り分けて考えていない。

その「分かっていない」最たる発言が、「役に立つ情報が入力されない」という嘆きと「他の人の役に立つ情報を入力せよ」という指示だろう。もっと勘違いが進むと「入力される情報が氾濫している」になる。

表出化の段階では「役に立つか」どうかを求めてはいけない。「整理されているか」も求めてはいけない。

それらは、次の連結化のプロセスの役割であり、ナレッジを「吐き出す」人達の役割ではない。メモとして氾濫するナレッジを、使える形に整理するのは、目利きの役割だ。

SECIモデルの根幹は人の中でナレッジが生まれる共同化プロセスにあり、そのナレッジの「完成されたデータベース」が連結化プロセスといえる。ではなぜその二つだけのモデルではなく、その間に「表出化」「内面化」といったプロセスが挟まれているのか。

それは共同化と連結化を直接結びつける事が困難だからだ。一方で簡単に結びつける事ができそうにも思えるのがミソで、そこを勘違いすると「コケる」事になる。
(特にマネージャーやスタッフは勘違いしやすい。なぜならそもそもこうした人達は「連結化」を主業務とする人達で、そこができるのは当然と思ってしまいやすいからだ。)

そういった意味ではこのモデルの真髄は表出化と内面化にあるとも言えるだろう。


さて、そんな訳でアドバイスとしては「現場に連結化までを求めてはいけない」になるだろうか。もちろん、そんな一言で伝わるわけではないので、具体的な例示をして説明する事になる。

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2012年5月10日 (木)

多様性を考える条件のようなもの

昨日の朝は諸事情(というほどのこともないが)によりブログを書く時間が確保できなかったのだが、これから夏にかけてややそういった事態が発生する。ようするにちょっとばかり会社に早めに行く必要があり、昨日ほどではないにせよ、ブログを書くのに当てられる時間を減らす必要があるということだ。

もっとも以前はもっと短時間で書いていた時期もある。集中するという意味では後ろの時間が区切られるのは悪いことではない。何を書くかはあらかじめ考えておくようにする必要はあるが・・・。

昨日はナレッジマネジメント学会で多様性について考える機会があった。今年のテーマは「グローバル企業における多様性」なのだが、議論をすればするほど混迷していくような気がする。

それはおそらく「多様性」という概念の捉え方自体が多様であるからだろう。何をもって「多様性がある」とするかの定義が不明確であやふやなのだ。その辺りは「CSR」なんかも似たような状況にある。

特に「組織における多様性」を考えた場合には、どの軸において「多様」であるかが大きなポイントになる。一方で組織であるための均質性も必要だからだ。生物多様性の場合は、生存競争と淘汰という共通の軸があって、個々の種の進化という多様性が担保されていると思うのだが、組織における多様性を考える場合には、それらをどこにおいて考えるかが、まだ明確ではないように感じられる。

加えて組織の多様性を考える場合は、それが組織のパワーにどのように寄与するのか、という視点が必要になる。これが例えば外部から見た場合と内部から見た場合とでも微妙に違う。典型的なのが「働きやすさ」と「パフォーマンス」の関係だろう。

その辺りになってくるともう「グローバル」とは何の関係もなくなってきてしまうのだが、今回の場合は、グローバルをモデルケースに考えていくということだから、その辺りにポイントを絞って議論を進めていく必要があるのかもしれない。

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2012年1月19日 (木)

石垣の組織と煉瓦の組織

昨日はナレッジマネジメント学会の多様性部会があった。

現在の議論は雇用形態(働き方)の多様性が組織にどのようなインパクトを与えるかというもの。つらつらと話を聞きながら、ふと思ったのは、日本型の組織(一般で言われる所の)と欧米型の組織の違いは、石垣と煉瓦のような違いで、それが働き方の多様性にむすびついているのではないかという事だ。
(その時に考えたのは「すり合わせ型」と「モジュール型」というたとえだったが。)

煉瓦造り(モジュール型)は、いわば規格品の組み合わせだ。求められるパフォーマンスが先に定義されていて、ある程度固定されている。固定されているが故に、そのパフォーマンスの出し方(働き方)は問われない。特に時間の使い方において、個々の違いが大きな問題にならない。
評価や給与も、煉瓦という規格に対して発生するので、働く側は条件にあわせて選択が可能になる。

一方石垣造り(すり合わせ型)というのは、大小形も様々な石を組み合わせる事によって組織全体のパフォーマンスを追求する。個々の石の役割は、その大きさや形によってバラバラで、(石垣はさておき組織では)場合によっては微妙に形も変えながら、全体の形を作り上げている。
求められるパフォーマンスがバラバラだから、評価は個別に行われるか、あるいはパフォーマンスとは関係ない、年功のような別の軸で行われる。

重要なのは、煉瓦は何処かが抜けても、同じ規格の別の煉瓦を用意できるのに対して、石垣はそうはいかないという事だ。それは特に働き方において、個々の事情ではなく、組織の事情が優先されるという事につながる。石一つの組み替えが組織のパフォーマンスに大きく影響してしまうのだ。

だから石垣型の組織は、長期雇用による人材の固定化が自然と必要とされるようになる。互いの隙間をなくす事が、組織のパフォーマンスアップにつながるからだ。そこでは、働く側の働く都合など考慮されない(原理的には、だが)。

石垣型の組織は、規模が小さい内は、同規模の煉瓦型に対して優位性を持つ。個々人の能力を最大限に発揮できるように組まれた石垣は、組織としても強固なものになる。だが、規模が大きくなってくると、互いのすり合わせのコストがメリットを上回るようになってくる。スケーラビリティにおいて優位性があるのは、煉瓦型の組織だ。石垣型であっても、どこかで煉瓦型に切り替えるか、少なくとも組織の大半を構造転換する必要が出てくる。

実際、日本企業は大組織化する中で、パフォーマンスにおいては煉瓦型への切り替えをある程度行ってきた。典型がものづくりだろう。職人の名人芸に頼る形から、マニュアルや定型化により、そうした個人差をなくす形にシフトをしてきたのだ。

だが、そこで働き方における転換を行ってこなかったのだ・・・多分。
パフォーマンスにおいては煉瓦型にもかかわらず、その評価や組織のあり方は石垣型のままにしてしまった。その矛盾が今問題として噴出しているということではないか。

もちろん、組織のあり方として、コアとなる部分が石垣型なのはそれ自体悪い事ではないかもしれない。しかしそれは取り巻く周辺が煉瓦型にシフトできた場合だろう。組織全体を石垣型で維持するのは、先に書いたようなすり合わせのコストが組織のパフォーマンスを上回ってしまうリスクを抱えている。

組織を縦に分割して石垣型でパフォーマンスを維持できるサイズにとどめるか。
組織を横に分割して石垣型と煉瓦型を内在する組織に組み替えるか。
はたまた組織全体を煉瓦型に構造転換するか。

それぞれに生き残っていく方法はあるが、曖昧に混在させたままでは、緩やかに崩壊への道をたどる事になるのではないか・・・そんな気がする。

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2011年11月17日 (木)

多様性を支えるための均質化

昨日はKM学会の多様性研究部会。やや久しぶりに参加したような感覚だったのだが、結構楽しい議論だった。

組織におけるダイバーシティがテーマという事で、とあるスーパーにおけるパート労働者のマネジメントについて議論をしたのだが、印象的だったのは、従業員の働き方の多様性を担保するためには、評価基準や職務内容、組織風土の均質化が重要なポイントになるのではないか、という点だ。

説明が難しいのだが、組織の構成員の職務がある程度同じで、職能給の形で評価基準が統一されている場合、働く側にステージを選択するイニシアチブが生まれる。(ただしこれは「時給」の形で給与がスライドするという条件が不可欠で、固定給の場合はやや事情が異なるだろう。)

一本化された評価基準の中で、個々が自分でポジションを選んでいける(もちろん無条件ではなく能力は必要だが、その基準は明確になっている)場合、自分のライフスタイルにあわせた働き方が選択できる事になり、それはそのまま働き方の多様性につながる。

ただ、これはある程度限定された条件・環境下の話だ。労働市場における競争が激しくなく解雇が発生しにくい、家計における役割が絶対的ではない、といったものだろうか。さらに組織自体が単一の機能に特化して単純化されている必要がある。

問題なのは、現在求められているダイバーシティマネジメントはおそらくその対極にあるという点だろう。評価基準を固定化して、その枠に個人の能力や意欲を当てはめるのではなく、個
人のポテンシャルを最大限に活かすために、その個人の能力・意欲にあわせて評価基準の側をフレキシブルにする事が今求められている事だからだ。

昨日のモデルでもし参考になるとすれば、評価基準を一本化して均質化すると同時に、縦割りの組織とは別の、横断型のいわゆるプロジェクトで、その評価基準から「はみ出す」個人の能力を吸い上げる(別に手当のような形で評価にも反映される)仕組みがある点だ。

つまり、評価軸を複数用意し、それぞれの軸は均質化(うまい言葉が出てこない)した上で、取捨選択や組み合わせでフレキシブルな対応が可能なようにする、という感じだろうか。

とはいえ、こうした事が難しいのは、その制度のデザインに実際に評価される側が加わっていると、それぞれの利害が絡んできてしまう点だろう。政治家による選挙制度の見直しと同じで、大抵の場合そこには別の思惑が絡んでくる。

昨日のモデルケースでは、評価制度の大枠を構築した人たち自身は、その評価制度には組み込まれない(パート労働者という事も関係しているだろうが)事が、逆に制度デザインに成功した原因ではないか、という話もでたのだが(というか自分がしたのだが)、それができるケースはかなり限られてくる。特にいわゆる正社員の評価制度となると、かなり難しくなってくるのは間違いない。

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2011年9月 4日 (日)

背中で語る

昨日出かけての帰りの電車でのtweet。

メールがない時代に仕事を覚えた方の多くは、仕事は先輩の背中を見て覚える、もしくは盗むものだという意識が強い傾向がある。ところがそれは先輩が意図的に見せていた可能性があるという意識が薄い気がする。そのため自分は先輩ほど後輩に背中を見せていない。 2011年9月3日20:51:37 HootSuiteから
例えば電話やFAXからメールに連絡手段がシフトしたという事は、それだけ互いの動きが見えにくくなったという事だ。つまりそれらを通じて自然に継承された部分は継承されない。「見て覚えろ」というなら、自分のメールを後輩に全公開しておくぐらいの覚悟がなければ意味がない。 2011年9月3日20:55:38 HootSuiteから
手取り足取り伝える必要はないのだが、どうやったら後輩が自分の仕事を盗めるのか、その手段は担保するべきだろう。 2011年9月3日20:57:37 HootSuiteから
そもそもメールは、上司が部下のメールをチェックできるようにするより、部下が上司のメールを閲覧できるようにした方が良い。セキュリティとかいう輩がいるけれども、そういうのこそメールではやるべきではない。部下の前で電話で機密事項を話す上司がいるか? 2011年9月3日21:01:37 HootSuiteから

やや中途半端な感じなのは、到着してしまったからなのだが、この後は次のように続けるつもりだった。

上司が10人の部下のメールをチェックしても取れるアクションはほとんどなく、時間だけがかかる。10人の部下が1人の上司のメールをチェックするのはそれほど時間がかからないうえ、組織の動きが分かって取れるアクションが増える。
メールの最大の問題点は、仕組み上1対1に閉じているだけにすぎない事が、周囲に対してセキュリティが保たれているという無意識の誤解を生じさせてしまう事だ。メールが閉鎖系なのは、別にセキュリティを目的としている訳ではない。
冷静に考えれば、分散型で受け手が自由に操作できてしまう情報伝達手段に「セキュリティ」なんてありはしないのだが、たまたま互いの関係内に「閉じている」事が、そう錯覚させてしまうのだ。
以前、社内向けの論文で、メールによるやりとりを、パスの相手しか見えていないサッカーに喩えた事がある。ノールックでも相手を指定さえすれば完璧に届くパスだが、他のプレイヤーが連携しようのないパスだ。
CCやBCCによってカバーできる側面はあるが、それはパスを出すプレイヤーの采配に任されてしまっている。当たり前だが、それで可能な連携というのは実は連携と呼べるレベルの動きではない。思わぬ結びつきが生まれてこそ連携だろう。


・・・なんだか当初の思惑とは別の方向に流れている様な。

リトライ。

やや中途半端な感じなのは、到着してしまったからなのだが、この後は次のように続けるつもりだった。

背中は「見て覚える」ものではなく、「見せて覚えさせる」ものだ。「見て覚えろ」という言葉に「自分は(必要なだけ)見せている」という自覚を込めているだろうか。
ちなみに日本人の信頼関係や阿吽の呼吸というのも、この「背中を見せる」という行為から始まっている。
常に正面に相対するのは「敵」だ。同じ方向を見ている「味方」同士で見るのは前に立つ仲間の背中だ。信頼関係とはそういうものだろう。
阿吽の呼吸というのは、言葉を使わなくても意思が通じ合う事ではなく、背中を見せあう事で語り合う事だ。それには見る側以上に、見せる側の配慮が必要になってくる。
「言わなくても通じる」訳ではない。通じるためにはやはり発信は必要であり、言葉を使うか、背中を使うかという違いがあるだけなのだ。背中を使わないのであれば、言葉を使うしかない。
背中も言葉も使わずに「阿吽の呼吸」で通じるという勘違いをしていないだろうか。

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2011年7月22日 (金)

ナレッジはどこで必要とされているのか

ナレッジマネジメントにおいて、ナレッジを吸い上げたい対象というのは誰だろうか。

先週のKM学会の講演会では「顧客のナレッジ」がテーマだった。顧客の声をナレッジとして活かすというのは、方法論はともかく考え方としては「ナレッジ」マネジメントと殊更に言うまでもないほどスタンダードなものだろう。

そのためか、実際にナレッジマネジメントにおいてターゲットと考えられやすいのは、社員であることが多い気がする。昨日の多様性研究部会で話題にあがったのは、その中でもパートやアルバイトのような有期パートタイムの社員だ。
(ちなみにこの「有期(限雇用)パートタイム」というのは「無期(限雇用)フルタイム」のいわゆる正社員と対比する位置づけで定義している。「有期フルタイム」なら契約社員になるが、まぁその辺りの定義自体はどうでもいい。)

パートやアルバイトからどうナレッジを吸い上げるか・・・だが、そこでハタと気づくことがある。「有期限雇用」でかつ「パートタイム」である彼らは、仕事を進めて行く上で当たり前にナレッジを吸い上げる共有する仕組みがすでにできている事が多い。時間軸の中で仕事を分担する彼らは、そもそもそうでなければ仕事が回らないからだ。

問題なのは、「無期限雇用」でかつ「フルタイム」であるために時間軸での分担が発生しづらく、さしてナレッジを共有する有用性が見出せない正社員のナレッジをどう吸い上げるか、にあるのではないだろか。

この問題で難しいのは、当人にとっての必要性が見えにくいだけでなく、むしろ弊害に見えてしまう場合もある点だ。有期限の者にとって、ナレッジを引き継ぐ相手は「次の担当者」だが、無期限の場合は「自分を追い落とす者」という感じになりやすい。そこまでは考えすぎにしても、会社側にとってのメリットばかりで、自分の側のメリットを実感しにくいのは確かだろう。

一方、欧米の企業では日本企業と違って、会社は転々としても職種は変えない(マーケティングならマーケティングといったように)という形態をとる事が多い。この場合、突き詰めれば企業はナレッジを「マネジメント」する必要がない。それは専門職種として雇用された社員の側が自らやるべき事で、会社はそれを自ら行う者を選んで雇用するだけですむからだ。

もちろんさらなるプラスアルファを求めて何らかのアプローチを行う場合もあるだろうが、基本的にはその社員のナレッジが必要なうちは雇用し続け、不要となったら解雇するだけで、吸い上げて会社の財産としていくような発想はあまり起こりにくいのではないか、という気がする。

どちらが良いというものでもないが、そう考えると「ナレッジマネジメント」というものが、日本企業の研究の中から生まれてきたものだという理由が分かるような気がする。案外それは「無期限フルタイム」の被雇用者によって構成される組織が、だからこそ必要とした考え方なのかもしれない。

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2011年5月19日 (木)

共創と競争

組織のメンバーが様々な知恵を生み出していく時に必要な考え方は「共創」だろうか。

昨日はKM学会の多様性研究部会だったのだが、ディスカッションの中でふとそんな事を考えた。もちろんそれが全く不要という訳ではないのだが、前面に出てはいけないというか、別に前提となるものが必要な気がする。

その時にメモしたのは「競争(競創?)」というキーワードだった。互いに競う事が、より強靭な新たな知を生み出す事につながるのではないかという事だ。

もっとも、「共に」であっても「競う」であっても、そこには2人以上による関係性がある。あるいはその関係性が重要という事かもしれない。1人では共創も競争もできないからだ。

多様性というのは、そうした関係性を支える考えになるのだろう。

ただ、以前にも書いたが、自然界を見る限り、生物相が多様な環境というのは、互いの生存競争が激しく、淘汰圧(環境による淘汰圧ではなく、互いの競争による淘汰圧)が高い。変な話だが、彼らは互いに協力しようとは思っていない。「共生」というのは、互いが相手を利用して自らの生存率を高めてきた結果であって、ドライな言い方をするなら、相手を利用し尽くそうとしているだけだ。

これを組織の多様性に当てはめて考えるなら、メンバー同士による生存競争こそが、その生物相(組織)を強靭にしていくために必要なこと、という事になる。これはかなり「共創」のイメージとは異なる。

一方で、レベルを変えて考えてみると、生物相=組織、種=個人という捉え方で本当に良いのか、という疑問も残る。生物相=社会、種=組織、個体=個人という捉え方をした場合、同一種内の個体同士にはほとんど多様性はないという事があるからだ。種の多様性は、生物相を強靭にするが、個々の種の強さは、むしろ個体の同一性に支えられているような気がしなくもない。

もう一つ忘れてはいけないのは、多様性を支える環境の持つ淘汰圧だろう。現在問題になっている生物多様性の保全というのは、人間の経済活動がもたらした環境自体の淘汰圧の高まりへの警鐘なのだが、一方で競争による淘汰圧は否定されるべきではない。

環境による淘汰圧の変化は、競争環境をアンフェアにする効果をもたらす。そう考えると、環境による不公平を極力排除し、互いの競争による淘汰圧を高める事がポイントという事になるだろうか。

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2011年4月21日 (木)

多様性の喪失

誰かに「人はそれぞれ違うものだと思いますか」と聞いたとする。おそらく多くの人が「その通り」と答えるだろう。人は一人ひとり違う存在であり、それを受け入れる事で社会は成り立つ、と。

でも、そうだとすれば、何故「多様性(の受容)」という事がこれだけ求められるのだろう。

そんな事を昨日のKM学会のセミナーで考えた。タイトルは「ダイバーシティ(多様性)を組織に活かす」。こうした題目が成り立つのは、実際には組織に多様性がなく、それが課題と考えられているからだ。

それはつまり、人は深層においては「皆同じ(でなければならない)」と思っているという事なんだろうか。そうした人が多いから、組織から多様性が失われているのだろうか。

だが仮に、一人ひとりの考え方とは関係なく、組織が多様性を喪失するのだとすれば、それは個々人の意識の問題ではなく、組織が内包する課題という事になる。

ヒントがあるとすれば、組織はなんらかの共通の目的を持った人たちの集団であるという点だ。ダイバーシティの考え方においても、その点は変わっておらず、むしろその目的の達成手段の一つとして、多様性があると説かれている。

一人ひとりは違うけれども、目的は共通・・・その微妙なざらつきが、多様性の喪失につながるのかもしれない。特に組織が、その目的以上に強烈な個性(リーダーシップやカリスマ)によって成立している場合、集団の構成員はどうあってもその個性の影響を受ける。

結果として、目的を共通にしていく過程で、属性も共通化されていってしまう、という事があるのかもしれない。

考えてみれば、世界(社会)は元々は多様なのだ。ダイバーシティについては、多様性を「受け入れるには」というアプローチではなく、多様性が「なぜ失われてしまうのか」というアプローチをした方が、意外と解決の糸口が見つかるのかもしれない。

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