2018年4月16日 (月)

音楽に対して無感動になっていないか

この週末もサイクリングとオーケストラという事で、オケの練習が少なめだと他にもやれる事が出てくる。もっとも来月からはもう一つ加わるので、今がたまたま閑散期であるとも言えるかもしれない。

土曜日のサイクリングは街乗りの延長程度で、あきる野から狭山湖を経由して高幡不動というルートで40km程は走ったと思うのだが、筋肉痛などにはならなかった。そういった意味ではスキーよりも筋肉への負荷は少ないという事だろう。もっとも山道とかはあまり走っていないので、坂道をガンガン登ったりすれば違ってくるだろうか。今のところそういった強度をかけるつもりはあまりなく、車や徒歩とは違った移動を楽しんでいるだけではある。

日曜日は午前中はオケの練習をして、午後は他のオケの演奏を聴くという流れだったのだが、何を思ったか、自分は音楽が好きなのだろうか、とふと疑問に感じたりした。いや嫌いならこんなに漬かった休日の過ごし方はしないだろうというのはその通りなのだが、この過ごし方を自分は楽しんでいるだろうかと考えてしまったのだ。

例えば午前中の悲劇的序曲の練習。

弾いている最中はたぎっているというか、のめり込んでいる(むしろのめり込みすぎて我を見失っている)とは思うのだが、それが「音楽を楽しんでいる」のか、「楽器を弾くのを楽しんでいる」のかが、定かではない。楽器を弾くという行為として楽しいのは確かだが、それは本当に音楽を愉しんでいると言えるのだろうか。

そもそも音楽を「愉しんでいる」とはどのような状態なのか。

例えば午後に聴いたメンデルゾーンの交響曲第4番。

嫌いな曲ではないし、聴いていて耳に心地よいのは分かる(演奏の上手下手は別として)。この曲はそうではないが、曲によっては身体が痺れるような感覚に浸れる事もある。ただ、それは受け身の行為としての「聴く」結果であって、それが音楽の愉しみなのかと問われると、何か違うような気がする。

何というか、自分は音楽が好きなのだ、何故ならば・・・の「何故」の部分が抜け落ちている気がする。何事も理屈で説明できるとは限らないのだが、理屈抜きで好きなんだと言えるほどのめり込んでいる訳でもない。どちらかといえばその部分はひいてしまっていて、いや何となく・・・という言葉しか浮かんでこない。

最近はあまり(オーディオでも)聴いていないという事もあるかもしれない。ジュピター(※ホルストではなくモーツァルトである)やイタリアの終楽章をヘビロテしていた事もあったりしたのだが、そういった事もなくなっている。何というか、音楽に対して無感動になっていなだろうか。

まぁ少し飽和状態ではあるのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月29日 (木)

スケジュール

整理整頓の鉄則は、整理、つまりやめるなくすへらす所からスタートする事である。その上で残ったものを整えるのが整頓になる。

スケジュールに当てはめて考えるのであれば、どうやって整えるかの前に、そもそも減らす事が必要という事だ。この時に「何をやるか」という視点はあまり必要ないと考えていて、どちらかというと「何をやらないか」という意識が重要だと考えている。そもそも「やる事」というのは放っておいても発生するので、その入り口の部分で本当にやる必要があるのか、やらなくて良い事ではないかと考えるのが大切だろう。

一方で、そういった思考は脳にとってはやる気を削ぐネガティブな思考になる。やる気を高めていきたいのに、やらない事ばかり考えていたら、無意識の領域は確実にやる事への興味を失っていくだろう。

その辺りはジレンマというか、そこで割り切るのであれば、無理やり整頓から始めてしまうというのも一つの方法かもしれない。ただ、結果として詰め込みきれなくなれば、それはまた脳に対するネガティブな事象になる訳で、逆に割り切るのであれば、多少のネガティブはやむを得ないとやらない事(の明確化)に注力した方が良いような気もする。

何故そのような事を考えたかといえば、またオケ関係の諸々が回っていかなくなりそうな予感を感じたからだ。先日までやめる方針だったのを転換してしまったので、結果として予定は詰まり気味になるのは当然だ。しかしながら常にあっぷあっぷというのは理想的な状態とは言えない。一方で一連の思考整理で分かったのは、モチベーション維持のために他のオケへの参加も必要としているという事で、他を落とすというのも考えづらい。いやこれ以上増やすかは別として。

そこで必要になってくるのが、その上で何をやらないか、やらない事を許容するかという視点だ。最低限必要な事はある。その上で出来ると良いなという事がある。その中でどこまでをやっていくのか、どこからはやらないのかという事を考えながら、「スケジュールに落とし込んで」いかなければならない。

・・・面倒くさい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月27日 (火)

踏み留まる先送り

半月以上引きずった退団問題は、結局踏み出さない結論に落ち着いた。とはいえこれは決断とは言わないだろう。ある意味判断を先延ばしにしたとも言える。

公言こそしなかったがブログやSNSでかなり開けっぴろげに検討を展開していたこともあって、何人かからそれとなく慰留っぽいこともされた。一方で辞める前提で覚悟を決めていて、最終的な結論に肩透かしを食らった人もいただろう。そういった意味では各方面に混乱と困惑と迷惑をかけたと言える。

正直な話、気持ちの整理ができた訳ではない。このようなモヤモヤ感を抱えたまま続けて良いものかと思う反面、抱えたまま辞めれば一生引きずりかねない訳で、きちんとケリをつけるべきなのだろう。

その結論が何かは分からないけれども。

ただ、オケとの関係や距離感を考えるキッカケにはなった。表面的には今まで通りかもしれないが、心境としてはまた少し違った形で接していく事になるだろう。それは他のオケについても同様だし、楽器に対する姿勢もそうだ。

いずれにせよ、ひとまずこの件は終息とする。お騒がせしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月23日 (金)

踏み出すか踏み留まるか

Kオケの本番も終わったという事で、残った懸案を片付けるべく、昨日の夜はついに踏み出すためのメールを書いた。

・・・が、内容が釈然としない。これなら直後に書いたものの方がよほど理に適っている。
いざ改めて言葉にするというのは難しい。

結局の所、自分の中でも気持ちの整理ができていないという事なのだろう。あるいは自分の中にある暗いわだかまりから目を背けて、無難な感じに落ち付けようとしてしまっているのかもしれない。

これは誰かへの怒りなんだろうか。
それとも自身への悔恨なのだろうか。

そんなものに将来の判断を委ねるのは稚拙な行いだろう。
一方で、そんなものに支配されてしまうのも、悲しいながら事実だ。そうではないと言葉を連ねてきていても、最後の最後に釈然としない形になってしまうのはそのためだ。

とりあえず踏み留まるためのメールも書いてみよう。
それでもって、明日はスキーに行こう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月22日 (木)

演奏会終了

朝起きたらまだ酔っていた。

・・・と感じる程度に飲んだのは久しぶりである。それもあって休みを取りたかったのだが(それだけではないが)、諸事情により今日は出社。どこかで代わりの休みが欲しい。

Kオケの演奏会は、まぁ成功しただろうか。

演奏上の課題は多々あるだろう。和音が決まらず指揮者が渋い顔をする場面は何度かあった。PAを使うのであれば、やはり技術者が必要だという課題も浮き彫りになった。
それでも、多数のエキストラの協力のもと、破綻はせずに終了したと思う。

運営上の課題も多々あるだろう。今回は親子席も用意して、演奏前にお静かにというお願いをした結果、前回のような騒々しさはなかった。一方で進行上ステマネはやはり必要だと思わされる場面もあった。
桜吹雪ではなく単なる吹雪の中の開催となったが、足を運んでくれたお客様に感謝である。

Kオケの演奏会としての強みは、ホールの関係もあるが、オケとお客様の距離が近い事である。通常あの距離感で行われる演奏会は室内楽の規模で、合唱含め70人規模のオケとして考えると、客席との距離は異様に近い筈だ。だが、それが通常とは異なる臨場感を客席にもたらす。言ってみればオケの中で聴いているような感覚の片鱗が客席には届いているに違いない。

これは悪くない話で、結果として演奏は多少稚拙であっても、それを迫力で押し切る事が出来るという事になる。ステージというスクリーンを通すのではなく、ダイレクトに音を伝えているとでも言えば良いだろうか。これは演奏会の一つの形として、今後もっともっと意識して洗練させていければ良いだろう。

そして昨日は今後の計画もぶち上げた。宣言した以上はやらなければならない訳だが、これが難題山積みの課題である。とりあえずは演奏会としての仕様を整えなければならないが・・・ま、ひとまずは一息つこう。昨日の残務も多少は残っている訳だし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月21日 (水)

本番の朝に

演奏会のある日の朝というのは、少しいつもとは違う緊張感と高揚感がある。

今日はKオケの本番。通常休日はブログは書かないのだが、少し早く渋谷に着き過ぎてしまい、ぽっかり時間が空いた感じになってしまったので、時間潰しも兼ねて演奏会当日の心境というのを書いてみる事にする。

もっとも、Kオケの場合、通常のオケとはかなり心持ちは違う。会社のオケだからという事もない訳ではないが、何より挨拶をしなければならないというのが大きい。正直楽器を弾くよりも緊張すると言っても良いだろう。その割に練習などはしないので、自分の準備不足といえばそれまでなのだが、いやでも練習するというのもなぁという気もするのだ。

演奏の完成度といえば、正直な話かなり怪しい。演奏会の段取りとしても、現実問題としてはかなりグダグダである。通常のオケであれば、このような状態で本番に臨むのは不安であるに違いない。

それでも良いのではないかというのは奇妙な心境だが、そういった演奏会の外面的な事はさておいて、Kオケというのはアマチュアオケのある側面を体現しているような気がしている。それは言葉は悪いが「我々は我々自身が楽しむために演奏する」というプレイヤー優先の側面だ。人によってはけしからんという受け止め方もあるだろうが、その辺りは「楽しんで演奏するのでがんばって聴いてください」というのだめカンタービレの最期の台詞に凝縮されている。(いやもちろんあれは言い間違いなのだけれども。)

言い切ってしまうなら、団長としてKオケの演奏会はプレイヤーが楽しんでくれるのであればそれで良いと思っている。結果としてお客様が楽しんでくれるのなら、それに勝る喜びはないのだが、お客様がどうこうというのは、個人的にはあまり眼中にない。お客様として楽しみたいのなら、他のオケに行ってもらえば良いのだ。

その代わり、オケのメンバーが楽しくないというなら、それは何とかしたい。演奏会の段取りを整えるのも、お客様のためではなく、メンバーのためだ。それも個人でもアマチュアオケに所属しているようなプレイヤーはまぁ良くて、Kオケでオケの楽しさを初めて経験するようなプレイヤーのためにこの演奏会は存在するのだ。

聴いていただくお客様(ほぼ社員だが)には申し訳ないが、その辺りはがんばってお付き合いいただきたいのである。そしてできうる事なら、こちら側に来て欲しいのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月20日 (火)

拘束感

ちょっと考えさせられた。

会社員が嫌なのではなく「週5日拘束されるのが辛い」だけ。だから働き方を変えてみた
https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001426.html

仕事の話ではなくオケの話としてである。

この話を読んだ時に最初に感じたのは、「拘束」という文脈であれば、会社だけでなく学校とか家庭まで同じような事が言えるよな・・・というものだったのだが、それはもちろんオケの様な趣味の団体においても同様である。

F響に対する感覚というのはこれに近いのかもしれない。多少の幻滅はあっても嫌いと思ったことはないし、オケ自体に何か明確な不満があるという訳でもないのだ。ようはオケとの関係性において、何か問題がある訳ではない。色々理屈を考えていても、辞めるほどの理由は浮かんできていない。

にもかかわらず、辞めたいと思っている自分がいる。これはまごうかたなき事実で「辞めたい」と「辞めたくない」がモザイク状に入り混じっているのが今の心理だ。だからストレスを感じるし、これは一度リセットをしなければ解消は難しいのではないかと感じている。

先のコラムでなんとなく得心した気がするのは、自分がF響に対して何らかの拘束感を感じているのではないかという事だ。であれば、そうした拘束感からの解放を求めて他のオケに参加してしまう理由も何となく分かる。この拘束感というのは、必ずしも周囲からのプレッシャーというだけの話ではなく、自分の中にある心理的な縛りも含まれていて、おそらくそちらのウェイトの方がはるかに大きい。他人との関係であれば、割り切ることは出来なくもない。自分の心の中にある拘束感と対峙するからモヤモヤが大きいのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月16日 (金)

やめる未練とやめない未練

先日過去に対する未練と将来に対する未練について書いたのだが、冷静に考えるとその軸だけではない事に気づいた。過去に対する未練はこの際放っておくとして、将来に対する未練というのは「やめる未練」「やめない未練」というのがある筈なのだ。

F響に関しては過去何度かやめるという検討をしている。理由は様々だが、必ずしも何かに嫌気がさしたといったネガティブなものだけではなく、別の可能性を探したいというポジティブなものもある。未練とはつまりそういう事だ。やめてしまう事で失われる何かに対しての未練があるなら、やめない事で得られなくなる何かに対する未練もあるのである。

そういった意味で、今回はきっかけこそネガティブな事象であったかもしれないが、実はチャンスなのではないかという感覚もあるのだ。何となく踏ん切りがつかずにズルズルと居続けてしまう関係を断ち切る機会という事である。本番直前に「次でやめる」と決意し、本番の興奮で「やっぱり続ける」というある種の鬱と躁のループから抜け出す契機と捉えるべきかもしれない。正直な話、この機会を逃せば逆にやめるという選択肢は今後失われてしまうかもしれない。

それにしても、どうしてそのような感覚を抱くようになってしまったのだろう。本来オケで活動するというのは、もっと自由な筈だ。好きだから所属し、好きだから活動する。仕事であれ趣味であれ、人の行動原理は本来そういうもので、そこに別の判断基準が挟まれるのであれば、それは一種のしがらみである。

人間関係の蓄積はどうあってもしがらみを産むものだとすれば、それ自体は避けられない。先日急遽引き受けたエキストラだって、そういったしがらみ(語感はネガティブだが必ずしもそうではない)が関係していないとは言えない。むしろそれがあるからこそ良いという場合もあるだろう。

とはいえ、F響はそのしがらみが大きくなりすぎてしまったのかもしれない。そこから生じる何かが小さな棘となって自分に何らかのストレスなりプレッシャーを与えているのだとすれば、今回の一件はそこから解放されるチャンスであると捉えることもできるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月14日 (水)

認識の甘さ

昨日はオケ関係の飲み会があり、楽しかった一方で先週からの懸案事項で自分の認識がまだまだ甘かった事を痛感させられた。なるほどそう受け取ってしまうのかという事で、自分が感じた怒りや苛立ちなんて、実際に言われた人の悩みからしたら小さなものなのだと感じたりした。

あの暴言を自分自身はそうは言っても聞き流しても良い(でも聞き流さない)という程度に受け止めてしまっていた感覚を恥じる。「聞き流せない」受け止め方もあり、それを反発ではなく真摯に受け止めてしまうという心もあるのだという事を言われて初めて気付く。他人の心を100%分かれとは思わないが、そうした受け止め方もある可能性には当然配慮すべきだっただろう。というか、ここ一連の自分の悩みは「自分だけ」の話になっていて、そうした当事者に対して何も考えていなかった事にも改めて気付いたりする。

それにしてもその後の状況を聞いた感じでは、あまりよろしくない反応を当人は見せているようだ。言われてみればそういう態度をとるだろうなと思いつつ、昨日感じたのはそう捉えてしまう事自体が「慣れてしまった人間の甘さ」で、そうではない人に対する配慮が自分自身の心理として足りていないという点だ。基本的に自分は他人の心理には配慮しない(できない)ポリシーなのだが、その自身の受け止め方にバイアスがかかっている可能性はよく考慮しなければならない。

そしてこれは自分の身の振り方も含めてよく考えなければいけないという事でもある。

現状の自分は今回の件に対して距離を置いているといえば聞こえは良いが、実態としては放棄あるいは逃避している状態であるのは間違いない。それはある種の諦観と再三書いているモチベーションが消えてしまった事に起因するもので、自分自身の中では決着しているのだが、当事者あるいは立場的にそれで良いのかという小さな疼きは確かにある。そこに踏み込むのは離れる以上に困難かつ面倒な事なので、目を背けているだけだ。というか、これまでも背ける形で折り合いをつけてきたのだろう。

どうするべきなのか。

ただ、現実問題として分かっている事は、対峙しなければいけない一方で、実際に対峙してしまえば、なあなあの渦に飲み込まれてしまうだろうという事だ。今回に関しては、それだけは避けなければならないのは間違いない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月13日 (火)

オーケストラとの関係

昨日はどういう訳か10時すぎに就寝できたので、それなりに睡眠負債を返済できたのではないかと思うのだが、それでも3時ごろに一旦目が覚めたりして何だかなと思ったりする。

冬場は(先週は体調の関係で行かなかったが)スキーというイベントも加わるので、土日含めて睡眠が削られやすい。オケの練習も含めると、土日もフル稼働状態というのは、それなりに疲労の蓄積もあるだろう。そういった意味では先週末は何もしないで随分とのんびりとした感じだったのだが、体調によるものではあるので、鋭気を養うプラスの休養というよりは、ダメージを回復するマイナスをカバーするための休養という所だろう。

それでも時間ができたおかげで滞っていたKオケの本番に向けた準備を何とか進めることができた。演奏の準備はさておき、演奏「会」の準備は整えておかなければ当日を迎えられない。今回はかなりギリギリでドタバタしていて、色々と反省がある。Kオケの演奏会はなかなかプロジェクト型の運営にできておらず、何とか当日を勢いで乗り切ってしまっている。それでも何とかなるのは、お客様共々緩さがある(ただしそれは決して悪い話という訳でもない)ためだ。普通のオケではそんな事は言っていられない。

ただこれも徐々に変えていかなければならない。より良い形にしていくために何らかの手を打っていかなければならない。それは自分だけで何とかなるものでもないし、気持ちだけで何とかなるものでもないが、少なくともKオケに対してはそのような気持ちがある事は自覚している。どこまで「やりたい事」かはやや微妙だとしても、それがオケに対するモチベーションとして存在しているのは間違いない。

そういった気持ちをどこまで持てるかはオケとの関係次第だ。そういった事を考えずにただ弾くだけという関係もあれば、多少口を出すとか、どっぷり運営に浸かるなど様々だろう。ただ弾くのも一つのモチベーションだし、運営で何かをするというのもモチベーションだ。正直な話、前者はどんなオケでもあって、そもそも楽器を弾けば楽しいのだから、わざわざ考えるまでもない。ただ、それだけなら「どこのオケでも良い」という言い方はできる。

問題は後者のようなモチベーションをどのように持って、どのようにオケと関係をしていくかなのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧