2015年11月18日 (水)

ワークライフバランスという価値観

ようは価値観の押し付けのようなコンテキストで語られるから物議を醸すのであろうなと思ったりした。

ワークライフバランスというのは、女性にかぎらず色々と議論の多い考え方である。個人的には「ゲームばっかりしていないで勉強しなさい」とか「本ばかり読んでいないで運動しなさい」とか「結婚して子供を持ってこそ一人前だ」などと言ったりするのと、本質的には同じ概念だと思っているので、ワークライフバランスを考えろというのもそれはそれで一つの議論が必要と思っているのだが、それはあくまでも個人の価値観の話で、企業でいうところのワークライフバランスは、少し違う捉え方をした方が良いように改めて感じた。

基本的に、企業施策として問われるところのワークライフバランスとは「企業が従業員に対して配慮すべき事」であって「個人のライフスタイルの話」ではない。言ってしまえば、人を使う側が、使われる相手に対して尊重し配慮すべき義務の一つとして「その人の時間を過度に搾取する事で人生を崩さないようにすべき」というのがワークライフバランスの本質だといっても良いだろう。

ところが、言う側も言われる側もこれをついつい「個人のライフスタイルのあり方」みたいな話に持っていってしまいやすい。「企業の責任」というのは極めて概念的なものなので、イメージしやすい個人の話に流れてしまいがちなのだ。結果として自分の仕事スタイルを否定されたような気分になり、反発する人が出てくる、というのが、取り巻く議論の実体であるような気がする。

それなのに「ワークライフバランス」と言われると、まるでワークとライフを別ものにとして考えろと、会社から強制されているかのような印象を受けてしまう。これが、ワークとライフを区別して考えない頑張り女子が、ワークライフバランスと言われるとイラッとくる理由だ。

この捉え方がまさにそうで、この場合に別ものにして考えることを強制されるのは、本来個人ではなくて会社の方でなくてはならないのだ。その主客のシフトが議論をややこしくしているというか、ワークライフバランスの推進にとっては不幸な話なのだろうと思ったりしたのだった。

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2015年8月 5日 (水)

大企業病

長々書いた文章が吹き飛んだ。なんとか再現を試みたいが、たぶん無理であろう。

個人的に「組織」というものには、個人とは異なる評価軸が必要だと考えているので、挙げられている5つの特性は個人としてみた場合はそうだろうなと思うのだが、組織の側から見たら違うのではないかと思わなくもない。

1.視野が狭い
視野が狭いというのは、逆に一分野に集中特化して他をそぎ落としているという事でもある。組織というのは分業により効率化を追求するものなので、個々人にそうした視点を要求することで、組織全体としての視野を個人ではとうてい無理な領域まで広げることを可能にしている。
そもそも「視野が狭い」という人物評価の多くは、「相手が自分の関心領域に関心を持っていない」と同義である場合も多いので、一度相手の関心領域に自分がどれだけ関心を持っているかを検証したほうが良いだろう。

2.試行錯誤をしない
試行錯誤というのは、トライ&エラーといえば聞こえは良いし、行動している分勇ましいのだが、テストで言えば選択肢をすべて実際に検証して正解を探して回答する、という行為にあたる。それが経験の蓄積や実力に結びつくという要素は否定しないが、本当に効率的かどうかは注意が必要だ。落とし所というのは、本来各人の検証を持ち寄ることで正解に近づくためのアプローチの結果であろう。組織というのはそうした多くの検証を束ねるためにある。
・・・ま、そうではない議論に陥ることがあるのは否定しないが、それは組織の問題というより個人の問題のような気がしなくもない。

3.足りないものばかりが視野に入る
4.飛躍した非連続的思考についていこうとしない
試行錯誤と同じで、多くの検証が束ねられれば、当然足りない事柄もそれだけ集まる。気づかずにやってそれをエラーとするか、気づいて事前に止めるかの違いと考えたほうが良いような気がする。
そもそも個人が考える「7割」と組織の捉える「7割」はかなり規模感が違う。個人の視野で7割というのが、組織においても7割とは限らない。

5.現地現物を実行せず、ただ正論を唱え、げきを飛ばす
組織の一員として、マネジメント層にそんないらだちを感じることがない訳ではないが、結局実行されないものは、どんなに正論に見えても正論ではなく、実行しないで済んで良かったという話である。個人的に、実行されない正論で終わらずに、とにかくやるんだと強引に実行された結果陥る状態のほうが傷が大きい気がしなくもない。(とにかく行動を唱えるコンサルタントの机上の空論に踊らされた結果とか。)

組織というのはある種の安全装置を担う要素もある。個人にとっての正解と、組織にとっての正解は必ずしも同じではないということをよく理解した上で、組織としての強みをどう活かすかを考えるのが本来だろう。「大企業病」という欠点を論じる事こそ、まさに大企業病的行動であるような気がする。

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2015年7月 8日 (水)

広告でマスコミを懲らしめる発想

特に政治的な意図がある訳ではないのだが・・・

某政治家による「広告を減らしてマスコミを懲らしめろ」発言が話題になる中、こんなのが流れてきた。
「 ウィキペディアが広告を掲載せずに存続できるよう、お力添えをいただきましてありがとうございます。」
これはこれでめざすべき方向として真理ではある。
送信 7月7日 19:00 From Hootsuite

考えてみたら、広告を減らせというのは、マスコミに対しての圧力ではなくて、広告主である企業に対する圧力で、つまり政治献金しても広告を減らさなきゃお前のところには口利いてやらん、と言っている訳だ。
送信 7月7日 19:03 From Hootsuite

それはつまりお前たち俺たちに便宜をはかってほしければ言うことを聞けと言う話な訳で、広告減らしたらうちは便宜はかってもらってますって公言するようなものではないか。
送信 7月7日 19:07 From Hootsuite

それってつまり、マスコミは広告主に対して「今広告を減らしたらそのリストが週刊紙で取り上げられちゃうかもしれないですよ」と言えば良い訳だ。うわぁ何かドロドロだなぁ。
送信 7月7日 19:23 From Hootsuite

七夕の夜に何をTweetしているのかという気もするが、考えてみればメディアに対して、メディア自身にではなく、スポンサーに圧力をかけるという行為は、政治家でなくてもやっていたりする。小さな所では、TV番組の内容が気に入らない時に、スポンサーのお客様相談室に抗議をするといった事もそうした類の行為だろう。

だから目くじら立てるなよ、というつもりは毛頭ないのだが、ようは間接的に影響力を及ぼそうとする行為が少々気持ち悪いという話だ。
その主張に異論があれば直接抗議をすれば良いのだが、直接抗議をすれば反論され自分も傷つく可能性があるので、反論できない相手を経由して自分の意見を通そうとする。マスコミを懲らしめる発言の本質というのは、ようはそういう事のような気がする。

それにしても、件の政治家というのは、本人はマスコミに対抗しているつもりなのかもしれないが、上記のような構造を考えれば、むしろマスコミの広告獲得の応援をしているとも受け取れなくもない。メディアがこぞって取り上げれば取り上げるほど、その主張に賛同して懲らしめたいと思っていても、癒着と思われるのを避けるために広告を取り下げられなくなる企業が増えてしまう事になるからだ。


・・・とまぁ、こんな発想に「そうだよな」などと思ってしまう人は、陰謀論に踊らされる典型的な人と思われるのでご注意を。

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2015年4月 9日 (木)

「要領」と「こだわり」

「要領」という言葉は本来はポジティブな言葉の筈なのですが・・・。

出世できない人は「要領」が悪い
http://toyokeizai.net/articles/-/65210

筆者のタイトルの意図はさておき、冒頭にこうあります。

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「結局、要領のいいヤツが出世するんだよな……」
多くの企業で、このようなやっかみの声が聞かれる。ということは、多くの企業で出世するのは、「要領のいい人」だということになる。なぜだろうか?
-----------------

「要領」という言葉は、大辞林では次のように説明されています。

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要領
①物事の主要な部分。要点。
②物事をうまく処理する方法・手段。
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どう考えてもこれは仕事を進める上で最も重要な能力の一つ。出世するのは当たり前です・・・が、紹介した台詞にあるように、ネガティブなニュアンスで使われる事が少なくないような気がします。

一方、似たような形で逆の意味に使われる事が多いような気がするのが「こだわり」という言葉です。

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こだわり
①こだわること。拘泥。
②なんくせをつけること。文句をつけること。
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こだわる
①心が何かにとらわれて,自由に考えることができなくなる。気にしなくてもいいようなことを気にする。拘泥する。
②普通は軽視されがちなことにまで好みを主張する。
③物事がとどこおる。障る。
④他人からの働きかけをこばむ。なんくせをつける。
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「こだわりの逸品」とかって一体・・・。

少し考えてしまうのは、こうした本来の意味とは異なる使われ方は結構見かけている気がするのに、辞書上の記述は変わっていないという点です。言葉は生き物と考えれば、そうした変化はあってもおかしくないものですし、そう判断されれば記述は変わっていくと考えるのであれば、そうした用法はまだまだ一般的ではない(社会全体で見れば誤用の範疇)という事になるのでしょうか。


・・・で、余談ですが紹介した記事、「見限る」という表現も「割り切る」という表現の方が適している気がします。見限っちゃそもそもその会社にいる価値自体がないでしょうし、見限られた側も雇用しておく意味がありません。

そういえば、昔こんな事を書いたりもしていたのでした。

ソニーの人事制度は「大人のつきあい」
http://projectk.txt-nifty.com/enigma/2006/01/post_1a0d.html

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2014年8月21日 (木)

無料の勉強会に参加するのは実はそれなりの覚悟がいる

ちょっと別の視点で考えてみる。

無料の勉強会にはやっぱり残念な貧乏人しか来ない。 - 拝徳
http://tokunoriben.hatenablog.com/entry/2014/08/09/143129

個人的には有料だ無料だというのはお役立ち度には関係ないと思っていて、有料の方が多少有用性は高いかなという程度の感覚。そもそもセミナーの価値は聞き手の態度で決まるのであって、そこで話し手の質を評価するのはただの評論家のやる事である。

そんな話はさておいて、この中で書かれている、

何かが無料という場合、それは単にボランティアでもなんでもなくて、あなた個人自身の価値が別の形でその費用を弁済しているだけに過ぎない。

というのを逆の視点で読むと、

「有料のセミナーに参加する人間は、主催者側から見ればそれだけ個人としての市場価値が低い」
(だから有料にして不足分のコストを回収する。)

なんて見方もできてしまうのではないかと思ったのだ。

無料でセミナーを開催する側に様々な思惑があるのは確かだ。

しかし、見込み客の獲得にせよブランディングやリクルーティングにせよ、主催側としてその辺りの効果を考えるのは、有料でも無料でもそれほど変わらないのではないか。

それを有料にしてコストの一部を集まった人たちに負担してもらうか、全額自分たちの負担でやるかは、その結果集まる人たちの市場価値によって決まってくる。全額負担してでも集めるメリットがある時に無料になるのだとすれば、見込み客としての価値は無料セミナーに集まる人達の方が高いと判断している事になる。


まぁこれは単に天邪鬼的に見たらこんな見方もできるよという話でしかないのだが、仮に参加側としてきちんと主催側に対価を払おうと考えた場合、有料であればその払ったお金でカタが着いている考えて良いが、無料の場合は自身の市場価値によって報いていかなければならないという事だ。

それが出来なければ、主催者の負担にタダ乗りした無価値な人間という事になる訳で、実は結構シビアな覚悟が問われているのではないかと思ったりしたのだった。

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2014年7月24日 (木)

会議に根回しが必要な理由

土日の打ち上げに続き一昨日昨日も飲み会があったためやや(胃腸が)お疲れ気味の朝ですおはようございます。

・・・そういえば毎朝そんな感じの挨拶Tweetをしていた時期もあったのだが、何でやっていて何でやめたのか忘れてしまった。単なる挨拶というより、何かクリック寄付に似たような理由があったような気もする。

さて、今朝はこんな記事をネタにしてみる事にする。

「気配りの呪縛」がニッポンを滅ぼす
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140715/268692/

会員登録をしてログインしないと読めない先に会議が紛糾してまとまらなかったことに対する上司の評価として、こんな言葉が出てくるのだ。

「今日の会議は良かった、皆の本音が聞けた。これで適切に対応できる」

そんなエピソードから、筆者は余計な気配りをせずに意見を戦わせることを薦めているのだが、そもそもそれ以前の問題があるような気がする。

「今日の会議は良かった、皆の本音が聞けた。これで適切に対応できる」これって、決めるのが会議ではなく自分(上司)だから言える言葉なんだよなぁ・・・会議が紛糾して困るのはそれが意思決定の場だからだよ。 / “「気配りの呪縛」がニッポン…” htn.to/gzq1bZy
送信 7月23日 8:42 From Hatena

異なるのは会議に求められている機能であって、会議に臨む姿勢ではないような気がするのだ。

最終的に一人が意思決定するスタイルと、合議で意思決定するスタイルの違いという事はないだろうか。

意見を聞くための会議で意見が出ないのも、決めるための会議で決まらないのも、同じように困る事には違いない。
そういうシステムやスタイルに踏み込まないと、無意味に会議が荒れることになる。

もちろん、決める会議では意見を言うなということではない。意見を聞く場では主体となるのは主催者だから言いっ放しでも良いが、決める会議で主体となるのは参加者全員だから、その意見により生じた議論を収束させる事にも当事者として責任を持てというだけの話だ。

そういう意味では、決めるための会議の方がずっと参加者にとってはハードな筈なのだが、そこに当事者としての責任感が欠如していると言いっ放しで最後は多数決で決めれば良いやという話になり、結果決めて欲しい側がいろいろ根回しをしなければならなくなったりしている気がする。

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2014年7月 2日 (水)

空気を読んだ意思決定

正直に言えば、賛成派も反対派も何をしたいのかがいまいちピンとこないのである。

集団的自衛権行使の容認についてだ。

まず個人的には「自分以外の誰か悪い奴が儲けようとしている」的な陰謀論には全く意味がないと思っている。そうした陰謀論的な話を耳にしても「自分ならそうする」的な話としてはあまり伺ったことがないからだ。いや自分ならやらないってことを他人ならやるって簡単に決めつけちゃダメでしょ。

戦争をする国になるのか、という意見も釈然としない。仮に戦争をしたい人がいるとしても、「出来るようになる」ことと「実際にする」ことの間には結構な距離がある。乱暴な言い方かもしれないが、仮に「する」という意思決定がされれば、それは出来なくたってするに違いないのだ。そして出来るということがするという意思決定を容易にするかといえば、そんなことはないような気がする。出来るならしてみたくなるっていうのは、子どもの理屈であろう。
(もっとも平然とセクハラパワハラをするようなメンタリティの民族だからそうするだろう的な話であれば、そおれはちょっと考えてしまうかもしれない。実際のところ体罰の議論も含めて直接的行為もやむなし的な発想する日本人て少なくない気もするし。)

一方、集団的自衛権が必要だという意見も何となく平和ボケな気がしなくもない。この手の話でいつも分からなくなるのは、自国にとっての友好国同士が喧嘩を始めたらどうなるのだろうか、という話で、ようするに集団的自衛権を行使出来ることが、自国の安全保障にとって意味があるという理屈がよく分からないのだ。

いや待て、そもそも「集団的自衛権」って言葉通りの受け止め方で良いのか?

しゅうだんてきじえいけん しふ—じゑいけん 8【集団的自衛権】
ある国が武力攻撃を受けた場合に,これと密接な関係にある他の国が共同して防衛にあたる権利。この権利を行使する国に対して,直接かつ現実の武力攻撃があることを必要としない。国連憲章で加盟国に認められている。→個別的自衛権
大辞林 第三版

こべつてきじえいけん —じゑい— 7【個別的自衛権】
自国に直接加えられた侵害に対して国家が行使する防衛の権利。国際法上,国家の基本的権利とされる。→集団的自衛権
大辞林 第三版

密接な関係にある場合に共同して防衛にあたる、というのは権利の話で意思の話ではない。意思として集団的自衛権が行使されるには、それが自国の利益につながるか、間接的には自国の防衛につながる事が必要になる。少なくとも「密接な関係にある他の国を共同して防衛にあたらせる権利」ではないのだから、そこには自国の意思が必要だ。

それってつまり「想定的自衛権」という事になるのだろうか。自国に害が及ぶと想定される場合に、武力行使を行う権利ということだ。

で、このように解釈すると少々きな臭くなってくる気もする。理屈はなんとでもなるって話に近くなってくるからだ。

一方それでも、では何をしたいのかという事が見えてこない。他国の軍事行動に連携したい目的がよく分からないからだ。自国を守ることは個別的自衛権の範囲で認められているのだから、ことさらに集団的自衛権が必要な理由が分からない。それが国際社会における責任ある国の在り方だというのは、グローバル化に必要だからもっと女性を活用せよ的な話と同じくらい訳が分からない。

なんというか、もう少し自国の論理によった議論が必要なのではないだろうか。他がそうだからとか、国際的に認められるためといった、周囲の顔色を伺う考え方が、本当に意味のある議論なのかという気が(集団的自衛権容認という意見には)してしまうのだ。

日本における「大人」には「空気を読んで意思決定ができる」というニュアンスがあるような気がするのだが、本来は「空気に左右されず意思決定ができる」のが大人だろう。

集団的自衛権の必要性についても、後者のスタンスが見えればもう少し分かるのだけれども、今のところどうも前者のスタンスしか見えてこないんだよなぁ・・・。

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2014年6月11日 (水)

ソーシャルメディとオールドメディア

あまりネタがないので、少し前に炎上事例になったこちらにコメントしてみる。

ソーシャルは難しい。わたしはこれでYahoo!個人に投稿するのをやめることにしました
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nagaeisseki/20140607-00036112/

確かにソーシャルは難しい。でもこれってソーシャルの難しさなんだろうか。

ソーシャルメディアをどう捉えるかという話ではあるのだが、こういう「立場を明らかにしている以上、「個人的な」意見とは認めない、というスタンスがあるべき姿であれば、組織に属する人間から「個人的な」意見は引き出せないということになる。

だったら、オールドメディア上で公式に意見を表明した方が良い。でもそれはつまらないことではないだろうか。

少し前にイケダハヤトさんが、「会社に入るとつまらない人間になる」と言っていたのだが、つまらなくしているのは「組織の代弁者を求める」周囲の人間ではないか。

会社に入ると「つまらない人間」になるんですよ
http://www.ikedahayato.com/20140428/5871936.html

直接会って面白い企業人というのは沢山いるわけだが、それは組織を代弁するだけでない個人的な側面に触れているからであって、「この人は組織の代弁者」と捉えた時点でつまらなくなるのは想像に難くない。それは人としての個性を認めていないからだ。

組織の「外の人」がそういった捉え方をするのであれば、組織の「中の人」というのは、組織の中でしかその面白さを発露しなくなる、というかできなくなる。

それを打破するのがソーシャルメディアというものの役割と思っているのだが、以前某誌の編集長に「名を名乗れ」と絡まれたように、発言の内容ではなく立場を問題にするオールドメディアの人たちというのは、ソーシャルメディアをどう捉えているのだろう。

まさか「個人がメディアを持てること」とか捉えているのではあるまいな。それってオールドメディアを小さくしただけにしか見えないのだけれども。
個人のブランディングに使えるとか、そうした発信自体で稼ぐといった話も、結局プチオールドメディア的な話であって、ソーシャルメディアの話ではないよね、という気がしなくもない。いやプチメディアにはプチメディアの価値があるけれども、それが「ソーシャル」なんて、ただのバズワードにしか感じられない。

もっとも、オールドメディアの世界の話と捉えれば、件のYahoo!の中の人の発言は失言でしかなく、企業としても何らかの対応は取らざるを得ない。実際自分にも会社からはそうした注意喚起がされている。

そういった意味では、まぁそんな程度(社会もソーシャルメディアも)なんだよ、ということかもしれない。

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2014年5月23日 (金)

ホワイトカラー・エグゼンプション

日経新聞にホワイトカラー・エグゼンプションに関する記事があったので、以前から漠然と感じている事など。

こんな事が書いてある。

働く時間と賃金を無関係にすると、残業代を当て込んだ長時間労働が減り、労働生産性が上がる効果が期待できる。一方で経営者が一定の賃金で従業員に長時間労働を強いる可能性もあるため、本人の同意などを導入の条件とする方向だ。

多くの場合、経営者は前者を語り、労働者は後者を語る訳だが、それはそれで当然として、これらの議論がどちらも、

「1日12時間働いても給料は同じ」

という視点ばかりで、

「1日3時間しか働かなくても給料は同じ」

という視点がないような気がするのが気になる。時間に縛られないで働くというのはそういうことではないか。

そしてこのように考えると、何らかの時間的拘束が発生する業務にはこれらは適さない事が分かる。店舗、工場はもちろんだが、例えば「営業時間」というものを顧客に提示している職種も不適当になる可能性が高い。その時間帯に従業員を拘束する事になるからだ。理屈からいえば、適用される職種範囲というのは相当に狭い。

8時間なり、一定の業務時間は当然働くという想定で話をしていないか?

働く時間を縛らない(企業側から見ると)というのは、極端な話ある日1日営業が停止する可能性があるという事なのだ。いやいや営業時間は働いてもらわないと、というのであれば、それは時間を拘束している事になる。

さらにこの考え方を進めると、労働時間に対する規制は給与と切り離して「健康維持の側面から」残すべきで、残しても何ら問題はない(はず)という事になるのではないか。そもそもが労働時間に対する規制というのは、健康問題に端を発していて、残業代というのはそのリスクに対する補償的な側面があるはずだ。

労働時間と給与を連動させないというのは、実は労働時間を規制する考え方とはまったく別の軸の話だ。連動させておくと、企業に長時間労働をさせないインセンティブが働きやすいというだけに過ぎない。それをなくすなら(いやなくさなくても)、規制はむしろ健康面からより厳格に適用するべきなのだ。残業代という形で従業員に提供されるのではなく、罰金という形で国に吸い上げられる事になりそうだが、それに反対する経営者がいるとすれば、ホワイトカラー・エグゼンプションを導入したい理由は、つまりそういうことだろう。

そんな訳で、自分にとってホワイトカラー・エグゼンプションと、労働時間の規制は、両立する話だと思っているのだが、なぜ対立しているのだろうか。

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2013年10月22日 (火)

ブランド体系とブランド戦略

日経新聞の「ブランドビジネス」という連載記事で、BMWが取り上げられていて、この間のセミナーで、BMWのようにコーポレートブランドに一般名称などを組み合わせるブランド構築の方法を「マスターブランド体系」と呼ぶと紹介されていたのを思い出した。

検索してみると、GLOBIS.JPの記事が引っかかった。
http://www.globis.jp/mw601

これによると、マスターブランド戦略というのは、コーポレートブランドの下に複数の事業や製品カテゴリを展開していく戦略と説明されていて、先日のセミナーのニュアンスとは少々異なる気がした。メリットは一つのブランドに資源を集中投下できること。効率的という事だが、一方で依存リスクや衰退リスクもある。

マスターブランド戦略とは違って、個々のブランドを独自に展開するのは、マルチブランド戦略という。同一カテゴリで複数のブランドを展開することにより、市場シェアの獲得やリスク分散といったメリットがある一方で、資源の分散投資というデメリットもある。その辺りはマスターブランド戦略と正反対ということだろう。

BMWの場合も、実際には「ミニ」や「ロールスロイス」を傘下に持っているので、その面ではマルチブランド戦略と捉えることができる。記事によればブランドの再構築を行っており、例えばミニは大衆車の位置づけから、高級感を重視するグループの入門車の役割を担う存在を志向しているそうだ。

そういった意味では、あまり明確にどの体系と当てはめるのは難しいのかもしれない。
それに体系として捉えてしまうと、その整合性みたいなものに目を奪われてしまうのだが、実際には戦略として捉えて、結局どうしていくかが重要な気もする。

GLOBIS.JPにはこんな記述もあった。

個々のブランドについて、「これは製品ブランドか、ファミリー・ブランドか」と厳密に区別することは、あまり意味がない。重要なのは、ブランドの階層を整理したうえで、企業が展開するブランドを体系化し、管理することである。
http://www.globis.jp/mw594

階層を整理し体系化する上で、個々のブランドが製品ブランドかファミリーブランドかというのは結構重要な気もするのだが、これもようは「整合性」よりも「戦略性」が重要と言っているのかもしれない。

そういえば、戦略的視点ではブランド体系を捉えたことがないかもしれない。反省。

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